目次
(1986年8月15日の霊示)
1.鎌倉期に仏教の花咲かせた我ら
栄西 栄西です。
―― 栄西先生ですか。突然お招きいたしました。私どもは、ご承知のように、聖賢方をお招きし、お教えを承り、そして、現代の日本人、あるいは、中国はじめアジアの人びと、あるいはまた、将来は世界の人びとに、これからの人間の生きる道というものを説き明かそうという計画を持っております。今回は、仏教、とくに禅宗関係の方がたからお説をうかがって、一冊の書物に編集いたしたいと思っておりまして、過日は道元先生から、また本日は無門先生から、それぞれのお立場からのご高説を承りました。
栄西先生は、何と言っても、我が国、禅宗の宗家でもあられるお方ですので、現代の人びと、また後代の人びとに対し、禅の真髄をお説きいただき、魂修行の指針となるべきお教えを賜らば幸いと存じますが、お願いできましょうか。
栄西 わかりました。
―― まず、私どもが書籍で著す栄西先生のお言葉となりますと、一応、人びとは、これ、はたして栄西禅師のお言葉であるかどうか、ということになりますので、願えますならば、現世における栄西先生のご活躍の一端なりと、お話し願って、それから本論に入っていただければと思っております。
栄西 まあ、あなたとは、ほぼ同時代ですしね。同じ頃にね、まあ鎌倉時代にね、活躍した人間同士ですから、まあ、あまりかしこまって言われると、私も困るんですが、まあ、あなた相手には、話はしにくいんですよ。皆んな一緒ですよ。鎌倉時代には、何十人も皆一緒に集まってね、ひとつ、仏教の種を播(ま)こうではないかとね、相集いましてね。日蓮さんもね、法然さん、親鸞さん、道元さん、一遍さん、唯円さんね。まあ、他にもたくさんおりますけどね、栂尾(とがのお)さんもいたね、明恵(みょうえ)さん。
こうした人たちが相集ってね、そう、鎌倉、室町になっての蓮如さんね、こういう人たちが皆んな集まって、まあ、ひとつ日本が、将来どうも仏教をもう一回伝えるようになりそうだから、法燈を継ぐのはどうやら日本だ、と。釈迦の仏教をもう一度、日本でね、広めたら大変意義があるだろうということで、集中して、日本に出て来たんです。
あなたなども一緒でね、出る前に、お互いに、ずいぶん話をしたし、まあ、今回出るときも知っていますよ。まあ、ご苦労なことです。私はこちらで楽させていただいていますが、ご苦労なことです。まあ、よくやっておられるようで、感心しています。
―― 私は浅学非才で、今回、このような大役を仰せつかるとは思ってもいなかったのですが、蓋(ふた)開けてびっくりというのが現状でございます。
栄西 まあそうだね。あなたと私では、先生と弟子の関係にならないですから、まあ、同級生というかね、友だちですよ。私もね、友だちが多くて、この世では友だちがあまりないけれど、あの世には、友だちが多くてね、あなたも多くて困っておられるようだけど、まあ、私もそのひとりで、あなたが今度出るときには、「まあ、頑張って来いよ」と、肩を叩いて出したひとりですよ。
―― ああそうでしたか。それはそれは……。
栄西 まあ想い出さないでしょうね、そういうことは。
―― そちらのほうへ環ったら、いろいろなことを想い出して、お礼を申し上げることになると思いますよ。
栄西 いやあ、あんた、気が多くてねえ、「栄西よ、わしや、禅を伝えることぐらいじゃ出んぞ」と言っていましたよ。「もっと大きなことをやるからね」と言ってね。まあ、あんたの仲間もね、あと二、三人出ているから、もうすぐ逢うと思いますよ。
―― つまり、六老僧の人たちでしょうか。
栄西 そうそ、まだ出て来ますから。
―― 現在の現象世界にね……。
栄西 そうです。出てますからね。そのうちに逢うと思いますよ。
―― 日蓮さん、今のところ、そういうことはおっしゃらないからね。その方は、やはり仏教関係のことをなさっておられるのですか。
栄西 いや、仏教関係の僧侶というわけではないけどね、あなた方の仕事を、また手伝ってくれることになると思いますよ。六老僧が、まだ後、出ていますから。あなた方の教えに、今後協力してくれると思いますよ。まあ、そのうちに日昭さんとか、日頂さんとか、日向さん、この三人が今出ていますから、あなたが活躍しはじめて、彼らもそろそろ気がついてくる頃ですから、後三人、同志が出ていますから。
―― 現在、在家の人ですか。
栄西 そうです、在家です。やがて、寄って来ます。あなた方、これから、"法"を説いていかれるのでしょうから、やがて寄って来られますから、楽しみにしていて下さい。あなたのお友だちです。
―― 現在のところ、そういう方との交渉はないですね。
栄西 まだないです。今後出て来ます。数年以内に出て来ます。まあ、そのときはね、天上界に残した友だちと地上に残った友だちということで、まあ、両方頑張ってやってゆきましょう。
2.精神統一は、内省が主眼
栄西 まあ、こんなことばかり話していたんじゃあ、「栄西の霊言」にはならないでしょうから、では、何から話していきましょう――。
―― まあ、お立場からすれば、「禅」ということですから、禅ということについてお話願えればと思いますが。
栄西 禅もね、もう禅、でもないんだけどね。この世へ来れば、あなた方から言えばあの世ですね、まあ、こちらに来れば、もう足もないしね。あなた、足組んで坐禅しているわけにはいかないんだから、私しゃ、まあ、足がなくて、空中ふらふら飛んでいる螢か、火の玉か、というようなもんですから、禅でもないですが。火の玉に禅、などいうもの、ないもんね。
―― まあ、しかし、長年の魂のよりどころとして、あなたは、仏教系のなかでも禅の教えを通して、世の人を指導してきたということでございますからして、何かその辺の心で、現在の人びとの生き方について、ご指導願えたらと思うのですが。
栄西 そうね、他の人がどうやら古いことばかり言ってるようだから、まあ、ちょっとは新しいことも言わねばいかんようですな。禅がどうこうということは、今の私の意識から言えば、少し離れてきているのですが……。
そうね、禅では、人類は救えないですね。現在の時点では、禅では救えないね。まあ、これをどうするかだね。まあ、ただね、禅、のなかに学ぶべきものがあるとすれば……。まあ、あなた方、心の教えを説こうとしておられるけれど、やはり個人個人にとってみれば、皆んな何か修行したいと思っているんですよ。だからね、その修行の方法が何もないとなれば、これまた、つらいことになるんです。
そうぃう意味でね、何も禅でなくていいが、やはり何かね、人間というのは、修行したいと思っていますから、その修行の方法ですね、それを考える必要があります。ま、そういう意味ではね、禅というのもひとつ勉強になると思うのです。どうですかね、あなた自身にとってみて、修行とか、そういうもの、何か考えていますか。
―― まあ、生身の人間は、何もやらないと心身を崩してしまいますので、何らかの行法という形式を通して心を磨いていかねばならんと考えております。
栄西 ただね、あまり禅、とか精神統一をやると、どうも宗教的になってまずいところもあるだろうし、まあ、むつかしいところでね、どうしようか。
―― それでは、禅によらず何か……。
栄西 まあ、精神統一についちゃあ、ちょっと話しとかな、いかんな。まあ、現在でもね、精神統一というのは、やっていますね。"瞑想"とかね、英語で言うとメディテイション、というのですか。あるいは、"ヨガ"、もちろん、"禅"もありますし。会社などではね、現在ヨガなどもずいぶん流行(はや)っているそうですが。まあ、会社では、なかなか禅、まではいかないけれどね。まあ、禅もひとつのブームだね。スポーツとまではいかないけれど、もうちょっと知的なスポーツだね。そういうことで、休日に禅をやっていると言うと、まあ、そう聞こえが悪くない。それと禅、のいいところは、それほど色が着かないというところだね。
たとえば、普通の人であっても、――「私、禅をやっています」と言ってもね、危ないから近寄るのを止めようと言う人はいないですね。禅、やっている分には、別に悪影響はないということですね。友だちに禅をやっている人がいたって、別にかまわない。ただね、友だちがね、新興宗教の何とかをやっていると言うと、これは怖がって、近寄らなくなる。何か折伏(しゃくぶく)されるんじゃないかとかね。何か洗脳されるんじゃないかと思って、逃げちゃう。
だけど、"禅"をやっているというと、とくにね、どうってことはなく、「ああそうか。なかなかやるじゃないの、頑張っているね」と、まあ、"ヨガ"だってね、そんな感じがあるけどね。いいんですよ。男性は禅、女性はヨガが流行ってきているようだけど、こういう意味で、まあ、あなた方の教えもあるんだろうけど、こういう無色透明なところっていうのは、けっこう大事だと思うんです。
あまり、何と言うかな、宗派によってどうにかなるという、信じ込むと言うんではないから。禅、その一番いいところはね、信じ込むところが、ないからね。現代人がとくに嫌(いや)がるのは、その狂信妄信なんですね。信じ込むってのは嫌がる。こういうことがあるんですね。要するに、疑心暗鬼だね。あまり人の言うこと、信用したくないし、信じ込みたくないという気持ちがありますからね。そういう意味では、自分自身でやって、納得がいくのであれば、それでいいでしょう、と。こういうことが、禅、ですな。
だからまあ、あなた方も教えを説かれるにしても、それをそのまま鵜呑みにしなさい、信じなさいと言うだけではね、やっぱり今ひとつもの足りないと思うんですよね。だから、無色透明な部分がね、何かいるんじゃないかとね。そういう気がしますね。
まあ、精神統一というのは、そういう禅とか、ヨガ、とかいうことで流行っておるわけだが、何のために、精神統一するのかね。この点を、はっきりしておかないと、ま、意味がないでしょう。あなた、精神統一って、何のためにすると思いますか。
―― まあ、それはね、人それぞれの考えがあるでしょう。心を空っぽにして、あるいは、無にして坐っているという人もおるでしょう。けどね、心を無にしようと、空っぽにしようと思えば思うほど、しょうもない雑念が涌いてきて、一向に空っぽにはならない。
そうであるなら、今日一日のこと、あるいは、昨日のこと、あるいは、もっともっと前のこと、そのときどきの自分の判断や、そう判断して行なったことの結果が、相手に、また、自分にどう影響したか、ということを考えてみるようにしたりしていますが、まあ、反省ということも込めてね。
栄西 まあ、精神統一とひとくちに言っても、なかなかむつかしいんだけどね。人間、やはりね、内省するというか、自らの内(うち)を省(かえり)みるという、こういう機会があんまりないんですよね。そういう意味では、精神統一で一番いいのは、まあ、内省だね。こういうことで、いいところがあると思うんです。
じゃあ、何で内省、がいいのかということですが、たいていの人間は、内省などしたことがないんですよ。まあ、その日その日を生きとるんですな。今日は会社で上役に叱られた、と。ボーナスが少なかったから自棄(やけ)酒飲んで帰って、母ちゃんと口げんかしたとかね。子供の通信簿の点が良かったとか。悪かったとか、こんなことばかりです。こうしたことでまあ、日々過ごしとるわけです。しかし、そういうことだけではやっぱり何の向上もないわけです。
だから、ときどきね、自分というのを、良くしていきたいのかどうかですな。まあ、内省の必要性というのは、要するに自分を良くしていきたいのか、どうかということです。人間は、別にそんな悪い存在であると思う必要はありませんが、それでもやはり、軌道修正はしていかないと、いけないでしょう。
ですから、精神統一のなかに、「内省」あり。内省の意義は、"人生の軌道修正"にありと、こういうことであります。常々、自分の人生を軌道修正していこうと思っている人は、そんなに大きな間違いはありません。たとえ自分の考えていることが正しくても、それを押し通そうとすると、人間、無理がけっこう出ます。正しいことだと信ずることは多いんです。ただ、それを押し通そうとすると、どうしても無理がある。そして、対人関係でいろんな不和が起きてくる。――こういうときは、踏み止まって、一歩退いて考えてみる必要があるのであります。
たとえば、あなた方の教え、これはほんとうにいいと、真底いいと思っていて、心酔する人がおりますね。そして、これが絶対だと思って、人に押しつけるということになると、これまた、問題があるんです。正しいものであっても、それを受ける、受け入れないは、各人の問題です。
ですから、それをたとえば、ある人はゴリ押ししてね、「これは、栄西が言っているのだから、間違いない。だから、このとおりやりなさい」と。「しかし、これは栄西かどうかわからないから、私しゃ、参考になるところは参考にするけれど、まあ、丸呑みにはできない」と、まあ、ある人はこう言うでしょう。――そんなことではいけないと、一生懸命折伏などしていると、これはどこかおかしいのであってね。
正しいということは、必ずしもその人の生き方を説明はしないんです。説得的なものではないんです。正しいから思ったとおりにやったらいいかと言えば、そうでもない。やはり、やり方というものがあります。手段方法というものがありますから、これをよくよく考えて、他人と自分の人間関係、これの調整をやっていかねばなりません。
だから結局ね、精神の統一というものを考えてみると、人間生きていく上で、まあ、物質と自分の調和など、それほど関係ないですね。それと、動物と自分というのも、それほど重要な関係ではないですね。後、残っているのは何かと言うと、自然との調和と言っても、緑や風と調和するわけじゃないから、花とお話しするのはよほどの霊能力者か、あるいは、精神病院へ入るかのどっちかですから、後は、要するに人間ですわね。人生修行で、その媒体となるものは何かと言うと、結局、人間の集まりですね。そういうことで、人間関係の調整をやらねばならない。
その人間関係の調整も、「正師」がいて、その人が教え導いておれば、それはそれでいいんでしょうが、そういう人にはめったに巡り会わない。そういうことで、まあ、自分でやはりやっていかねばならない。それで、人間関係を調整する意味で、心静めて、よく考えてみる。自分のひとつひとつの行動を振り返ってみる、と。こういう必要があると思うのです。
こういうことをやっている人と、やっていない人とでは、ずいぶん大きな差が、やがて出てくるはずなんです。とくに若い人は大事ですよ。若いうちからこういう習慣をつけておくと、年取ってから、ほんとうによかったと思うような、黄金時代というのが来ます。
3.この世での他力依存心に"一喝"与えよ
栄西 若いときに勝手気ままやって、年寄って、急に、心を入れ換えようと思っても、そうはいかないんです。なかなかに。そりゃあ、"前後際断"などと言う方もいらっしゃるけれど、普通の人では、年寄ってから自己を際断するなどということは、そう簡単にできるものではありません。だから、あなた方の「霊言集」を読むことによって、まあ、一冊の本のなかに、その本としての答えがあるということですね、それでもいいんですよ。
あなた方の事務所へも、いろんな人が面談を申し込んで、面接して下さいと言って来ているでしょう。会いたい、会いたいとあなた方にね。いろんな人が、一時間、二時間でもいいけど、一日話したらもっといい、と。一週間連続で聴かせてもらえたらもっといい、と。そういうことはあるけど、それをそのとおり聴いていると、体が持ちませんからね。
やはりそこで、"禅"の世界もあるわけですよ。「これを読んで考えてみなさい」と。あるいは、「霊言集を全部、三回ぐらい読んでから、もう一回おいでなさい」と。まあ、これでも私はいいと思いますよ。とにかくね、とにかく人間というのは、あまり自分で努力しないで、人に教えてもらおうとする。とにかく、答えをほしがる。問題を自分で解くという努力を惜しんで、とにかく、答えをほしがる。これが人間の悪い癖ですね。依頼心が強いことです。
それはね、ひとりひとりの人の悩みに答えてあげたら、それはいいんでしょうけど、悩んでいる人にとっては最高でしょうが、残念ながら、そうはいかない。そういう意味では、逆に言うと、私は、禅の世界の意味を利用してほしいと思うのです。
禅は、各人の悟りということ、個人が独力で悟るという世界です。もちろん、あなた方がヒントを与える必要があります。しかし、そのヒントを持って、問題を解くのは、各人です。そういう形でいいと思いますよ、突き放して。だから、その人が、「たって」と、相談があれば、ああこの人の心性がこういうところにあるなと思えば、たとえば、霊言集なれば、「この本を熟読しなさい」と。ここにヒントがあるはずですと言えます。こういう形でいいと思いますよ。
まあ、そういう意味では、あなた方、書物をつくられる意味で、いろんな人の悩んでおられるようなことも、念頭においてつくっていかれる。こういうことも大事だと思いますよ。結局ね、やはり甘えになりますから、"他力信仰"といってね、あの世の人を頼りにする信仰もありますが、この世でも、"他力信仰"があるわけです。生きている人に頼ろうとする。これも他力信仰で、三年経ってからいらっしゃい、というのであってもいいんですよ。
何かをつかんで来い――、というのであってもいいんで、あまり親切すぎてもいけないのです。そういう人には、"一喝"与えることが、ほんとうにその人のためになるんです。まあ、禅のほうでね、今、現代に採り入れる教えがあるとするならば、さっきも言った、何らかの精神統一、という意味と、そういう意味での、個人の悟りであるということです。あくまでも悟りは、個人のものであると、そういうことで、ヒントは与えるけれども、解答を出すのは各人である。
あなた方が、「右にしろ。左にしろ。まっすぐ行け」といちいち、個別の指示を出しているひまはない。だから、ヒントを与えて、向こうが向く方向でいいと思うのです。まあ、こういう点が、禅から、今、あなた方が学ぶべきところじゃないかと思います。
4."禅"は日本独自の文化を生んだ
―― そちらでは、たとえば、禅なら禅、その他、仏教系の方がお集まりになって研究とか、お話しあいになるような機会はあるのでしょうか。
栄西 あります。しょっちゅうやっております。やはり類は友を呼ぶというわけで、似たようなタイプが集まって、話しているわけです。
―― 無門さんなどもご一緒ですか。
栄西 いや。偉い方ですからね、まあ、あの人は。もちょっと偉い方ですからね。
―― では、如来界の方ですか。あの方は。
栄西 まあ、私はよく存じませんが、私たちよりかは偉い世界におられる方ですから。まあ、禅の話もされるでしょうが、実際は、禅を超えたところで働いておられることが多いのです。いろんなところでね。人類のいろんな思想、思潮というものを司(つかさど)るというような仕事をしておられるようです。私らは、どっちかと言うと、仏教のなかの一分派でまだ甘んじているところがあります。
―― 近年、我が国に出られて、他界された鈴木大拙先生は、あなた方とご一緒におられるのでしょうか。
栄西 いや、鈴木さんはね、人間界から還ったばかりですから、ちょっと違いますがね。
―― 鈴木先生は、かつての禅宗の始祖、達磨大師の再来と聴いておりましたが。
栄西 まあ、これは他人のことを言うと失礼なことになりますので………私はよく知りませんが、ま、達磨の悟りそのものが、釈尊の悟りから比べれば、やはり数段落ちていたことは否(いな)めないと思います。釈尊が分かり得たところを、達磨(だるま)は十分の一も分かっていません。
―― 達磨大師は、インドから中国に渡られて、"禅"を広めようとされたわけですね。
栄西 そうですね、ですから、"禅"というのもある意味では、大衆普及化したこともあるんです。そういう意味において、教えの中味が骨抜きになったことによって、逆に広がった面もあるのです。とりあえず、そういう禅、というものを組んで、考えてみようというような、そういうスタイルですね。
まあ、現代風に言うなら、ライフ・スタイルと言いますかね、そういうものをつくったということでもあります。禅、というライフ・スタイルをつくって、それで、ある意味で、文明的に滲透させた。まあ、禅、が影響した会合もあれば、お茶、茶の湯などもそうですね。いろいろあるはずです。禅が影響したものというのは、そういうもので、ひとつの精神文化をつくるための役割をはたしたと思います。
だから、"達磨禅"それ自体がそれほどのところまで悟っていなかったとしても、その影響力自体は、たいしたものだったと思います。まあ、あの方も、インドから中国へ、日本から欧米へと、まあ、忙しい方です。その普及に、ずいぶん熱意を持っておられた方ですからね。
―― 禅、は精神統一というか、人びとの悟りへの関門、道標的役割を担ってきたということだけではなく、日本独自の芸術、文化の一種の背骨となって発展してきたという功績も見逃せないですね。
栄西 そうそう、そういう意味での芸術、文化への滲透、これは禅、がはたしたひとつの貢献だと、私は思いますよ。
―― 茶とか、華道とか、造園、それに詩、俳諧にまで、その影響は及んでいると思いますが……。
栄西 そう、そうです。すべて"禅"の影響というものがありますからね。これは日本文化をつくった源と言ってもいいものだと思いますよ。ですから、私たち、私たちと言っては他の人たちに失礼でしょうが、私自身に対して、悟りを得ていなくとも、現在ね、そこそこ、楽しく暮らさせていただく理由のひとつは、まあ、文化的にいろんな影響を与えたということだと思いますよ。
ですからね、私、あなた方の教えもね、ひとつ、文化的にハイレベルなものになるような気質があっていいと思います。もっと何かね、他のものへも波及(はきゅう)するようなものであっていいと思いますよ。音楽とか、絵画とか、文学とかね、私はあなた方の教えを受けて、文学方面などで活躍する方が出ることを期待していますよ。そして、そういう教えを、たとえば絵画で表現(あらわ)す人、あるいは音楽で、あるいは彫刻で、あるいは文学で現わす人、こういう方が出て来るといいなあと思っていますよ。まあ、やがてそういう人も出て来るでしょう。
―― 私は、そういう意味でもね、私たちの教えというよりか、これは「神理」ですね、神の教えを淵源(みなもと)とするところの、芸術全般はもとより、宗教、哲学、教育、政治、経済、文明、文化、すべての分野、すべての世界についての大変革、「理念」革命の時期が来ていると思いますよ。いわゆるネオ・ルネッサンスが、今世紀から新世紀にかけて、やがて興ってくるのではないかと思います。また、そう信じております。
栄西 そうです。あなた方が掲(かか)げているものは、単なる宗教の宗派や教義だけの問題ではないはずです。新しい文明文化の基礎となる教えとならねばなりません。まあ、頑張って下さい。
―― では、栄西先生、本日は大変ありがとうございました。「禅」の本義については、先日来、道元、無門禅師方より承りましたが、栄西先生からは、禅、そのもの意義もさることながら、禅の効用というか、禅が精神生活への及ぼす影響、ということを通して、"新文化建設"への示唆をいただきまして、まことにありがとうございました。