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男女が地位の上下ではなく性質の違いである
いま日本の女性達は、本来の自分達のあるべき姿というものか分らなくなっていると思うのです。どういうふうに生きるのが女性としての本来の姿なのか、或は、アメリカの女性のように、男女同権を克ち取っていくのが本来のすがたなのかどうか、それとも古い男尊女卑の世界に生きるのが本当なのか、この辺が分らなくなって来ていると思うのです。非常に時代はむつかしくなって来ていると思います。ただ私は思います。女性はやはり陰と陽なら陰であり、光と陰なら陰の部分であることはいなめません。積極と消極なら消極です。能動と受動なら受動だと思います。受身だと思います。それは真実だと思います。そのように造られているからです。あくまでもその性質の違いというものは、弁(わきま)えなければいけません。ただそれは性質の違いであって、地位の上下ではないのです。そういう意味において女性はしもべ或は下女、或は卑女(はしため)、のようなものではありません。地位の上下ではなくて性質の違いはあります。これは認めねばいけません。これを認めないで男女は平等だと主張するなら、これは大変間違っています。生物学的に男女が違っている、それゆえに差別をされているのではないのです。霊としてもやはり男の霊と、女の霊とは区別がついているのです。
これは神が、そういうふうに異ったものを造ることがお互の進歩のためになるだろうと思って造っておられるということです。ですから、これを垣根をなくして男女を一律に扱い同じにするということは、これは神の本来の趣旨にも反しているのです。そうでなければ神は男ばかりを造ればよかったのです。そうではなくて、神は男女を造られました。これは神は、男女を競いあうものとして造られたものではないのです。神は、男女が扶け合うように造られたのです。よいですか、ですから今後様々な世の中で、男と女の立場というのがいろいろと云われるでしょうけれども、男女同権の思想の中には決して競争の原理を持ち込んではいけないということです。これを私は言っておきます。女は地位的に男より下ではありません。けれども男と競うためにあるのではありません。男と女とは互に相扶け合うために造られている魂だということです。
ボーボヮールの考えは間違っている
フランスのボーボワールという哲学者が居て『女は造られたものではなく、そういうふうに育てられたのだ――、生まれつき男女の差があるんではなくて、女は女として作られていくんだと――、人間社会の中で女らしく躾(しつけ)られて女になっていくんだと』言っておられますが、これは間違っています。
女性は、生まれる前にやはり女性であったのです。そして赤ん坊の時には、女性としての機能は勿論何もありませんが、成熟するにつれて種が発芽していくように、発芽して花が咲いていくように女になっていくのです。女性になっていくのです。そういう意味において男女の差は肉体器管の差だけではなくて、霊的にも異いがあります。それは明らかなことです。
ですから、これから女性が益々盛んに活動される世の中になってくるでしょうけれども、決して男女は競い合うという意味での平等意識は間違っております。そういうものは間違っております。男女は相扶け合うという方向において平等に立つべきです。互に扶け合う立場において平等です。その点を忘れてはいけないと思います。ただね、私は陰と陽なら女性は陰であり、受身であると申しましたけれども、これは必ずしもそうでなければいけないというわけではないのです。
花の中にも大きなユリの花みたいなのがあると思います。そのように女性の中にもひと際目立つような大きな大振りな花が咲くこと自体はかまわないと思うのですね、すべての花に菫(すみれ)の花のような可憐さだけを要求してはなりません。或時は鬼百合のような大きな大振りな花を咲かせてもおかしくはないのです。ですからそうしたものを必ずしも排除してはいけません。けれども数においてですよ、例えば男女が同じ仕事を同じような比率でやらなければいけないとか、いったようなことが、社会の規範として、或は法律として決めていかれるならばこれは間違っています。明らかに間違っています。よろしいですか――。あなた方が仕事をしていかれる中で、女性が主導権をとられる場合もあります。花にも大振りの花もあり、菫の花もあるように、それはあるのです。けれども、男女が同じようにやらねばならないということではないのです。同じ職場で働くにしても、決して男女が同じ仕事をしなければいけないというわけではないのです。そういうことだけははっきりして置かなければなりません。男女は競わしてはなりません。
男女共学、競争の論理は間違い
たとえば今の社会において問題になっている一つは、OL、結婚していないOLですね、ハイ・ミスとか嫌な言葉でいろいろと云われております。実際に、この職業社会になって結婚しない女性が多くなって来ました。その理由は何でしょうか、その根源にあるのは何でしょうか。それは結局、男女は競わしてはならないという原則に反しているということです。いいですか、学生時代に男と机を並べて、成績を争いました。点数を争いました。大学へ入ってもそうです。そしてたまたま就職するとまたそこでも争いの気持があるから結婚できなくなってくるのです。会社において結婚できていないOL達を見てみなさい。争いの心があるのです。男と競い合う気持があります。だから縁遠くなっているのです。男女は扶(たす)け合うべきなんんです。男と女は扶け合うという気持ちを持っている人は縁遠くはなっていません。結局競いあうという心があるからなのです。不縁な人は。
それは、今の学校教育の誤りでもあります。例えば女子に家庭科があって、男子に体育の時間が多いのはこんなのはおかしい、こんなことを平気で言っていますね、そして平等にしなければいけないとか、これが差別だなんていっていますが、そうではないのです。どうして男女が同じ教育を受けねばいけないのですか。別なものでもいいのです。女性はむしろ感性を中心にした教育の方が、情操を中心にした教育の方が適しているでありましょう。
霊的には女性の方が優れている
また霊的な方面においては、男性よりも女性の方が優れている場合が多いはずです。ですから女性には情操的な、或は霊的な教育というものをもっと考えてもよいのではないでしょうか。男性には知的な、理知的な教育というものを考えてもよいと思います。ですからそういう向(むき)、不向(ふむき)というものも考えていかねばなりません。
そして、これからの霊文明を担っていく中心になる方は、女性かも知れないということです。女性らの方が信ずる力が強いのです。男には行動する力があります。しかし女性には信ずる力があるんです。この信ずる力の大きさこそ女性の本当の恵まれた特質なんです。よろしいですか。女性は知性で争ってはいけないのです。信ずる力です。ですから、これから宗教の時代がまた復活していくのでしょうけれど、その宗教の復活の中においては、女性の信ずる力というものが大きな力となっていくでありましょう。
先般、天照大神様がお出ましになられた時にも、日本の家庭の崩壊ということを強くご指摘になられましたがそれはそうです、男女が競い合ったら崩壊してしまいます。当然のことです。扶け合わねばならないのです。
非行、いじめの問題は母性に対する子供の反乱
非行の問題とかいじめの問題とかは、結局のところ社会における母性の欠如だと私は思うのです。母性的なるもの、母なるものが今の社会において欠けて来ているのです。ですからあぁいう″いじめ″の問題、″非行″の問題というのは、むしろ女性に対する警告なんです。社会に出て、実社会に出て男と競いあうと、男と平等になりたいというようなうねりが起きているとき、あぁいう非行とか、いじめ、とかいうものが多くなってくるのです。それは天の摂理なんです。母性に対する警告なんです。あなた方には、もっと他にすべき仕事があるのではないか―そういうことに対する警告なのです。
そういった非行がはやり、また、いじめがはやる背景には、社会が男女の平等化が進み。女性が共働化する時代、女性が自由になる時代、権利を主張する時代、それと軌を一にするように起っているのです。つまり子供達を本当の意味においてはぐくみ育てるということを怠ってしるということなんです。女性にとってはやはり子供を育てるということが、人生の大事業なんです。育てる子供の中にはどんな偉大な人が出て来るかも分らないのです。そんな偉大な仕事ですよ、どんな偉大な人が自分の子供から出てくるかも分らないのです。そういった人をですよ、護り育てるということと、会社に行って伝票の枚数を数えることと、どちらが大切かということを考えて頂きたいのです。
子供に母乳を与え、子供に愛情を注ぐという仕事は、決して会社で計算器を叩く仕事より落ちる仕事ではないのです。コンピューターの事務をすることよりも、値打ちが落ちる仕事ではないのです。質においてはもっと誇るべき仕事なんです。それは創造的仕事だからです。ですからそれを忘れてはなりません。
私はいたずらに女性は働くなと言っているわけではありません。ただ、その非行とかいじめとかいうものの背景には、母性が影を潜めているという社会現象があるのです。これはやがて分って来ます。子供達の反乱なんです―。それが分らないんです。
ですから私は世の母親達に中しあげたいのです。あなた方、自分の本来の仕事の手を抜いて他の仕事をしたところで評価はされませんよ。あなた方が仕事をしようとしていることは、夫の収入を補おうという気持からやっているかも知れません。けれどもほとんどの人は贅沢をするために仕事をしたいとおもっているんではないですか。いい物を着たいとか、美味しいものを食べたいとか。旅行をしたいとか、自動車を購いたいとか、そんなことのためにあなた方は働きたいと思っているのではないですか。
愛の発生と発展のプロセス
神は男と女を造られました。なぜ男と女をつくられたか、それは互いに扶け合うことを知らせるためです。つまり、「愛」、人を愛するということを神はいっておられますけれども、愛の原形にあるのは、神が男と女とを分けられた時にそこに既に愛の原形があるのです。男が女を愛し、女が男を愛するように、人々よ、他人を愛しなさいと、こういうことなのです。
神は、そうした人間を造るというその過程において″愛″というものを埋め込んで置かれたのです。これが男女です。これがもし男だけの世界であったならば、愛というものはなかなかわかってこないと思うのです。隣人を愛せよといっても判りません。けれども人間の中に、人類の中に男女というものはあるのです。どんな人でも、どんな薄情な人、非情な人でも、男は或る時期に女を恋い焦れ、女も男を慕うのです。そういうふうに出来ているんです。これが愛の基(もとい)です。
この愛の基があってはじめて人間は、はじめて他人への愛を考えることができるのです。ですから人を愛したことがない人間なんて一人もないんです。必ず人間は人を愛したことがあるんです。それは男の女に対しての愛であり、女の男に対する愛であります。これを経験しない人は居ません。
南海の孤島に一人だけ育った人はどうか判りません。けれども人間として普通に育った人であるならば、その人の善悪はさておき、その人の知識の多寡(たか)はさておき、愛というものを経験しておられるのです。それはそうした愛と、男女の愛を契機として更に大きな隣人愛なり、いいですか、同胞愛なり、社会愛なり、地球愛というような大きな愛に育てていって欲しいからなのです。
神はそういうふうに男女を造ったのです。男女が相競う中には愛はないのです。よいですか。ですから私は世の女性達にも言って置きたい、確かに男女を同じくあつかうという意味においては、女性は著しく不利になっているかも知れない。けれども男女は相扶け合うものだという観点から考えた時に、あなた方にも足りないものがあるのではないですか。あなた方にも何か欠けてはいませんか。それをよく反省して頂きたいと思います。
それは男性が悪いのではなくてあなた方自身の意識の中に問題があるのです。同じように男性の中には男性的なものが喪れて来つつある時代であると思います。それは男性自らが反省すべきことではありましょう。けれどもむしろ今の時代にこそ、女性が強くなって来ている今の時代にこそ、女性は女性なるものの復権ということを考えて頂きたいと思います。
女を男に育てている今の教育
今の時代、女性で特にいけないことは、子育てを嫌がる女性が増えているということです。そうではないでしょうか、子育てを嫌がる女性が増えているということです。これは女性に課せられた足枷か何かのように思ってこれを嫌がる女性が増えている。特に社会的に地位にも恵まれ、知性にも恵まれた女性ほど、子供の数は少なくなっております。ほとんどが一人っ子です。或いは子供を産みません。ですから困ってしまうのです。本当は、知能の高い教養のある女性こそ子供を沢山生んでもらわねばいけないんです。にもかかわらず、そういう女性が自分ひとりの人生を生きようとするために、そういう考えを捨ててしまおうとし、無駄なこととして手を省こうとしてしまっているのです。優れた女性ほど沢山の子供を生んで貰わねば困るんです。
むしろ、大学を卒業した女性こそ、五人、十人の子供を生んで頂きたいくらいです。ところが、高学歴の女性ほど、結婚しないのです。まず会社勤めなんかしてハイミスとなるのは大抵高学歴の女性です。そして結婚しても子供はほとんど作りません。一人作ればいい方です。こうしたことになってしまうのです。それは男と競おうという心があるからです。もっと男女別の教育というものも考え直した方がいいと思います。男女共学というものも大事ですけど、女性だけの教え方というものもあると思うのです。
決して学校を卒業してですよ、会社に勤めながらお茶やお花をするのが、本来のあり方ではないのです。お茶やお花はどうでもよろしいのですが、そうした伝統的な文化、美に対する感覚、或いは情操教育ということは、もっと若い時からやって置かねばならないのです。男顔負けの生き方を二十何才までしてそれから結婚前にですよ、お茶やお花を一年ぐらいやったぐらいで、それで変わるもんではないのです。お茶やお花をやらせるのであるならば、もっと若い時から始めるべきです。それでこそはじめてその人の魂の糧になってくるのです。
ですから私は、男女の教育の中で基礎として重なる部分があることは認めますけれども、違った部分をもっと強調されてもいいはずです。なぜ同じ教育を受けるんですか。おかしいと思います。教育が間違っているんです。だから男女一緒になろうとしても平等になって行くんです。同じ教育を受けているのに社会に出て差別があるのはおかしいと言っているんです。それは受けた教育が一緒だからです。同じ教育を受けながら、肉体的な器管の相違だけで差別を受けていると思っているのです。錯覚しているのです。だから間違っているんです。肉体的にも違っているように霊的にも違っているんです。霊的にも違っている以上霊的に違ったような育て方がいるんです。そういう育て方が大事です。―要するに女が男として育てられているから社会に出て問題が起きるんです。
ですから払は、むしろ社会において活躍する女性斗士なんかよりも、もっと女性らしさを武器にして活躍される方がどんどん出てくることを願いたいと思います。
猫に鎖をつけて歩かせているようなもの、男女の天性を間違うな
学校の教育もそうですし、勿論家庭においてもそうですありますけれども、やはり違いがね、違いが分らないようじゃあいけないと思うのです。画一化しちゃあいけない、あなた、犬の子と猫の子を育てるのに同じ育て方をしないでしょう。男女というのは犬と猫とぐらいの違いがあるんです。犬というのは荒々しいでしょう、穢いですね、汚れています。けれど行動的です、陽気です。積極的です。猫というのはしなやかです。繊細です。綺麗(きれい)好きです。そうですね。男女の魂の差というのは犬と猫のような、喩えて云えばですよ、そういった違いがあるわけです。四つ足であることは一緒です。目も鼻も口もあります。けども性格の違いがあるのです。あなた方で犬と猫と同じような育て方をしようと思う方はいらっしゃらないでしょう。けれど、男と女ならなぜ同じ育て方をしようとするんですか。同じ家の中に飼っても犬と猫なら違う育て方をされるんでしょう。なぜ男と女を一緒にしていまうのです、違うんです。猫は女性的なものです。犬は男性的なものです。逆にいうならば女性は猫的なものであり、男性は犬的なものであります。その性格の相違に気が付いてほしいのです。
犬はたとえば一日中家に飼って置くと、欲求不満を起こしてしまいます。外を駈け巡ってみたいと思っているんですね、そうですね。散歩もしたいし、或は犬同士でケンカもしてみたいと、そう思っています。犬は荒々しさ、自分の荒々しさを試してみたいと思っております。
猫はどうでしょうか、猫は一日中家の中に居ても結構平気なのです。そして物思いに耽ったり、繊細に物事を考えたりしているんです。優美さがあります。
じゃあ、猫の優美さと、犬の荒々しさと、どっちが優れて、どっちが優れていないかということ、それは競い様がないのです。別のものだからです。魂の輝きとして別のものなのです。全く、そうでしょう。犬と猫と競わしてどっちが優れているってあなた決められますか。決めようがないでしょう。決めようがないんです。性質が違っています。犬と犬ならね、どっちの犬が優れているとかね、いろいろやり方はあるんです。けど犬と猫なら競いようがありません。それを犬と猫と同じように競わせようとしているから間違っているのです。
病に陥っているのです。社会全体がね、お金というような魔物ね、お金という魔物のために、眼が眩(くら)んでいるのです。お金があれば何んでも買えると思っている。何んでも手に入ると思っている。この魔物に憑かれちゃっているんです。男も女もね。もっと大切なものがあるはずなんです。お金ではなくしてね、ところが、時代はそういうお金という魔物の跳梁(ちょうりょう)を許しているのです。お金です。すべてお金で換算しようとしています。これは間違っているのです。
女性にはね、お金の使い方は余り教えてはいけないのです。お金を稼がせてはいけないのです。もっとそういう金銭には関りないような、もっと魂の奥深いものがあるということを知らしめる必要があるのです。
人間には動的な素晴しさもあるけれども、静的な素晴しさもあるのです。動と静、この二つの対照的な価値があるのです。外で稼いでくるのは昔から一緒です。男の仕事です。女性はやはり子供を育てながら、その中で自分の内面を見詰めていくのです。
ですからあなた方、猫の首に総をつけて散歩はさせないでしょう。一緒なのです。ですから女性にね、働きに出てお金を稼がすというのは猫の首にね、首輪を巻きつけてそして鎖を引っ張って散歩させているのと同じなんです。猫にね、一生懸命教育して、―あなたと犬とは兄弟なんですよと、犬さんがしているようにあなたもしなければいけないんですよ――と、教え込んだために、猫も散歩をしなければいけないと思って首輪を付けてもらいたがっているのです。間違っているんです。世の中狂っているのです。
女性は霊的文明の担手となる仕事がある
それともう一つね、私は言って置きます。男性は何時の時代においても経済的な主体とならねばならないでしょう。で、女性はその後、どんな優れた女性でもね家庭に入らなければいけないと言って不満が多いわけです。ただ私はね、日本の女性達に今この機会を借りて言っておきます。―女性の方々よ、あなた方のする仕事は他にもありますよ、あなた方こそ霊的文明の担手となるべきではないでしょうか。男性達は忙しいんです。お金を稼ぐために忙しいんです。あなた方までがお金を稼ぐために忙しくなってはいけません。あなた方はこうした霊的文化の滲透伝播(しんとうでんぱん)のための一翼を担いなさい。あなた方は家庭に居てね、自由に働けるんです。ですからあなた達でね、女性同士で横の連帯をつくって、勉強をしなさい。ご主人達を教育しなさい。ご主人達は戦場で、職場という戦場で戦うのが忙しくて、雲的文化の担手(にないて)に中々なり得ないのです。ですからあなた方は子供を守り育てるということも大切、それ以外にも霊的文化の担手としての役割を今後果たしていかねばならないということです―。
ですから、男の人が言うと封建的だと言われるでしょうが、女性である私が女性達に言って置きます。男女は競うべきでないし、また生活の基礎は男が作るべきであります。そして女性が働くべき時は、男をどうしても補(おぎな)わねばならぬ時があります。病弱である場合や、或いはたまたま社会的地位を何かで失うとか、或いは様々な事故がある。倒産がある。様々なことがあってどうしても家計を守れないことがある。そうした時はもちろん男女は扶け合わねばなりません。男ができない場合は女性が助けるべきであります。そうしたことは当然です。
けれどもあくまでも男は、狩りができない現代においても、やはり経済的主体になるべきです。女性はその不足だけを補えばいいし、それ以外の方面において自らの優れたものを伸ばしていくべきです。女性の中の猫的なものを決して忘れてはなりません。
男女は競争主義に陥ってはならない
知性だけを伸ばして男と競っていると、たまたま自分がいい女学校や大学を出たために、あの男性は自分より知的に劣るなんて思って見下したりするから何時まで経っても結婚できなくて、ハイミスになっていくのです。ですから男女が共学であるということ自体は別に悪いことではありません、ただ試験の点数で競わしてしまうようなことは、私は間違っていると思います。
男女の別という以外に、今の教育自体が正しいかどうかということはまた別なのですよ、競争主義が原理になります。点数を競わすということが原理になります。こういったものがまず前提にあって、これ自体の当否が争われなければなりません。その次にまた、男女を点数で競わすということですね、この問題があります。
今の点数制というのもこれは普辺的な真理でも何でもないのです。たまたま二十世紀の時代は今そうなっているということです。
女性は本来社会の第一線に立って行くとか、或いは政治家になるとかいうようなことは不向であるというと、どちらかというと不向です。しかし、それだけなら、女性は、生まれてくる必要はないのです。社会の構成比も、男二にして女一にしてもいいんです。男を多くすればいいんです。しかしそういうふうには生まれていません、で一対一で生まれてきています。
私達は、美なるものの優れた指導者
すくなくとも私達は、優れた立場にはありましたが、競争原理における勝者ではなかったということです。よろしいですか―。
ですからね、先程、あなた方のところに「孟子」さんという方が出られたはずです。その方は、真、善、弟ということを言っておられました。よろしいですか、そうして、まあ人間の魂の中には真実の真、真なるものもあるし、善なるものもあるし、美なるものもあるということを言いましたね。
先程、あなた方のところに「孟子」さんという方が出られたはずです。その方は、真、善、弟ということを言っておられました。よろしいですか、そうして、まあ人間の魂の中には真実の真、真なるものもあるし、善なるものもあるし、美なるものもあるということを言いましたね。
たとえばですよ、或る人間が、指導者に立つというときに、真なるものが一番優れていて指導者にな場合、善なるものが優れていて指導者になる場合、美なるものが優れていて指導者になる場合、いろんな魂の輝きがあっていいと思うんです。私達が指導者になったのは、決して政治力が優れていたからではないのです。神の、神の光を、神のお言葉を受けるという《神子(みこ)》 《巫子(みこ)》的な役割でありますが、感情が優れていたという点で、人々の指導者になり得たのです。それは私達が独自の個性として、それを伸ばして、人を押し分けて出ていったものではないのです。それは、神のお言葉を伝えるという役割において中心的になったということです。そういう意味において受身です。受身の中でも最大の受身であったということです。
ですから、猫的なものの女王ですね、猫の中にも素晴しい猫が居ます。世の中には素晴しい犬が居ます。猫の中にも素晴しい猫が居るならば、それは猫としてね、犬から見ても素晴しい猫として敬まわれてもおかしいことではありません。
ですから私は、地位の上下とか仕事とかいうことを言いましたけれども、女性が尊敬されてはいけないと言っているのではないのです。いいですか、そこをあなたに誤解してほしくないのです。女性が尊敬されてはいけないということではないのです。画一的にものごとを計ってはいけないということを言っているのです。男も尊いし、女も尊いんです。
ですから女性は家庭に入れとか言っていることを、男尊女卑と捉えてはいけないのです。そうではないんです。それぞれが尊いことなんです。けれども女性は生まれもった創造という任務が担わされているということなんです。女性は肉体生命の創造という使命が担わされています。ではそうしたことのできない男性はなんでしょうか、男性は生活環境の創造という使命を与えられているのです。そうではないでしょうか。
本当に神が、女性を男女平等ということで社会の中で、仕事の中で均等に扱おうとしておられるとしたならば、神は、人間の子供というものを今のようには造られなかったでしょう。たとえば、女性が卵でも産むようにですよ、鶏が卵でも産むように、一日で子供を生むことができたら――卵でも、鶏が産むように、一日でお腹が大きくなって卵を産んでしまい、すぐ雛がかえって一ケ月も経てば大人になるのであったならば、女性は社会生活をすることに何ら支障がないはずです。ところが実際にはそうではありません。子供はお腹の中で十月、十日かかります。そして生まれて来ます。生まれて大人になるのに二十年もかかります。何ででしょうか、これだけの間庇護が必要だということです。そうであるならば、そういったことをする方がいらっしゃるはずです。ですから神は、女性を家庭的なものにし、子供の成育に二十年もの時間をかけるようにしているんです。もしそうしたことに使命がないとするならば、子供は卵を落とすように産み落とせば、後は自然に育つようにしておけばいいんです。そうはされなかったということなのです。
それは、神は人間を創っていくということがどれだけ楽しいかということをお教えになりたかったのです。これは女性の特権であるのです。男性は社会を、時代を主として作って行きなさい、女性は内なる生命を育んでいきなさい。主としてそういった二つの流れがあるのです。その中で勿論いろんな方が居られますよ、女性で政治家も出てもいいです。教育者が出てもいいです。それはそれで結構です。ただ同じようでなければならないという考えは誤っているということです。
女性は女性で尊いのです。男性は男性で尊いのです。ですからむしろ男女平等に扱うという意味ではなくて、共に尊いものとして扱うということが大切なのです。いいですか、平等主義の中にも三次元的な、物質的な平等主義が、余りにもはやり過ぎているのではないですか。お金の多寡(たか)が、お金の入りがね、平等であるとか、こんなことばかりに眼が行っているのです。これは余りにも物質的三次元的です。そうではなくて、尊さにおいて平等であるべきなんです。女は女として尊いんです。男は男として尊いんです。それでいいんです。そうしたことを分らすために天照とか、私とかが時折は地上に降りたりしているんです。
試験管で子供が出来るようになって来たら、もう女性は要らないではないですか。でも男女が居るのと、男だけ居るのとじゃあやはり男女が居る方が世の中素晴しいし、楽しいんじゃあないでしょうか。
違いを楽しむというような楽しみ方を人々にもしてほしいものだと思います。
男女の産み分け遺伝子工学は、バべルの塔にみた神の怒りにふれよう
こんどは父なるもの、母なるものとは一体何かということが問われるようになります。誰が父であり母であるかも分らなくなってくるんです。それは或る意味においては人間がトカゲや蛇と一緒になろうとしているのです。
いろんな経験を積んで人間は賢くなっていくのです。これはいまあなたは、バイオ・テクノロジーといいました。また生命遺伝子工学ということを仰いましたけれど、これはかつて人間が、バベルの塔を築いて神に至ろうとしてお怒りにふれたことがあります。これも現代における。バペルの塔なのです。自分達によって生命を造り出せると思い上がりはじめているのです。やがて神の試練を受けることになるでしょう。でも神は、その極限までは自由になさるのです。人間が生命を生み出せると自惚れはじめると大きな試練がやがてやってまいりましょう。
そういう自惚れを持った人間も出て来ていることは確かです。ですからそれはそれで、その方向に進んでも仕方ないのです。人類はやはり行くところまで行くのです。
単に信ずるというだけでは駄目なのです。様々な経験を通じて、やっぱり信ずるというところにまでいかないと、納得しないということです。まあそれほど人間の業も深いものだということかも知れません。
あやまっている言い切るつもりはありませんが、私は今、男女の倫理規範について申し上げました。ですからそうした遺伝子工学、親と子ですね、親子の倫理規範を問うようになってくるんです。親子なるものは一体何か、けれどもね、これをもっと大きな眼で見て頂きたいのです。もっと大きな限で見ると、この親子の絆が断たれるということは、神と人間の絆についても同じということです。人間は神の子です、神が造られたものなのです。その子でありながら親を忘れた子供ばかりが、一杯になっているわけです。世の中そうではないですか、この三次元の世の中、神を信じている人が少なくなって来ました。親を忘れているということなのです。神を信じるなんて思っているからおかしいのです。親を信じる、親を忘れているんです。そうでしょう。ですから神と人間という親子関係で、親子の断絶が起きている。そして人間の世界でまた親子の断絶が起きようとしています。これは縮図なんです。
新たな孔、孟の教えが必要
孔子様、孟子様達が亡くなられて既に二千数百年になります。今様の人倫の道ということが説かれなければいけないのかも知れません。現代の儒教が今いるかもしれません。人倫の道です。それが説かれなくなって久しいんではないですか。本当の親子の道、男女の道、人間として生きる道、これが説かれてないからなのです。
今は孔子様を信ずる人も居なくなりました。キリスト様を信ずる人も少なくなって来ました。ですから本来の倫理を説かねばならないということですね。人間が霊的なものであるということを教えることが大事です。けれども肉体を持って生きていく以上、男女の倫理規範、親子の倫理規範、師弟の規範、こうしたものも教えることも大切なことではないでしょうか。
聖書仏典にない女性済度の教義を発現(あらわ)すべきである。
あなた方教えを説かれようとしていますけれど、やはり女性に対する考え方、問題意識が欠如しています。もっと女性というものを……、人類の半分は女性なのです。お釈迦様も女性のことは余り考えられなかったのです。イエス様もそうです。他の方々もそうです。偉大な宗教家達が男性であったために、女性というものは、或る意味では置去りにされて来ました。
ですからもっと女性というものを研究して頂きたいのです。女性がなぜ、迷い、悩み、苦しむか。また女性だって地獄に堕ちていっているのです。沢山ね、じゃあなぜ彼女達は地獄に堕ちて行ったのだろうか、男性のように強盗をやったり、強姦をしたり、人殺しをしたりは中々できません。女性にはできません。けれども地獄に堕ちている女性の数は男性に劣らず多いのです。
なぜ彼女らが地獄に堕ちているのかということを、あなた方ももっと考えて頂きたいのです。心の中に地獄的なものを次ぎつぎと刻んでいるということなのです。では女性がなぜ、心の中にいろんな地獄的なものを刻むのかということ、これをしっかり研究して欲しいのです。あなたも、もっと女性の方とも話をして頂きたいのです。そして彼女らの悩みがどこにあるのかということを、しっかりと見届けて欲しいのです。男の眼ではなくて、神仏の使徒としての眼で観て頂きたいのです
ですから経典はいろいろありますけれども、女性成仏に関する経典がないのです。女性の悟りに関する経典がないのです。分らないから男の真似をして尼さんになったりですね、修道女になったりしているのです。女性は如何にして家庭において悟るべきかという教えがないのです
ですからあなた方も、いたずらに男性のためだけの″法″を残すのではなくて、女性のためにも残して頂きたい。そういう意味においてその勉強のためには女性の方々が、何を悩んでおられるかをしっかりと酌みとって頂きたいということです。愛の問題の重点はむしろ女性の方に主としてあるかも知れないのです。
女性の方で地獄に堕ちているといわれる方々の責任は、女性自身にもあります。男性をどのように受けとめ理解し、対応したかということですね、彼女ら自身の心の中にあるのです。むしろ女性の方が心理的葛藤は大きいために、また悩みも苫しみも地獄的なものも多いのです。男性は或る意味において鈍感であります。男性というのはすぐ忘れてしまいます。しかし女性は一つのことを十年二十年も、くよくよといつまでも思っているものなのです。女性は牛のように何度も何度も反芻(はんすう)しているのです。後悔するというのは女性も多いのです。女性の方がむしろ多いのです。男性は忘れていくのです。でも女性はいつまでもくよくよとしているのです。ですからそうした女性のための″法″というものも大切です。
女性が何を悩んでおり、その悩みをつき技けて悟るためには何が一体必要であるのか、ということを、これをもっと研究せねばなりません。この機会にそれもやっておいて下さい。何時の時代にも男も居れば女も居るんです。女性も生きているんです。
あなた方にはその視点が欠けていたはずです。お釈迦様は妻を捨て た方です。そうですね、イエス様は結婚をしませんでした。また孔子様は、男女七才にして席を同じくせず、と言われました。或る意味においては、女性は人類の中から消されているのです。どうやって悟ればいいのですか、女性の中にもね、今まで仏教を信じ、仏の道を歩みたいと思っている女性は沢山居るのです。彼女達は心の中で叫んでいるのです。―お釈迦様、もし今生きていらっしゃるなら一体私たちはどうしたらよいのでしょうか、どうしたら悟れるのでしょうか、教えて下さい。――と、こういった願いを持っているのです。二千五百年も前のお釈迦様は、妻を捨て、子を捨て出家をされてしまいました。それでは女性達はどうしてよいか分らないんです。ただ単に捨てられたらいいのかどうか分らないのです。
女性の悩みに留意せよ
お釈迦様は男であったから、生、老、病、死という苦しみを考えられたのです。お釈迦様が女であったならば、生老病死以外に、醜(みにく)くなる″醜(しゅう)″というような苦しみもあったはずなのです。女性であったならばですよ、美しいものが醜くなっていきます。女性の中にはこの苦しみも女性にはあるのです。ただ男性はこれには気付きません。男性は気がつかないのです。この醜、みにくくなっていくということに関しての、苦しみや悩みも多いのです。それはあなた方は分りません。若い、うら若い女性として結婚した人が中年になってブクブクと太っております。あなた方は彼女らの心がどのようなものかは分りません。その辛さというものが分らないのです。女性というものは、美に対する感覚は非常に強いんです。その醜くなっていくというのもこれも苦しみなのです。
生まれる苦しみ、老いていく苦しみ、病気になる苦しみ、死んでいく苦しみがありますが、これ以外に醜くなっていく苦しみというものもあるのです。お釈迦様も男性であっためにそのことには気がつかなかったのです。
私はいま一つのヒントを与えたのです。そういう醜くなっていくという苦しみもあるんですよと、男には分らない、そういうことを説いた仏法者は居ないのです。
女性の中には、もっと美しくておられたら私は幸せだったのにと思う方は一杯居るのですよ。早や三十になった。四十になった。そのうちに自分の容貌の翳というものが心の陰りになっている方も多いのです。このしみさえなければ―よろしいですか、この肌のキメさえもっと良ければ、こんなことが苦しみになっているのです。もっと脚首が細ければ、こんなことで悩むんです。あなた方男性には信じられたいことです。もっと指がしなやかだったら、こんなことで悩むんです。指に皺が増えたとか、こんなことで悩んでしまうんです。
それと、女性に関することにおいて言えば、言葉ということの重要さをあなた方はもっと大切にしなければなりません。男性というものは言葉というものに対する感覚が鈍いのです。女性は言葉ですよ。女性が不幸になるのは大抵は不用意に発せられた人の言葉です。ことばによって不幸になることが多いのです。他人の言葉に傷ついてしまう、同性であることもあるし、男性であることもあります。言葉に傷つくということは、あなた方とは遥かに違ったものなのです。その一言が、人生を変えるということが女性には非常に多いのです。人の言葉です。言葉に対する感じ方、男女にはそういった相違があるのです。ですから女性に対する″法″であるならば、その言葉をどのように受け止めるかというようなこと、その言葉の受け止め方というような指導もあるべきです。ただそうしたことは、男の人達には中々分らないことなのです。人にこう言われたということを、何年も、何年ももじもじと考えているのです。それが女性なのです。