目次
1.如来の生活
2.如来の条件
3.如来の教え
4.菩薩の生活
5.菩薩の条件
6.菩薩の教え
7.天国の意味
8.今後の予定
(1988年5月12日の霊示)
1.如来の生活
谷口雅春です。またこうして皆様にお話ができる機会を得たことを、とても嬉しく思います。
さて、私もこちらの世界に還って、早(はや)三年余りの月日がたちました。思い起こせば、この三年間にはいろんなことがありました。生前の五十数年にわたる、生長の家での指導者としての仕事についての私なりの回顧。またこうすべきであったとか、もっとあの点はああすべきであった、こうした反省をもかねて、いろんなことを思い巡らしもいたしました。
またそれ以外にも、地上に出ている他の光の指導霊たちの仕事についても見ました。また地上に出ていって、こちらに還っている他の方々と、いろいろとこちらで交遊する機会も得ました。また地上には久しく出ていない多くの霊人たちと、こちらでもう一度、お話をするという機会も得ました。その中には、二千年ぶりに話をしたとか、こういう方もいました。
私は先に出した本の中で、かつて自分がローマ時代の哲学者のプロティノスという名で出たことがあると、そのように語ったことがあります。「流出説」というのを唱(とな)えて、プラトンの考えを一層押し進めたと言われている人です。このプロティノスの「流出説」というのが、現在の私の唯神実相哲学、光一元の哲学の出発点をなすものであった。まあこういうふうに言えるのではないかと考えています。
このプロティノス時代の他の人々との交遊というようなものもありました。ローマ時代には、ずいぶん優秀な方々が出ていたわけですが、そうした方々との交遊もありました。
どういう方かというと、たとえばローマ時代では、有名な方ではキケロであるとか、あるいはローマの賢帝と言われたマルクス・アウレリウスであるとか、あるいはセネカであるとか、こうした方々とも親しく話をいたしました。
またこれ以外でも、アリストテレスという名で呼ばれていた方、その生合体はその後、無門慧開和尚(むもんえかいおしょう)、そして近年では西田幾多郎博士と言う名で日本にも出た生命体でありますけれども、こうした西田博士などとも親しく話をしてみました。
これ以外には、多少住んでいる世界は違うけれども、最近有名になっている新渡戸稲造(にとべいなぞう)であるとか、こうした諸君とも話をすることもありました。またこちらでは、新渡戸とくれば内村鑑三、矢内原忠雄、そうした人とも会う機会を得ました。
このように、こちらの世界に還ってもキリスト教者たち、あるいは他の仏教徒たち、こうした人々と、いろいろと話す機会があって結構楽しい生活をしております。言ってみれば如来の生活というのは、名の残った偉人たちとの生活ということですから、ずいぶん面白いわけです。(注。谷口氏は梵天界をも含めて如来界と称されているようです。)
時代を超えた人たちと会うことができるというのは、これは天上界ならではのことだと思います。地上ではいくら優れた人がいても、同時代の人であるから、その大きさがなかなかわからない。しかし地上界を去った、この、あの世の世界に還ってくると、その偉大さというものは、途轍(とてつ)もない偉大さとしてわかるわけです。その人たちがどれだけの偉大さであるかということは、もう神によってはっきりと示されているわけです。すなわち、どの世界に住んでいるかということが、その人がどういう人であるかということを、はっきりと示しているわけです。
まあこのように、如来の生活というのは、一種の理想ではないかと私は考えるものです。皆さんでもそうではないでしょうか。たとえば哲学の好きな方であれば、ソクラテスやプラトンやアリストテレス、こういう人たちと一緒に生活したくないわけはないはずです。またクリスチャンであれば、内村鑑三や矢内原忠雄、新渡戸稲造、こんな人たちと一度は話をしてみたいと思うでしょう。
また住んでいる世界は少し違いますが、菩薩の世界には、賀川豊彦、こういう人も無事来ております。それからそれ以外にも、菩薩の世界には私の知り合いがずいぶんおります。こうした方々についても、話をしていくとしましょう。
2.如来の条件
さて如来の生活ということで、こちらでは立志伝中の偉人が多いという話をいたしましたが、「如来の条件とは何か」ということを、私がこちらに還ってわずか三年余りですが、三年の間に知り得たこと、これを多少お話をしておこうと思います。
こうしてみると、やはり如来というのは一宗一派を開いたというか、あるいはオリジナリティーと言いますか、何かそういうものがあるというのを感じるわけです。まあ山で言えば大変な山であって、富士山だとか八ヶ岳とか、こういうふうなそびえ立っている山の感じを受けます。
谷口雅春がそびえ立つ山かどうかは現時点ではわからないとしても、おそらく何百年か、あるいは千年、二千年後(のち)になった時に、プロティノスや伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)程度の名にはなるものと私は思います。おそらくその程度の仕事はしたということが、後の世の人々にも褒(ほ)めていただけることになると思います。
こういうふうに考えてみると、如来の条件というのは、ひとつには根源的なる思想を世に問うということがその条件ではないかと思います。根源的というのはどういうことかと言うと、単に師匠(ししょう)がいて、師匠の教えを受けて伝道するとか、あるいは昔いた師匠、歴史上の師匠の教えを解釈してそれを伝える、こういうのは菩薩であって、まだ如来とは言えないのではないか、そういうふうに思うわけです。お師匠さんがいてその教えを受け継いでもいいけれども、それをさらに自らのオリジナリティを加えながら発展させたような思想となれば、これまた如来と言えるのではないか。そのように思います。
もちろん日本神道系にも、神々と言われる方の中には如来の数は大変多いわけですが、いかんせん、その思想とは何かということが明らかには残っておりません。しかし、それぞれの人がなかなかしっかりした考えを持っていることは事実ですし、日本神道は日本神道で何千年にもわたって同じく生活をしているために、思想的にはずいぶん似通ったところがあると思います。そうした似通った思想を持っていると思います。
あと、根源的思想ということ以外に如来の条件をあえてあげるとするならば、その影響力の大きさということが言えるのではないかと思います。やはり如来たる者、相当の影響力を持っている。そういうふうに言えると思います。一時代を画(かく)するような仕事をする、生きている時はそれほどでもなかったとしても、死後やがて評価されて、それだけの仕事だと認められていく。そういうふうに言えると思う。
こうしてみると、如来とはなんぞやということだけれども、神の真理の芸術のリーダーだね。そういうふうに言えると思う。神というのは地球大の大きなキャンバスに絵を描(か)こうとしておられて、役割分担を決めておられるんだね。そして上の方のリーダー、右の方のリーダー、下の方のリーダー、こういうふうなリーダーに、それぞれ分担させてキャンバスに絵を描かしている。そしてそのリーダーの中でも、たとえば青い絵の具担当であるとか、赤い絵の具担当であるとか、白い絵の具担当であるとか、こういうふうに色彩担当の方もいて、そしてまたそのリーダーがいる。こういうことだね。これが如来という方だろう。まあそのように私は考える。
3.如来の教え
さてでは、そうした如来の教えとはいったいどのようなものか。これについて考えてみたいと思います。
こうしてみると、私は如来の教えというものをそれをひとつに要約することはできないけれども、だいたい概要はどういうものであるかということは、つかめそうな気がします。私なりのとらえ方、とらえ直し方というものをやってみるとするならば、如来の教えは約三点に集約できるのではないか、このように思います。
どのような三点かというと、第一は、「霊性の復権」ということを必ず言っているということです。人間が霊的な存在であるということ、これについては必ず触れるようになっている。こう思います。人間は霊的な存在であって、その奥に無限のエネルギーを宿しているという事実を必ず言っているのです。
第二は、なんらかのやはり「超常的現象」を起こすことが多いということが言えると思います。これは必ずしも全員そうとは言いませんが、なんらかのカリスマ的な行動をしたり、超常的現象、すなわち霊的なる現象が如来の周りには起きることが多い。そういうふうに思います。したがって如来が地上に出た時、宗教を興す場合には教祖となり
ますが、この時にはさまざまな霊的な現象が起きることが多いです。
ますが、この時にはさまざまな霊的な現象が起きることが多いです。
私の場合も、生長の家の大神と言われる方からさまざまな神示を受けて、「今、立て」というような声を何度も何度も間いたわけです。こうして如来としての私の自覚が高まったわけです。すなわち精神の一大転換期、これを持ち来たらすための精神棒として、そうした霊的な現象に見舞われることが多いと言えましょうか。霊的な現象がない場合には、異常な磁力を持った、磁場を創りだすようなカリスマ的なる動きとして出て来ることがあるようです。
生前私は、よくは知りませんでしたが、あのフランス革命の頃のその後でしょうか、ナポレオン・ボナパルトという英雄が出ました。これについては賛否両論があって、あのナポレオンの栄光も最後には尽き果てたということで、ヒットラーのように言われることもありますが、ナポレオンという人自体は、大変偉大なる方であるということを私
は知りました。まあ皆さんも書物で読んだことがあるかも知れませんが、ナポレオン・ボナパルトという人は三時間睡眠で頑張った方のようです。そして二十才か、あるいは三十才だっただろうか、それまでとにかく書物を友だちとして勉強に勉強を重ねた。そうした刻苦勉励(こっくべんれい)型の方であったようです。
は知りました。まあ皆さんも書物で読んだことがあるかも知れませんが、ナポレオン・ボナパルトという人は三時間睡眠で頑張った方のようです。そして二十才か、あるいは三十才だっただろうか、それまでとにかく書物を友だちとして勉強に勉強を重ねた。そうした刻苦勉励(こっくべんれい)型の方であったようです。
そうしたナポレオンですから、それだけ知力を鍛えて努力をしているうちに、いろんな高級指導霊から指導を受けていったことは事実です。そしてあれだけ素晴らしい自由主義の展開をなしたのではないか。現在で言えば、その独裁制みたいなものに対する批判もあるであろうが、これが実は近代への息吹きを創り出したということは歴史上の事実であります。ナポレオンの登場によって封建主義社会が崩壊し、近代の歴史が開けた。そういう近代自由主義の黎明(れいめい)をもたらしたということは、偉大だと思います。
こうした方も、実は如来界に還っているのです。如来として地上に出ても末路は哀(あわ)れであることはあるけれども、それは価値の観点が違うことが多い。すなわち天上界の諸霊たちは指導をしているけれども、一応の仕事が終われば、その後のことについては多くを考えていない。こういうふうに言うことができると思う。
たとえばインド独立の父であったガンジーなども暗殺されたし、歴史上ではアメリカのリンカーンなども暗殺されたが、彼らもだいたいその使命を全うしていたということが、その前提にはあると思う。こうしてもうその地上を去るべき時が来た時に、そうした手段については天上界の諸霊はそう多くは考えていない。むしろ早く、こちらに還してやることの方が慈悲である。このように考えているのではないか。私はそういうふうに考えます。
結核二期と言われるような私が九十何才まで生きて、元気はつらつであった人が若くして地上を去るというようなことも、皮肉でもないことはないが、まあそうした場合にも、ただ光の指導霊たちは、それだけの仕事だけは残して地上を去るということになっています。
このように、霊的現象に見舞われるか、目を見はるようなそうした大きなスケールの行動力を示して人々の度肝を抜き、素晴らしい時代精神となる。こうぃうのが如来の教えである。そのように考えられるわけです。
4.菩薩の生活
この如来界というものを見た時に、非常に豊かな緑の中で、安らいだ光の中で人々が生活をしている、そういうふうに表現ができると思いますが、この如来の世界、私たちが住んでいる世界から、菩薩の世界に行くとすると、どういうふうに行くのか。次元が違うというが、具体的にどう違っているのか。こういうことを疑問に思う読者も数多いであろう。そこで、それについて多少話をしていこうと思う。
もちろん私たちはもはや霊であって肉体はないがゆえに、地上的なる感覚で必ずしも感じているわけではないが、まだ私のように地上を去ってそう日の経っていない霊にとっては、ある程度地上的な人間の感覚というものもあてになる、頼りになる感覚であることは事実です。そこで私はどちらかというと、日本という地域の上空にあたるようなところで、日本式家屋(かおく)、庭園のある所に住んでいると、こういうふうな話を前々回であったか、いたしたと思いますが、まあそれがひとつの如来界と言われる世界であるけれども、そこからたとえば菩薩の世界に降りていくにはどうするかというと、谷口雅春が羽をはやして空を飛ぶ姿などを誰も想像したくはないであろう。そこでそういう話はさておいて、実際に視覚的に感じるとするならばどうか。
こうしてみると、まあこれは、ひとつの丘を下るというような行為にあたるわけだ。私たちの住んでいる所からちょっと町外(はず)れ、あるいは村外れに来ると丘になっていて、丘を下っていくわけだ。この丘を下っていくと下の方の世界に出ていけると、まあこういったことだ。
途中でやはり雲海(うんかい)のようなものがある。雲海というのは雲の海だ。私たちは雲の上のような所に住んでいる。私たちが住んでいる山、あるいは丘から見ると、足元の方に遙かに雲がたなびいている。雲の大海になっているわけだ。したがってこの丘を下っていくと、この雲の中に入っていくわけだ。そして雲の中で、しばらく霧の中のようなこうしたところがあって、これを通過していくと下の世界に出てくる。これが菩薩の世界と言われている。
最近知ったところによれば、この如来の世界というのは八次元と言い、菩薩の世界を七次元と言うという。視覚的に言えばそういう雲海だな、雲の海を突き切ることによって次元の壁が破れるということになる。まあ現実にそうした霧というものがあるはずもないのであって、これはあくまでも視覚的ビジョンであろう。ただ人間的感覚では、そういうふうにとらえざるを得ない。
この下の菩薩の世界へ行くとどうなるかというと、ここも大変美しい世界で安らいだ世界であるが、如来の世界に比べると、やや活気を帯びている、活発であるということが言えるのではないかと思う。如来の世界の場合には人数が少ないこともあって、それぞれが独立していて瞑想的生活をしたり、何か学問をやったり、いろんなことをやっている方が多いが、菩薩の生活を見ると非常に行動的で活動的である。また菩薩たちは非常に陽気である。こういうことが言えると思う。
そして彼らはよく会合を持って、いろんな集いで話し合っている。そして現実に地上に行ったり、あるいは下の次元の霊界に行って指導をしたりと、大変忙しい仕事をしている。まあ菩薩の生活というのは言ってみれば、地上的に言えばモーレツサラリーマンの生活のようなものだ。モーレツサラリーマンのように働いているし、まあ格で言えば部長クラスというところだろうか。部長クラスで、やり手の部長ということでバリバリと働いている。それが菩薩の世界であろうと思います。
この中には、先ほども少し言いましたが、日本では賀川豊彦のような方もいるし、また明治時代であれば維新の豪傑たちがかなり多く住んでいます。菩薩が多いです。坂本竜馬であるとか、こうした人たちもみんな菩薩だ。勝海舟であるとか、木戸孝允であるとか、木戸孝允は少し高い所にいるかもしれんが、あと吉田松陰であるとか、こうした明治の偉人たちもこの菩薩の世界に多く住んでいて、やはり先生役をやっていろんなことを教えているようだ。
宗教家では、あと大正の親鸞と言われた一燈園の西田天香、こういう人も住んでいます。これ以外にも、女神の世界としては天理教の中山みきであるとか、大本数の出ロナオ、これらの人たちも菩薩クラスの女神だろう。それ以外にも北村サヨというような、こういうふうな教祖もいた。この方も菩薩界へ還っているようだ。こういう人々がいる。
ただこれも、この菩薩の生活はずいぶん分かれていて、学問的なことを好きな人は学問をやっているし、宗教の好きな人は、やはりいろいろ教えを説いたり、実践活動をするのに専念しているようだ。こういうふうに、菩薩はやや活動的生活をしていると言えるのではないかと思う。
5.菩薩の条件
さて、そうした菩薩界の生活を見てきたわけだけれども、この菩薩の条件とはいったいなんなのか。これをこちらに還った谷口雅春の目で分析してみたいと思う。
こうしてみると菩薩というのは、ある意味ではやはり弟子であるという点は否(いな)めないと思う。弟子としての生活であるということは事実だ。彼らには、それぞれ師がついている。師がついているというのは、手取り足取り教えているという意味では必ずしもない。そうではないけれども、如来クラスの人が必ず師をしている。そしてその師に対して二十人、三十人、あるいは四十人、五十人の菩薩が師事している。教わっている。こういうふうに言えるだろうと思う。
これは、菩薩と言えどもまだまだ人間的完成者ではないということなのだ。すなわち、もちろん通常の人よりは遙かに高い境地にいるけれども、人間的な完成までまだ到っていない。如来まで行って初めて、かなりの人間的な完成を見るのではないか。そういうふうに私は考えています。
したがって菩薩においては、まだまだ人間的なる完成というところまでは行っていないけれども、かなり群を抜いた、傑出した人材となっていることは事実であろうと思います。かなり傑出した人物である。そしてその人の地上時代の生活が、なんらかの面において人類の進歩、向上に必ず役に立っていた、役立っていた、こういう条件があると思う。人類に役立たないような生き方をして、菩薩の世界に還って来るということはまずない。これは、諸君にも心の中に刻んでほしいことだと思う。
それと菩薩の条件として、さらに考えてみるとするならば、やはり、根本には愛があると思う。菩薩の世界というのは、やはり愛の世界だと思う。愛の世界とは何かというと、人に尽くそうとする考えだ。あるいは人に親切に生きようとする考えだ。
まあ親切という言葉は、現代では「親」という字と「切る」というような字を書いている。親を切ると書いて親切などと言っているけども、まあこういうのは適切な言葉とは言えない。親切ということは、本当は「深く切なる」と書かなければいけない。深く切に人に接する。これを深切(しんせつ)と言うが、まさしく菩薩の世界というのは、この深く切なる世界だと思う。心深い所まで人のために尽くそうと思っている。そして切ないほどに愛する。また尽くす。これだね。こういうことだ。
私は自己献身というような考え方はあんまり好きではないけれども、それは、自分自身が生長することができなくなってくるからね。自己犠牲というような考えは私はあまり好きではないけれども、菩薩の中にはその傾向性として、ややそういうところがあるのは事実のように思う。
これについてもう少し皮肉な見方をするならば、お人好しが多いということだと思う。菩薩の人々は地上に出た時に、かなりお人好しであったのではないか。そういうふうに考える。お人好しでなければ、そんな人のために尽くそうなどと思わんし、お人好しでなければ、地上を去って天上界に還って、また地上の人々を指導しようなどとは思わない。
私はまだ地上の人を具体的に守護、指導をしたという経験はないが、こうした霊言を送るということも一つの指導かもしれん。その私のわずかながらの経験を生かして話すとするならば、地上の人間を指導するということは、これはそう生半可なことではない。大変なことです。労多くしてなかなか報われない世界であろうと思う。
地上の人間の意識と、こちらの天上界にある霊人たちとの意識のギャップは、これはいかんともしがたいほどのギャップだと思う。生長の家で神想観などをやって、道場でみんな精神統一していても、この私の本が谷口雅春の言葉かどうかさえわからん方が多いということを知った時に、いかほど、この三次元の地上世界と四次元以降の霊的世界とが違うかということを、つくづくと感じる今日この頃です。
しかし、私たちが住んでいるこうした如来界や菩薩界という世界のことを、生命の実相、実相の世界、このように言っていたのが私の生前の教えであったろうと思うし、その意味では確かにその通りであろうと思う。
実相、実なる相(すがた)、その相とはいったい何かと言うと、結局、人間は神の子であるのだから、神の子としての本来の姿ということだと思う。神の子としての本来の姿とは何かというと、そこに如来や菩薩の境地がある。このように言えるのではないか。すなわち如来や菩薩という方は、地上的な塵(ちり)や垢(あか)をおとして一皮(ひとかわ)も二皮もむけて、きれいな光輝いたそうした霊的な体を持っている。こう言えると思います。
6.菩薩の教え
菩薩について話をしているわけだけれども、菩薩の教えについて、さらに考えてみたいと思います。
菩薩になると教えの種類も大変広いです。菩薩の七割強は宗教家だと言われておりますが、宗教家であるならば、もちろんキリスト教系も仏教系も神道系もあれば、他のいろんな教えもあります。
なかには菩薩でも気の毒なことに、未開の人たちを指導するために降りていっている菩薩もいます。そうぃい未開の人たちを指導するために降りていく菩薩は、どういうふうになるかと言うと、たとえば酋長(しゅうちょう)をやったり、あるいはシャーマンをやったりしながら、人の本当の姿、神の子であるという事実を教えます。これなどは、かなり難行苦行に属する修行だと思います。そうした菩薩であるならば、かなり高い悟りをもともと持っているのだけれども、あえて人喰い人種とは言わんが、そうした土人の中に混じって生まれていくことがあります。そして霊能者のようなことをやったり、あるいは酋長(しゅうちょう)をやったりして人々を導いたり、こういうこともあります。
このように菩薩というものは、かなり方便を使って実践活動をしているというのが、現状ではないかと思います。また、宗教そのものを教えるというよりは、医療活動の中に挺身(ていしん)している菩薩も数多くいることは事実です。こういう菩薩もおります。いろんな各方面に入り込んで、社会福祉の領域であるとか、医療の領域であるとか、いろんなところで活躍しています。
また先生の中にも菩薩をやっている人もいますし、今、文壇あるいは論壇で活躍しているような、そういう評論家先生の中にも菩薩と言われる方は何人かおります。まあそうだね、評論家も何人か、確かに菩薩と言われている人もいる。言論界をリードする、そういう方だね。こういう方がいるということも知っておいてほしいと思います。
さあ政治家などでは菩薩が多いかどうかということだが、まあ政治家などは現在ではやはり少ないと言わざるを得ないね。もう少し政治の理念というものが技術的なるものから離れて、天下国家のために本当に生きていった時に菩薩としての政治家が誕生するとは思うのだが、いかんせん、どうもこの世的なかけひき、集金、集票能力というものを問われている現代の政治家であっては難しいと言えようか。
もう少しその人の人生観を見て政治家を選べるようになってくれば、菩薩が政治家として生きていくことも、かなりやさしいこととなってくるだろうと思う。特に政治を浄化していくためには、菩薩たちが、あるいは光の天使たちが政治の世界にも出ていけるような環境を作ってやる必要がある。そういうふうに思います。そのためにはやはり、本人の人生観というものが大きくクローズアップされる必要があると思うし、信仰心というものも大きくクローズアップされる必要があると思う。
宗教に対して一億総アレルギーのような現代の日本のあり方は、正しいあり方とは言えない。何がそうさせたのか。四十年前の敗戦がそうさせたのか。私は必ずしも言い切ることはできないけども、ただ一億総懺悔(ざんげ)、総アレルギーというのは悲しい事実であろうと思う。やはり宗教に対してもかなりの寛容な精神を持つ、そういう人がいることが大事だと思います。神、仏というのが戦争のためにいつも使われているというような、そういう狭い発想であってはいけないのではないか。また神風が吹くというような戦前の行為を、そのまま現代に持ってくる必要もないであろう。私はそういうふうに思います。
以上、いろいろと話をしたけれども、菩薩の教えとは何かと言えば、結局一言で言えば、それぞれの専門分野でもって愛の具体化をしている、これが菩薩であろうと思う。そして、菩薩の教えの中には形がない。具体的なる形はないということが言えると思う。実践活動の中、教えの中、あるいはいろんなものを解釈したり、伝えたりしている中に菩薩行があるということだ。
これに関して如来の法というのは、やや抽象性があることは事実だと思う。根本法に近くなってくる。そして抽象的なることも多くなってくるだろうと思う。まあ私の法で言うならば、「本来、肉体なし」とか「本来、病なし」、あるいは「生命の実相」、こうした悟りがだいたい如来の悟り、如来の教えであろうと思う。それ以外に私はいろんな教え方をしましたが、「神の子としての教育法」であるとか、あるいは「家庭の平和」であるとか、まあいろんなことを教えましたが、こうしたことが菩薩の法にあたるわけです。
したがって、如来の法の中には如来の法と菩薩の法を含んでおりますが、菩薩の法ではなかなかそこまではいかない。そういうことだ。したがって、菩薩の教えとして実践を重視したというのでは、一燈園の西田天香などがその典型だろう。箒(ほうき)をもって京都じゅうを掃いて回って、そして無一物中無尽蔵の生活をしていった。こうしたことが言えるであろう。
7.天国の意味
さて、如来界、菩薩界という世界を見てきたわけだけれども、ここで天国とは何か、天国というのをもう一回考えてみたいと思う。如来界、菩薩界というのは典型的な天国の姿なわけです。天国の理想像にあたるわけです。こういう世界を見て、天国とはいったいなんなのか。これを考えてみたいと思います。
そうしてみると、天国、あるいは天国的なる生活には、三つほど鍵になる考え方があると思います。
それが何かと言うならば、第一に安らぎがあるということ。これが言えると思う。そこに安らぎがある。これは天国のいちばん大きな条件だろうと思う。切磋琢磨(せっさたくま)ということはまだあることはあるけれども、安らぎがある。これが第一点です。
天国の第二の条件、特徴としましては、これは自信があると言いますか、すべての人が神の子としての自覚をしていて、神の心を体して生きている。こういう自信に溢れている。これが言えると思う。本当の自信だ。地獄などでは悪魔とかいう、そうしたものが自信ではなくて、自己過信をして暴れたりしていることがあるけれども、そうした偽物の自信ではなくて本物の自信を持っている。それは、自分が神と一体であるという自信だと思う。こうした自信を持っている人は非常に力強く輝かしく、また誇らしげに見えるという事実があります。
天国のあり方としての三番目を見ると、これはひとつの理想像だということだ これは天国の意味にもなると思うが、ひとつの理想像だと思う。あるいはユートピア世界のこれが理想像、見取り図だと思う。
この如来界や菩薩界にある理想像、理想国、ユートピア世界がやはり、いろんな世界に投影されているのではないか。これがあなた方が言う六次元という世界、五次元、四次元というそれぞれの世界に投影されて、それぞれの世界の到達すべき目標として心に描かれているのではないだろうか。また、地上にも何度か神の国を創るというユートピア運動が出たけれども、このユートピア運動も実は、この天国、如来や菩薩の世界を地上に移そうとする、そうした運動ではなかったのか。こういうふうに思えるわけです。
だから言ってみれば、結局モデルはここにあるということだ。
そうしてみると、地上に降りているあなた方がいったいどのようなユートピア建設に立ち上がったらよいかというと、やはり如来界、菩薩界というものをひとつの手本として、それを地上で模倣してみることだ。そうしたものを実現させるための障害物はいったい何かということを考え、地上でのその障害物を取り除いていくということに努力、
邁進(まいしん)していくことだ。これが大事であろうと思う。
邁進(まいしん)していくことだ。これが大事であろうと思う。
そのために、私たちがこうした考える材料を次々と与えているわけだ。これを大切にしてほしいと思う。だから、阻害しているのは唯物思想であるとか、地上特有のものの考え方だ。それから目に見えぬものは信じぬであるとか、あるいは心の世界に気がつかない人たちの存在であるとか、まあいろいろある。こうしたものだろうと思います。
天国の意味というものをよく考えて、あるべき、あるいは来たるべき理想像を追究していく。そういう態度を取っていただきたいものです。
8.今後の予定
さて今後の予定ということで、まあ私個人のことも多少語っておきたいと思います。
如来界、菩薩界をまだ私も見始めたところでありまして、まだまだすべてをつかんでいるとは言いかねますが、でき得るならば今後とも、この実相世界の探究をしてみたいと思っています。そうして、生前私が「生命の実相」という言葉で表現していたものの本質が、いったいなんであるかということを地上の諸君に伝えたいと思います。私は「生命の実相」という言葉、その言葉自体がひとつの悟りであったと思っていたけれども、生命の実相とはいったいなんなのか、あるいは実相の大地とはいったいなんなのか。これをもっともっとこちらで研究をして、勉強して、地上の皆さんにお伝えしたいと思う。
ただその際に、私が注意をしておきたいことは、一宗一派に決してとらわれてはならんということだ。私は、たまたまこうしたメッセージを送っているが、それは彼が私たちの世界から出た人間であって、高級霊たちの通信を受けるという大きな使命を持っているからだ。これは、地上にある一宗一派や団体とは何の関係もないということ。本来実相の世界において、私たちの如来世界において、そうした約束事があったのだ。その約束事を果たすために彼が出ているのであって、こちらに還ってきている私たちは、それを応援する義務があるのです。神の世界においては、そうした垣根はない。応援できる時にはどんどん応援せねばならんという、そうした使命があるのです。
どうか、初代の総裁がフラフラとしてあっちに出、こっちに出しているというように、そういうふうには思わんでほしいと思うし、私自身語る内容の中において生長の家諸君を傷つけないように特段の配慮はしているはずであるし、私の生前の教えが正しかったことを実証しているはずです。
私の生前の教えとしてもし足らざることがあるとするならば、それは霊的世界、この霊界の本質についてのさらなる探究、研究だろうと思う。この自分の法の足りない部分の追加を、私は今こちらに還ってさせていただこうとしているのです。霊的世界についての実感、実相感、これをもっともっと教えたい。これが私の情熱です。
これはすなわち、救世の情熱そのものでもあるということを知っていただきたい。それは地上にいる諸君も、地上を去ってこちらに還って来るとわかるのです。人を助けるということ、人を導くということは本当に最後ということがないということ。限度ということがないということ。いつまだ経っても、その情熱の炎は消えないということ。情熱の炎、人を救わんとする情熱の炎が決して消えないということこそ、天使の性格であるということを知ってほしいと思う。
どうか、私の立場もよく考えた上で、諸君らも大人の態度をとられるように。それを願う。あなた方も霊の世界があることを知っているならば、谷口雅春が雲の上から見ていてあなた方をどう見ているか、よくよく考えていただきたいと思う。
こうした霊界見聞録は、今後も機会があればさらに詳しい情報を流してゆきたいと思う。そしてあの世の見取り図を創ることが、地上の人たちにとってひとつの生きていく勇気ともなるだろうし、希望ともなるであろうと思う。