目次
1.神について
2.光について
3.徳について
4.礼節について
5.政治について
6.人間について
1.神について
日本神道においても、神々と言われている方は、多くはかつて地上にて肉体を持った方々であります。そして、地上にて肉体を持った方が、地上を去ってあの世に還られて後、また次の時代に地上にでた霊能者たちに、様々な霊指導をして、自らの名を明らかにしたということが事実であったと思います。
わたくし、天照も、今では太陽神の象徴であるように言われたり、あるいは根本神であるように言われたり、いろんなことを言われておりますが、やはり私も、今から二千数百年の昔、三千年近い昔に、日本の九州という地方に生まれたひとりの女性であり、また、女性として生まれて、女性の統治者となり、霊能力を授かって人びとの心を導いていた人間でもあったということです。そうした古代においては、統治者であり、かつ神の声を聴けるということが、神人であることの証明でありました。
私より、数代前には、天之御中主之神と言われた方もいらっしゃいました。その方が、実は日本神道系においては、現在最高度の力を持っておられます。この方以外にも、もちろん古事記に登場する神々、高級神霊は数多くおられますが、日本神道において最高の指導神、指導力を持ち、霊力を供給しておられるのは、この天之御中主之神という方であります。
ただ地上に在った時に、私の名前が人びとの口に数多くのぼったがために、現在では、私が日本神道の主催神であるかの如く、言われていることもままあります。それはそれで良いでしょう。日本神道の教えのなかでは、天之御中主之神の言う「発展」「光」という教えと、私の主張する「礼節」「調和」という教えこの二つの教えが中心になっており、この国ができているのです。その意味において、私もまた、主催神であると言えるかも知れません。
2.光について
神というものは、巨大な光の供給源です。巨大な供給源として、霊的世界を、そしてこの地上界を照らしているのです。神は、いつもいつも人びとを照らすことばかりを考えてきました。人びとの心を明るくし、人びとを如何にして良くしていくか、繁栄させていくか、発展させていくかということに、心を砕いてきたのです。
ところで、この神の光を受け入れない人たちが、いつの時代にもいたことは事実です。それはちょうどおいしいご馳走を出されても、それに手を付けない人がいるのと同じようなものです。神はいつも人びとに明るい光を投げ与えてきたわけですが、その光に対して、それをそのまま受け入れようとしなかった人たちが、いつの時代にもいたことは事実です。
しかし、考えてもみれば、光が光である理由は、ただ光輝き光を放射していることであってそれを受け入れさせること、そこまで要求されているものではないのかも知れません。私たちは明るく光を投げかけていきますが、その光でもって暖かい熱を感じ、心を豊かにしていくのは、やはり、一人ひとりの国民かも知れません。
本来、神というのはとてつもなく偉大な方であり、その人の与えられる恵みは、燦々と人びとに降り注いでいたにも拘わらず、その大いなる恵みを無視し、そうして、自らが手に入れた物のみが価値があるという考えが、世に蔓延し始めたわけです。この世で手に入れた金銀財宝、地位、名誉、肩書き、こうしたものが、人びとをして、唯一の価値であるかのように思い込ませ始めたのではないかと思います。
けれども、考えてみれば、私たちの本当の命というものは、過去、現在、未来を貫いている命です。三世を貫いている命です。三世を貫く命には、実は、本来すべてのものが与えられているのです。魂は魂であることにおいて、無限のエネルギーを太古より持っているのです。魂は、新たに生まれることもなく、死ぬこともなく、減ることもない。そうした不贈不滅の世界のなかにおいて、生き通しの命を生きているのです。
本来、魂というものは、無所得のままに生きていくのが筋だと言えましょう。何もいらないのです。神の子が神の子であるためには、何もいらないのです。金銭を手に入れたからこそ神の子になれるわけでもなければ、素晴らしい服を手に入れたからこそ神の子になれるわけでもなく、良い肩書きが付いたから神の子になれるわけでもありません。神とはやはり、光であり、光とは、すべてのものをあまねく照らしていこうとする努力です。
したがって、私たちが、地上に在って神の子であると言われる理由は、自らの内から輝かし出し、人びとを照らしていこうとするものがあるかどうかということにかかっているわけです。それがなければ、人びとは、本当に地上に生きている理由はないのです。神の悦ばれることは、ただ、他の人びとを愛し、他の人びとを喜ばし、他の人びとの魂を光らせるということです。そうした行為においてのみ、また、人びとは神の一部となって生きているということが言えるのです。
神は世を照らそうとしています。そうであるならば、神の子である人間が地上で生きていくための条件は、やはり、人びとの心を照らそうとすることではないでしょうか。私はそう思います。
3.徳について
太陽というものが、出ることによって、草木もまた、その方になびいていきます。水があるところには、魚が集まって参ります。そうしたものが徳と言われるものです。太陽の如き存在に対しては、人びとは顔を向けて心を向けて、伏し拝みたくなるものです。また、水が溢れているところには、魚も子供たちも集まってきます。小鳥たちも憩っていきます。これが徳の姿です。
このように徳と言われるものは、本来強制的なるものでもなく、人びとを畏怖させ、怖がらせるものでもないのです。自然自然に人びとが集まって来るようなもの、それを徳と言うのです。たとえば、その人を上に据えれば人びとがよく治まるような人は、徳がある人と言われているのです。
このように、自然な感化力でもって人びとを導かんとする力を徳と言うのです。それはちょうど、目に見えず、声も聴こえない神という存在があって、その存在が人びとをして、平和に、協力的に生きさせていくための根元的な力となっていることと同一のことです。徳が大切だということは、神そのものが徳そのものであるからです。
徳はまた、秩序でもあります。物事の成り立ちでもあります。物事の順序でもあります。徳はすべてに先立ち、徳ありてこそ、人びとは生きていく値打ちがあるのです。
徳とは、結局感化力であります。人びとがその徳に触れることによって、自らもそのように成りたいと思うこと。その人に接することによって、向上への意欲が湧かざるを得ないような人、そうした人を徳ある人というのです。
徳というものは目には見えません。目には見えないが、確かにあるものです。徳があってこそ、初めて人びとは神近き存在へと進んでいけるのです。結局のところ、人間の偉さとは、この徳いかんに関わっているのです。徳がある人は、その徳が増えれば増えるほど、神近き人であると言えましょう。
徳があるということをもっと具体的に分析していったときに、如何なるものを徳があると言えるのでしょうか。
私はまず、自分の心というものをよくよく磨き、清い心でもって生きているということが、徳の第一条件ではないかと思います。常々自らの心を見直し、自らの心を清らかにし、そして、悪しき考えや悪しき思い、悪しき言葉が出たときに、それをひとつひとつ反省していくこと、それが徳ある人の姿であろうと思います。
徳のあるということの第二条件は、それは、英知がある、智恵があるということと同義であろうと思います。人びとがこの地上において欲しているものは、「調整の原理」です。人と人とが如何に仲良く暮らしていくか、互いの考えが、違い、互いの利害が違う者同士が、如何に仲睦まじくこの世で生活をしていくか、それを人びとは常に欲していますし、それに対する解答を求めているとも言えましょう。このためにこそ、徳というものが必要になってきます。すなわち、徳のなかに光っている智慧の光、英知の輝きが必要となってきます。人をして感服せしめ、人をして感化せしめるためには、より優れた考え、より優れた判断力というものが大事です。そうしたものなくしては、指導者となっていくことはできません。
すなわち、より良き指導者となっていくためには、一歩も二歩も、人びとより先んじた考えを持っていなければいけないということです。人びとは智慧ある人のところに集まって来ます。そうして、その人の判断を仰ぎたいと思っているのです。智慧ある人の考えを理解したいと思うのです。智慧ある人の意見を聞いてみたいと思っているのです。
この智慧ということの前提は一体何でしょうか。何が智慧と言えるのでしょうか。智慧の前提となるものに、二つあると私は思います。
智慧の前提の第一は、より多くの経験を積んでいるということだと思います。いろんな経験があって、人びとがまだ知らないようなことを知っている。これが昔から長老が尊敬されてきた理由でありましょう。いろんな経験を積んできたということが、そうした条件を生み出しているのです。
もうひとつは何かというと、神、あるいは、神近き人の声を聴けるということです。地上の人間に判断できることは限られていますが、地上を去った世界に住む高級諸神霊にとっては、地上の悩みは、実に簡単に解決がつくこともあります。それは、地上に住む人たちよりも、遙かによく先のことが観えるからです。そうしたことがあるということです。
徳ある人であることの条件の第三にあげられることは、結局、人格そのものの美しさであろうと思います。如何に優れた判断力を持ち、如何にいろんなことを経験していたとしても、その人の人格の放つ光が、屈折したものであったり、人を責め苛むようなとげあるものであったときに、人びとは、そこから善きものを感じることができないのです。すなわち、人格の匂いが美しいこと、素晴らしい人格として美しさがあること、それが大切です。こうした美しい人格、光沢のある人格、光ある人格を創っていくことが、私は何にもまして大事であろうかと考えています。
4.礼節について
私は、わが教えの根本のひとつとして、「礼節」ということを語っておきたいと思います。
礼ということは、人に対する敬(うやま)いの気持ちであり、節ということは、織り目正しい作法ということです。礼節と言う言葉によって表されることは、結局、人間が、節度ある生き方、この世において節度ある生き方をしていくための作法であると言えましょうか。
礼節には二つの種類があります。そのひとつは、神に対する礼節であり、いまひとつは、人間社会のなかにおける礼節であります。まず、神に対する礼節を何と言うかというと、これを「信仰」という名で呼んでいるのです。信仰という名で呼ばれているものがすなわち、礼節でもあるのです。神に対する礼儀を尽くすということ、そして節度ある毎日を送るということ、これが礼節の意味であります。
神に対して、ではなぜ、礼節を尽くす必要があるのでしょうか。その意味は一体どこにあるのでしょうか。
それは、結局のところ謙虚さということがひとつ、もうひとつは、真実に学ぶためという理由、この二つの理由があるのです。つまり、人間というものは、大いなる神から創られた小さな小さな存在であります。その小さな存在が、全知全能であるかの如き傲慢な思いをもってはならないのです。それゆえにこそ、謙虚さということが、必要とされているのです。しかも、単に謙虚であるだけでいいのではなくて、教えを請うという態度が大事です。物事を学ぼうとするときには、やはり、恭(うやうや)しい態度をとるべきであるということです。
したがって、神、あるいは、高級諸神霊は、すべて私たちが地上に在るときの師と、師と仰ぐべき人たちであるから、それだけの礼儀を尽くさねばならないということです。これが信仰の根本にある考え方です。
もうひとつ人間社会においての礼節についても、考えてみたいと思います。
なぜ、人間社会において礼節が必要であるか。
なぜ、人間社会において礼節が必要であるか。
それはまず第一に、われもまた神の子であるが、かれもまた、神の子であるという考え方です。人間はそれぞれ最高度に神が愛しておられる存在であり、神の分け御霊であり、神の一部でもあるという考え、これが真実の考えであるのです。
したがって、お互い、他人という存在に対して敬意を表しているというだけではなくて、神の創りたもうたもの、神の愛したもうたものに対して、礼節を尽くしているのだということになりましょう。
すなわち、神が愛したもうたものであるからこそ、他をも愛する。他も素晴らしいものと感じる。そうしてお互いに愛し合い誉め合い尊敬し合うような人間関係ができてくるのです。人間が尊敬し合うためには、礼節ということがとてもとても大事であるように思います。その礼節が欠けたときに、人間はお互いに孤独な存在となり、孤立した存在となっていきます。孤立した群れのなかに、生きていくことになります。孤立した群れのなかに単に生きるのではなくて、お互いをもっともっと伸ばし、お互いをもっと尊重し、尊敬していくためには、どうしても礼節ということが必要なのです。
「親しき仲にも礼儀あり」と言いますが、それは、相手をよく知っているというその心に、相手がわかり得るという心に、すでに傲慢の芽があるからです。人間はお互いに、完全に理解してしまうことはできません。相手のなかに、どれほど素晴らしいものが潜んでいるか、埋もれているかはわかりません。そうであるからこそ、お互い礼儀を尽くして相手の中にある神性なるもの、神なるものを拝み出す必要があるのです。ここに、拝み合いの生活が始まっていくのです。お互いのなかにある、キラキラと光るものを拝み出していくこと、これが大事です。そのためにはまず、お互いに認め合うということが大事です。
もうひとつは、人間関係における、縦の序列というものがあるかと思います。親子の関係、あるいは、先輩と後輩の関係、上司と部下の関係、こうしたものがありますが、これは、小さなかたちでの信仰と同じことになると思います。子が親を尊敬する理由は、それだけの長い人生経験を経ながら生きてきて、しかも自分を愛し続けてくれた唯一の存在でも在るからでしょう。同じく部下が上司を尊敬するのも、自分の仕事について、より良き指導者となり得るからでしょう。
このように、地上においても、自分より優れたもの、自分が一目置くべきものを認めるということも大事です。自分だけがすべてであり、自分だけがいちばん偉くて、他の者はみんな自分より下だという考えのなかには、危険な思想が潜んでいます。その思想のなかには、危険なものがやはりあるのです。
これゆえにこそ、地上に在る人であっても自分より優れたと思う人に対して、敬意を表する必要があるのです。
私は、そうした礼節というものは、とてもとても大事なものであると思いますし、これが、人間がより美しく、より香り高く、より誇り高く生きていくための潤滑油であると信じています。
5.政治について
政治と言うことに関しては、古来より、神近き者が国を治めるということを第一義としていました。しかし、現代においては、政治ということが職業政治家によって為されていて、職業政治家にとっては、神を信じるということが義務とはされていないと思います。ここに、現在、政治が乱れている理由のひとつがあると思えるのです。
やはり、政治の根本にあるものは、神への帰依であり、神の心の代弁です。政治家たる者、まつりごとをするべき者は、神の心をこの地上に翻訳して、人びとを統治せしめる必要があるのです。それが、政治についての考え方の根本です。
政治はやはり、徳治主義以外にないのです。より徳ある者が、まだそこまでいっていない者たちを治める。ここに、リーダーの発生原因があって、そのリーダーが人びとを導くということになってゆくのです。
本来は神ご自身が、この大宇宙を、またこの地球を治められているわけですから、地上の人間にとって、統治者がいるという必要はないかも知れませんが、やはり、神というものを直接的に感じ取ることが非常に難しいために、神に代わるべき人としての統治者が必要になってきます。
したがって、私は、現代においては、政治にいちばんの問題があると考えます。徳治主義をもう一度、復活させる必要があると言っているのです。尊敬されるような人を、政治の原点に据えるということが大事であるということです。より徳高き人を選ぶべきであるということです。単なる数の論理でもって指導者を決めてはならない。尊敬、世の尊敬を受けられない人であるならば、政治に携わってはならないということです。決して決して神はこのことを許されないということです。
神の願いはいつもひとつ――神近き人を通じて地上を治めたいという気持ちです。それは、太陽が出れば草木がそちらになびくように、神の徳というものを慕って人びとが付いてくることを望んでいるからです。
したがってこの地上において、神近き人が一日も早く指導できるような、そうした制度にもっていかねばならない。そうしないかぎり、根本的にこの国は良くならない。私は、そのように思います。
選挙制度というようなものが、最高であるかの如くいわれていますが、本当に政治家といわれている者が優れた方であるならば、自分の後任を指名して、そうして、その人の信任を世に問えばそれで済むのではないでしょうか。それが、「私も、私も」と、偉くなりたいという人がいっぱい出てきて、お互いに争い合うということが、非常に問題になっているのではないでしょうか。政治の中心に争いを置いてはならない。そうした争いの心を置いてはならない。私はこれを、声を大にして言っておきたいと思います。
また、人の上に立つ者は、それだけ大きな負担を負うべきであるとも私は思っています。恥ずべきことをしたときには、速やかに職から離れること。人びとの指導者であるということに対して問題があれば、それを潔く認めること。自ら身を退くという、その身の退き方が大事であります。無欲で、どうやったら国政をうまくもっていくことができるか、そうした考え方が大事です。それは有名な方でなくともよいのです。無名な方でもよい。徳高き人を選んでいくという姿勢が大事です。
今は知名度選挙とも言うべき現象が現れていますが、大変悲しいことです。残念なことです。そうではなくて、徳高き人を如何にして選び出すかということに心を砕いていただきたいと思います。
6.人間について
私は、本来人間は、完成されたものであると思っています。その完成されたものが、いろんな環境の条件によって、さまざまな姿が映し出されているだけであろうと思います。
たとえば、鏡というものが完全であれば、私たちの姿は美しく完全に映りますが、鏡というものにでこぼこがあったり、歪みがあったりすると、そこに映る姿は正常なものではなくなってくるように思います。地上という世界は、この比喩を引くとするならば、鏡に歪みがあると思うのです。鏡に歪みがあって、本当の自己の姿が正確に映らないでいるのではないのか、そのように私たちは思うのです。
したがって、今、地上の人間たちにとっていちばん大切なことは、鏡の出現です。自分の姿を正確に映し得る、鏡の出現であろうと思うのです。これはすなわち、どのようにすれば自分の本当の姿を知ることができるか、映すことができるかということでしょう。
実は、私をはじめ、他の高級諸神霊が、次々と霊言、霊示を世に問うている理由は、鏡が世にほしいからです。高級諸霊の言葉、その思想というものを打ち出すことによって、如何に自らの姿をそこに映すかということを試しているのです。あなた方は少なくとも、私たちの言葉を読むことによって、そこに本来のあるべき自己の姿を学ぶことができるでしょう。
この世において良いとされている考え方が、必ずしも本当に良い考え方ではありません。この世的に最高だと言われている生き方が、本当に最高の生き方だとは言えません。その本当の意味における最高の生き方を呈示することが、すなわち、正しく映る鏡を出して、みなさんの姿を映すことに等しいと思うのです。私たちは一人ひとりの人に、正しい鏡を見つめてもらいたいために、こうして数多くの霊示集を送ろうとしているのです。どうか、私たちの本当の真意がどこにあるのかということを知って、そうして、鏡に映った自らの姿を正していただきたいと思います。
鏡そのものが澄み切った美しい鏡であるならば、そこに映っている自らの姿が美しいか、美しくないかが、はっきりとわかるはずです。映っている自らの姿に問題があったならば、なぜ、そうした問題があるのかということを、もう一度考え直していただきたいのです。
なぜ、そんな問題があるのか、なぜ、醜く映ったりするのか。それを知って頂きたいのです。醜く映る理由は、やはり、思いと行いにおいて、何らかの誤りがあるのではないのか、自分の考えに何か足りざるところがあるのではないか、改めるべきところがあるのではないか、それを知ってほしいと思うのです。
神道においても、禊祓(みそぎはらい)ということを言いますが、人間は時折、こうした正しい鏡の前に立って、自らの穢(けが)れを正していく必要があるのです。自らが誤っている心を持っているとしたら、これを反省し、神の前で虚心になっていくことが大事です。神の前で美しい自分となっていくことが大事です。神の心がどこにあるのかを知って、それに背いている自分があったなら、反省をすることです。詫びることです。そうして、憎んでいる人がいたら、許してあげることです。詫びることです。和解をすることです。
本当に大事なことは、この世で誰ひとり悪く思わず、誰ひとり憎まずに生きていくことだと思います。本当に素晴らしい生き方とは、すべての人と調和し、誰を責めるのでもなく、誰を恨むのでもなく、豊かに生きていくことだと思います。それが大事であろうと、私は考えるのです。
人間に今、必要とされていることは、その本来の鏡というものを見いだして、その鏡に映った自らの姿を見つめ直すこと。そして、神々しい神の子としての自分を取り戻していくことだと思います。私のこの神示集を読んで、自らの思いと行いにおいて、なんらかの誤りがあったと思う人は、よく正座し、手を合わせて自分の心の非を私に対して謝りなさい。そうすることによって、あなたの悩みは解決していくでしょう。
私は、あなた方一人ひとりのことを、いつもいつも心に懸けています。あなた方一人ひとりが、どうすればもっと素晴らしくなり、どうすればもっと幸せになれるか、どうすれば清い心になれるか、それをいつもいつも考えているのです。
どうか、一日のごく短い時間でも結構です。わたしのこの言葉を読み、そうして、時折瞑目し、合掌の姿で私に対して語りかけ、呼びかけてみてください。そうして自らの心を見つめたときに、そこに塵や垢があると思ったならば、それを反省して取り除いてください。他人に対して悪しき思いがあったなら、それも反省して取り除いてください。また、大いなる和解をしていくことだと思います。
自ら、潔くならなければ、潔い生き方をしなければ、人間には永遠の苦しみというものが付きまとっていきます。どうか、潔い生き方をされるように、自らの欲望のために苦悩をつくり出していかないように、そうしたことをくれぐれもお願いして、人間についての話を終えたいと思います。