目次
1.念の力
3.知力と霊の進化
4.霊界の時間
5.精霊界の風景
6.霊界の風景
7.疲労と霊的活力源
8.憎しみと怒り
9.男の霊と女の霊
8.憎しみと怒り(1986年4月26日の霊訓)
さて、どうやら私の霊界通信も、半ばを越したようです。どの程度の内容のものができるものやら心配ですが。
では今日は、また少し観点を変えて、「憎しみと怒り」ということについて語ってみたいと思います。
お釈迦様の時代に、八正道ということが言われましたね。これは、人間として正しく生きるための八つの道ということでした。その内容すべてについて今日話すことはできませんが、八正道のなかの正念、正語ということに関して、「憎しみと怒り」について話してみましょう。
仏教を勉強された方、仏教というよりは仏典を学ばれた方は、他人を憎んではいけない、怒ってはいけないということを頭では理解できています。けれども、ではどうして憎んだり怒ったりしてはいけないのかと問われると、なかなか即答はできないものです。どちらかというと、道徳に訴えて、そうしたことが人の道に背いていることを主張される方が多いかもしれませんね。
それでは憎しみと怒りが、正法神理に反しているほんとうの理由はいったい何なのでしょうか。その問いに答えるためには、人間の本質を深く洞察せねばなりません。
人間の本質は霊です。霊という言葉がピンと来なければ、知性あるエネルギー体といってよいかと思います。この精神的エネルギー体には、知性なり、個性なりがありますが、同時に普遍的な共通体であるともいえます。たとえば、神を父母とするなら、人間はたくさんの子供たちです。ですから〇〇家の子供たちという面からみれば、共通体であり、一人ひとりをとってみれば、太郎、次郎、花子といった具合に名前も違えば、性格も違うのです。
でも、個性が違うからといって、てんでバラバラに勝手なことをやってもいいというわけじゃないですね。朝食のとき、夕食のときは、やはりいっしょに食べたほうがいいし、それぞれが仲良く暮らすことが、みなの幸福だからです。
それは共同生活をする場合ならあたり前だという方がいるかもしれません。でも待ってください。家族には、どうしても抜き去ることができない太い絆がありますね。そうです。同じ血が流れているという事実です。
けれど人間すべてをとっても、ほんとうは同じなのです。すべての人間の本質は霊体ですから、この霊体は、目にみえぬ銀の糸で、みな神につながっているのです。この目に見えぬ銀の糸を霊子線といいます。すべての人間は縦横にめぐらされた霊子線によってつながっているのです。そしてこの霊子線を流れている霊的な血液こそ、愛の力にほかなりません。憎しみや怒りは、愛に反対する力です。つまり、霊的血液の循環を悪くしてしまうために、自分自身をも害してしまうのです。
このように、すべての人間が、霊子線という銀線によってつながっている事実が、人間はすべて神の子であるという事実を立証するものです。ここまで理解されたなら、人間はむやみに他人を憎んだり、怒ったりはできないものです。そうでしょう。
今日は簡単な話しかできませんでした。この次は、「男の霊と女の霊」という題でお話いたします。ではまた。
9.男の霊と女の霊(1986年5月6日の霊訓)
さて、今夜は、先刻予告いたしております、「男の霊と女の霊」についてお話いたしましょう。
あなた方の地上では今、男女同権運動が花ざかりでして、女性も男性がやることなら何でもやってみたいと主張しています。事実、子供を産むこと以外では、男女の性差は縮まりつつあるのは確かです。
では霊的にみて、男の霊と女の霊の区別はいったい何なのでしょうか。肉体がない以上、男女の霊の気質的な相違は、それほど問題ではないと思われます。とすると、男の霊と女の霊の違いは、単に地上に生活していたときに、男女の区別が肉体上にあって、それが帰天して後も、魂の記憶として残っているだけなのでしょうか。
でもそうであるなら、肉体を去って何百年もたつと、生前の記憶もあやふやになり、男女の区別はなくなってゆきそうにも思えます。しかし実際は男女の区別はずっと続いています。
やはり、男女は肉体的に差があるだけでなく、霊的にも差異があるということなのです。フランスの有名な女性哲学者で――そう、ボーボワールとかいいましたか――その方が、女は女として生まれるのではなくて、女になるのである、つまり、女として仕込まれるのだと言っているそうですね。でもこの女性知識人の定義は間違っています。女性は肉体的に女性に生まれる前に、魂として女性だからです。少なくとも、それが普通の場合です。
キリスト教の物語(創世記)では、アダムとイブといって、男性であるアダムの肋骨をとりだして女性であるイブを創ったということになっているそうです。
この物語をそのまま信じられませんが、少なくとも、神のご意志によって、まず男女が霊として分けられ、次に地上界へも、男女別々の肉体をとって現われたのは、どうも事実のようです。私が、さまざまな指導霊に聴いたかぎりでは、やはり、まず、霊的に男女が、次に肉としての男女が分けられたと、みなさん一致しておっしゃっています。
どうやら神様は、人霊となるのにふさわしいほど発達した塊を一堂に集められ、そのなかで陽性の強い魂に男の霊となることを命じ、陰性の強い霊に女の霊となることを命じられたようです。
この二種類の霊群は、男の霊は男の霊として永年の転生輪廻を繰り返し、女の霊は女の霊として永年の転生輪廻をそれぞれ繰り返し、やがてその過程において、男性の属性、女性の属性というものが、かなりはっきりし、固まってきたようです。
そこで次の問題が生じてきます。つまり、では、男性の霊は永遠に男性で、女性の霊は永遠に女性のままなのかということです。
この問いに対する答えとしては、九割まではイエスということです。
やはり、男性として生まれた霊は九割まで次の生でも男性として生まれることを望み、女性として生まれることはあまり望みません。逆に女性霊としても同じことがいえます。
残りの一割の例外は次のような場合に限られます。
一、転生輪廻の過程で、恥じらい、つつましさ、優しさ、内気、引っ込み思案、などの女性特有の気質を、霊的にも濃厚に身につけた場合、女性として生まれるにふさわしい魂として選別されることがある。その逆に、勇敢、大胆、戦闘的、剛気、粗野、といった男性的要素を転生輪廻の過程で魂に刻んでいった女性の霊は、ある肉体生命を境に、男性霊の系列に組み込まれる場合がある。
二、生前、女性であるがゆえに迫害した男性が、カルマの刈り取りのために、転生して女性として生まれ、同じような迫害を受けるように仕組まれる場合。逆もある。いずれの場合も、本人の守護・指導霊の指示するところによる。
三、女性の地位向上のために、男性の高級霊が女性の肉体をまとって生まれる場合。女性の政治家、官僚、経営者などにけっこう多い。彼女らの言動を注視すれば、ほんとうは女性ではなく男性霊であることがよくわかる。
四、本人の強い希望がある場合。たとえば、過去世に何度も戦争に加わったことがある男性の霊が、今世でも戦乱に巻き込まれそうなので、男性として生まれてくるのを拒否して、女性で生まれてくる場合。
右のような場合が考えられますが、いずれの場合でも、本人の守護霊・指導霊が、性を転換することが本人の魂の進化に役立つと判断した場合に限られます。
ちなみに、母胎に魂が宿るのは、卵子が受精して約二か月後ですが、受精の際に、男か女かの合図が霊界へ向けて放送されているのです。
それを聞き届けた転生担当の役人が、たとえば「今度の赤ちゃんは男の子である。」と宣言して、生まれ変わりを志願している霊のなかから、候補者を決定するのです。もちろん、候補者が、両親となる人の霊と縁のある魂であることは言うまでもありません。
では、男と女の霊の話は、今夜はこのくらいにしておきましょう。
次回は、「キリスト教と仏教」という題でお話を進めたいと思います。