目次
(1988年1月2日の霊示)
1.神理の光は「対話形式」と「言葉の美しさ」を通して輝く
シェークスピア シェークスピアです。
―― シェークスピア先生でございますか。すでにご承知かと思いますけれども、私共は今回いろんな霊言集を作成しておりますけれども、芸術の関係に携(たずさ)わっておられた高級諸霊の方のご霊言を賜って、そして芸術編というものを編集したいと、このように思っていますのですけれども、先生からも特に何かご指導賜えることがあったら、お願いいたしたいと思います。
シェークスピア わかりました。それでは芸術全般のあり方、文学のあり方、こうした芸術論、文学論、こうしたもののなかに神理というものを見てゆきたいと、こういうふうに思います。ただこれは私独自の観点でありますし、決して普遍的な考え方でもないと思います。ただこのなかにも、神理の種はあると思います。
まあ『マクベス』であるとか、『リア王』であるとか、そうしたさまざまな戯曲を私は書きました。戯曲という形で、いろんな物語を書いたわけですが、まずこの辺から入っていきたいと思います。
戯曲という形式、なぜこの形式を通して私は訴えんとしたか、ということですが、古来より、意外に人類の根源的思想というものは、戯曲の形式で残されていることが多いのです。あるいは対話篇と言ってもよいし、ソクラテスと弟子たちの対話、あるいは孔子と弟子たちの対話、この辺がたとえば、プラトンの編集するソクラテスの一連のシリーズになったり、あるいは孔子の『論語』であるとか、そうした教えになっていった。こういうことが言えると思います。また仏教においても、釈迦と、その弟子との対話篇が仏典になっていった。ま、こういうことが言えると思います。
したがって、対話篇というのは意外に普遍的な姿なのです。みなさんは、ともすれば理論的な、まとまったものが良いというふうに考えがちでありますが、そうではないのであって、普遍的なるものというのは、やはりひとつには、わかりやすくなくてはいけない。わかりやすいというのは、こうした対話篇で話をするということ、これは人類の胸の奥底に、心の奥底に残るような、そうした普遍性があるのです。易しさがあるのです。
ですから、あなた方も、これから神理をさまざまに語っていかれるのでしょうが、その中において、容易さ、易しさ、そうしたものが流れていなければいけない。わかるようなものでなければいけない。少なくとも対話篇で語られるもので、難解なるものというのは創りにくいのです。聞いてもわからない、読んでもわからないというものは、対話篇では不可能に近いのです。その意味において、対話篇という形式は非常に重要な一形式であるし、古来より用いられたものである。ま、これが言えると思います。
もうひとつ言えることは、結局、美しさですね、文学の形式の中における美しさ、対話篇の中にも言葉の美しさ、こうしたものがあると思いますが、この芸術性ですね。これがあるからこそ長く残り、多くの人びとの心を揺り動かすことができるのです。そうした美しさ、言葉選びの美しさ、言葉の格調の高さ。人の心を揺さぶるような感動的な言葉、こうしたものが心に残っていくわけです。仏典の中でもそうであって、仏陀の人の心を揺さぶるような、そうした対話篇が珠玉の名篇として残っているのではないでしょうか。その時々の人びとの心に合わした言葉というものが、歴史上残ってきて、さまざまな人に影響を与えてきたのではないでしょうか。
したがって、完全な理論的なものというだけではなくて、その都度その都度に人びとの心を揺さぶるような教え、これがあっていいのです。そうしたものであっていいのです。臨機応変の対話のなかに、本当は人生の真実と神理の光というものが、宿っているのです。
文学という形式においてもそうです。さまざまな登場人物を登場させ、そして話を進めていきますが、この登場人物というのが、ひとつの生命を得て、ひとつの個性を得て、だんだんに動いていきます。やがて作者の手を離れていくのです。登場人物というのは、作者の手を離れて動いていきます。その個性でもって、さまざまなことを言い、さまざまな行動をしていくようになっていくのです。その中に、本当に素晴らしいものが残っていくことが多いわけであります。
以上で、いわゆる対話形式、戯曲形式という形式が、ひとつの普遍性を帯びたものであるということ。またその言葉の美しさ、感動をそそるような言葉の選び方というものが、またこれが人類に多く奉仕するようなものであるということ。こういう話をしました。
2.すべての光の天使に与えられた「詩」という武器、方法論
シェークスピア また、これとは違った観点から、私は詩というものを捉(とら)えてみたいと思います。これは今の美しい言葉、感動させる言葉とも関係しているのではないかと思います。
古来より聖人とか、偉人とか言われた人たち、宗教家もそうですし、大宗教家もそうですが、残らず詩人です。大宗教家で詩人でなかった方はいません。すべて詩人です。こうしてみると、詩というもののなかには、ひとつのなんらかの力、これがあるということが言えると思います。
詩とは、何でしょうか。それは、言葉に宿りたる感動の響き、調べ、こうしたものをもって、人びとを揺り動かすという力です。
日本で言えば、日蓮というような僧侶であっても、これは偉大な詩人であったと思います。空海も詩人であったでありましょう。釈尊そのものが詩人でもありました。キリストも詩人です。非常な詩人であります。孔子も詩人であります。ソクラテスも詩人です。そういうふうに、詩というものが、やはり人の心を捉えて離さないのです。
詩とは一体、では何でしょうか。何が一体詩と言えるものでしょうか。短かい言葉のなかで、人の心を揺り動かすようなもの、その人の心を揺り動かす言葉というもの、それは何かというと、それは言葉のなかで、人類の使ってきた言葉のなかで、一番美しい言葉を、一番美しい形で配列してみせるということです。どんな思想であっても、言葉を使わずに思想を表すことはできません。しかし、その言葉に力があります。その言葉に響きがあります。その言葉に光があるのです。そうではないでしょうか。
こういうふうに、詩という形式、これを重視することが大事です。特に根源的なる法、根源的なる神理、こうしたものを説こうとしている人は、この詩という観点を忘れてはならない。それは、非常に人びとの口にのぼりやすく、また、人びとの記憶に残りやすい。そしてまた、人びとを揺り動かすものだからです。
有名な演説もそうです。すべて詩です。有名な演説、有名な講演の中には、素晴らしい講演のなかには、人びとの心を揺り動かすような、詩句、調べがちりばめられているはずです。
これはひとつの方法論なのです。神は、地上に遣わした光の天使たちに、「詩」という方法論をお与えになったのです。光の天使たちが、自らが光の天使であることの証明のために、美しい言葉を、この世ならざる言葉を彼らに数多く語らせるようになっているのです。その「詩」という武器でもって、地上の人びとを済度(さいど)し、救わんとさせているということです。
ですから、本物の宗教家は詩人であり、もちろん芸術家も詩人であります。戯曲家も文学者も詩人であります。そういう詩という形式、これに対する評価、これが大事であろうと私は思います。ま、文学の形式について簡単に話をしてみましたが、これ以外に、あなたの方から聞きたいことがあったらお聞きしましょう。
―― 言葉というものは、各国、民族によって違いますけれども、やはり元になるものは、ひとつであるわけですね。意味するものは、どのような言葉を使おうとも。
シェークスピア 元々あるものは霊界にある念(おも)いしかありませんから、その念いを三次元的にどのように表すかという、その表し方に、さまざまな差がある。ま、こういうことにしか過ぎません。本来はひとつのものです。もちろんその通りです。
ですから、いろんな言葉が翻訳されるということは、人間の念いというもの、その念いの可能性ということにおいて、まったく予想外のことは、あまりないということです。それぞれの民族に出会っても、念いという可能性は、だいたい同じだということです。
それでは、あなたの方から特にご質問がないようですから、私の方からさらに話を続けていくとしましょう。
3.「死」という悲劇の奥に霊的世界の存在を教えた
シェークスピア いわゆる、「悲劇論」ということについての話をしたいと思います。私は、文学の手法として、「悲劇」というものを、かなり重視いたしました。そして、こうした悲劇を数多く創ることによって、人びとに感動というものを起こさせるということをいたしました。この悲劇の在り方というものについて、考えてみたいと思うのです。
この世的なる悲劇とは一体何でしょうか。その最大の悲劇というものは、いわゆる「死」であります。愛するものの死、肉親の死、まあこうした、殺したり、殺されたりというようなこともあるでしょう。こうした死ということが、人生最大の悲劇でもあろうかと思います。私が悲劇として追究したテーマは、ほとんどこの「死」ということであったと思います。また、戯曲の中には「幽霊」というようなものを数多く私は登場させました。この辺に、死というものを縁とした人間の真実、人生の真実というものを描いてみたいと思ったわけです。
この死というものと対面せずしては、文学は成り立ちません。芸術も成り立ちません。哲学も成り立ちません。宗教も成り立ちません。医学も成り立ちません。この死、死とは一体何なのか。人生における死の意味、死のもたらすもの、その悲劇性、悲劇の奥にあるもの、これは一体何なんだろうか。これを、私は問い続けたわけであります。
また、人間の念(おも)い、念、想念というものが、どれほど悲劇をつくり出していくかという、その法則性についても私は数多く語ってまいりました。悲劇の根源にあるのは、人間の欲望であること。それを私は数限りなく戯曲の中で語ってきました。欲望があり、「自分が、自分が」という念いが悲劇をつくり出しているということを、私は語ってきました。そしてその死というものも、やはり乗り超えていけるものであるということも、語りたかったのです。
ですから死というものを、この世的に見れば非常に悲劇的なるものとして捉(とら)えられるわけですが、これは、しかしながら多くの人の心を打つものでもあります。死に際しては誰もが悲しい。死を見て喜ぶ人は数少ない。この難しいテーマです。
しかし、この世的には悲劇的であり、難しいテーマであるものが、あの世的に見たらそうでもないという、この逆説、パラドックス、ここに大いなる人生の秘密、これがあるわけであります。
―― 芸術という立場からすれば、やはり先生も仰せられたように、光があるところには、やはり光が光として光るには、それを認識できるには、人間としてのやはり苦しみとか、悲しみ、そういうものがあって初めて、その光をより強く感じられるのであるというようなお話でございまして、死を縁として宗教も哲学も、実は人生も、芸術もあるのである。それを抜きにしては存在しないのである。というふうなお説を承っておりました。そういうことで、この悲劇もそのひとつの表現形式として捉えられているのであるという、お話を承っている最中でございましたのですが、その辺のところを、もう少しお願いいたします。
シェークスピア わかりました。ま、もうひとつはね、私が言いたかったのは、私のテーマの中で「死」ということ、人間が死ぬということ、人間は不死ではない、その寿命、生命に限りがある、ということでした。しかし、限りがあるけれども、その限りを超えた世界もまたある。この辺のことを、私は文学の中でいろんな形で問うてきました。
結局ね、文学という形式を通して人間の本来の姿、人間が魂であり、霊であるということを教えるということが、私の使命でもあったということであります。絵画を通して、天上界の世界を教える方々もいるでしょう。音楽を通して、天上界の世界、霊の世界を教える方もいるでしょう。私のように文学を通して、その霊的世界の存在を教える人もいるということです。
4.人生の悲劇は"運命の嵐"のなかに漂っている一枚の木の葉
シェークスピア ですから、まず私は、その人間の生死、これを超えた魂の存在ということ、これを文学のなかにずいぶん折り込みましたし、私のその悲劇論とも関連したテーマのひとつとして、非常に重要であったものが、実は、「運命」、「運命論」であります。人間の運命とは一体どのようなものなのか。これが描きたかったのです。人間の運命、それぞれの人間には運命がある。その運命は、どのようにして形づくられていくのだろうか。また、運命に抵抗しようとして、それから逃れられないでいる人間の悲劇、これを描きたかったのです。
広い意味では、そうした運命というものに翻弄されつつ生きる人間の姿を描きながら、この三次元世界の意味、現象世界の意味というものを説き明かしたかった。これが私の考えであります。私の文学に、戯曲に貫かれているものは、この「運命論」であります。
そして人間は、なぜそういう運命があるかということを知らないままに、運命の糸に操られて生きている。それは、私もそう、あなたもそう、あなた以外の方々もそうであります。運命の糸に操られて生きている。
この運命をつくっているものは一体何なのか。これは、仏教的に言えば過去世の「業(ごう)」ということ、カルマということでもあろう。それを西洋では必ずしも認めてはいないけれども、何かしらそうしたものがあるということ。そうした「業」というものに似たものとして、その魂の傾向があるということ。不幸を呼び寄せるような人間の心があるということ。こうしたことを私は描きたかった。
それともうひとつはね、その恨みの心、妬みの心、呪いの心、こうしたものが、いかに悲劇を創り出していくか、この観点であります。人生を悪くしているものの根源は何なのか。悲劇の根源は一体何なのか。何がそうした悲劇性を創り出しているのか。私は、これを描(えが)ききったつもりであります。
それは結局のところ、人間の嫉妬心であり、猜疑(さいぎ)心であり、恨みの心であり、妬みの心である。呪いの心でもある。こうしたことですね。こうしたものが結局、人生の悲劇を生み出しているのではないか。こういう人間性の在(あ)り方、心の在(あ)り方、心の醜(みにく)さ、こうしたものを赤裸々(せきらら)に描くことによって、人々に、自分の存在、これをもう一度見直していただきたい。こういう気持ちが、私にはあったわけであります。
人生を不幸にしているものは、結局その人の心の持ち様(よう)であり、その心の奥底から出てくるものです。私は嫉妬とか、あるいは憎しみとか、あるいは嫌悪感、こうしたものも結構魂の根深いところにあるものだと思っています。魂の根深いところから、こういうものが吹き出してきて、それが人の人生をさまざまに変えていきます。
私は、あまり喜劇物であるとか、ハッピーエンドの物を書きませんでしたが、それは、深く魂というものを見つめるという機会を失ってしまうからです。悲劇の底に真実があるということは、つまり悲劇の底には人間の心を揺さぶる何かがあるということです。人間性の本源が何かある。この部分を知らねばならん。
結局のところ、人間というものは、自分というものから究極において離れ得(う)る存在ではないということであります。その恨みの根源、嫉妬の根源、猜疑心の根源、これは一体何かと言えば、結局、自分だけは別である、まったく別の存在である、こうしたことであります。これによって、こうした悲劇の誕生があるわけであります。
しかし、私は運命に翻弄される人間の姿を描くことによって、人間の人生というのは結局、嵐の中の一枚の木の葉にしか過ぎない、ということを描きたかったのです。「自分が自分が」という思い、「自分こそがよければよい、自分だけがよければよい」という念(おも)い、その念(おも)いに生きているという自分という存在も、結局、運命という嵐のなかの、嵐のなかに漂っているところの一枚の木の葉にしか過ぎないということ、これを知っていただきたい。こういう気持があったわけであります。
5.悲劇は人生の真実を見つめさせ、魂を光らせる
シェークスピア 人びとは、ともすれば安易な日々の中に埋もれていきます。けれども、安易な日々の中において、深く魂というものを、深く人生の真実というものを見つめる機会が、悲劇ということによって初めて与えられるのです。これは、戯曲のなかだけではありません。あなた方、一人ひとりにとってもそうです。本当に自分というものを見つめる機会とはいかなる時でありましょうか。それは得意の時ではなくて、失意の時であります。失業をしたり、大病をしたり、あるいは離婚をしたり、失恋をしたり、経済的困窮(こんきゅう)のなかにあって、魂は、深く深く、自らを省みるのではないでしょうか。結局、悲劇と言われているもののなかには、神が人間をして自分自身の魂の本質を知らせんとするための慈悲がある、ということです。
この世を極楽浄土そのものであるという方もいるでしょう。まったくの光明一元だと言う人もいるでしょう。しかし、平均的な人間から見れば、この世というものは、さまざまな罪悪であるとか、間違いであるとか、悲しみに満ちているかのように見えます。そして、それらのものを、単に悪しきものと一蹴(しゅう)する立場もあるでしょう。単に悪しきものであり、何の意味もないというふうに見る人もいるでしょう。ただ私は、必ずしもそうは思わない。病気は神がつくられたものではないという方もいるでしょう。確かにそうかもしれない。しかし、現に病気があるということ、病気があるという現実を、神がそのままにしておかれるという事実があるわけです。それは、そこに何かの意味があると、やはり見て取った方がいいのです。神は健全なる人間をつくったでしょう。しかしその健全なる人間が、人生の途上において病に伏せることがある。倒れることがある。
ではなぜ、そうした病をそのままにしておかれるのか。これは単に人間だけの不明の至りなのか。それとも、人間がつくり出した間違い心の結果なのか。確かにそういうことも言えるかもしれない。しかし、その間違いを間違いとして容認し、眼をつぶっておられる神の存在があるということであります。知らぬ存ぜぬでは済まぬはずであります。なぜあるか、なぜ病があるか。結局のところ、深く深く自らを省みる機会として、それは存在の意義があるからである。魂を光らせる意義があるからである。私は、そのように思います。
実在界において病はない。その通りであります。してみれば、病を得るという機会は三次元のみの機会であります。その機会において、肉体の苦しみと霊の悦びというものを徹底的に知るという機会、これがあるのではないでしょうか。魂は、やはり苦難、困難を経て光ってくるものではないでしょうか。常楽の世界、そういう世界のなかにおいて、本当に魂が光るでしょうか。
さまざまなものごとを、二元的に捉える人もいるけれども、結局、本当は二元ではないのである。これは結局のところ、楽であるとか、喜びであるとか、楽しみであるとかいうようなことは、これは優しい毛皮のようなものなのです。手に触れても優しい、暖かい、柔らかいものです。毛皮ですね。しかしこれとは違ったものがある。それは砥石(といし)の部分です。あるいはサンドペーパーと言ってもよい。やすりであると言ってもよい。人生にはやすりも必要、仕上げのためのスポンジも必要、どちらもいるのです。優しい面と厳しい面、この両方がいるのです。この両方が一体となって、人生を磨くための材料となっているのです。
善悪という二元があるのではなくて、悪は善を伸ばすための素材として、存在が許されているのだと知ることが大切であろうと思うのです。単に悪がない善だけの世界であるよりも、善悪があり、悪が善を光らせるための、伸ばすための素材として許されているという世界のなかに、また、無限の進化の可能性があると思われるのです。
したがって、悪そのものは、神の属性ではもちろんないでありましょうが、そして人間自身がつくってきたものであることも事実でありましょうが、その悪という存在を、また巧妙に使っておられる神があるということも私は事実であろうと思います。
6.「相対的運命観」と「絶対的運命観」との綾糸(あやいと)
シェークスピア こういう観点からみれば、この人生における悲劇も、喜劇も、これはすべて大いなる計画のもとにあると言わねばなりません。運命論をとってもそうで、「運命と自力」という問題は、古来より宗教家たちの得意とした問題でありました。自力論のなかに生きる人間にとっては、すべて自分の努力によって勝ち得ていけ、自分の選択によって道を選べる、こういう考え方がある。これとは逆に、運命論でもって、すべてはもう神の心で決まっているのだという立場もある。これらの人たちは全託して生きていくであろう。こうした時に、我らはどう考えるか。
やはり、運命には二つの見方があると思うのです。その二つの見方の第一は、ある程度の運命は決まっているが、残りの部分は自分の力によって、考えによって切り開いていけるという「相対的運命観」が一つであります。ある程度の流れがあるけれども、その中でどのように漕(こ)ぎ、泳いでいくかということは、自由とされているという考え。こうした「相対的運命観」があると思うのです。そしてこれが事実、主流であることは本当であろうと思います。
これに対して「絶対的運命観」というものが存在いたします。絶対的運命観とは何かと言うと、すべてのことは神がご存知である。神のご計画のままにあるということです。これについて、私たちは深く神の心そのものを知ることはできません。神がどのようなお考えで、地上にさまざまな素晴らしい出来事を起こされたり、災害を起こされたりしておられるのかそのお心はわかりませんが、究極の神から見て、この地上に起こることでわからぬことは何もないはずである。こういう見方もあるはずであります。
しかしこれは、神のお心を忖度(そんたく)するのみであって、実際に私たちにとってはわかる世界ではありません。しかし、また、「絶対的運命観」もどこかにあり得るはずです。この世に偶然なるものはない、という考えもあるわけであります。自由意志と自由意志がぶつかりあって、その結果このようになっていくであろうということをわかる人も、どこかにいらっしゃるはずであります。そうした眼から見れば、運命はすべて決定済みであります。コンピューターの如き正確なる計算ができる人がどこかにいるはずであります。
しかしそれは、地上にいるあなた方にはわからない。この見地からいくならば、あなた方は相対的運命観の中で生きていかれたらよい。ただ、そうしたあなた方の善も悪もすべてを包み込みながら、眺めておられる大いなる存在があるであろうということ、それだけの認識、これは必要であろうと思います。運命の枠から外(はず)れたと思っていても、それもまた神の手のなかにある運命であったと、こういうこともあるということを、知らねばならぬ。
しかし、さまざまな文学作品を書いてまいりましたが、この運命というものの研究、探究は、結局神のお心を知るという意味では、非常に大きな材料になります。今では自然科学、これを突き詰めていって、神の姿を知ろうという動きもあるかもしれない。あるいは霊文明、霊的な科学、精神科学を通じて神を知らんとする動きもあるかもしれない。しかし、こうした文学というテーマ、人間の運命というものを探究することによって、神ご自身のお考えと、神ご自身の性質、こうしたものを学び取り、見抜くことができるという観点もあり得るであろうと思う。
神は一見、非常なお人好しのようにも思います。地上で人びとが、どのように自由に振る舞い、自由自在に生きていても、お人好しの如く、何千年、何万年、何百万年と待たれておられるお人好しな神、慈悲だけの神という存在に見えることもありますが、その反面、非常に賢(かしこ)い神、すべてを知っているのではないのか。すべてを知り尽くしているのではないのか。知り尽くしていて敢えてやらしている神というのがあるのではないのか。私は、人間の人生の真実を探究すればするほど、そうした感情に突き動かされたわけであります。
さすれば我ら人間は、この大いなる巧妙なる世界において、神の狡猾(こうかつ)な計算というものを見破っていかねばならぬ。そのなかで、糸を手繰(たぐ)られている自分ということを、認識せねばならない。その糸がついている自分というものを知った時に、初めて自分はまた主体的なる生き方ができるのではないのか。自分が主体的に生きていると思いつつ、実は自分の背後にピアノ線のようなものがつながっているとするならば、これは自由自在な人生ではない。まずそうした糸がついているということを認識することによって、かえって自由さというものが広がっていくのではないのか。出てくるものではないのか。私はそのように感じたわけであります。
したがって、私は思うのですが、人間は本当に自分が自由意志でもって考えていることなのか、盲目的衝動でもって突き動かされているものであるのか、この辺を常々見つめてゆかねばならん。これを知らないということは、愚かであります。
私は悲劇論を書きましたが、それを研究すればするほど、こういうことになれば、こういう原因をつくれば、こういう結果が起きる、こういう不幸な念いを持ったら、こういう不幸な結果が生ずるということ、この原因、結果の法則というものを、さまざまな形で解き明かしたわけであります。これを知っているか、いないかということも大きな違いがあります。不幸の原因と結果、これを知っているということは、自分自身そのなかでどう生きていけばいいか、ということへの判断ができるはずです。
ところが、それを知らぬということは、過去の人が何千人、何万人、何十万人と繰り返した不幸を、もう一度、繰り返すことにもなりかねません。いろんな人の生き方を知り、その手本を知るということによって、新たな生き方をしていくことができます。自分が同じレールに乗っているのか、いないのかということを知ることです。これが賢い人生への出発点でもある。私は、そのように感じるわけであります。
まあ以上が私の悲劇論、あるいは運命論ということでありますが、これ以外にあなたの方から特に聞きたいということがあれば、お答えいたしましょう。
7.光一元の思想だけでは、片眼だけでは人生の奥行きはわからない
―― 私は、まだ勉強が浅いものでございますけれども、最近日本神道系から出られた、谷口先生という方が、光明思想をもって人びとに「光一元」の思想をお教えされておられるのですけれども、ここでは、そう思うことは、それは神を忘れている姿であるということで、あくまでも神は光一元の方であるということで、その方向へ、光に向かって心の照準を合わせていくんだということを、強くお説きになっておられ、闇、病、苦しみというものは心の迷いであると言って、そのウェートをずっと下げておられるのです。この辺のところの理解のしかたについて、お教え願いたいと思います。
シェークスピア ま、これはね、いかに深く人生を見るかということであると思うのです。その教えの中には、人生のある部分はよく見えるけれども、ある部分は見ない、眼をふさぐという面があるように私は思う。片眼でもって観た世界をよしとするか、両眼でもって観た世界をよしとするかということです。片眼でも世界は見えるであろう。しかし片眼では遠近感がない。遠い近いがわからない。そういうことではないでしょうか。
したがって、良きもののみを観る観点は確かによいかもしれぬが、ただものごとの遠近感がわからない。ものごとの深さがわからない。人生の奥行きがわからない。私はそのように思います。悲劇があっても、悲劇がないとだけ言い切ることに、その悲劇への探究はない。すなわち、片眼で観ているのと同じです。遠近感がないのです。両眼で観ているから遠い近いがわかる。こういうことです。
まあどちらを好まれるかは自由でありましょう。ただその生き方も、片目で観るというのがもっと行き過ぎれば、馬車馬の如く、眼隠しをして進むという方向にもなりかねません。あなた方は真直ぐ前に進むためだけの馬車馬ではないのです。本来自由自在ではないのか。馬が恐れてはならんということで周りの景色を見えないようにして、ただ走るということだけをもってよしとされるか。まあ私は、そういう観点からものごとを見ています。馬が驚いて、右に曲がったり、左に曲がったりしてはいかんから、眼隠しをするということがあります。ただ、そういうあなた方であって、本当に満足でしょうか。私は、人生の深さという観点をとるわけであります。
8.文学を通して幾転生に当る無数の人生を知れ
シェークスピア それでは時間も近づいてきたようですから、最後に、締めくくりの言葉を残しておきたいと思います。人びとは文学離れということをして、もう時久しいかもしれません。文学を読まなくなった。また、文学者のレベルが低いということもありましょう。現代の日本においてもそうです。文学というのは特殊なジャンルになってきて、非常に軽薄な観を呈しているように思う。
しかし、文学の本当に大事なところは、人生の真実を知り、人生というものを見つめ直す機会を与えるということです。その意味において、ひとりの人間が数十年の人生で生きられる範囲というもの、得られる経験というものは少ないけれども、優れた文学作品を読むことによってその経験が広がり、人生を考える素材が与えられるということがあります。
よって、これから二つの道がある。すなわち、優れた文学者が数多く出て、人生の真実をできる限り教える、良いことも悪いことも両方教えていくという、そういう努力、これは何ものにも換え難い。もっともっと人生を教えてやらねばならん。それも現代にある人生のみならず、過去にあった人生、未来に来るであろうさまざまな人生、その生き方、これを教えることによって、人びとの心を富ますということはできるのである。
こういう意味において、文学者は、もっともっと努力せねばならん。もっともっと頑張らねばならん。奇抜な軽薄なことばかりを書くのでなくて、もっともっと人生の達人となって、人びとに心の糧を与えねばならん。そういうことで、この私の書を読む者たちに対して、文学者に対して、文学に携わっている人たちに対して、もっと人生を知れ、もっと人生を学べ、そしてそれを教えよ、こういうことを言っておきたいと思います。ま、これは書く方の側であります。
やはり、読む方の側も大事であります。文学というものを無駄なものと思わず、その中に自分の経験を広げるための素材があるということを知れ。人間一人の一生をサラリーマンで終えた時に、その経験の範囲は狭いものです。その狭い範囲を乗り超えて、どれだけ大きな世界観を獲得できるか。それは、多くの文学を読むということであろうと思う。ま、優れた文学だけを読むのが本当は一番よいけれども、必ずしもそうはできないのであるならば、できるだけいろんなものに接していって、その中から優れたものを選(よ)りすぐっていくということです。
古典と言われるもの、名作と言われるものの中には、人類が永年愛してきたものがあります。その中には、それなりの光があります。その光を愛してほしい。宗教家だけが光ではない。文学者の中にも光はある。その光を愛してほしい。大いなる文学の中にさまざまなる人生の糧を得る、文学を読むことによって幾転生するだけの、それだけの経験を得ることができることもあるということです。これを知って、文学の意味をもう一度見直してほしい。このように私は思います。
どうか、人生を知るという修行において、果てはないということを知っていただきたい。無数の人間が生きている以上、無数の人生があり、その無数の人生を知るということが、実は神に近づいていく階梯(かいてい)であるということを知らねばならない。神は、その無数の人生をすべて知っておられるのです。すべての人の人生を知っておられるのです。
であるならば、私たちの修行の目的は究極の神に近づいていくことであるならば、その無数の人生を知るという努力を怠ってはならぬ。学問だけが学びの糧ではない。無数の人生を学ぶということ、知るということがまたひとつの生き方であります。これが修行であります。無数の人生を知る。無限の数の人の生き方を知る。こういう勉強もあるということを、魂の修行もあるということをどうか忘れないでいただきたい。そういう言葉を締めくくりとして、私の今回の霊示は終わりたいと思います。
―― ありがとうございました。非常に高邁(まい)なお説を承りまして、心を新たにさせられる思いでございます。おそらく、この先生のお言葉が書となりました頃には、世の多くの人びとが深い感銘に打たれることであろうと、自らの人生をもう一回見つめ直すことであろうと、このように思います。ありがとうございました。
シェークスピア では還(かえ)ります。
―― どうもありがとうございました。