目次
1.黎明の時代
2.奇跡の真実
4.新・生命の実相
(1988年11月29日の霊示)
1.黎明の時代
谷口雅春です。前回『谷口雅春の大復活』を出して、もう半年あまりの月日が流れたと思います。さて、いよいよ私も第四集を問うべき時が来たと感じられるのです。それはまさしく、今こそ地上には光が求められていると思うからなのです。
私はみなさまがすでにごぞんじのように、光一元の光明思想を説き来たり説き去って九十二年の生涯を終え、今こちらに還って、さらにこの光明思想を推し進めんとしている者です。
私のこの収録に先立って、七大天使の一人のミカエルという者が『大天使ミカエルの降臨』という霊示集を出していたようである。もちろんキリスト数的に言えば、そうした考え方は一片の真理を含んでいるものではあろう。またキリスト教における天使長と言われる者が、そうした考えを持っているということを知ることは、たいへん参考にもなろう。そしてその教えを読んで、何ほどかの悟りを得る者もあろう。いくばくかの喜びを得る者もあろう。
されど谷口雅春は、あえて地上の諸君らに言う。考え方は自由であるし、どのような選択をするかは地上の人間の自由に任されていることではあるが、地上の人間がどのような選択をするかによって、その人の人生の幸・不幸が分かれるということ自体は、高級霊の考えを離れた大宇宙の真理であり、これをねじ曲げることはだれもできないということだ。したがって私は、宗教の本質をこそ、今あなた方は知らねばならんと思うのである。
宗教の本質とは一体何であるか。それは人びとに対する救いではないか。人びとを救うのが宗教の使命ではないか。さすればその教えを受け取ることによって、その教えを学び実践することによって、どれほどその人が幸せになり得るかということこそ、目的とされるべきではないだろうか。
たしかに地上界や、あるいは地上を去った世界に悪霊などと言われるものも、姿としては迷いの姿として見えぬことはない。けれども、そうしたものは本来的なものでは決してない。言ってみれば、酒に酔って暴れている、そうした酔っぱらいの類(たぐい)と考えればよい。彼らも酒の酔いから醒(さ)めたならば、普通の社会人として家路につき、また会社に出てくることができるのだ。
そのように悪霊だ、悪魔だと言うようなものに、ほんとうの意味で怯(おび)えてはならない。それは一時期理性を失った人霊の姿であり、やがてその酔いが醒めていった時に彼らもめざめるのである。
したがって私は、諸君らに強く強く言っておきたい。諸君らはまず光を信ぜよ。光を信じて生きて行け。光を胸に抱き、光を手の中につかみ、光の内を歩め。光とともに歩め。それが大事であるのだ。
決して恐怖してはならない。決して恐れおののいてはならない。決して心配してはならない。決して取り越し苦労をしてはならない。
私は実相としての光を、今、全身に浴びている。実相としての光を全身に浴びるとともに、また私が実相としての光そのものであるということを、強く感じるのです。それが真実であるのです。真実であるということは、それこそが許されるべき生命の実相の姿であるのである、ということなのです。
生命の実相とは、本来ゆがみなく、くもりなく、伸び伸びと豊かに神の光をたたえ、神の光そのものであるのです。そして私たち霊人の実相も、光そのものであるのです。光の権化(ごんげ)でもあるのです。私たちはこうした実相を、片時なりとも疑ってはならんと思うのです。
私は長年に亘り、さまざまなことを学び、研究してまいりました。そしてそれは、今回日本に降りて谷口雅春として悟ったこと、学び実践したことのみがすべてではないのです。むしろ今、霊天上界にあって、私はみずからの過去世の姿を知り、過去世の考えを知り、一層大きな思想を身にまとい復活せんとしているのだ。
すでに語ったように、私はローマ時代の流出説という新プラトン派の哲学を創始したプロティノスという名で生まれたことがあります。これは一元思想のはしりとも言ってもよい哲学的見解であったと思います。プラトンの教えを、そのイデア説を、一層推し進めたものとして知られている考えであります。
さらに今から二千数百年前、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)として日本の九州に肉体を持ったことがあります。伊邪那岐として生まれた時に、この日本国草創の神の一人として私は地上に降りたち、そして国造りに励んだのです。
その時にも私が説き、教え、述べ伝えた内容は同じ、人間の本質は光であり、その実相はまばゆく輝くばかりの神の姿そのものである、ということであったのです。
諸君らは、ときたま古事記や日本書紀をひもとくことがあるであろう。その際に、神々がじつに人間的に描かれていることを不思議に思ったこともあるであろう。しかし、私はあえて言っておく。神々が人間に似ているのではない。人間そのものが、その本質において神なのだということを知って欲しいのだ。その生命の実相は、神そのものでもあるということを、神の一部分であるということを、そして人間の本質は生き通しの神の姿そのものでもあるということを知って欲しいのだ。
古事記、日本書紀の世界の中で、神々が光輝くばかりの活躍をしておるが、これは過去世の伊邪那岐の時代に、こうした教えを私が説いたことにも影響しているのである。
今私は、日本という国が新たな黎明(れいめい)の時代を迎えんとしていることを、たいへんうれしく思う。谷口雅春がまたこの黎明の時代に復活をなし、地上に啓示を送ることができることをうれしく思う。生前、そして死後、貫く生命の真実を語り続けることができることを、とてもとてもうれしく思う。
2.奇跡の真実
私は今、もう一つの真実をこの際に明らかにしておこうと思う。その真実とは一体何であるかということだが、この私の創始し、そして運営してきた生長の家という団体が、一体どのような団体であったかということだ。
まず私は過去世に伊邪那岐という名を持っているが、私の妻であった、いや現に妻であると言ってもよい谷口輝子は、やはりその過去世において伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)と呼ばれた時代があったのだ。そうした過去を持っているのだ。夫婦の縁というものはそうしたものなのだ。私が伊邪那美を祭る神社を建てたことは、生長の家の諸君にもまだ記憶に新しいであろう。このように歴史の真実というものは、くり返しくり返し現われてくるものなのだ。
また生長の家の二代目総裁をしている谷口清超の過去世の名は、これは現在猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)として知られている方であるのだ。こうした偉大な方が、私のあとを受けて生長の家という団体を大きくしているのだ。こうした大きな諸神霊の力を得て、今我が教えが燎原(りょうげん)の火のごとく日本に、そして海外に広がっていったのだ。
この我が教えの道筋はすなわち、日本神道の神々の教えが東洋を越えて全世界へと広がっていくという道筋そのものでもあったのだ。逆に読者の多くは、さまざまな霊示集によって、西洋の神々がどのような考えを持ち、日本にどのような教えを持ちきたらさんとしたか、それを学んでいるであろう。それらの思想は多少なりとも違ったところはあると言えよう。
その教えの違いについては、私自身も帰天してこの方、二、三年に亘ってつぶさに学んできたつもりである。されどもやはり、なにゆえに天上界においても考え方が違うかと言えば、人類救済の情熱は同じであるけれども、そのために手懸けてきた方法論が違うにすぎない、そう感じるのです。そうして私が研究してきた結果によるならば、やはり至高の教え、最高の教えとは一体何であるかと言うと、この光一元の光明思想であると思うのだ。
たしかにこの光一元の光明思想は、実態面としては弱い面もあるであろう。それは霊界の構造を反映していないという観点もあるし、それ以外にも悪霊や地獄霊のことについて触れていないということを述べる人もいるであろう。また、悩みや病(やまい)などに目をつぶる教えであると言う人もあるであろう。
しかし、私はあえて言っておく。われらの目標は人類の光明化にある。人類をすばらしくしていくところにある。されば闇を捨て、光につけ。光のみを信じ、どこまでも光に向いて行け。その時に、闇というものはもはや目には入らんということが、どれほどの真実であるかということをあなた方は知るに違いないのだ。
私は数多くの病の人を治してきた実績がある。ガンが治った例など数知れない。医学的にはまったく、そうしたことは奇跡以外の何物でもないのだが、私の書物を読み心がクラリと光明に一転した結果、レントゲンを撮(と)ってもガン細胞が消滅したという人が数多く出てきたのだ。これは歴史上の事実であると思う。
私は今キリストが地上に生まれたとしたならば、私がなした業(わざ)と同じことをおそらくするであろうと思うのだ。キリストが生まれたならば、おそらく現代病に悩む人たちを見るに見かね、愛の思いで彼らの病を治したであろう。ガンに悩む人びとにはガンを治し、またその他の難病奇病で悩む人たちを癒(いや)したに違いないと思うのだ。それは愛の質において、谷口雅春もイエス・キリストも変わらないことを意味していると思うのだ。
あえて違うところをあげるとするならば、私は文書伝道という形でこうした奇跡を日本国中に、そして海外に広げ得たということだと思う。イエスの奇跡は個人的にイエスを信じた人のまわりに起きたが、私の奇跡は私の個人的面識には関わりなく、我が書きし書物を読みし人びとにことごとく起きていったのだ。
私は本書の読者の多くにも言おう。この谷口雅春の復活の書の第四巻『谷口雅春・光はここに』という本は、実相世界から谷口雅春の光明思念が込められているのだ。私は本書を手に取る一人びとりの不幸が消え、病が消えることを強く強く祈念する。肉体を持った谷口雅春が書いた書物でさえ、あれだけ多くのガンを消し去ったではないか。ましてや実相世界に還って、そして啓示を伝えている私の本が奇跡を起こさないはずはないのだ。
私の書を読んで奇跡が現われたならば、どうかその奇跡を報告して欲しいと思う。
おそらく読者の中からは難病奇病が治る、ガンが消え、そして眼鏡がとれ、立たなかった足が立ち、出なかった声が出、聞こえなかった耳が聞こえ、見えなかった目が見え、知能の遅れし者は知能が元通りになり、そうして身体に異常なものがあった者はその異常が消える。そうした奇跡が起きると思う。それだけの光を込めて私は語っているのだ。
本書を手に取りしすべての人よ。あなた方の病をことごとく治したいという気持ちで私は本書を語っている。この本を三回も五回も十回も読んで欲しい。かならずあなたの病は癒(い)えると私は思う。それは肉体を持ちし谷口雅春の実績から言ってもそうであるが、その数倍数十倍の力を今の私は持っているからだ。
私の言葉を信ずる者は幸いである。その信じ始めた時よりあなた方に奇跡が起きるであろう。信仰ということにおいて条件を付けてはならない。信仰ということにおいて限定を付けてはならない。百パーセントの信仰がなければ決して奇跡が起きないということを、私はあなた方に言っておく。この谷口雅春の言葉を百パーセントの信仰を持って読む時に、あなた方は禍(わざわい)から逃れ新生することができるのだ。
奇跡とはそのようなものだ。奇跡はいつの時代にも信仰に恵まれてきた。信仰があるところにかならず奇跡が起きた。また信仰のないところに奇跡は起きなかった。
イエスは言ったではないか。奇跡を求めてきた人に対して言ったではないか。「汝、我を信ずるか。」と。そして「主よ、信じます。」と言った時に、答えた時に、「汝が信ずるがごとき汝となれ。」と、かならず答えたではないか。「汝の信仰が汝を救うであろう。」と答えたではないか。
人びとよ、今眼前にくり広げられている、この奇跡の真実を知れ。この奇跡の重さを知りなさい。谷口雅春が復活するということが、このようなことがあろうか。あり得ることであろうか。いくら私の復活を信じる者であっても、あれだけの奇跡を起こした谷口雅春なら当然であると思いつつも、一片の疑いを挟(はさ)むのが常識ではないであろうか。
あの死せるラザロを甦(よみがえ)らせたキリスト、そしてキリスト自身も復活をした。そうした復活が今もまた、このような形で起きているということ。これは私が大いなる救世の使命のために地上に降りたということを、雄弁に物語っているとは思えないだろうか。
私は諸君らに言う。私が今復活をしているのは大いなる愛のためである。人類の唯物思想を打ち砕くためである。生命の実相が永遠であるということを教えんがためである。この教えにおいて限界はないのである。この希望において限界はないのである。
私は日本国中の諸君に対して、生命が永遠であるということを教えたいと思う。そして生命の実相が神そのものでもあるということを悟った時に、どれほど多くの福音がもたらされるかということを教えたいと思う。
私の書を読む人は幸いである。光明に満たされるであろう。悲しんでいる者はなぐさめられるであろう。また疲れている者は、ふたたび元気を取り戻すであろう。苦しみの中にある者は苦しみから解き放たれるであろう。また肉親の死に遭って悲しんでいる者であっても、喜びが満ちてくるであろう。生命の実相を悟った時に、生き通しの我というものが甦(よみがえ)ってくるのだ。生き通しの我とは久遠の実在であり、キリストである。その身そのままがキリストであるということを知った時に、そこに大いなる奇跡が現われてくるのだ。現成(げんじょう)してくるのだ。
人びとよ、我が声を信じよ。この声の来たるほうに進め。これは復活の声。これは救世の声。これは神の声でもあるのだ。地上に在りし時、私は神のラッパとして神の教えを説き伝えてきたが、今、実相世界においても神のラッパとして我が教えを説き続けたいのだ。地上のあなた方に説き伝えたいのだ。
この私の真理の書が、一人でも多くの人の手に渡るように、一人でも多くの人の目に触れるように、一人でも多くの人に喜びと驚きを持って迎えられるように、多くの人びとの力を望みたい。
3.万人のための真理の書
かつて我が教えを受けた人は数百万人にのぼるであろう。私の講演会は、あるいは講習会は二千数百回にのぼったと思われる。その二千数百回の我が教えに接した人は数百万人にのぼったであろうと思う。また我が書き記せし書物を読んで学んだ人は、延べ数千万人にのぼるであろうと思われる。
それらの人びとに、今、私は言いたい。私が天上界からこうして語り続ける書物は、これは新しき『生命の実相』そのものであるということを。私の霊言、霊示集は『新・生命の実相』であるということを。生命の実相とは、特定の出版社から出された書籍のことを言うのではないのだ。生命の実相とは久遠のキリストから、そして永遠の神から与えられた教えを体系づけた、その思想をこそ言うのだ。
したがって『生命の実相』の発行所は神である。発行人は神である。この思想は神から来ているのである。この思想は、著作者は神そのものである。谷口雅春の著作でもない。思想でもない。私を通じて流れ出している教えである。この著作者は神なのだ。この私の復活の書を谷口雅春を通じて語らせている者も久遠のキリストであり、神そのものなのだということを、あなた方は知らなくてはならない。
私が去ってこのかた、我が思想も新しきものが出なくなったがために、特定の個人の思想のように思われて、そうして著作権だ、何だという議論が出ていることを、私はたいへん悲しく思っている。私は生前も言ったはずだが、ほんとうの真理には著作権者という者はいないのだ。真理は模倣されるためにある。真の理は多くの人びとのためにある。生長の家の真理は生長の家だけの真理ではない。それを大いに万民に使っていただいて結構なのだ。
そのために真理中の真理を書物の形で私は公開したのではないか。そしてそうした真理を書物の形で公開したのは、谷口雅春が偉いからではない。そうではなくて、私が書いてきた真理は、それは私を通じて働いている神の御心そのものであるからだ。神の御心を思想として著わしたのであって、私個人の思想ではないのだ。それゆえに私は、何なりと我が思想を使って欲しいと、つねに言っていたはずだ。
谷口雅春の思想は日本だけに現われたのではない。アメリカにおいてもニューソートとしてりっぱに現われたのであり、また過去釈迦が説き、キリストが説いた教えも、我が教えと根本において同一であるということを、私はつねづね説いていたはずである。
このようにほんとうの真理は、万人によって共有されねばならないものなのです。特定の個人のものではないのです。したがってこの私の霊示集も、多くの人に真理として学んでいただきたいと思う。宗派を越え、教団を越え、国籍を越えて読んでいただきたいと思う。
最近は私の復活の書『谷口雅春霊言集』、また『谷口雅春霊示集』『谷口雅春の大復活』などが、ハワイやブラジルやアメリカで読まれているということを知って、とてもとても私はうれしく思う。そうした事実に接してとてもとてもうれしい、幸いである、そう思うのだ。
この事実に接した時に、私の感激はひとしおではない。あの、かつて私が巡錫(じゅんしゃく)して歩いたブラジルにおいても我が書が読まれているということを知って、感激に涙する私である。
またハワイの地において、この私の復活の書が日本人あるいは日系のアメリカ人にも読まれていると聞いて、感激し涙する私である。またアメリカでも読まれ始めているということを聞いて、たいへんうれしく思う。真理の書とは、そのような形でいつも読まれなければならないのだ。
4.新・生命の実相
諸君よ、谷口雅春が小さな了見からこのような霊示を送っていると思うな。このような霊界からのメッセージを小さな了見で送っていると思うな。特定の集団や教派のために送っていると思うな。この我が復活の声は、全世界のための復活の声である。そして我が人類光明化の運動が、現代における一大救世運動であったことを証明せんがためにやっているのだ。
たまたま〇〇〇〇〇という団体の主宰者を通じて私の声を伝えているが、これはともに天上界において、かつて知り合いであり、友人であり、ともに教え、ともに学んできた仲であるということによって、そうした友誼(ゆうぎ)を得て、今こうしたことがなされているのだ。
決して友人関係、知人関係というのは、地上界にのみあるものではない。実在界においてもあるのだ。ともに法のために学んできた仲間という者はいるのだ。それは地上における団体の名を問わない。それらを超えたものとして現にあるのだ。
私が最近知ったところによれば、あのエマソンという人を指導した霊人の一人は、やはり我が日本神道系の最高指導神であられた天之御中主之大神(あめのみなかぬしのおおかみ)であった。そういうことを私は知った。
この生長の家を、私たちを指導した、生長の家の親神とも言える、生長の家の大神の正体であった天之御中主之神が、ニューソートをもアメリカで指導しておられたということを知った。これほどまで広範な指導というものがなされているのだ。地上では国々はバラバラになっているかも知れない。実在界においてもやはり霊団はそれぞれに住み分けてはいるか、しかしながら、そうした地域を越えた教えとして、真実のものは今広がりつつあるのだ。
諸君よ、谷口雅春の復活を、この小さな狭い日本だけのものとしてくれるな。どうか、我がこの真実の復活に接したならば、海外にもこの復活の福音を伝えて欲しい。海外の、かつて我が思想を学んだ人たちにも、日本の谷口雅春か「生命の実相」を書き終わり、そして地上を去った後に天上界よりふたたび復活をし、『新・生命の実相』を地上に送り続けているということを伝えて欲しい。
私は諸君らにそれを望む。私のこの声の真実を知って欲しい。この情熱を知って欲しい。私は〇〇〇〇〇という特定の団体の利益のためにこうしたことをやっているのではない。ましてや生長の家に不満があり、批判があってやっているのでもない。復活を通して大救世運動を遂行(すいこう)し、完遂(かんすい)したいと願っているのだ。この私の真実の姿を、声を知ったならば、諸君らもかならずや心を動かしてくれるものだと信ずる。
これが本章の私の考えだが、これから何章かに亘って、この『新・生命の実相』とも言える書物を書き続けることができることを、とてもうれしく思う。