目次
(一九八四年一月二日の霊示)
1.認識の相対性について
― インマニエル・カントの招霊が行なわれる ―
カント イヤー
富山 日本語でよろしいでしょうか。
カント 大丈夫です。
富山 折角、お越し頂いたのですが、先生が書物に著わされた諸説とは直接関連はないことなのですが、いま私が関心を持っていることは、認識と世界との関係なんですが、先程は仏教系の、天台智顗といわれる方がお出でになって、一つの世界の中に、さまざまな世界が混在しているということなんですけれど、ただ、人によっては何種類かの世界が観(み)えるけれども、人によっては一種類の世界しか観えないと言われたのですが、多様な世界が観えるということは、風景(客体)それ自体が変わるものなのでしょうか、心の状態によって。
カント たとえば此処に、あなたの前に置かれた机の上に一つの瓶が在る。あなたの観ている瓶と、私が観ている瓶とは同じものであって、同じではないはずです。決して同じものはみえないのであります。そうではないのですか。同じ瓶であって同じ瓶ではない。或いは瓶の中、瓶の外には光の当たる部分があり、光の当たらない部分があり、瓶に凹凸があり、この何処を視るか。光ある面を見る人は、光ある瓶と言うであろう。影の面を見る者は、この瓶は暗いと言うかも知れない。或いは上から見た者は、完全ではない穴が開いている、と言うかも知れない。このように同じものであるが、違ったふうに見えるというよりも、同じように見えるということはないということでもある。
富山 例えば今、地獄というところに居る者達には、非常に囲りが暗いといわれていますが。
カント 彼らにとっては暗くはない。あなたが見れば暗い。彼らが見れば暗くないかも知れない。暗く見えるものも居るかも知れないが、よく見える人も居るかも知れない。モグラにとっては、地中は暗くはない。モグラにとっては、地中はよく見える住み良い世界である。地上に出れば、これは灼熱の地獄である。お判りであろうか……。
富山 例えば彼らがあなた方を見れば、光が強過ぎるとか、輝いて姿が見えないとか、そういうようなことを言うわけなんですけれども。
カント 同じである。モグラが地表に出たらそこにあるのは地獄の世界、灼熱地獄である。しかし地上に住んでいる人間にとっては、それは普通の世界。地獄は、地獄に住む人にとっては地獄に非ず、普通の世界。
2.私は同時に複数者と会話することができる
富山 それからあなた方の世界の構造についてお伺いしたいのですが、例えば、あなたが或る人とこうして話をしている状態で、誰か別の人のことを考えたならばその瞬間、そのあなたの前に居た人は、あなたの前から消えるのでしょうか。
カント 消えはしない。その人は居るが、別の人のところへも行くことができるし、自ら移動しようと思えばできる。移勤しないで話をしようと思えばできる。゛念゛ということを通して、たとえば相手の顔が、スクリーソに映るように眼の前に浮かんでくることもある。そこに居るわけではないが、そこに居るように話をすることもできる。そこに在って、そこにあらず、此処に在って、ここにあらず。これがわれらが世界の特徴である。
富山 意識の志向性ということを考えた場合に、地上においては、同時に二つのことは考えられないわけです。同時には一つのことしか考えられない。もし、心によって世界、環境が決まってくるのであれば、例えば或る人のことを考えれば、或る人との世界は出来るが、別の人との世界は消滅するというか、その時間帯、一時中断するのではないかと、そのようなことを考えるのですが、そういうことはないのでしょうか。つまり、幾通りもの世界像が同時に映写されるということは可能なのでしょうか。ということは、百人居たとすれば、残り九十九人を全部意識していないと、その会合というものは成立しないのではないでしょうか。
カント 例えば、ここがわれらの世界とする。私はいま、あなたと話をしている。あなたと話をしながら、私は私の友人に対して祝福の念を送ることができるのである。
あなたと話をしながら、私の友人に対して祝福の念を送ることができるということは、私の友人にとっては、彼が居るその場において、私から祝福の念を受け取るということであって、その場合には、彼にとっては、私は彼の方を向いて、彼に対して語りかけているということになる。しかし同時に、私はあなたとは相対座して話をしている。
富山 それは霊界の霊太陽が常に各人の真っ正面に在るといわれているように、それと非常によく似た性質そのものであると思うのですけれども、常にその人にとっては、或るものがその人の前に在ると、例えば今あなたは私と話をしていらっしゃるのですけれども、それと同時に他の方に祝福の念を出すことができるとおっしゃっているのですが、それはあなたの中の別の部分からその念を出していらっしゃるのですか?
カント そうともいえるし、そうでないとも言える。何故なら、あなたの認識は、物体というものに非常にとらわれているからであります。もしわれ二種類の念を起こせば、わが存在は二種類となる。例えば今、あなたと語らんとするカントあり、わが友に祝福を送らんとするカントあり、カントは二人有り、我は一つに非ず、一人にして二人なり、二人にして三人、四人となること可能であって、これが、われらが世界の特徴である。あなた方はまだ物体というものにとらわれている。
富山 それは、そちらの霊世界においてはすべて可能なのでしょうか、それとも高次元の世界におられる方がただけの特徴的な可能性なのでしょうか。
カント 物体的意識のまだ残っているものにとっては不可能である。
3.千手観音、多面仏像の意に学べ
カント 即ち、あなた方の東洋の国の、例えば仏像の中には、あなたもご存知のように一体の仏像にして顔が三面、四面あるという仏像があるはずであります。また何本もの足があり、千本もの手がある仏像があるはずである。あれが一体何を示しているかということであります。
神がもし、或いは神近きわれらがもし、現在肉を持っているあなたが、一人の人に対してしか話ができないような限定された存在であるならば、例えばあなた方の世界で言うならば、阿弥陀如来でもよい、なんでもよい。それを呼ぶ複数者があった場合に、もし一対一の応対しかできないものであるならば、その如来は、一人の人に対する如来であって、他の者に対する如来ではないということである。しかし、実際の如来の働きとはそのようなものではない。同時に多数人の願いを聴き入れ、それに対して応対できるのが如来である。とするならば、如来は一人にして一人に非ず、一にして一に非ず、これがわれらの世界の秘密である。
富山 ということは、本体と分身との関係に非常に関連があると思うのですけれども。
カント そういう意味ではない。まだ本体と分身という考えは、物体というか、物の形というものにとらわれている。そんなものではない。
いま私が語ったように、あなたと相対し、あなたと話そうとする私が、同時にわが友を祝福せんとするとき、われらの世界においては、わたしという、カントという存在は、同時に二人に対する存在になるということである。
それとは別に、五人の分身があるということは、五人の、五つの物体があるということではなくて、五通りの心の働きまで認められているということである。心の中に、例えばわれらが世界に在って、三次元の物質界に修行せんとする心あらば、その心がいま三次元に出て、肉体修行をしているのである。三次元にて修行せんとする心が、今それをしているのであるが、同時に他の心はわれらが世界において゛法゛を説いている場合があり、われらが世界において共に語り合っている場合あり、われらが世界の法則は、同時に何様もの心を持ち得るということである。そして何様もの心を用いた時、物体というか、物というか、形という概念においては、複数のものとして現われるということである。一つのものが複数、四人、五人に現われるということである。
この法則を知りたるものはそれ程多くはない。これが出来るものは、神の使いといわれているものである。しかし本来的には人は皆このような力を持っているのである。
富山 まあ一種の神智学的系統でいえば、触手的な、五つであれば五つの方向に、アミーバー状なものが触手を延ばすことができるといった感じなのでしょうか。その一つが地上人としての修行をしているということでしょうか。
4.認識のレべルに応じた存在の仕方となる
カント いずれにしてもあなた方に理解できる比喩である。が、実体は違う。― 即ちわれらが世界において、私が、例えばいま現象界に出てこのような話をしようとしている。しかし私は此処に在りて、此処に無きものである。私は私の世界においていま椅子に座して書物を読んでいる。書物を読みながら此処に居る。此処に居ながら書物を読んでいる。既に認識がそこまで進んだ人間にとってはそのことは可能であるが、人間としての意識にまだとらわれているわれらの人間においては、実在界に在って、いま此処に来て話をする時には、既に彼らは実在界に居ることができなくて比処に来ている。
しかし私は、実在界に在って書物を読みながら、今こうしてここに現われてあなたと語ることができているのである。
富山 さまざまに書物を読み、語り、友達に祝福を送っていらっしゃると、それを統括する立場でのあなたという方は、何処にいらっしゃるのでしょうか?
カント 今、実在界に在る。
富山 本を読んでいらっしゃるあなたの方が本体というわけでしょうか。
カント 本を読んでいる私も、私であって、私でない。
富山 その意識の中心は、何処に在るかということは、実在界、いわゆるあなたのいらっしゃる世界に意識の中心があるということですか。
カント そのような多様な認識、多様な行動を同時に起こせる人間にとっては、それが可能であるというのが、われわれ霊の世界での法則である。人間的意識にとらわれている霊がまだ非常に多いのである。自らの力の可能性を知らないでいる人間が非常に多いということである。
富山 つまり何回も転生輪廻を経ながらさまざまな姿で生まれ変わってくるのですけれども、その都度、新たな、例えばカントならカントとして生きた時代のものが還ってくるわけですね。経験というものが、それを統一するというか、元にあるというものは、今、あなたのいらっしゃる世界に永在されているというように。
5.われらが主体は思考せるエネルギー体である
カント 動きて動くものに非ず、ただ思考せるエネルギー、思考せるエネルギーがわれらが本体である。われらが本体はエネルギーであり、エネルギーは思考するエネルギーである。エネルギーは岐れることも出来れば、一つになることも出来るのである。思考せるエネルギー、一つのエネルギー体であるが、そのエネルギー体が三次元に肉体修行をしたいという念を起こせば、思考せるエネルギーの一部は三次元にて肉体修行をしているのである。思考せるエネルギーの一部がわれらが世界で書物を読みたいと思えば書物を読んでいる。思考せるエネルギーの一部が、このような三次元に来てあなたと語り合いたいと思えば語り、此処に来たhソて語り合うのである。ただ、このような認識に到達している人はそれ程多くはない。
富山 まあ極く卑近な例でいえば、私はいま現在、「富山誠」として此処に居るわけなのですが、私の生命体は別の場所で別の仕事をしているかも知れない、という可能性もあるわけなのですね。
カント あなたの生命体というか、意識をもったエネルギー体としてのあなたは、ここにありて、ここになく、実在界に在りて実在界になく、在りて無く、無くて在り、今あなたは「富山誠」という肉体という殼の中に自分が納まっていると思っているから納まっているのだ。物体という概念で、霊を捕えている以上、人間はそこから抜け出すことはできないのである。しかしながら、本来の自由の意志を持ったエネルギー体としての自分を見出すならば、此処に在りて此処に無きが如し、即ち、肉を持ちながら、考えながら、即ちわれらが実在界にて、そこにありて見聞しながらまた肉体に帰ってくることも可能である。
富山 例えば、肉体を離れて、その実在界に行ってそちらを見聞して帰って来た、スウェデンボルグという方が居られたのですが、実際この地上の肉体に入っているスウェデンボルグという方の魂から出て行ったのではなくして、その方の生命体の、実在界に対応する部分が見聞したものが、地上界の肉体内に宿っているスウェデンボルグなる魂に認識されたのではないでしょうか。
6.霊は形なき知的エネルギー体である
カント まだあなたは物体的なものの観方にとらわれている。霊という一つの物体があって、それが分かれて、入ったり、出たりしているという認識がある。そうではないのだ。そうではないのだ。
富山 つまり、どの部分を活生化するかということなのでしょうか。
カント 念ったものがそのまま、物体となり、形となって現われるのが、われわれの世界の法則なのだ。形なきものなのだ。知性あるエネルギー体である。思考せるエネルギー体である。本来形なきものなのである。エネルギーのみであり、エネルギーに思考あり、エネルギーに思索あり、エネルギーに知性あり、知性あるエネルギー体であり、それがわれらの本体であり、形なきものである。
ところが、その知性あるエネルギー体が、この地上において人間生活というようなものを送りたいという、この魂の乗り舟に乗った経験があるために、あくまでも、そのような形を自分はしているものだと思い込み、人間のような形をして実在界に存在しているのが、霊界人、霊人といわれている者達である。あれは彼らの本来の姿ではないのである。人間として生きた時の形がそのまま残っているだけのことであって、それは彼らの本来の姿ではないのである。彼らが本来の゛相(すがた)゛は形なき生命体、形なきエネルギー、思考せるエネルギー体である。これは一人でも、五人でも、十人でも自由自在である。唯、人間としての形にとらわれている限り不自由となる。
富山 当然思考する存在ということなのですけれども、思考の内容の転回というものはあるのでしょうね。次から次へといろんな考え、それは、その方向というものは何処から来ているのでしょうか。自分自身の意志によって思考を転回できるのでしょうか、あなた方の場合は……。
カント できます。ただ、われわれは神から分かれた思考、エネルギー体でありますが、そのエネルギー体のエネルギーの量の大、小があります。知恵、或いは知性、知覚せるもの、思考せるもの、その思考に上下あり、それぞれが個体を持って居る。
富山 例えば誰でもよいのですが、先ほど天台智顗という方がみえられたのですが、その人の意識と、あなたの意識とが重なることはないのですね、別々に思考しているということですね。
7.霊に色彩的個性あり
カント そうです。一つの個性というか、色分けはある。エネルギー体であれば、例えば、あなた方が認識できるような形で言うとするならば<青い色>をしたエネルギー体があるのです。<マリン・ブルー>色体といってもよいでしょう。
或いは天台智顗という人の魂系団は、例えば<黄色>をしたエネルギー体とせよ、形なきものとせよ、そのうちの一部分が、カントという名前、天台という名前のもとに人間の肉体に入り、魂修行をして還ってきたものとせよ、カントは別の人格であるが、カントに宿りたるものは、考えてみるならば<青い色>をしたエネルギー体である。<青い色>をしたエネルギー体は、本来一つのものである。一つにして別のものであるが、<青い>という統一概念によってそれは一つのものであるということが認識せられるのである。「天台」というものにしても然りである。
例えていうなら<黄>という色をつけよう。<黄>の色をしたエネルギー体を考えるならば、エネルギー体が天台智顗という人間の中に入って修行し、人間の形をとって還って来たとしよう。二つのものが存在する。あなたは、あなたの眼に分かるような三次元的には、二つのものが存在する。二つのものは別々ではないか、という存在の感じはするが、たとえばここに、統一理論、<黄>という統一理論を出した場合に、<黄>として認識せる場合には一つなりという統一の認識理論を出した時に、これらは二つであって、二つではなく一つである。<黄>は<黄>であり一つである。
このような認識もできるのだ。物体にとらわれたならば二つである。しかし<黄>というそれを結びつける一つの理論から、一つの認識からみるならば、<黄>はあくまで<黄>である。<黄色>はあくまで<黄色>である。黄色い色である以上、同じ生命である。このような認識ができるのである。
富山 例えばその、喩えで<青>とか<黄>とか言われたのですが、それをもっと高次元というか、「神」という一つの根源からの分かれ、ということになるのですね。
カント そうです。また<青>とせよ、<黄>とせよ、<緑>とせよ、<赤>とせよ、それぞれの色は、親なる神から出た色彩の区分にしか過ぎないはずである。本来は゛光゛一つの光が青となり、黄となり、緑となり、赤となり、白、銀色となって現われている。しかし、個性は違うものと見えながら、その青、黄、緑、赤、白、銀、紫と総てが集まって、個性の差は神は設けておられるのである。同じ゛光゛であるが、光に種差あり、集まって一つの゛光゛となる。
富山 その色の違いの差が出るのは、どういう意味合いを持っているのでしょうか。
カント 「神」の光が投映される場合に、それぞれの次元においてさまざまのプリズムがあり、プリズムによってそれぞれ光が偏光し、色も変わって来る。
今後あなた方の認識は、霊的認識においても、あなたが疑問と思っている゛本体と分身゛という認識も、なんで一人の人間が五人居たり、六人居たりするのか、という疑問も生じては来ようが、それは物体としての統一、物体としてみた場合に、これらを結びつける一つの認識面があるのである。例えばいま言った<赤色>、赤い色が一つしかないとせよ、人間の個性に合わせただけの色があるとせよ、そして赤色は一つしかないとせよ、赤い色は、赤い色のついているエネルギー体が分かれて存在するとせよ、赤は赤なりという認識のもとに彼らは一つである。本体分身というのは本来そのようなものである。そしてあなた方が、たとえば、本体一、分身五というようなことを教えられているとするならば、およそ一つのエネルギー体において、人間として生まれ変わってくるそのような個性の違いとしては、せいぜい五、六人に分かれることしかできないというふうな考え方をとればよいのである。
8.われは一即多、多即一の認識に立つ
富山 たとえば仮りに、あなたが地獄界のことを考えている場合に、地獄に居る者からすれば、あなたが地獄界に何らかの形をとって存在しているように見えるのでしょうか、あなたがそういう念を起こした場合に。
カント 私が地獄に行かんと思う念を起こせば、カントは実在界に在りながら、われらが世界に在りながら、地獄にその姿を現わしてみえる。彼らには、われが現われた如く見える。しかし、われは地獄に不在(あら)ず。わが念、地獄にあり。
富山 その時にあなたは地獄界に同時に存在している感覚で観えるのですね、その世界を。
カント そうである。
富山 これは、あなたのような方にだけできることなのでしょうか。
カント これは、すべての人間には同じような能力が与えられて、すべての霊には同じような能力が本来備わっているのだけれども、これは人間として生きて来た時に、或いは天上界、いろんなところでの経験の総合であって、そこまで自分の力を認識し得たものにとっては、その力を使うことはできるが、その力を認識せぬ者には、その力を使うことはできない。
例えば、ここに手がある。この手で、この手は物を掴むものだとだけ認識している人には物を掴むこと以外のことは、これはできない。しかしながら、この手はほかの作用をするということが認識しているものにとっては、他のことができるのである。この手によっていろんなことができるはずである。人を殴ることもできるのかも知れないし、物を造ることができるかも知れない。しかしながら、手というものは、何かを掴むだけにあるのだと思っている人にとっては、手はそれ以上のものではない。しかしながら手というものは、何かを造り出すことができるものである。或いは、手というものは人に危害を加えることができるものである。或いは、手というものは、服を脱いだり着たりすることができるものである。こういう認識を持っている者にとっては、手はそれだけの作用をするものである。ところがこれを知らないものにとっては、手は物を掴むだけという一つの作用だけしか働かないのである。本来あるものは同じであります。本来同じのものがあるのであるが、その作用を認識しているものと、認識していないものとによって、その認識によって作用が違ってくるのであります。
即ち、霊というものも、本来同じものであり、すべて同じものであるにもかかわらず、霊の持ち得る力を認識せるものと、そうでない霊との間には、霊的な力の発現には種差が出てくる。即ち、われのように、実在界、天上界に坐しながら、地獄界に念を送れば、そこにわれ現わると思える人間と、そう思わない人が居る場合には、その人は出来ないのである。
先程、あなたのもとに、別な一人の霊が訪れたはずである。われはその霊を見ていた。彼が言うには、彼は講演会の会場で講演をしていたために、今あなた方の前に現われて、あなた方の問いに答えることができない、と彼は言ったはずである。彼の認識は、私の認識より劣るのである。彼は同時に、われわれの存在というものは、一にして一に非ず、一にして多であり、多にして一であるということ、これを彼はまだ十分に認識していないのである。
本来の霊であるならば、実在界において、講演会場において講演をしつつ、またあなたのもとに現われて、あなた方と語ることもできるのである。ただ、彼はまだ認識の段階が低いために、それができないで居るのである。それは、手は物を掴むことしか出来ないと思っているものは、物を掴む以外のことは出来ないのと同じである。物を掴むことしか出来ないと思っているものは、手によって字を書くことが出来るということを知っている人を見れば、これは驚異であります。こんなことが果たして出来るのであろうか、全く知らない世界なのです。しかし字を書くことを教えられれば、そういうことも出来るのであります。悉くこのようなものであって、魂というものは、同じように作られているのだけれども、それぞれの認識によって、出来る能力に差が出てくるのであります。
私は、手というものによって、鉛筆を持ち字を書くことができるという認識を持っている。さすれば私はそのような作用をすることができるのである。しかし私は物を持つことしか出来ないという認識を手に持っているならば、それだけしか出来ないのである。先程あなた方に現われた霊は、講演会、彼らの世界において講演会をしながら、同時に、この三次元においてあなた方と話をすることは出来ないと思っている以上、出来ないのである。しかしながら、私のような認識を持っているものであるならば、われわれの世界において書物を読み、コーヒーを飲みながら、かつここの世界へ来て語ることも出来るのである。これは認識の差である。
富山 つまり講演しながらは、こういうところへ来られないという考えは、地上的な発想が残っているということですね。
カント そうである。彼はまだそういう意識を持っている。まだ物体としての霊にとらわれていて、霊というものは一つの存在であって、同じ処に一つしか存在出来ない、同時に一つの処にしか存在出来ないものだと考えている。その認識の浅さがあるのである。霊というものの本質は同時に複数のところに存在し得るのである。同時に複数のところに存在し、複数のところに存在しながら一つのところに現われる、これが霊である。
富山 例えばあなたであれば何通りものお仕事が出来ると思うのでありますが、その状態をどのくらい持続出来るのでしょうか。
カント すべて毎日、毎日というか、何時もそのような状態といってよいが、特に必要がなければ、例えば書物を読む姿を思念するなれば、カントとして本体は一つになる。一つの行為のみをするが、例えば人に法を説かん、或いは、人に語らん、人と共に歩まん、このような念いを起こしたならば、それぞれのことが同時に起こるのである。このようにして、多と思えば多となり、一と思えば一となる。
富山 つまり今あなたがここへ来て、一部分というか意識が出ておられるのですが、私たちと話している部分がまた他に分かれることはできるのでしょうか。
カント 出来る。つまり実在界の人間、つまり私たちと一緒に住んで居る人間が、いま私の姿を見るならば、カントは机に向かって書物を読んでいるのである。行間と行間との間に眼を移しているのである。何を考えているのであろうかと考えているのである。このように話しながら、或いは実在界に帰って牝牛の乳を搾ることも出来るのである。これが本来の霊のあり方である。
9.私はいま書斎で読書しながら地上であなたと話している
富山 いま一つ伺いますが、あなたがいま書斎だけに居らず、二様ないし三様の場所に居られるということが分かるのは、あなたと同じような高いレベルの方には分かるのでしょうか。
カント 喩えて言うなら、こういうものである。家人が近寄って来て書物を読んでいる私を発見する。カントが書物を読んでいると、彼はカントに話かける。「いいお天気ですね」と話しかける。ああ聞こえなかったのかなと、「カントさん、本読んでいるのですか、いいお天気ですね」と更に話しかける。その時カントの意識というものは、本を読んでいることに凝集している。そして思念を一つにすることができる。けれども、本を読んでいるカントに語りかけられながら、他に現われたカントに語りかけられた場合、やはりカントは同時に二人存在するのである。その二通りにカントが現われているかどうかを認めることができるかどうかということは、その霊の能力、個性にもよる。書物を読んでいるカントしかないと思う霊は、その書物を読んでいる霊しかないのである。
富山 つまりさまざまな世界において、時間の進行というものが違うのですね。同じ時点ということはあり得ないことになりますね。
カント どういうことでしょう。私が言っているのは同時に複数の存在としてあり得るということを言っているのです。あなた方の世界では、同時に他の場所に現われるということは出来ないということがあなた方の世界です。この場にこのような瓶があるということは(卓上の牛乳瓶を指して言う)この瓶と同一瓶が、同時に他の場所に存在するということは有り得ないということであります。ところが、われらの世界においては、この瓶はここにありながら、この瓶は他の所にも存在出来るのです。例えばこうしてこの机の下にもあるのである。現象的に見れば二つの瓶である。ところが、われらが世界においてはこの瓶は一つの念である。一つの念、個性をもった同一の瓶であるならば、卓上の意志ある瓶と、卓の下に置かれた瓶とは同じ瓶である。同じ瓶にして二つある。それは瓶という認識において同一だということである。
富山 要するに、現象界においては一つの念が同時に複数の空間を占有するということは出来ないが、実在界においては、念を起こせば複数の空間に存在が可能だということですね。
カント その通り。
富山 例えばあなたがイエス・キリストという方のことを考えておられた場合に。
カント われはイエスの側にあり。
富山 そのイエス様があなたのことを考えていなくともそうなのでしょうか。
カント その通り。此処にしてわれイエス・キリストのことを念えば、われはイエス・キリストと共に在り。
富山 それは別の方が見た場合に、そういう状況になっているということでしょうか。
善川 つまり客観性は成り立つかということですね。
カント 三次元的に言えばそのような姿になっている。われらはここに在りてイエス・キリストのもとに在り、イエス・キリストのもとにありて書斎の中に在る。カント複数なり、三名あり。
10.イエスは何千万人の祈りでも同時に聴くことができる
富山 例えば、あなたがイエス様のことを考えている場合、イエス様はあなたが自分のことを考えているのだなということが判るのでしょうか。
カント わかる。もしそうでなければ、たとえばイエス・キリストという人が、救世主としてこの世に生まれて、いま全世界からイエス・キリストを呼ぶ声が充ち満ちているはずである。もし彼があなた方人間のように一対一の存在でしかないものであるならば、全世界の人類で、彼を呼んだところで彼がおもむけるところは一つしかないはずである。しかしながら同時に複数、何十万、何百万、何千万という人が、イエス・キリストのみ名を称えているのである。イエス・キリストは一人にしてすべての人の願いを同時に聴き拾い、すべての人の願いに対して心、念を送ることができるのである。すべての存在に対して念を送るということは、念を送るその人に、或いは、アフリカにイエス・キリスト現われたり、日本にイエス・キリスト現われたり、願っている人、イエス・キリストを祈っている人のもとにイエス・キリストは在るのである。もしこういうことができないのであるならば、われわれの本当の救いということもあり得ないのである。この最高の極致が「神」である。
神はすべての場所、すべての心、すべての人間に顕れ得るのである。神があなたのもとに現われたら、他の処に現われないというものではない。そうでなければ、神の活動というものは、自由ではなく不自由である。非常に制限されたものとなる。
善川 そういう境地は、如来界以上の方でなければ実感出来ない認識であるように思われますが。
富山 たとえば先般「空海」という方をお招きし、いろいろお教え承ったのですが、この方が申されるには、普通の人が地上でこの方を祈っても、地上で呼んでいる衆生の声は聴こえない、と仰ったのですが、どういうことでしょうか。
カント なぜなら彼の念は地上にないからである。彼が地上の念を聴かんという念を持っておれば、彼、空海は、地上に現われ地上の声も聴くことができるが、彼は今それを認識していないのである。彼はいま自分がせんとすることが他にあり、そこまで振り向けようと思っていないのである。思っていないから聴こえないのである。天上界に居ながら彼らの声を聴かんとする自分を心に描いたときに、彼はその声を聴くことができるのである。
富山 たとえばそういうような状態の時でも、現在、たとえば何か本を読んでいる状態なら、その状態と同等に通じる同波長の念を送れば通じることができるのでしょうか。
カント できる ― 。ただ、通常の霊は、神ではないから普通複数の人間に呼ばれて複数の処に現われてこのように現象を起こし語るということは、なかなかそう器用なことは出来るものではない。本来そういう能力は持っているのだけれども、神に近づくほど、その能力は高まるのである。自由という意味が違ってくる。自由の能力、創造の能力というものは、本来のものに近づいてくる程そうなってくるのである。
富山 つまりそういうことになりますと、あなたが今現在、こうやって私達と話をして下さっているということは、あなたの方に、その話をしてもよいという意識があるからこのように存在していらっしゃるわけですね。
カント 現に私は、O川OOから先ほど思念を送られている。カント、カントという声を彼の心の中から聴いており、私は私の世界に居ながら、その声を既に聴いており、私が出なければいけないということを感じとっている。既にわれらの世界と同じであり、念は念を呼び、呼ぶ声が聴えるのである。
富山 つまりその呼ぶ念の性質が、本を読んでおられるあなたの念と同じだったというわけでしょうか。
カント わたしは行きたいという気が起こるのである。行きたいという気が起こらなければ私は来ない。現われて来ない。
11.カントの前名は旧約聖書の予言者ダニエル
善川 あなた様はカントというお名でドイツにお生まれになられましたが、前名は何というお名前であられたのですか。
富山 ちょっとお尋ねしますが、カントとして現われておられる場合に、あなたのお心の中のカントとして出られた部分、ということがお分かりになるのでしょうか。
カント そのことについて、例えばあなたは学生時代を送られたはずです。その時に、国語の勉強をし、英語の勉強をし、数学の勉強をしたはずです。しかしながら例えば、地理の試験があったとしましょう。一時間あったとしましょう。あなたの頭の中には英語や、数学や、国語の知識が詰まっているのです。しかしあなたは、地理の問題を解く時には、なぜか地理の答だけを書いている。それ以外のことは何も浮かばないのです。
カントの個性というのは、例えていうならばあなたがすべての勉強をしていて、地理の試験に対して地理の答を書いている。こういう作業なのであります。それを統合する、すべての科目を統合するものはあるのであります。しかし、地理に対して答えるもの、その中にあなたはちゃんと識別するものがあるはずです。地理の試験に対してあなたは数学の答案は書かないはずです。そういうものはちゃんとあるのです。あなたの頭の中にはあるのだけれども、出て来ない。地理の試験に対しては地理の答が出て来るはずであります。それをあなたは識別しているわけではない。頭の中ではこれは地理であるから、数学や英語は排除して、この頭の中から地理の部分を出して試験の答案を書かねばならぬと、あなたは認識していない。同じようなものであります。カントというものも同じようなものであります。
善川 最後に、あなたはカント以前のお名前は何というお方であられたのでしょうか。
カント キリスト教示の霊でした。
― ダニエル、ダニエルという声が聴こえてくる。
善川 旧約聖書中の預言者、ダニエル様ですね。どうも失礼致しました。本日は非常に深い哲理の一面をお教え下さってまことにありがとうございました。