目次
1.女性の幸せ
2.魅力的な女性
4.最善を尽くす人生
5.この世の愉しみ
6.人生の勝利の時
7.人生の真昼に
8.生命終わる時
9.極楽往生と念仏
10.地上の記憶
9.極楽往生と念仏(1986年7月28日の霊訓)
さて、本日は「極楽往生と念仏」についてお話ししたいと思います。念仏というとすぐ思い浮かべるのが、法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)ですね。詳しくいえば、空也(くうや)上人、法然、親鸞、一遍(いっぺん)上人などがいます。
あなた方現代人にとって、鎌倉仏教の知識がどの程度かは存じませんが、一つの一連の念仏行者たちは、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えることによって極楽浄土に往生できると説いたとされています。しかも、他の知識による悟りなど不要で、ただひたすらに阿弥陀仏にお願いすることをもって、すべてとしてました。
小桜は、「神霊界入門」のつもりで、この本を書いておりますから、この他力門、念仏信仰についても、意見を述べておかねばなりません。
さて現代で、仏教を学ぼうとする者で、「南無阿弥陀仏」を唱えることをもって了とする人はひじょうにまれでしょう。そのなぜまれなのかをお話ししたいと思います。
鎌倉時代は、釈迦の死後千五百年たったころで、ちょうど、正法(しょうほう)の時代、像法(ぞうほう)の時代(注・教えが形式化して中身がなくなる時代)を経(へ)て、末法(まっぽう)の時代となり、世の中は乱れ、釈迦の教えはまったく伝わらなくなるとされていました。このような時代ですから、ちょうど人びとは地上では生きる望みを失い、せめて、あの世だけでも地獄の苦しみから逃れたいと願っておりました。
こんな時代ですから、道元が説いたような禅のような、知的な悟りは、当時のエリート階級である武士階級には歓迎されたものの、庶民はとても、座禅のようなひまなことはやってもおられず、難しい哲学的理論をきいてもさっぱりわからないといった状態でした。
こうした庶民を救おうとする深い愛の気持ちから広まったのが、浄土宗、浄土真宗、一遍の時宗(じしゅう)などです。
確かに今のあなた方が感じるとおり、何万回念仏を唱えたところで、死後、如来界や菩薩界や神界へは行けるはずがありません。親鸞のように、仏法の深奥を極めたものが念仏を唱えるのと、何も知らずにただ念仏を唱えている人とでは、もちろん、死後行くところも違います。
ただ念仏のよいところは、人智を超えた大いなるものに帰依するという純粋な気持ちです。こうした純粋な気持ちさえあれば、死後あの世でも、守護・指導霊の教えを受け入れやすいのは当然です。つまり、本人としては何も悟ってなくとも、素直に教えを受ける心境になっているから、あの世に来てから救われるのが早いか、または、学習のスピードが速いといえます。自力の教え、聖道門(しょうどうもん)では、確かに正しい教えを学んで悟れば、まったくすばらしい境地が拓(ひら)けてあの世でも霊天上界へと昇ってゆくのは早いのですが、まちがった自力の教えを学んでしまうと、地獄で長い間反省をしなければならなくなります。
こうしてみると、まあ、これは小桜姫の新説といわれるかもしれませんが、念仏、他力門は、あの世へ行っても、浅い地獄か、低い天国へは入りやすい。まあ、そうそうぶれがないといえます。一方、自力、聖道門は、真実の仏法を学んで努力すれば、上は如来、菩薩。まちがえて誤った教えを妄信、狂信して狂奔(きょうほん)すれば、下は地獄の最深部までとなるようです。
そうですね、自分は何もわかりませんから教えてください、という程度の生徒はそこそこ教えやすいので、普通の大学くらいには入れるが、俺は自分のやり方で猛勉強するのだと頑張っている人は、超一流大学に入るか、落第して、そのうちどこかに消えてしまうかの違いともいえましょうか。
さて、では現代の宗教の状態をみてみましょう。念仏で救われるという考えは、「アーメン」と言えば救われるというのとほぼ同じでしょう。こういう教えは、よほど教育程度が低いか、よほどの病人か、よほどの罪悪の限りを尽くした人でなければ、なかなか素直に受け入れにくいと思います。
現代は、ひじょうに知的な時代ですから、アフリカや中南米では念仏宗がはやってもおかしくはないですが、日本や欧米では、完全他力のアーメン教はなかなかはやらないと思います。
やはりこの時代は、末法の最後の世であって、同時に、正法の打ち建てられる時代ですから、いちばん正確な神理を学ぶことのできる時機なのです。諸如来、諸菩薩が数多く出ているのですから、「南無阿弥陀仏」だとか「アーメン」とか言っているひまがあったら、肉体を持った光の天使たちに教えを乞(こ)い、その正しい教えを実践して、日々を生きるべきであります。
極楽浄土はあの世に非(あら)ず、この世そのものです。この世で地獄を生きて、あの世で天国に住むことも、この世で天国に生きて、あの世で地獄に住むこともありません。あの世で特別の修行でもしないかぎり、あの世でのあなたは、この世でのあなたの人格そのものです。
できるかぎり、この世に生きるときに、自分の心のなかに天国を、そして自分のまわりに天国を築いてゆくべきです。そのときにはじめて、阿弥陀如来は西方浄土におわすのではなくて、その身そのままのあなた自身の心のなかにいることを発見することでしょう。
10.地上の記憶(1986年7月29日の霊訓)
さて、地上は暑い日々が続いていますが、いかがお過ごしですか。小桜の世界は、暑くもなく、寒くもなく、ちょうど初夏のような五月の若葉緑のなかを散歩したりしています。
ところで、今日は、「地上の記憶」ということでお話ししたいと思います。あなた方、肉体を持っている人間は、過去の記憶というものがほとんどなくて、まれに、過去世を憶えている子供なんかいて評判になったりしますね。時には霊道を開いて、過去世の言葉で、過去世のことを話す人も出てきますし、現にあなた方のグループでも、何人かは、そういう人がいます。けれども、原則は、一般の人は自分の過去世を記憶していません。まあこれは、過去世のことを覚えていると、地上での肉体修行にさしつかえがある、というのが主とした理由で、忘れてしまうのでしょう。
同じようなことは、私たち天上界の人間に関してもいえるようです。地上を去って、大部分の人間は、いったん四次元の幽界に還ってきて、地上生活の垢(あか)や汚れを取り除き、人生のすべての心の曇りをはらすため、反省に励みますが、このときは徹底的に地上生活のあらいざらいを思い出さねばならなくなります。
しかし、その後、各人の本来の霊性、霊格に従った世界に還ると、――たとえば私でしたら、六次元神界に戻ってくると、地上のことはもうほとんど、思い出さなくなります。今の私に、地上時代の細々(こまごま)としたことを聞かれても、ほとんど忘れてしまっているといってよいでしょう。そのかわり、実在界での本来の私の魂意識が甦(よみがえ)ってくるといいますか、過去私が習得してきた、数千年、数万年にわたる霊的知識の宝庫が自分の自由になります。
こうして地上生活時代は、一〇パーセントの表面意識で生活して、九〇パーセントは潜在意識として眠っていたのですが、こちらの世界では、一〇パーセントの表面意識は、過去の記憶のなかに沈潜してしまい、残り九〇パーセントの潜在意識が、顕在化してきます。
これをわかりやすくいうと、私たちは、こちらの世界では、念(おも)い即行動であること、つまり、心で念ずることはすなわち、行為することと同じであること、祈りのパワー、神の光のエネルギー原理、一瞬にして空間を移動する力、何千キロ離れていても対話できるテレパシーカ、将来起こることが予知できる能力、数限りない神理の修得、こうしたすばらしい力を身につけます。
生きている人は、「心」とは、たかだか感情に毛のはえたものぐらいの気でいます。しかし実際は、「心」とは、「神」と同義なのです。心は、その神秘的な力を発揮してゆくにつれて、神のごとき力を発揮しうるのです。
イエス・キリストという人は、「この山動きて海に入れといわば、しかなるべし。」とおっしやっているそうですが、地上の人間でそういう力を持った人がいかほどおられたかは知りませんが、私たち神界では、そうした霊的力持ちはいくらでもいるのです。小桜のようなか弱い女性には、六次元にある山を海に放りこむような念力はとてもありませんが、こちらの世界でも、とても、心の力を発達させた長老格の人であれば、「山よ砕けよ」と一声発したならば、ほんとうに何百メートルもあった山が、ガラガラと音をたてて崩れ落ちるのです。「海に入れ」と言われたら、何メートルもある岩石の塊がゴロゴロと海にころげ込んでゆくことは、まあ、百聞は一見にしかずで、アッという間の現実です。
本来、人間の潜在意識には、それだけの力が秘められているのです。それなりに生きている人間はそれを忘れています。ほんとうにもったいないことです。
逆に私たちは、こちらの世界で、地上時代の記憶を忘れてしまうのですが、まあ、忘れてしまって損をするということはほとんどありません。小桜が生きていた戦乱時代のことなんか憶えていてもいいことは少しもありません、悲しいだけです。こちらの世界でも、人と話をしている際に、時々フッと、悲しい思い出のことが蘇(よみがえ)りそうになりますが、いったい、悲しい感じがするもとの事実が何だったのかはとても思い出せません。
それは、昔、足に怪我か何かして傷が出来たことがあって、完治して何年もしてから、川に足をつけようとして、一瞬ハッとするのだけれど、なぜハッとしたのかは深く考えないままに、水のなかにザブザブはいってゆく姿に似ています。このように、地上生活時代に悲しいこと、苦しいことがあって、心が切り刻まれるように思ったとしても、やがて傷口もふさがって、そのことを深く考えなくなってゆくのです。
こういうと、読者のなかには、完全に忘れてしまうような地上生活なら、魂にとって、無意味ではないですか、という質問をする人もいるかもしれません。
しかし、そうではないのです。地上の記憶は「出(だ)し」をとったあとの小魚のように捨てられるのですが、その「出し」そのものは、魂の奥底に深い味わいとなって残っているのです。天上界で本格的な魂の料理をつくるときに、地上でとれた濃い「出し」が、とても重宝がられるのです。