目次
1.人生の目的を知るには、まずあの世を知れ
高橋信次です。私も地上の肉体を去ってもうはや、十年以上皆様方とお話をしていません。こうしてまた、大川隆法らの力を借りて、また地上の皆様方にメッセージを送ることができたことを非常に幸運に思います。このメッセージを通じて、曽(かつ)て私の教えを学んだ者たちも、みんな私の現在の教えが、今どういうところにあるのか、また、私の本意が何処にあるのか、そういう所を掴みとって頂ければ、これに勝る幸せはありません。また、私も近々、或いはここ近々ですね、この日本の国に肉体を持った光の指導霊として、最近の状況の報告、イエス様とか、モーゼ様、ああいう方々が仰ることと私が言うことじゃ多少具体性が違うだろうし、また、それなりに近々経験した人間ですから、その深みというものがあると思います。
まあ、そういうつもりで私の話を聞いて頂きたいと思います。本日は「人生の目的と使命」こういう演題を頂きましたのでこれについて語りたいと思います。まあ、難しくなり過ぎてもいけませんから、皆さん頭の体操のつもりで聞いて頂ければいいと思います。
まず、人生の目的ということについてお話したいと思います。この人生というものを、まずどのように捉えるかということが肝心であります。人生というのを、よく哲学者の文章などを見て、人間はいろんなことを知っているけども、自分が何処から来るのかも、また何処へ行くのかも知らない。何処から来て何処へ行くかを知らない。そんなことで哲学者なんかは哲学的思索にふけっているわけです。
まあ、三木清という哲学者が居ましたが、三木清なんかも「人生っていうのは解らない。人間は何処から来たのだろうか、そして何処へ行くのだろうか、やはり魂なんてあるのだろうか。」こういうことを言って哲学者は一生を終われるんです。そういう意味で幸福ですね。ところが私たち、宗教家というのは、それでは済まないんです。
魂の存在、転生輪廻、こういうものを当然として、更にその中でどのようなものを掴み取っていくか。或いは、どのような説明をしていくか、そういう意味で、私たち宗教家というのは、本当の意味で心の世界を科学しているわけです。サイエンスなのです。ですから、あなたたちの地上界の科学というものは、この物質世界を僅(わず)か研究しているにすぎないんです。
ところが私たちは、多次元をも、包摂した世界を探究しようとしている宗教家ですから、宗教家というのは心の世界の科学者、まして、多次元世界の秘密を解明しているのですから、これは、現代の物理学者たちの最先端をも、超えているわけです。現在、物理学では、三次元以降の世界、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元、こういう世界があるらしいということは、数式でも分っているのです。現にあるということは。そして、そういう所で、どういう特色があるということも何げなく分っているわけなんです。分っているけれども、その世界について、行って見たことのある人が居ないから、うまく説明ができないんです。アインシュタイン以降、皆、分っているんです。ただ、その四次元以降のあるらしいという世界と、この三次元との関わり、或いは宗教家たちが言う、あの世、それとこの世界の違い、これがはっきり分らないんです。
ですから、まあ私も科学者であったし、そういうことで、そのことをできるだけ科学的に解明するということで、私の著書の中にも、できるだけ疑問追究、探究をしたつもりです。
けれども、あれだけでもまだ分らない。それでは高橋信次が、生身の体を捨てて、こちらへ他界して来たのですから、この立場でもう一回、この人生というもの、本当の人間の道筋、こういうものを解明したいと思います。
2.魂は、握一点、開無限の存在である
まあ、霊魂を信じている人、魂というものを信じている人でも、二通りあるんです。一つは何となく、人間は魂が母体の中に宿って、お母さんのお腹の中から出て来る。だから結婚、妊娠、出産、こういうことによって魂が作られる、と思っている人が居るんです。
作られた魂が、肉体に宿って六十年、七十年の人生修行をして、そしてあの世に帰って、あの世の一員となる。こういうふうに考えている人が居るんですが、これは不十分です。本当のことを知りません。
魂というのは、結婚して子供がお腹にできて、そしてできるわけではないんです。そこでできるのは、精子と卵子の結合、結合によって色々な分裂が起きて、細胞分裂が起きて、だんだん大きくなってきて、最初はオタマジャクシのような形をしていたのがだんだんヒヨコみたいな形になって、亀みたいになったりして、だんだん人間みたいになって、まあ系統発生というか、進化の過程みたいなのを、そういう形で表わしていますけれども、そういう形でだんだん人間のように成ってくるわけですけれど、それによって魂ができるわけはないのです。
肉体が最初、低級な形をとっているからと言って、魂がそれでできるわけではないのです。魂というのは、もう生れて来る前にちゃんとした成人となった姿で居るのです。ただ魂というのは、あなた方人間としての目で見ているから、この肉体を百六十何センチ、何十何キロというような、こういう肉体と同じ形のサイズで、魂がきっと入っていると思っているわけです。
こういう物質的というか、物体的な物として見ているわけですけれど、本来、魂というのは、そんな物じゃないんです。自由自在なんです。魂というのは、もう広がろうと思えば一キロでもニキロでも、或いは宇宙大にまでその広さを広げることができます。或いは握一点となります。
ですから握ってしまえば、米粒程にもなってしまうのです。こういう自由自在なものなのです、魂というものは。ですから高橋信次としての私の魂も、今、宇宙大に自分を拡げようと思えば、まるで神様と一体、神と一体になるような気特ちになることもできます。また、そこにある米粒一つ、そういうふうな小さな物になることもできます。極大から極微へ自由自在なのです。
ですから生きている皆様は、魂というものが特定の形をとっていて、物体として入ってくるのではないということ、これを念頭において頂きたいと思います。
ですから、魂というのは一つの想念体であり、エネルギー体なのです。いいですか、神のエネルギー体の分派なんです。分れたもの、その一つが魂なのです。だから魂があくまでも、例えば幽霊なんてあなた方よく聞くけれども、人間の形をとってるように見えるのは、生きていた時に人間としての記憶があるから自分はこういう姿だと思っているから、その姿をとっているんです。しかし実際はそんなもんじゃないんです。魂というのは自由自在、ガス体でも何でもいい。だから私が、高橋信次としての姿を良しと思えば、そういう格好して出ることも勿論、できるけれども、あんな不細工な男は嫌だ、と、もっと二枚目の映画俳優のような姿になりたいと思いさえすれば、そうなるわけなんです。これが魂なんです。
そういうふうに魂というのは、千変万化、自由自在のものだということをまず、これを頭において頂きたいのです。魂というのは、体積があるものでもないのです。もう握れば一点なんです。一つの点です。開けば無限です。こういうものです。いいですか、まずこの認識が大事です。
ですからあの世で、或いは、私たちから言えばこの世で、天上界において成人した魂であっても、肉体、五体に宿ればほんの小さな、こんな子供、赤ん坊の小さな、一センチ、ニセソチの赤ん坊の中にも宿ることができるのです。やがてこの意識が、その肉体と同通して、肉体の成長と共に魂も成長していきます。そして母体から離れて出産します。
後はあなたたちが御存知の通り、生きている人間として、幼少年時代、少年時代、青年時代、そして恋愛して結婚して、そして子供を育て大人になり、老いてやがて死んでいくという、こういう過程です。この間、肉体を持って魂は何十年かを連れ添うわけです。
ですから、まず人生の説明を私はしているんですけれども、人生の始まりというのは、そういうものだということです。決して結婚、妊娠、出産によって魂ができるものじゃないんです。
魂はもともとある、魂の認識としては、そういう自由自在なもの、無碍(むげ)なもの、融通無碍(ゆうずうむげ)なものが魂なのです。
3.魂は肉体意識と共に成長していく
それが、肉体意識と一緒に成長していく、そして人生経験を得る。そして七十年、八十年ですか、例えばこの世を去る時が来るんです。あなたも七十だとか、八十で死ぬかとか、長く生きても百で死ぬとか思ってますが、これは、しかし必ずしもそういうものではないのですよ。例えば、肉体生命だけみれば、昔は四百年、五百年生きた人も居るし、或いは一千年以上生きたという人も確かに居るんです。私はこちらの世界から見て、そういう記録、全部持っていますから分るんです。しかし現に今でも生きようと思えば生きられるんです。ただ魂の修行がこの段階で終わるんです。同一環境で、同一時代で、今のような時代といったら数十年すれば、一通りの勉強が終わるんです。
ですから、これで五百年、千年生きると、却ってまた、落第して行くんです。他の魂は、もう、五十年、六十年、七十年で卒業して、私たちの世界で新たな勉強しているけれども、この地上に長く留まり過ぎると、魂の修行が遅れて行くのです。そういう意味があって、みんなに遅れをとらないようにということで、皆さん平均寿命になったら死んで行くんです。それは肉体の限界と言うよりは、魂がそれを欲しているからなんです。
まあ、三界は唯心の所現、と言いまして、思いの通りの肉体になるし、あなただってそうだけど、心が二十代を保てば、外見も二十代になるし、五十代の心を持って居れば、皺くちゃ婆ちゃんになって行くんですよ。そのように影響が出て来るんです。そういうもんです。
4.最後の審判の本当の意味
そして死んであの世に帰って私たちの世界でまた、修行するわけです。その時に生きていた人間として生きた時に、合格点を貰った人、或いは、落第点を貰った人が出て来るんです。これが、イエス様が言っておられる最後の審判とはこれなんです。皆さん、クリスチャンの方々、最後の審判と言うと、何か世紀末になって、この世の終わりの時が来て、今まで修行した全ての魂が集められて、最後の審判にかけられて、「お前は地獄へ行け、永遠の地獄で火に焼かれろ、業火で焼かれて死んでしまえ」、そうでなくて、イエス様の言葉を信じて、神様の世界に入りたい人は永遠の生命を得て、最後の審判の時に、もうあの世で楽ちん、エデンの国で遊べると、こういうふうな考え方がクリスチャンにはあるんですよ。そうじゃないです。それは間違っているのです。
最後の審判というのは、一人一人に対してあるのです。所謂(いわゆる)、肉体を去る時です。これが最後の審判なのであります。まあ、決して地獄に閻魔(えんま)大王が居るわけじゃないんです。そういう人が居て測られるわけでないんです。けれども、自分白身の良心、良き心に真心、神なる意識、神様の意識が、これが自分の数十年の思いと行いを裁くのです。これは、なぜ裁けるか、それはそうです、そういうものがちゃんと入っているのです。生きている人間の中に入っているのです。教育され、色々な環境の中で生きて来たから分らないでしょうけど。本当は神様の物差しというのが、一人一人の人間の中に植え込まれているのです。ですから死ぬ時になると、これが自由自在になるから、この一メートルかニメートルの物差しを出して自分の心の成長度を測れば、一メートル以上いったら合格点、数センチなら不合格とはっきり出るんです。ですからあの世へ行く時、ちゃんと測られるわけです。
これはあなた、相撲取りの弟子入り検査と同じです。身長がいくらでしたか、一七三センチ、体重が七五キロか何か知らないけど、それ以上なかったらお弟子さんになれないとありますね。それで相撲取りになれる人となれない人とが居るんです。同じようなものですよ。あの世に行く時にそういった秤があるわけです。身長一七三センチ、体重七五キロ、なんていうと私からいうと、羨しいサイズだけれど、まあ例えばそういう基準があるわけです。そして、あの世で、天国行く人と地獄行く人と分かれるのです。
5.地獄は特訓所である ― 餓鬼地獄の実態
地獄へ行く人というのはあなた方、悪く考えるけれども、本当は訓練生なんです。訓練。要するに特訓です。自動車の免許なんか取っても、仮免許取るまでに何回も落第する人、居るでしょう。そういう人のために特訓コースが設けられているのです。これが地獄なんです。
地獄というのを間違っている人が居るんです。正反対の世界、闇の世界、そう思っている人がいるけれど、そうじゃないんです。地獄というのは特訓なんです。今でも「地獄の特訓十三日」なんてあるでしょう。まあ、これは冗談です。
地獄というのは、そういうふうに善悪ニ元で神様に対する悪魔の世界と考えるよりは、やはり特訓所なんですよ。だからこの世で悪戯(わるさ)をしている人が、一杯いるんです。そして自分は一番偉いと思っている。或いは自分が一番賢い、一番強いと思っています。じゃ、そういう奴ばかり居る所にぶち込んだら、どうなるかと、これも大変ですよ。俺より腕力の強い奴がいるなとか、俺より体の大きいのが居るわとか、なんと俺も意地悪いと思ったけど、俺よりもっと意地悪いのが居ると、こんな意地の悪い奴に比べたら、俺なんか善人だなあとか思います。色々と反省の材料があるわけですよ。似た者同士が集まっても、その大小色々あるから、そういう反省の材料があって特訓されるわけです。
地獄の世界というのは御存知のように「類は友を呼ぶ」ですから、まあ餓鬼地獄は、餓鬼地獄の霊ばかり集まっているんです。餓鬼地獄というのは、例えば満足できない人ですね。足ることを知らない人が居る所です。そうすると、人が自分に何もしてくれない。神様が自分を幸福にしてくれない。あの人が僕を苛(いじ)めた。全て、人のせい。一杯居るでしょう、あなたの回りにも。全て、人のせい。自分は悪くない、けれども自分はこういうふうでありたいと思うのに、その通りにならない。だから世の中が悪い、だから世間が悪い。こう思う、これが餓鬼地獄です。間違いありません。そうすると、そういう所へ行くと、そんな人ばっかり集まってるわけです。
例えば、高橋信次が餓鬼地獄に堕ちたとしようか。高橋信次としては、餅が十個食べたいと思っている。餅が十個食べたいが、餅を十個くれる人は居ない。自分は餅を三個しか持っていない。ところが高橋信次よりもっと悪い奴が来てですね、私の三個しかない餅を取り上げて行くわけですよ。
この野郎!俺が三個で不自由で、不自由でカッカカッカきていて十個何が何でも欲しいと思ってるのに、俺はお腹が大きいから、甘い物大好きだから十個位食べたいと思っているのに、実際は三個しかないので、不満を持っていたら、その三個さえ取り上げて行く奴が居るわけだ。鬼みたいのが出て来て、ひどいことするわけですよ。ああ、俺は三個、三個しかないと思ったのにこの三個まで取られてしまった。これは、とんでもない世界ですね、そしてカッーと頭に来る。この野郎! 俺の三個を取りやがって。向こうは向こうで、また思っているわけです。俺は五個欲しいと思っていた、それが二個しかなかった、高稿信次の大福餅三個取り上げて、これで五個になった。ああこれで僕は幸せ。なんて、相手のお兄さんは言ってるわけです。
だから、高稿信次、地獄へ堕ちた高稿信次はもう、たまらんわけです。もう許せん、この野郎、五個全部取り返してやる。取っ組み合いが始まるわけですよ。そして取った取られたと言ってやり合うわけです。こういうことを永遠にやっているうちに、だんだん馬鹿らしくなって来るんです。ああ馬鹿らしいな、と回り見渡したら鬼が三匹か四匹居ると、お前ら何個持っているんだと、大福を持ち寄って出して見て、俺三個、俺二個、俺一個と数えます。まあ、お前体大きいからちょっと多い方がいいよな。お前小さいから我慢しろよ、とこういう話し合いが始まって分けたりするようになる。そうすると、心がだんだん平安になって来るわけです。あれ!俺たち何していたんだろう、今迄餓鬼地獄って馬鹿なことしてたね、みんなで話し合って、分けて満足すればいいじゃないかと、要するに基準は公平だと。全員が思う程はないんだから、五個思う人は二個しかないし、十個思う人は三個しかないと、全員が思う通りないんだから、まあ思う通りないのはまあ仕様がないじゃないか、じゃ現にある物を集めて、これで公平に分配したらどうなるか考えてみようじゃないか、こういう時期が来るわけです。そして公平だという基準を知って、分け与えるようになるんです。
こうすると、こういう人たちはだんだん地獄に居なくなって、普通の人間になって行くわけです。そして天国へ昇って来るのです。これが餓鬼地獄です。
6.多くの現代人が堕ちやすい血の池地獄の実態
まあ他にも一杯あります。色情地獄なんてあって、あなたも興味あるかどうか知らないけれども、昔から聞いているでしょう。血の池地獄なんてあるんですよ。どういう人が血の池地獄へ行くか、不純異性行為ですか、不純異性行為をしたら行くと思っている人が一杯居る。まあそうかも分らない。不純真性行為がないのに行くわけないですね。まあ、あるのが前提です。あっても行く人と行かない人が居ます。
この血の池地獄、情欲地獄には、どんな人が行くかと興味あるだろうし、まあこの世の人たち、現代の人たち、良く聞きなさい。あなた方、皆さん、随分興味持っている筈なんです。地獄なんてないと思うけど、もしあったとしたら俺はここに堕ちるんじゃないかと、思っている人が一杯居る筈なんです。
情欲地獄、血の池地獄というのはあるんです。現にこれは、本当に生臭い世界ですよ。ブクブクと息もできない位、血をドロドロと飲んじゃって、ああ苦しい、もう窒息して死ぬかと思って、ハッとしてまた、気がついてまた血の池で這いずり廻っていると、そこに裸の男も女も居るわけですよ。ところが生きている時は、若い女性の裸ってこんなにも、いいもので、素晴しくて、最高と思っていたのが、何んと血の池地獄で、自分は血まみれ、向こうも血まみれ、で裸で這いずり眉っているわけです。何んでこんなに汚いのかと思って、ぞっとするわけですよ。それでも煩悩が消えない男というのは、裸体の女性が居ると追い掛けて行くわけです。地獄でも追い掛けて行くと、そしてワッと飛び掴んだと思って、ぐっと振り向かれると、口が耳まで裂け、目は欄々(らんらん)牙が生えて、何とも言えない臭い息を吐く女性なのです。鬼婆ですよ、綺麗な女性と思って抱き締めようと思ったら、何と鬼婆だ、頭には角が生える、ロは裂ける。そしてまあ、血はもう一杯だし、こんな気持ちの悪いものはないと思い、だんだんに悟るようになって行きます。そういうものに興味を持った人たちが、空しさに気づいて来ます。「俺は何をしてたんだろうか、俺はもう男女の交わりが人生最高の歓びと思っていたが、こんな汚いものだったのか、もっといい世界があるんじゃないか。」そういうことをボツボツ考え始めるんです。
そうすると「ああ、そう言えば昔、高橋信次なんていうのがGLAにいて、何んか偉そうに喋ってたな、確かあいつの話を聴いた時に、人間は肉体ではなくて、肉体は舟ですよ、魂が船頭さんですよ。魂が船頭さんで舟を操って川を下って行くんですと、ところが舟が自分と思って、舟が勝手に走って岩に打(ぶ)つかったりして砕けちやうと、こんなのではいけないんですよ。船頭さん、しっかりしなさい。と確か、あいつが言いおったな。とそうすると俺は舟なのかな、船頭さんなのか、待てよ、船頭さんとしての自分の意識を忘れていたのではないか」と気づきます。「ああいけない、やっぱり人間は生きて行く以上、肉体の思うがままに生きてはいけないんだ。やっぱり心で、心というもので確(しっか)りコソトロールしなければいけない。」こういうことを悟って行くんです。そうしたら、この人は地獄から出て行きます。
7.地獄の特訓所は自分の欠点を悟る早道
こういうふうに、それぞれの環境を用意されているのです。私は特訓の話をしているんですよ、間違わないように。それぞれの人間の一番過ちを起こした世界へ行って、似た者同士が居たら、いいですか、善意な第三者の立場で自分をなかなか見れないんです。だから自分の鏡みたいな人間、そっくりな奴が一杯回りに居ると、分るわけですよ。自分とそっくり、もう大福欲しい人ばっかり居ると、大福を求めているのが、どんなに馬鹿らしいことかが分ってくる。或いは、血の池地獄で裸体ばかり追い掛けていると、他の奴がやっている馬鹿らしいことを見て、こんな馬鹿なことをやっているのかと、やっと気づいてくる。こういうもんなんです。
ですから、皆さん、地獄というのを特別の世界と思ってはいけないんです。これは或る意味では、エリートコースなんです。まあ、普通の人間が本読んだり、人に教わったりして、やっと分ることを彼らは、特訓所にぶち込まれて、強制、特訓されて、あっという問に、あっとでもないけれど、あっという間が二、三百年だったりするけれど、まあ、彼らにとっては、一番最短コースなんです。地獄というところは。
それはそうですよ、あなたの欠点があれば、同じ欠点ばかり持っている人間ばかり集めて、お互いに何んですか、と勉強させれば、一番早く気がつきますよ。それを偉いお坊さんの話を悠長(ゆうちょう)に聴いていたら、いつまで経っても分らないんです。「やっ諸君、人間というのは魂であって肉体ではない、だから肉体ばかりに走っちゃいけない。だからいけないんです。心ですよ」なんて言われても「何んでですか、僕はあの女性がいいと思うし、綺麗だと思う、綺麗なものを手に入れて何が悪いんですか、いいじゃないですか」 「いや、しかし、あなたは妻子ある身じゃないですか」 「妻子ある身っていったって、だってあんなのは色々昔からありますよ。妻子があったって、妻子を路頭に迷わせなければいいじゃないですか。母ちゃんが知ったらそれは可哀相だけれど、知らない所でやる分には何、構わないじゃない、僕も嬉しいし、相手だって嬉しいって言ってるんだから。相手の人だって、是非、俺みたいな人と結婚したいって言うけれど、たまたま戸籍が入っちゃって、うちに母ちゃんが居るし、子供が居るし、できない。ただ母ちゃん子供に迷惑させない程度に俺が楽しむ分には、向うもハッピーだし、俺もハッピーだし、世界は全てバラ色です。お坊さん何が悪いんです」 「ま、これは何も悪くないですよ、しかし子供作って二人できてしまったらまずいでしょうが」 「子供さえ作らなければあなた心配ないじゃないの」と、こう来るわけです。
するとお坊さん困っちゃって「碓かに、それはそうだけど、まあ人に迷惑掛けなくて、本人が楽しむ分には、まあ悪くないかな」なんてだんだん思い始めます。じゃ、その先、行き着く先はどうなるかと見せられると、そこで初めて「はっ」と悟るわけですよ。そういうものなのです。
だから地上の皆様、よく聞きなさい。地獄もいいところですよ。地獄で特訓を受けるというのは、超エリートですから、一回行かれるといいですよ、話の種に。天国なんていうのは退屈なもんですよ。羊が草を食み、ライオンが昼寝をし、そんなんじゃ面白くありません。ライオンが羊を追い掛けてガブガブと血みどろで食べるような所見てた方が、それは刺激があるんですから、そういう地獄も一度は経験しなさい。ただ地獄が全てと思っちゃいけませんよ。天国も知っておきなさい。順に入っていれば、あの世で地獄に行ってもそこから抜け出すのが早いから、そういう意味で、私の教えを良く聞いておきなさい。
今、冗談まじりに言ったけれども、これ人生というのを私は説明しているのです。
8.人生を永遠の転生輪廻の中で捉えなさい
人生というのは、人間の六十年、七十年だけではないのです。そうじゃなくて、生まれる前、死んで後、これも人生だということです。そして人間の魂というのは永遠に転生輪廻(てんしょうりんね)を重ねて行っているんです。
地獄へ行った人は、さっきの大福の食べ方の勉強して、天国へ入ったら、また、色々な人に教わって適当な、元居た位の階層まで上って行くわけです。そこでまた、あの世で勉強することがなくなったら、じゃもう一回生まれてこようかなと、その時地上の環境も変わってるからまた、面白い、勉強できるんじゃないかと考えて、そしてもう一回生まれて来るんです。
こういうふうに人生というものは、永遠の転生輪廻を繰り返していて、人間は天国とこの世、地獄もあるけれど、あの世とこの世の間を行ったり来たりしているんです。まず、これは正しい人生観です。これがなければ全然分りません。
9.人間はすべて天国から生まれ変わってくる
それと、もう一つだけ言っておこう。私の本にも書いてあるけども、よく宗教家たちは、この世の人間を善人と悪人に分けちゃうわけで、善人というのは上の方で天国から来て、悪人というのは地獄から来ていると、こう思っている人が居るんです。特にクリスチャンに多いんです。イエス様の間違いか、或いは弟子が間違えたのか知らないけれど、イエス様の言葉でそういう悪霊に憑かれた人たちに随分厳しいことを言っているんです。お前らは下から来だ人だと、私は天から来た人、だからお前らとは違うんだと言いました。或いは、イエス様を迫害した人が一杯居います。モーゼの律法を信じている人たち、こういう人たちに対して、お前ら下から来たが、私は上から来た、だから違うんだ、なんて言ったから、あの人十字架に掛けられて最後死んでしまいました。そういうふうな差別心であってはいけないんであって、地獄からは、人間は生まれ変わってこないです、これは前提ですから、しっかり抑えて欲しんです。
特にクリスチャソよく聞いておきなさい。生まれつきの悪人は居ないんです。少なくとも地獄に堕ちていたとしても、最低限度の悟りを得て、人間が霊的な存在であるということと、悪いことよりは、いいことをした方がいいということの最低、この二つを悟った人、でないと生まれ変わって来ないんです。雲的存在であるということと、悪いことよりは、いいことをした方がいいという、この二つです。これが最低分った人でないと生まれ変わって来ないんです。
しかし、過去世の色々な業(ごう)というのがあって、色々な影響が出て来るんですけど、人間として生まれる時、優れた人と、そうでない人があるけれども、少なくとも、みんな悟った存在であることは確かなんです。それで生まれて来るのです。だから他人の見方も、そういうことですけれど、人を見て悪人と思うな、という言葉は結局、地獄から来たと思っちゃいけないと、そう思ったら。ユートピアはできないですよ。地獄から生まれ変わって来ているなんて思ったら、人類の半分とか九割は地獄の人になってしまいます。どうして。ユートピアができますか。みんな悪人で、心清き人は私と彼女だけ、なんて言ってたら、あなた、ユートピアなんかできませんよ、そうでしょう。
まず、人生というのを見た時、生まれ変わって来る時は、皆さん天国から来たんです、これをまず、知りなさい。ところが、人間として何十年か生きてあの世へ行く時は、天国へ行く人と地獄へ行く人が居るんです。
どうしてそうなるのか、良く考えてみなさい。そこで初めて、人生の目的と使命というものが明らかになるんです。だから目的というのは、今までの話を聞いて大部見えて来たと思いますけれど、人間の目的というのは結局修行なんです。人生の目的は修行なんです。
10.三次元世界創造の二つの目的
では、何故、神様はこんな三次元を創られたか、これが面白いですね。これはあなた方にも永遠のテーマになるでしょう。こんな肉体なんかに宿って、まあ、劇しているようなもんなんです。縫いぐるみを着て居るんだから、そうでしょ、これは重いんですよ、あなた。私は今軽くって本当に助かりますよ。体重計に乗ったって針が動かないんだから、これは軽いですよ。ところが一旦人間になって体重計に乗ると、体重七十五キロだ、八十キロだと言われて、医者からあなた十キロ痩せなさい、十キロ痩せないと死んじゃいますよ。なんて苛められるわけです。元々、僕たちは体重なんてないんですから、それを、たまたま肉体を持ったら、何が悪いんですか。体重くらいあったって、この際医者に言っておきたいけど、あなたどうでもいいことなんですよ。そういう不自由な入れ物に入って修行するわけです。
何んでそんなことをするのか、何んで不自由な肉体に宿って魂が修行するのか、これは、こういうことなんです。あなたは先程、私たちがガス体だなんて言ってましたが、まあガス体と言えばガス体だし、意識体と言えば、意識体なんです。意識体で生活している分には、自分たちが意識体だということが、なかなか分らなくなって来るんです。最初は分るけれど、だんだん自分たちの世界の素晴しさが分らなくなるんです。だから私たちは、飲まず、食わず、ひらずでやっているわけですけれども、飲まなくても、水を飲まなくても死なない、肉を食べなくても死なない、ご飯食べなくても死なない、不思議ですけれど、それが普通なんです。
ところが、そうした生活ばかり続けていると、それが不思議だということが分らなくなってくるんです。だんだん忘れちゃって、当然だと思っちゃうわけです。そうじゃないんですよ、そういうことも当然じゃないんです。これは、素晴しい神様が創られた世界なんです。人間が、そんなに幸福に暮らせるような世界を創って下さったんです。それが分るためには、一旦不自由な世界へ行ってご覧なさい。三次元へ行ってご覧なさい。三次元へ行くと大変ですよね。あなた方の毎日のご飯を考えたって偉い女性が、ご飯の準備をしたりしなければいけないわけです。こういう人生の、何というか無駄と言っちゃ失礼だけれど、必要な時間があるわけです。
或いは睡眠時間なんて言って、一日八時間普通の人は寝ています。ここに居る誰かさんなんか、一日十二時間位眠たりして、要するに人生の半分位、寝たままで終わっちゃうなんていう人も居るわけですから、こういう人たちにとっては本当に無駄な、辛い人生なのです。八十年生きてたって、四十年寝てたりしてるかも知れません。そういう不必要な時間というのは随分あるんです。
ところが、私たちは意識体だから、もう二十四時間、そんな時間はないけど、一日二十四時間、フル活動です。ところが、あなた方は八時間寝なきやいけない。残りの八時間は飯を食べたり、トイレに入ったり風呂に入ったり、そして正味働くのは八時間です。これは三分の一ですね、三分割と言って、やっているわけです。こういう不自由な世界に生きているわけです、これを知るわけです。
そして恋愛だって、「僕は彼女が好きだな、でも彼女は僕を好きかどうかわからない、どうかな、手紙を書いてみようかな」書いてみる、返事が来ない。「本当は好きだけど恥ずかしくて返事を書けないのかな。もう一度書いて見よう。あ、返事がまだ来ない。三通目、まだ来ない、じゃ電話掛けてみよう」電話を掛けたら母親が出て来て、「家の娘は今日は予定がございます」「ああ今日はあるんですか、じゃ明日は」「明日は友達とちょっとテニスに行きます」「じゃあさっては如何でしょうか」「あさっては風邪をひく予定です」「しあさっては」「しあさっては病気です、出れません」なんて言って、そこまで言われて初めて「どうやら交際許してくれないらしいな」と馬鹿な人は分るわけです。馬鹿な男はこういうことをやらなければいけない。
ところが私たちの世界では、私も行ったことがありますが、天人の世界へ行けば、女性なんかみんな美人なんですよ。綺麗な人ばっかり、あなたみたいな綺麗な人ばっかり、綺麗な人ばっかりだけれど、その人が、高橋信次に好意を持っているか、持っていないか、これは一目瞭然なんです。ピーピーと赤いランプが点(つ)いたり、ピッピッピッと黒いランプが点(つ)いたりするわけじゃないけど、見た瞬間にこの女は俺を嫌っているな、ああこの女は、俺よりもっと足の長いのが好きなんだとか、もっとハンサムボーイ求めているなということが、見たら一瞬で分るんです。だから失恋なんてあり得ないんです。向こうが好感持っていたら、直ぐ分っちゃいます。嫌いだったら、あっちへ行けって言うようなもんで、お互いに全然近寄らないんです。別の世界に住んじゃいます。そして好きな者同士が集まって来る、こういう世界なんですよ。これも非常な恵みたんです。嫌いな人と会う必要がない、好きな人とだけ会っていればいい。いい世界でしょう。
ところが、この地上を見てみなさい。お釈迦様も言っているけど、嫌いな人と会う苦しみ、好きな人とは別れる苦しみ、こんな苦しみに満ちた、どろどろの臭い世界なんですよ。こういう世界へ行って初めて、私たちの世界で、いいですか、高橋信次とばっかりお付合いできるような、素晴しい女性とか、こういう幸せがあるわけです。
ところが、この世に居れば、そういう女性でも、仕様もないのと、程度の知れた男性とも付き合わなければいかんのです。そういう苦しみがあるわけです。あなたにしてもそうでしょう。別にもてたいとも思わないような男性に好かれて、好かれたくない男性に好かれて、好いた男性は振り向いてくれない。こんな苦しみがあるわけです。
ところが、あの世は意識の段階だから、段階が違うと全然波長が合わない。自分と良く合う人ばっかり、これはいいんだけれど、素晴しいことだけれど、ある意味では、本人にとっては刺激が足りないんです。やっぱり芋を洗うような感じで、よくあるでしょう、桶の中に芋をぶち込んで、すり粉本入れてゴシゴシと、すり粉本掻き回すと芋が、芋同士当って皮がむけると、こういうのがあるけれど、この芋の皮をむく時でも、同じ大きさの芋であるよりは、大きさが違う方がいいわけです。大きいのがあり、小さいのがあり、長い芋あり、丸いのあり、とんがったのがあり、色々な芋があれば、コリコリとやっていると皮が剥けるんです。ところが、同じ大きさの芋ばっかりだと、なかなか皮が剥けないんです。そういうところがあるわけです。だからこの世というのを、そういうふうに不自由の世界であるということを、まず実感するという意味、これが目的の一つです。
もう一つの目的は、そういう芋で言えば、大小様々な芋、さつま芋でも何でも、じゃが芋の方がいいかな、じゃが芋が一杯詰っているからお互いに磨き易いんだな、同じ大きさの人間、つまり同レベルの人間とばかり話していたら、そんなに進歩しないんです。あなたが自分の守護霊と話してても進歩しないように、何故なら同じレベルだからです。あなたが考えるようなことは向こうも考えるし、向こうが考えることはあなたも考えると、全然進歩しないわけです。そして高級霊に怒られたりして、より高次元の人から見たら、自分は反省すべき点がある。下の人から見たら、あなたを神様のように考えている。こうなっちゃうから、次元が違うといいわけなんです。
そういうふうに、この三次元のもう一つの使命というのは、或いは目的というのは、様々な次元意識を持った人間が、共同生活ができるということ、ここにあるんです。
一つ目は言いましたように、物質界の不自由さを経験して、人間が霊であること、或いは、意識であるということの素晴しさを悟るため、これが第一の目的。第二の目的は、今言ったように様々な悟りの段階の人たちが、一緒の世界で生活することによってお互いに刺激を与え合う。
上の方の人は、上ばかりで居るから、そこの深さがどの程度か分らないんです。賢い人ばかり話してると、自分たちは普通の人間と思っているんです。ところが、世の中は、賢い人も居れば、とんでもないのも居るんです。ところが、その賢い人たちは、そのとんでもない人と会わないから、分らなくて自分らが普通だと思っているんです。賢くない人たちも同じようだのとばかり集まっているから、これで普通だと思っています。それより賢いのがいたらびっくりするわけです。一足す一は二が分るというのは最高レベルと思っている人が居ます。ところが、そんなのでなくて、非常に難しい、微分積分なんかが分る人が居ます。ところが、一足す一が二で最高レベルだと思っている人が、二足す二が四だと分っている人が居たら「あーすごいな大秀才だ」と言っているわけです。これじゃいけないんで、微分積分が分る人と、足し算、割り算が分る人と一緒に住ましてみれば、ああ色々な世界があるんだなということが分るんです。ですから、この三次元世界への目的は、そうしたいろんな人々を雑居させて、お互いの意識をみがく、そういうことなんですよ。