目次
9.神仏は崇るか
1.正義の教えは両刃の剣
今日はいよいよ第4章ですね。四日目になりまして、正義の時代ということについてお話をしたいと思うのです。現在はね、宗教を見てみると、とくに日本の宗教を見てみると、正義ということが忘れられているような感じがするのですね。まあ正義って何かというと、正しく筋が通っていることということですね。あるいは正しい者は要するに、屈してはならない。筋を通さねばならぬと、この世的にも勝利をせねばならぬということね。これが正義です。これが、今ちょっと薄れているかもしれません。
まあ正義というのが今、残っているとすれば日蓮宗系ですね。これはやっているかもしれない。日蓮さんの教え、過去説いたという教えに関しては結局、何と言いますかね、正しいのは、これしかないんだということで、他を折伏(しゃくぶく)する。説得して、それに改宗させると、こういうことを今だにやっていますね。連綿(れんめん)と七百年やっとるわけです。まあこれは、一つの正義の顕(あらわ)れかもしれません。
ただ正義ということはね、非常に難しいところがあるんです。この世的にいいものというのは、どれも諸刃(もろは)の剣、両刃の剣であって、いい面もあるけれど、悪い面もあるというところがあります。正義の持つ二面がまさしくそうですね。
いい面としては、本当に神理が正しいものを正しいとして、太陽のもとで認められると、太陽のもとに正しいものはこれしかないと、こういうことが明らかになるという意味でいいですね。
悪い面は、これが正しくて、これは間違いだというのは、非常にくっきりと、はっきりとなるために争いを呼びやすいと、こういうところがあるのです。これがあやうい面です。まあそういうふうにいろいろ見てくると、正義の悪い面も、いい面も両方ありますね。
2.かつて裁きの神エホバとして名を残した高橋信次
歴史的には、たとえばモーゼの時代、まさしく、これは正義の時代でした。正義の時代の神っていうのは、何かというと裁(さば)きの神でしたね。裁きの神ということで、ヤーヴェの神というのが出て来て、短気で怒リっぽくて、不寛容で、要するに言うことを聞かないと怒っちゃうと。まあ、こういう神様がおりましたね。
谷口雅春さんの霊言集というのが先般出たようですけど、谷口雅春という方は、大ベストセラーの『生命の実相』を書かれたり、いろいろな本を書かれているけれども、彼は昔、大昔から「エホバの神って、ありゃ邪神(じゃしん)だ」と言っておられたそうです。なぜ邪神か。「妬(ねた)みの神、怒りの神、こんなのおかしい。なんで神様が妬むことがあろうか。怒ることがあろうか」そりゃそうですね。宗教人の常識から言えば、そうです。ですから谷口さん、そう思ったんでしょう。
ところがあの世に来てみると、その妬みの神、怒りの神が、こっちにいましてね。「いやあ谷口さん久しぶりですね」と言って待っているのですね。「もしかして」なんていうとね。「あなたが邪神といわれた方は、この私なんですよ」「ああやっぱりそうですか。GLA起こした高橋信次。やっぱり邪神だと思ったら、ああそうですか。私も高橋信次って名前は知っていたが、これは邪神だと思っていましたよ」なんてね。こういうことを言われることがあります。
それはね、神理の一面だけ見ているから、そういうふうになるんであってね、別に谷口さんがどうこうっていうことじゃないんです。まあ、時代時代があるんですね。法というものも時代に合わせていろんな説き方をされるんです。そして神理のいろんな面が出てくるんですね。
3.イエスの時代は「愛の時代」であった
イエス様の時代には、つまり二千年前のイスラエルの時には、愛という点を全面に押してきましたね。愛という面ですね。イエス様は愛以外説けないかというと、そんなことはないです。もちろん何でも知っています。万能とまでは言えませんけれども。イエス様はそれは大工(だいく)仕事は知ってても、スペース・シャトルの組み立て方は知らないかもしれません。けれども、まあ彼の時代は愛ということを中心に説いた時代でした。
4.モーゼの時代は「正義の時代」だった
あるいはイエス様の千百年か千二百年前のモーゼの時代っていうのは、これは、正義の時代だったのです。正しい者が強くなければならぬという、正義の時代だったんです。あるいは「義」、「義の時代」だったわけです。
5.釈迦の「慈悲の時代」と孔子の「秩序の時代」
釈迦の時代って何か。二千六百年ぐらい前ね。釈迦の時代っていうのは、「慈悲の時代」、あるいは「法の時代」、こういうことなわけです。
あるいは中国の孔子様って何ですか。儒学(じゅがく)ですね。あるいは儒教。儒教って何だろう。立身出世なんてあるけれども、人間としての完成の道ですね。それを中心に説かれた。主に道徳的に、あるいは人間の知性と理性に訴える形での「秩序」、そういうものを説かれましたね。
同じく秩序を説かれたのは、日本だと古代の天之御中主之神、天照大御神様、こういう方がたが秩序と礼節ということをしきりに説かれました。
6.神理は七十二面体カットのダイヤモンドのように光を放つ
こういうふうに、神理は本当はいろいろな面があるんですよ。ところが、それをいっぺんに全部出しても分からないし、特色がないから、何か一つの特色を出すんです。その時代に。
出版社なんかでもそうですよ。今、日本に出版社何千あるか知らないけれども、みんな同じような本を出していたら、意味がないのです。それぞれの出版社に特徴があるから、それでいいんですね。
たとえば、こういう霊言ものでもそうです。ある出版社は本当に内容がいいような、諄々(じゅんじゅん)と説得するような内容のものしか出さないという出版社もあります。
あるいは悪霊専門でね。悪霊でもなんでもいいと。とにかく売れればいいと。悪霊篇でよく出している出版社もあります。
あるいは予言がやたら好きで、予言ばっかり出している出版社もあります。
こういうふうにいろいろあるのですね。霊的なものが好きといっても、こういうもんであって本当にいいのです。特色があってね、それぞれがやる意味があるんです。
だから私たちの法というのもそうで、いろいろな時代にいろいろな面が出てくるんです。ですからそれを、あるものは正しくて、あるものは間違っているなんて言ったら、これは違うんですね。そうじゃありません。
やはり、ダイヤモンドみたいなものでね。ダイヤモンドでもいろいろなカットの仕方がありますね。十二面体、二十四面体、三十六面体、七十二面体。私は持ったことがなくて知らないから、人づてに聞いたことでしゃべっているんだけれども。三十六面体カットとか、七十二面体カットとかいろんなのがあるんでしょ。持ったことがないのでよく分からないんですが、一度ぐらい手にしたいと思うんですけれども。そういうカットの仕方がある、と聞いています。
そういうふうに神理っていうのは同じようなものなんですよ。多面体なんです。そしてそれぞれの面が、いろいろな時代に、地域に合わせて、チラチラ出てくるんですよ。そして、その面を通してね、ダイヤモンドを感じ取りなさい。そういうことなんですよ。
そういう意味で、神理が七十二面体だとするとね、七十二面体の一つが、たとえば「愛」であり、「礼節」であり、あるいは「慈悲」であり、あるいは「義」であると。こういう一つ一つの面なのです。
あるいは里見ハ犬伝みたいなのを出してくりゃあ、「忠」だとか「孝」だとかいっぱいあります。昔からあるものは、「仁」だとか「信」だとかあります。こういうのが面なんです。こういう面がチラチラ出てくるんですね。
7.正義の時代のエホバは「偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)」を排斥した
じゃあモーゼの時代、つまり、正義の時代のエホバ神というのは本当の邪神であったか。これの検討に入らねばならぬと思います。そうじゃないんです。皆さんは、今の時代だからそう思うだけでね。当時はそうじゃなくて、非常に人殺しのはやった時代なのです。それと今もありますけれども、いわゆる邪教、本当に間違った信仰というのが多かったのです。
とくに人びとは偶像崇拝というのをやっていまして、要するに金儲けの神様です。今流に言えば、銭儲けの神様を一生懸命信仰しておったのです。まあバール信仰なんていうのもそうですけれども、分かるように言えば「招き猫」ですね。招き猫の信仰というのをやっておったのです。
皆さん今、招き猫の大きいのを、五メートルぐらいのを作ってね、これを本部にすえて、招き猫の前でみんなで右手なんか曲げちゃって、「はい、これが招き猫のポーズですよ」「これが正しい精神統一の方法です」と。
ご本尊の招き猫の前で、こうみな手を立てちゃって、「はい、これで商売繁盛です。儲かります、儲かります。招き猫です、招き猫です」と、これをやっとるわけです。とんでもないです。
こういうのを見ると天上界からエホバの神は、「そういう間違った信仰はやめなさい。招き猫なんか、いくら拝んだってあなた方、本当に正しい生き方できないんですよ。本当に神理っていうのが分かんないんですよ」と、そういうことを言ったわけです。「そういう招き猫なんかやめて、人間としてちゃんと働きなさい。汗水たらして朝から晩まで働きなさい。そして人とうまく調和しながら生きていく中に、人間としての繁栄があるのです。本当の発展があるんですよ」と。
だから招き猫は打ちこわして、捨てちゃって、猫の一匹や二匹飼ってもかまわんけれども、そうぃう猫におこぼれあげるくらいの収入を得るように、ちゃんと働きなさいよ。そういう招き猫を拝んで利益を得るよりは、あなた方日常生活の中で、日々コツコツと努力し商売し、他人との関係を調和しながら、立派になっていきなさい。それが最高ですよと。まあこういうことを教えたわけです。
その時にたとえば、こういうようにエホバ神はね、「我以外には神なし」と。「招き猫と我とは違うぞ」と。「諸君よ、招き猫の神は偽物(にせもの)である」と。「招き猫の神は捨てなさい。我以外に神としてはならぬ。拝んではならぬ。奉(たてまつ)ってはならぬ」と言ったわけです。じゃあこれは妬(ねた)みの神だから邪宗かっていうとそんなことはないですよ。
別に、招き猫と私は競争しているわけじゃなかったんですけど、そういうのはおかしいですと。招き猫のお化けなんか飾っちゃいけないのです。そういうことを言ったわけで、まあ、これを称して「妬(ねた)むもの」というのは勝手です。「妬むもの」というのは言い過ぎであってね、「我は排斥する者」と。要するに「我は悪しき者を排斥する」するという意味ですね。
ですから、寛容ということも宗教には大事です。けれども、かたや左側には高橋信次の肖像画をかかげて、右側に招き猫の、五メートルかね、実物大以上かね、招き猫のお立ち台か何かつくっちゃって、両方に手を合わせちゃったりして、こっちも正しい、あっちも正しいよ高橋信次っていうのは高電工業で金儲けうまかったけれども、他人に金儲けはあまり教えなかったと。そういったところで法に欠陥があると。そういうことで、招き猫の神というのは、その欠陥を埋めるに余りあるご利益(りやく)がある方たっていうんで、高橋信次の肖像に向いて、経典の「心行(しんぎょう)」なんか読んじやって、「大宇宙、大神霊、仏よ」なんてやっているんです。
そしてそれが終ったと思ったら、じやあ、ちょっと次は銭儲けの方をやらなきやって、チーンと叩きながら、「ハイ招き猫ね。今日は、これが目刺しの頭の残りですよ。これでご利益下さいよ」とやったら、やっぱり高橋信次の肖像画が、ガタガタガタガタゆれ始めてね、「こら、何やってるんだ、そんなことをしちやダメだぞ」と。「俺だってあなた、目刺しの頭ぐらい食べたいぞ。こっちへ持ってこい」なんて、やっぱり言うわけですよ。そして、「その招き猫やめなさい」なんて、言うわけです。まあ、これを妬みの神と言うか、目刺しの頭食べたいといって妬んだか、まあ言い方はあるでしょうけれども。
8.あの世から見れば邪宗(じゃしゅう)はすぐ分かる
まあ、こういうのは方便でありまして、やはり正しい信仰に帰依(きえ)しなさいということだったわけです。
私たちから見ると、つまりあの世から今の地上を見ると、邪宗、邪教というのはよく分かるんです、間違っているのは。とくに「光の天使」たちが指導している宗教というのは、これは、すぐ分かるけれども、光っていない「曇りの天使」たちね、頭が真っ黒になった霊たちが指導している宗教団体というのも、すぐ分かっちゃうんです。
だから本当は、正直な人間であれば、「それはちょっと違ってますよ」と本当は教えたいんですね。本当は教えてあげたいんです。「その教えは違っていますよ。そんな方に行ったら、あなた、もうトントントンと地獄のいちばん奥の方まで行っちゃいますよ。それでいいんですか」なんて、ほんとうは言いたくなるんです。
だからたとえば、私は天上界でも、新聞は非常に興味を持って読んでいるんですけれども、今日の読売新聞を天上界から眺めてみると、ある密教食をつくった宗教家が、薬事法違反で摘発されていました。そういうのを私は見てました。「オー、やったな。とうとう見つかったねえ」なんてね。
一時期十年ほど前から密教食ブームなんてあってね、これを食べれば念力がついてくるなんて言って、健康になって念力がついてきて、念力で護摩(ごま)の火がたけると。念力で大学に合格したり、彼女を射止めたり、念力で給料が増えたりいろいろすると。こういうことで、密教食を食べながら数珠(じゅず)をもんでたら、だんだん力がついてくると。まあ、こういうのを言っているところがあります。
こういうのをあの世から見てみたらいろいろ分かるわけです。「その密教食、薬事法違反にそのうちなりますよ」とね。まあそういう余計なことを言わなくてもいいんだけれども、「あんまり、そちらの方向へいって念力つけたって、下の方のチャクラばかり開いちゃって、本当の精神統一できませんよ」と。たとえば、あの世からエホバ神ならぬ高橋信次がお節介にも言うことができるんです。
ただそういった結果、どうなるかというとね、「あー、高橋信次は多分、密教食を食べたくてしょうがないのに、あの世で手に入らないので、それでひがんでいるに違いない」と。「高橋信次の墓の前に密敷食を持っていって、それをパックにして置いてやったら、多分喜ぶに違いない。時どき、一日一回、水をかえてやったら喜ぶだろう」と、たまには花の一つもかえてやろうか」と。「多分ひがんどるんだから、妬みの神だから」と。まあ、こういうふうにとる人がいるでしょう。そういうわけじゃないということです。
ですから、あの世から見てると、この地上の中で、おかしいのがよーく分かるんです。それを正直に言い過ぎると、妬みの神になっちゃうわけです。あるいは怒りの神になっちゃいます。
9.神仏は崇(たた)るか
あと、よくありますね、神仏が人を罰するか。天変地異っていうのは、神仏の怒りであるかどうか。これについても私は、答えとかねばいかんと思います。まあよく新興宗教でも多いですね。「うちの宗教を脱会すると、脱宗すると神の怒りにふれて、お前に祟(たた)りがあるぞ」と。いわゆる「崇り」ですね。
崇リの問題について、崇りは本当にあるかということをちょっとのべておきましょう。神仏、あるいは高級霊たちが崇りを起こすかというと、絶対、これはあり得ないです。私はこれをはっきり言っておきます。崇りはありません。
だから、たとえ、高橋信次のご遺影にね、お小水をかけたとしても、私は面白くないのは当然ですけれども、それで崇ってね、夢枕に出てきて、その人をこらしめて、あと腰か何かに取り憑(つ)いちゃって、腰がたたないようにするかというとそんなことはしないです。いくら何でも、私もそんな暇じでありません。
ところが、そういうことをする霊もあります。それは地獄霊たちです。とくに動物霊たちがそうですね。動物霊たちは、よく分かんないから、無礼をされたからとか、「あの野郎失礼を働いた」なんて、こういうことで怒ることもあります。よく社(やしろ)なんかありますね。お孤さんなんか祭ってあります。それで稲荷大明神を祭ってあるところに本当に稲荷大明神がいるかっていったらいやしないのです。そこにいるのはたいてい狐の霊です。
動物霊たち、それもたいてい餓鬼地獄(がきじごく)に堕(お)ちた狐の霊たちで、お腹空(なかす)かしているのですね。お腹空かして、ひもじいひもしい思いでいます。そして人が何とかしてね、油揚げでも何でもいいから奉(まつ)ってくれないかと思っているんです。彼らはもちろん食べることはできないけれども、油揚げを供養(くよう)するというような気持ちだけでね、それで満腹感が少しはあるから、それが欲しくてそういう大明神の社にいるんです。
で、そこに来ていろいろな人が手を合わせたり、ご飯持ってきたりすると喜んでいるわけです。
ところが不埓(ふらち)な者が来て、「何だこんな稲荷犬明神、こんなものあんた、信しんぞ、俺は」と言ってね、放言してぺーっと唾(つば)をはいて帰ります。すると稲荷大明神ならぬお狐様は怒っちゃいますね。「この野郎、俺に対して失礼なことをしたな。これは許せん」ちゆうんで、頭に取り憑(つ)いてきます。そうするとその人は、一晩寝ると、翌日あたりから頭が痛くて痛くてしょうがない。そして肩が凝(こ)って凝ってしょうがない。腰が痛い。こういうことになってきます。
ですから地上の皆さん、信仰している人も、していない人も、急に頭痛がしたり、頭痛持ちで、頭が割れるように痛い、あるいは肩がいつも重い、肩が凝る、こういう人というのはよく狐霊に憑かれています。よーく反省してみなさい。
そして腰が重い。あるいはリューマチね、足が冷える。こういうのは蛇の霊が多いです。とくに冷え性というのは蛇の霊が多いですね。冷え性の方はとくに蛇と縁がないかをよーく考えなさいよ。どこかの水神(すいじん)さんか何かに行って拝んだりしてないかどうか。こういうことがあります。
ですから崇(たた)るというのは要するに悪霊です。それも、そういう社(やしろ)とか、祠(ほこら)とかに巣くっている悪霊がほとんどです。だから気をつけなさい。高級霊はそういうことはありません。
10.天変地異は地球の生命体の自浄(じじょう)作用
あと、神仏が人類に罰を与えるかどうかだね。まあ結果としてね、罰に近いような現象があることはあります。それはあるんです。たとえば、ソドムとゴモラという都市がありましたね、悪徳の街、人びとが欲望にふけり、金儲けと淫欲(いんよく)、性欲にふけっていた街。神は、これを怒り、怒りの火で焼かれたと。死の灰を落とされたという記録が旧約聖書にありますけれども。過去を見ると不調和の都市というのがやはり沈没したり、火山の噴火で埋まったりすることはあったようです。ただ、これが神仏の怒りだというのは間違っているんです。そうじゃないんです。
皆さんにこういうことを言って分かるかどうかしりませんが、地球自体が一つの生命体なんですね。そして生きておるんです。生きておって、やっぱりいろんなものを感じ取る能力を持っておるんです。地球の生命体が。そうして、たとえばそこの中で、ある土地に行くとする。犯罪都市などのような、人びとが不調和な想念を持って生きている土地っていうのは、地球の生命体も非常にそこが病んでくるんです。非常に病んできて、何とかそこを浄化したいという気持ちが起きるんです。そうするとそういう浄化したいという気持ちが、一つの反作用となってあらわれるんですね。反作用となってね。それで地殻(ちかく)変動とか天変地異なんかになりやすいんです。
そのもともとは何かと言いますと、そこに住んでいる人のそういう不調和な想念、これがやはり原囚を作っているのです。人びとの黒い想念の曇りが神の光をさえぎり、その反作用として、たとえば大陸が沈没したり、そういうことがあるんですね。
11.アトランティス大陸沈没の真相
アトランティスという大陸が今から一万年ぐらい前にありました。ところが、そのアトランティス大陸が一夜にして沈んだということになっています。これは、歴史上の事実であります。どうして沈んだかっていうと、結局その末期のアトランティスにおいては人びとの心がすさんで、光の天使たちを次つぎと殺戮(さつりく)するような不調和な行為を起こし、その結果、地球の生命体、意識体が反作用を起こしたのです。そうしてその意識体が陥没(かんぼつ)を起こすようなことになったわけです。
こういうふうに地球自体が、自浄作用というものを持っておるんです。言ってみれば、徽(かび)かばい菌なんです、そういう人たちというのは。徽やばい菌が、いっぱい自分の表面についていると、地球だって時どきお掃除するのですね。そういうことがあります。
けれども、それは罰というよりは、やはり作用・反作用の法則なのです。大宇宙の法則なんです。ですから神仏は罰を与えません。しかし、そういう法則はあります。
12.本当の裁(さば)きの神とは個々人の内部神性
ですから、同じことが言えるのであって、正義の時代、正義の法というのも一緒です。裁きの神というのがあるのかというと、裁きの神ならそれができると言われているように、善悪を私たちは区別できます。善悪を分かつという意味での裁きの神というのはあるかもしれません。ただ本当の裁きというのは、人間個人個人が、自分自身を裁くんです。
これが分かるでしょうかね。皆さんは地上に生きている時にやりたい放題、したい放題の生き方をしていますけれども、死んであの世に還った時にみんな、裁きというのを受けるのです。その裁きは閻魔(えんま)大王が裁くのではないのです。閻魔大王が裁くなんて今だに思っている人がいるだろうけど、そういうのはたわごとです。閻魔さんは忙しいんです。地球には五十億も人間がいます。それを一つ一つ裁いておったら、もうとても書類がたまってしまい、今の日本の裁判みたいに十年ぐらいかかります。だからできないのです。
そうじゃなくて、やはり一人一人の心の中に、神仏の子としての神性、光の子としての自覚があるのです。これがあの世に還った時に、目覚めてくるんです。その光の子としての自覚が、自分自身の六十年、七十年の人生航路を裁くんです。その結果、不調和な行動が大きければ、その垢(あか)を落とすために、厳しい地獄界での修行にはげんでくるのです。
また光明に満たされた生活をしてきたのならば、その神性が自分自身の神の子の本質に適(かな)うということで、天国で素晴らしい生活をします。
13.人を裁くよりも彼らの良心を信じよ
こういうふうにあくまでも、一人一人の自分自身の中にある、善我(ぜんが)なる神性が自分自身を裁いていくのです。そういう意味で私たちは、あの世から善悪を裁くことはできるけれども、それは、あくまでも一人一人にまかせてあるのです。
だから地上の人たちも、これが正法で、これが悪法だといって、裁きたい気持ちっていうのがいっぱいあると思います。でもまあ神様は、どんな悪人に対しても、その人の寿命が来るまで待ってあげているでしょう。なんで放置してあるんですかね。悪人は人一人殺したらすぐ寿命を奪ったらいいじゃないか。それを奪いもしないで放置してあるでしょう。悪人が六十、七十、九十、まで生きます。何で放っとくんだろうと思う。やはり神様でもね、それだけ待たれておるのです。チャンスを与えてくれておるのです。そういうふうに、死んであの世に還るまでは、その人を裁こうとされていないのです。
であるならば 、地上に生きているあなた方もね、生きている間にあまり人を裁こうとするなということです。その人たちの良心を信じて、その人たちが良くなっていくことを祈ってあげなさい。そういうことで、正邪を分かつことも大事だけれども、悪法がいっぱいあっても、あんまり裁いちゃいけません。
そうじゃなくて彼らの良心を信じながら、自分たちの正しい行いを積んでいくことです。それが大事です。ですから刈り入れの時が来るまでは、神様は刈り入れされないのです。刈り入れの時までに毒麦が、麦の中に入っているかもしれないけれどもね、毒麦であっても、刈り入れの時まで神様は、刈ろうとしないのです。
だからそれをよく思い出して、あなた方も今、正義、正義といって正しいことは間違いないんだから、他のは全部罵倒(ばとう)するかというとそうじゃなくてね。刈り入れの時まで神様が待っておられるんだから、あなた方もそれを待って、ただ自分自身がたわわに稔っていくように努力していきなさい。
自分の畑、自分の田圃(たんぼ)を立派なものにしていくように努力していきなさい。それが、いちばん肝腎なことですよ。まあそういうことですよ。今日はいいかな。