目次
4.偉大なる魂の器
(一九八九年八月二十一日の霊示)
1.ヘルメス神(がみ)とオフェアリス神(がみ)
全智全能の神ゼウスである。
ひき続き、きょうも話をしてゆくこととしよう。前回までは、ギリシャにおける戦争の話をよくしたと思われるが、今回は、もっと内なる話をしていこう。
つまり、我が心の悟りとはどのようなものであったか、我が教えとは――、そのようなことを時間の許す限りお話ししよう。
さて、私はオフェアリス神(がみ)、ヘルメス神(がみ)の指導を受けたという話をした。そして、オフェアリス神は我と一体となり、そしてゼウスの神像を全国津々浦々(つつうらうら)に造れとおっしゃられた。そして、そのようなことをした結果、内乱が起き、やがて戦(いくさ)に進み、しかし、それをテコとして、逆に全国統一という偉業をなし遂げることができるようになったという話をした。
そこで、このオフェアリス神の通話、ヘルメス神の通信等について、さらに話をしてゆきたいと思う。
私が地上を去ってのち、学んだ事実によれば、というよりはもともと知っていたことでもあったのではあるが、我々が地上の人間の姿をとったときには、我らは一個の独立した人格のように見えるが、我らが魂は、実はもっと大きなものであって、その一部のみが地上に肉体を持つという事実を知った。
まあ、これは言ってみれば、このようなたとえが正しいかどうかは知らぬが、おまえたちも、畑にジャガイモというものを作ったことがあるであろう。いや、畑の畝(うね)の上に出ているあの葉っぱと茎を見ただけでは、土のなかにいかなるものが隠されているかはわからぬであろう。
しかし、その茎を手でつかんで引き抜けば、いや引き抜くことはむずかしいかもしれぬ、土を払いのけていくとするならば、一個の丸いイモが出てくる。そして、さらに土を払いのけ掘り進めば、二個、三個、四個と現われてくる。そうして、不思議なことに、そのジャガイモの一個一個は、独立しておりながら独立していない。その根においてつながっている。
さて、そうしたジャガイモなる植物を見て、これを一つといいうるか否(いな)か。つながっているものが、すべて一つとするならば、外に出たる葉っぱも茎も根っ子に生えたるイモもすべて統一体であり、一つである。されども、イモ一つひとつをとらえてみるならば、もちろんそれは独立したものであり、そのイモをバラバラに取り出して、他の多くのイモと混ぜてみたならば、いったいどれがどれであったかは、もはや判別しがたいものとなる。
およそ人間の魂というものは、このようなものであるのだ。根っ子においてつながっておりながら、それぞれが独立体として存在している。
しかし、考えてもみられよ。ジャガイモのたとえを出したが、もしカボチャのようなものしかないとするならば、これは不自由ではないか。カボチャはカボチャとして大きなものであるが、そのままでは取り出して食べることはできない。あのような大きさで、どうして食べようというのか。それは大勢でもって料理して食べるのであれば、食用には適するが、実際はそうではない。果実を見てもそうだ。イチジクを見てもそのとおり。リンゴを見てもそのとおり。すべて食用に適するがごとき大きさにおいて、実がみのっている。
そのように、適当な大きさであるということが、世の中の役に立つということになる場合が多いのである。
同じく魂の大きさにしても、ちょうど地上の生活に適する大きさというものがあるのだ。カボチャは、そのままではかぶりつくことができぬ。しかし、ジャガイモやリンゴやイチジクは、一個そのものを食することができる。およそ、このようなものだ。本来の生命体は大きくても、地上に出てくるのは、そのうちの一部だ。そして、永遠の、次から次なる魂の修行を重ねていくこととなる。
何を話さんとしておるかといえば、オフェアリス神とヘルメス神は別個のように現われているが、その実(じつ)は同じ生命体であったということを言いたいのだ。へルメス神は、今から四千三百年も昔に、ギリシャに生まれた方であるが、オフェアリス神は、さらに古く、それより二千年あるいは二千五百年は昔の方であったと言われている。
この両者のちがいがどこにあったかと言うことであるが、実によく似ている。ただ、あえて言うとするならば、オフェアリス神はやや霊的な能力に長(た)けているところがあり、ヘルメス神は、この地上的なる現実の処理に長けているところがあったと言ってもよいであろう。
ただその才能は、軍事においても政治においても、文学、芸術の領域にわたってもほぼ互角であり、あえて言うならばヘルメス神のほうが、この世に精通(せいつう)していて、この世の、まあ言ってみるならば、経済繁栄にかなり肩入れをした部分があったと言えよう。オフェアリス神は、その方面には、あまり深入りをしなかった。そういうちがいがあるといえよう。
2.ゼウス神殿での対話
ゆえに、我の指導に際しても、主としてオフェアリス神が最初のうちは指導をし始めたが、次第しだいにその指導はヘルメス神にとって代わられるようになってきた。我はこうした事実にかんがみ、我が宮殿のなかに祭壇を設けた。いや、祭壇というは、不確(ふたし)かであろう。もっともっと偉大なる建物であった。これはゼウス神殿とも言われた。
それは、おまえたちが現在知っているところの、ギリシャ建築にももちろん似ている。大理石の柱を四方から建て、その上に同じく大理石の屋根をはり、また大理石の石段を数多く造り、そこを上ってその神殿のなかに入るとみごとな祭壇を設けてある。
また、祭壇のなかはつねに清冽(せいれつ)な水に満たされていた。聖水が満ちていたのである。我はこの祭壇に向かいて、あるときは朝、あるときは昼、あるときは夕にひざまずき、そして祈ったのである。
すると、ヘルメス神はその輝くばかりの勇姿を現わされた。それを見ることができた者は、やはり限られた者であったが、私とか妻のヘラであるとか、そういう者が見ることができた。他の者どもは、おそれおののいて遠巻きに見るのがせいぜいであった。
我とヘルメス神との対話は、夜に行なわれることが多かったが、それは一日がひじょうに忙しかったからである。夜、祭壇にひざまずきてヘルメス神との対話を開始するが、ヘルメス神は、その姿を霊的に現わされることが多かった。
そうして、我に向かいて、さまざまな教えを説いたが、その教えの一つひとつは、まず日々の問題に対する的確なる指針であった。我は政(まつりごと)をなすものとして、日々に国民(くにたみ)の幸せを考えていた。日々に、国の軍事を、政治を、経済を、また文化、文明はいかにあるべきかということを考えていた。それゆえに、ヘルメス神は、現われるやいなや、しばらくたたすみ、我が目をじっと眺め、そしておもむろにロを開いては、「ゼウス神よ、おまえの今日の悩みはこのようなことであろう。これに関しては、このようにせよ。」と仰せられた。
ヘルメス神は、その内容において上下をつけ、選(え)り好みをすることはなかった。たとえ、その問題が私事(わたくしごと)にわたるささいなことであろうとも、また国の大きな国策に関する大所高所から見るべき問題であっても、的確に指示をなされた。
たとえば、このへんにヘルメス神の個性の特徴もあるのであるが、妻のヘラといさかいをした夜であっても、どのようにすれば、仲直りできるかなどを、事細(ことこま)かに教えてくれたものであった。
「おまえは、明日の朝一番に、ヘラ女神のところに花輪を届けよ。朝一番で、野から摘んできた花を届けさせよ。そうして、ヘラ女神をして、『何の花なの、これは。だれが私に届けたの。』と質問させよ。侍女(じじょ)は、かならず答えるであろう。『ゼウス様より』その一言が、おまえたちを熱(あつ)く結びつけることになるであろう。」
このような私事(わたくしごと)にわたることまで指導をなされた。
地上のおまえたちは笑うかもしれぬが、聖者の生活において、いちばん大切なことは、地上的なつまらぬ物事から解放されることであるのだ。つまらぬ瑣事(さじ)、そのようなもので悩みをつくってはならないのだ。
3.ヘルメス神(がみ)より学びしもの
もちろん、即答によって解決できぬような悩みもあることはある。たとえば、アフリカの何とかという王の軍勢が不穏な動きをしております、というような問題であれば、即断即決できる内容ではない。ヘルメス神(がみ)もそのようなときには、慎重であった。
「おまえは、まずあらゆる情報を集めよ。」というふうにおっしゃることが多かった。いきなり結論を述べるのではなく、「まず地上にあるおまえたちのやれるだけの、なせるだけの努力をせよ。」と仰(おお)せられた。
それゆえに、我は軍隊のあらゆる力を動員して、そのアフリカの軍勢の動きと、指導者の動きを、そして考え方を調べた。こうして一週間もたたぬうちに、さまざまに送り込んだ情報員が帰って来、その情報を軍議にかけて、参謀たちと相談し、そうしてそのエキスともいうべきものをつかみ出して、こうしてヘルメス神に問うた。
「このような考え方が出てまいりました。」そこまで努力をして、はじめてヘルメス神は指示をなされることが多かった。その指示のなされ方は、「第一の考えとしてはこうするのがよろしい。この考え方の問題点はここにあり。もし、現実に軍を進めていって、この地点においてつまずきが出たならば、第二案に切り替えるべし。第二案ではここまで進むであろうが、もしこの地点において、第二案がうまくゆかぬ場合には、第三案に替えるべし。」
つねに、ヘルメス神の戦略はこのようなものであって、縦横無尽(じゅうおうむじん)、臨機応変(りんきおうへん)であった。まさしく、変化(へんげ)自在であった。最初のころは、私にもとまどいはあった。神の託宣(たくせん)である以上、「かくばかり行なえ。かくせよ。」とのみ降りると思っていたところが、かならずしもそうではなかった。
それぞれの時間のなかで、場所場所において最善の戦略を取るというのが、ヘルメス神の基本的な思想であられた。それは、おそらく世故(せこ)に長(た)けた神であったからこそ、そのような考えもとられたにちがいない。
私は、「なにゆえに、ヘルメス神よ、あなたはたとえば、『船を何千艘(そう)集め、一直線にアレクサンドリアを討て。』とか、おっしゃらんのか。」と申し上げたことがあった。まあ当時アレクサンドリアという首都の名前はなかったのであるが、のちについた首都の名前で言えばそういう地名になるが、エジプトの中心である。それについてヘルメス神は、こう答えられた。
「おまえは、まだ世の中のことを、そして霊界の真実を十分に悟ってはおらぬらしい。我ら天の軍勢が加担するといえども、我らが仕事を邪魔せんとして努力している者もいることを忘れてはならない。おまえたちの軍勢の偏に正義がたっているとするならば、もちろん敵なる立場にある者には、不正義の旗がひらめいているであろう。しかしながら、『一寸の虫にも五分の魂』と言うではないか。彼ら不正義の旗のみもとにも、正義の輩(やから)も一応いるにはいる。」
「すなわち、先方に集った人びとのなかにも、天上の諸霊とおぼしき者から守護・指導を受けている者もおろう。このような者は、我ら九次元の大霊より大いなる命令が降(くだ)ったから、すぐに心服するというだけではなく、彼ら守護霊たちは、忠実な家臣のごとくであって、ご主人様をいかにして最高の立場に置くかということに心を砕いておるのだ。
それゆえ、まことに奇異な感じもあるであろうが、ちょうど地上において、将棋やチェスの試合をしているかのごとく、天上界の諸霊がそれを眺めながらコマを進めているのだ。ただ敵のほうが強いからといって、一戦も交えずに敗れてしまうということはなく、敵と一戦を交え、そして敗北をしてはじめて退くというかたちをとらざるをえないのだ。それは、地上人を守護している者、指導している者にも力の差があるが、彼らは彼らなりに最善を尽くすことがその任務であり、そして彼らの勉強にもなっているからなのだ。」
「残念ながら、エジプトの、攻められる側の守護霊をしている者は、不運ではあるが、しかし『敵にはヘルメス神がついているから一目散に逃げよ』と言うわけにもいかない。一目散に逃げよというインスピレーションを与えたならば、たちまち内部で虜(とりこ)になって処刑されてしまうであろう。さすれば、大きな戦の勝敗はいずれに決するとも、その命ある限り最善の戦い方をしようとするであろう。」
「また、それだけではない。敵軍のなかには、まっこうから、おまえの世界支配を、邪魔しようとする者もいるにちがいない。そのような者のなかには、あの悪神、いや悪魔と言い切ってよいであろう、悪魔の手先たちも数多く忍び込んでくる。いずれ、戦(いくさ)というものはそのようなもので、血で血を洗うときには、聖なる者にも悪魔が入り、悪なる者にはますます悪魔が栄える。戦場は悪魔の徘徊(はいかい)する場所となり、そのような戦場がいつの時代にもあるからこそ、地獄というものが繁盛していることもある。」
「私が何を言わんとするかといえば、ゼウス神(しん)よ、たとえおまえたちの心はしっかりしていてもワンパターンの戦略だけをつくっていくならば、敵にも霊的なる味方がついている、それゆえに、逆襲をかけられることもあるということを言おうとしているのだ。
ゆえに、あらゆるところで、臨機応変、即断即決の箇所を設けておかねばならぬ。時代を経(へ)ても悪魔の対策はいつもこのとおり。ひととおりの考えを持っていると、その屋台骨を揺るがそうとしてくる。そうであってはならず、臨機応変に陸から、海から、空から、海中から、地中から、ありとあらゆる戦術を動員していくときに、悪魔もこれを防ぐことはできなくなるということだ。」
「そうですか。ヘルメス神よ、ようやく我もしかとわかりました。」そう私は答えたものだ。
そのように、人間対人間の戦いだと思っていたものが、実は神と悪魔との戦いでもあったのだ。そして、アダムとエバという話もあったが、大昔より悪魔というのはずるがしこく、そして才知に長(た)けているところがあって、善良なる素朴なる善人は、ともすれば足をすくわれがちであることを知った。
とくに、戦のような場面においては、人心は乱れがちだ。自分のほうに勝ち目があると思うと勇み立つが、もし、敗北の色が濃くなると、いつ寝返るやもしれん。そうしたなかであるから、重要な家臣のなかに魔がいつ入らんとも限らない。それゆえに、最後の決断は自分の心のなかにおいておくしかないのだ。そういうことを我は学んだ。
すなわち、この地上というものは、単に人間の意志のみで動いているのではなく、霊的世界の大きな力によって動かされているのだということであった。
4.偉大なる魂の器
さらに、我が肝心であると思ったことは、人はなにゆえに悪魔に魅入られることがあるのかという原因であるのだ。思いふり返ってみるならば、我が心のなかにも魔がさしたことがあったのであろう。ふり返ってみるならば、突如として自分らしからぬ行動をとったこともあった。感情の起伏の激しきこともあった。また、我のみならず、我がまわりにいる者にも、そのようなことはよくあったように思う。
そうしたときに、投げかけられたひとつの言葉が毒矢のごとく体に突き刺さり、毒がまわったら最後、みずからが射返した矢も、いつのまにか毒矢に染まり、次から次へと放たれる矢がすべて毒に血塗られているような、そのようなこともよくあった。
不思議なことではあるが、愛している者に対して、傷つける言葉を言い、それによって傷ついた者は、また愛している者に対して傷つくような言葉を発する。言葉はまるで矢のようであり、人を傷つけ続ける。そのようなことはよくあったが、思い返してみれば、その言葉の毒矢は、実は魔の放った矢であったのかもしれない。
一日のうちに、心いらだち、そして穏やかならざるときは、むしろ沈黙するがよいという教えを我は学んだ。言葉を発し、行動を起こすことによって、多くの者が苦しみ、混乱し、その受けた傷がなかなか癒(い)えず、その傷がもとでまた反乱をし、魔の虜(とりこ)になる者もある。もとはといえば、魔のささやきを受けてみずからが放った毒矢の一本が命中したがゆえに、そのようになったのであろう。
さすれば、我は心得た。偉大なる大器となって、あらゆる不平や不満をも、そう、ちょうど大海のなかに小石が投げ込まれたがごとく、飲み干して、そして影響なきがごとき姿にならねばならんのだと。
水たまりのなかに小石が投げ入れられれば、小石の力は、それは偉大なものとなるであろう。しかし、大海原(おおうなばら)に小石が投げ込まれたからといって、いったい何人(なんぴと)がその事実に気づくであろうか。さすれば、心揺れず不動心のままに生きてゆくためには、大海原のような雅量(がりょう)が必要だ。そのような思いが必要だ。器(うつわ)が必要であるということであった。
さすれば、大海原のごとき心境をつくるためには、どうすればよいのであろうか。私は考えに考えた。そうして得たことは、まず一人ひとり、個人個人の関心事をはるかに超える関心事を持っていることにあると気づいた。まず私は全世界を関心においた。全世界を関心における人は、昔も今も数少なく、全世界を関心において、それをその手に収めんとしたときに、英雄が生まれるのだ。
我は全世界を関心においた。そして、その関心は世界のみではなかった。すべての人類にも関心が向けられた。そして、その関心はさらに、天界の神々にも向けられ、また魔界の者たちにも向けられた。我があるところを中心として、すべてのものを知らんとした。
なにごともすべて関心を持つということが最初であった。それゆえにこそ知ることができたのだ。あなたがたのうちにも、知らないということに悩む方は多いであろう。しかし、すべての出発点は興味・関心を抱くというところにある。
実在界に関しても、関心を持たねば学ぶことは少なかろう。神々を知ろうとすることが知ることへの早道となる。魔界の者もそう、なにゆえに魔が起き、魔が活躍するのか、それを知ろうとすることが、知るという果実を生むことになる。地上の人間の心も、その人間の心に関心を持つということが大事で、持てば次なる知識が与えられる。
およそ、どれほど多くの関心を持ち、それを追究しえたかということが、その人の魂の広さを示すにちがいない。大海原のごとき、そのような大きな器を持つためには、それだけ関心を広げねばならない。
5.全智全能の神、ゼウス
我が全智全能といわれた理由は、全智であるということは、世の中の原因・結果のすべてを知っているということなのだ。
あなたがたによくよく言っておくが、全智であるということは、記憶しているということではない。大宇宙に満てるものすべては、変転して限りないものだ。それは連鎖し、動き続ける。しかし、その流れを見たならば、つねに原因と結果があり、ひとつの原因はひとつの結果を生み出し、その結果がまた次なる原因となって、さらに次なる結果を生み出す。このような原因・結果の連鎖の法則が、大宇宙を貫き、地上を貫いている法則であるのだ。
ゆえに、目に映るものすべて、耳に入るものすべて、こうした事物やそれに関する知識に関して、その原因を語り、結果を語ることができる者こそ全智ということとなる。神の神なるゆえんは、すべてのものの起源を知っているということ。そして、その起源あるものが、次にいかなる形として移り変わっていくかを知っているということ。
ところが、変わるなかで川底に沈んでいるがごとき、個々の人間の魂は、我が上を流れる水はどこから来たりて、どこに去ってゆくのか。また、わが体にむす苔(こけ)は、なにゆえに我が体に寄食するのか。また、我が上を泳いでいく魚は、何という魚であって、どこから泳いでどこへ過ぎ去ってゆくのかがわからない。それが川底の石の悲劇である。
しかし、原因・結果のすべてを知った者は、川のなかで起こりうるすべてを知りえている。およそ、このようなものだ。原因・結果の連鎖を見抜くためには、一段と高い視点を得る必要がある。大いなる観点からすべてを鳥瞰(ちょうかん)し、そして上流から下流までのできごとを知る必要がある。
このように、我はこの世の成り立ちは原因・結果の連鎖にあると見た。そして、出会うできごとすべて、原因は何かを探(さぐ)らんとするにいたった。
部下に反乱が起きれば、その反乱の原因は何であったのか。その原因はたぶんこのような嫉妬(しっと)の心であったのだろう。そうであるならば、その嫉妬の心はなにゆえに起きたか。それは同じく私にとりたてられていながら、他方には名誉が数多く贈られた。他方には、数多くの領地が与えられた。このようなことであろう。
では、そのように差がついたということは、正当なことであるのかどうか。なるほど正当かもしれぬ。正当かもしれぬが、現在の値打ちを計るに際して正当であって、未来の値打ちを計るに際しては正当ではなかったかもしれぬ。そのように処遇に差をつけたが、未来に働く者のその気概を損ねてしまったとするならば、その部分に無理があったと言わざるをえない。
さて、そのまた先の原因を考えてみるならば、二人の部下なら部下の能力の優劣があったはずだ。この優劣をどう見ていったか。また、能力に優劣ができたその原因はどこにあったのか。生まれつきの頭のちがいか、生まれつきの性格のちがいか、生まれつきの体格のちがいか、それとも、人びとを動員する力のちがいなのか。
ある者は戦(いくさ)においてつねに勝つが、勝つ理由は、みずからが勇猛果敢(ゆうもうかかん)であって、率先垂範(そっせんすいはん)して他の者を引きつける者もあるが、みずからはそのようにすることなく、みごとに指示を出し作戦を立てて成功していくものもある。ただ、その勝敗の結果は、かならずしも各人の実力を正確に表わしているとは言えない。
もし、長(おさ)に立つ私が適材適所ということを心がけたならば、もっともっとちがった展開もあったかもしれぬ。さすれば、現実の結果のみをもって判断するは、まちがっているという考えもあるであろう。このように、我はすべてのものに原因を究明していった。そのような我の態度が、全智と言われたのである。
そして、全能と言われた理由は、分析した結果得た、その原因を探り出し、原因の究明をしたその分析を使って、その者をあるときは立ち直らせ、あるときは考えを直させ、あるときにはまた役柄を変え、そのように縦横無尽な人材の登用および異動を行なった結果、さらに戦力が増し、その戦果はあがり、人びとは、「ゼウス様は全智にあられるのみならず、全能の方であられる。」というふうに言うにいたったのだ。
およそ、人びとはそれほど賢くはない。結果を見て判断したがる。いずれの時代もそのとおりだ。指導者がたとえ偉大であるということを知っていても、個々の行動、命令などについては、人びとは素直には信じないものだ。結果がついてきて、はじめて声望、信望というものが高まってゆくものなのだ。
我が悟りについて話をするつもりであったが、いかんせん悟りの入り口で話が終わってしまった。また、次なる機会に話を続けよう。