目次
1.女性の幸せ
2.魅力的な女性
4.最善を尽くす人生
5.この世の愉しみ
6.人生の勝利の時
7.人生の真昼に
8.生命終わる時
9.極楽往生と念仏
10.地上の記憶
1.女性の幸せ(1986年7月20日の霊訓)
さて、本日は「女性の幸せ」という題でお話したいと思います。小桜も、神界に来てからすでに四、五百年はたったでしょうか。どうやら生きていたときの、女性としてのたしなみも忘れはじめ、厳しい修行の結果、やや男性的なものの考え方が身についてきたようです。
そこでもう一度心を新たにして、女性の幸せについて考えてみたいと思います。
みなさまご存じのように、宗数的な方面では、どうしても女性は主役になりません。どちらかというと、歴史のなかでは、悟りの妨げであったり、神理伝道の邪魔物であったりしたようです。そして、歴代の宗教家の考えでは特に釈迦仏教の考え方では、女性というものは物質的なことに心魅かれやすく、また業(ごう)が深いために、女人成仏はほとん
ど例外的なことのように考えられていたようです。
ど例外的なことのように考えられていたようです。
確かに、実在界に還ってきても、女性の霊で太陽界や(九次元)如来界(八次元)の方はほぼ皆無です。わずかに、如来界と同一視されているような女神様が二、三名おられるだけのようです。女性で菩薩界の方(七次元)もいらっしゃいますが、菩薩界人口の一割にも満たないといわれています。こうしてみると、女性というものは悟りにほど遠く、「女性の幸せ」とは、やはりこの世的な生き方にしかないものではないかと思われるむきも多かろうと思います。
確かに、毎日鏡台に向かい、アイシャドウを塗り、パタパタお化粧をして、ネックレスをぶら下げ、鼻の穴をふくらませて、「私きれいかしら」といっている現代女性の多くは、世の男性方から「お美しいですね」というお世辞の二言をかちとることを最大の幸せとしているのではないでしょうか。やはり女性はどうしても、女性として生まれついてよりこの方、「幸せ」の感じ方が、他人の判断、他人の意見によって左右されることが多いようです。
その根本の理由は、女性はやはり弱いからだと思います。女性は他人の評価を松葉杖にしないと生きていけない方が多いのです。言葉を換えれば、「自分一人で切り拓く幸せ」「主観的物差しによる幸せ」がなかなか納得されにくいのだと思います。
しかし小桜は、女性にもこの世だけに通じる幸せではなくて、あの世にも通じる幸せの物差しを持っていただきたいと思います。
そして、小桜の考えるあの世でも通用する女性の幸せとは、次の五ヵ条ではなかろうかと思うのです。
一、心の清らかさが、女性にとっての、最大の幸せです。
二、他人に十分に奉仕できた人生であることが、女性にとっての二番目の幸せです。
三、慎しみ深く生きたことが、女性にとっての三番目の幸せです。
四、できるだけ広く穏やかな心を築きえたことが、女性の四番目の幸せです。
五、明るく、肯定的に生きられることが、五番目の幸せです。
以上、五ヵ条をあげましたが、世の女性のみなさんは、この五ヵ条を紙に書いて目につくところに貼(は)って、毎朝読み上げてほしいものです。一、心の清らかさ……自分の心は濁っていないか、さわやかであるか。二、他人への奉仕……自分の愛する人、縁のある人びとへ尽くしているか。三、慎しみ深さ……自分は自己顕示欲のかたまりになっていないか、女性の慎ましさという美徳を忘れていないか。四、広く穏やかな心……自分は狭いものの見方をしていないか、何かにこだわっていないか、自分は感情の起伏が激しくはないか。五、明るく、肯定的に……自分はじめじめした考えをしていないか、愚痴ったりしていないか。前向きに物事を考えているか。
この五つのことがかなえられた状態こそ、女性にとって最高に幸せな人生であろうし、そしてその幸せは、三次元のみではなく、四次元以降のあの世にも続く幸せなのです。
ここで小桜が、本人の心がけによって感じうる幸せ、自分一人で切り拓く幸せをあげたことにご注意ください。「女性の幸せとは」という問いに対して、平凡な女性の多くは、「いい男性に巡(めぐ)り合うこと」とか、「よい子供に恵まれること」とか、「経済的に安定していること」とか、「美人だと思われること」など、他人の物差しで幸せを計ってしまうのです。どうか心の幸せこそが、ほんとうの幸せであることをお忘れなく。
2.魅力的な女性(1986年7月21日の霊訓)
昨日に引き続き、今日も女性について話したいと思います。今日は主として、「魅力的な女性」ということで考えてみたいと思います。
本題に入る前に断っておかねばならないことが一つあります。それは、「魅力的な女性」という題名自体が、「女性は魅力的でなければならない」という命題を含んでいるからです。では、なぜ女性は魅力的でなければならないのでしょうか。なぜ女性は、魅力的でありたいと願うのでしょうか。そして魅力的であるということは、ほんとうにすばらしいことなのでしょうか。
やはりこの問題を考えるためには、神様がなぜ、男性と女性をこの地上にお出しになったかということに遡(さかのぼ)って、考えてみなければならないようです。
神様がこの地上に女性をお出しになったとき、神様はやはり補助者としての役割を女性に期待しておられたようです。そして男性には、神様が創られた世界の歴史のなかで主人公となる使命をお与えになったようです。
そして、男性のためのよき補助者になるために、神様は女性に二つの注文をつけたようです。その一つが「献身的であれ」ということですし、他の一つが、「魅力的であれ」ということだったようです。
一番目の「献身的であれ」という注文は、男性の補助者としての役割を十分に果たしてもらうためです。二番目の「魅力的であれ」という注文は、経済的になかなか自立しえない女性の弱い立場に同情されて、女性が男性の庇護(ひご)を十分に受けられるようにとの親心から発された注文だったようです。
さて、以上のようなことを前提にして、現代のあなた方の時代で「魅力的な女性」について考えてみます。
現代女性の間の意識では、どうやら、「魅力的な女性」というのは、大体二つのタイプに分かれるようです。その一つが、異性である男性にチヤホヤされるような人目を引く女性です。いま一つが、仕事の面で、同性の目も、異性の目も引きつけるような才能の持主です。どちらにも共通するのは、昨日私がお話したように、他人の目を規準にして、魅力的かどうかが分かれるところのようです。
そして特に現代の傾向をよくよく見てみると「魅力的な女性」という定義からは、主婦族がはずれてしまうようです。主婦というのは釣り上げられた魚みたいで活(いき)がよくないということなのでしょうか。その結果、現代では「魅力的な女性」とは、男性にチヤホヤされながらも、結婚せず人もうらやむようなキャリアウーマンになったり、独自の才能で経済的に自立している女性のことをいうようです。
しかし小桜の目から見ると、こうした女性の大部分は、話し相手もなく孤独で、寂しい人生を送っているようです。そしてその孤独を慰めるためにも、精一杯羽振りのよいところを見せて、結婚前の同性の心を揺さぶっているようです。「ただの主婦になるなんて人生もう終わりよ。」「できるだけやりがいのある人生を生きなきゃ。」「女だって才能を生かせば、男以上のことがやれるのよ。」……云々こういった声で、適齢期の女性たちを迷わしているのが、世にいう「魅力的な女性」の大部分です。
ここで私は、古くからある問題、女性の社会進出ということに触れなければならないようです。現代ではどうやら、女性の魂の歴史のなかで、革命が進んでいるようです、というのも、世の中が変わり、社会が進歩しても、男性の魂はますます豊富な経験を積んで魂が向上するのに、女性の魂は、主婦業ばかりやっていたのではいっこうに進歩しないから、魂の進化を求める女性たちが、社会進出を望みはじめたからです。しかし、その結果は、かなり惨たんたるもので、反乱を起こしている女性の魂――つまり、本来女性に予定されている役割の殼を脱ぎ捨てようとしている魂のうち、もといた霊層より向上しているのは二割程度で、大半の方々は、もといた霊層より低い所か、地獄界に行っているようです。
私は世の女性たちに申し上げたいのですが、あなた方は、地上界に残した実績によって評価されるのではないのですよ。やはり、いかに愛深い人生を生きたかによって神様には評価されるのですよ。自分の勝手な生き方を押し通すことによって、「愛」の少ない女性になってはいませんか。仕事は二の次です。やはり根本は心です。いくら女性で総理大臣になっても、高収入のファッション・デザイナーになっても、愛のない、砂漠のような人生を歩んだ女性は、やはり地獄で苦しむことになるのです。
「魅力的な女性とは何か」、この問いに対し、小桜は自信をもって、いまお答えすることができます。「愛に溢(あふ)れた女性である。」と。
野に咲く草花でさえ、道を急ぐ人びとの心に「やすらぎ」という名の愛を与えているではありませんか。
ましてや人間として、女性として、この世に生を受けた身であるならば野に咲く草花以上に、世の人びとに愛を与える義務があるはずです。
女性の方々は、ともすれば、愛されることは当然だ、愛されることは権利なんだと考えがちなんですが、それは違っています。女性といわず人間は、愛される権利ではなく、愛する義務を負っているのです。
ですから、自己実現として、「魅力的な女性になること」を願うのはすばらしいことですが、その目的が、「より多くの人びとに愛されるため」であるなら落第で、「より多くの人びとに愛を与えるため」なら及第です。愛に満ち溢れた女性こそ、ほんとうにすばらしい、魅力的な女性であることを小桜は再度繰り返します。美しくなることや、職業を持つことや、世間の注目を集めることが、決して魅力的なことではないのです。
無尽蔵の愛の泉を心の奥に持つ女性こそ、真に神様の花嫁といわれるような聖女であり、女性の幸せの極致ともいえるのです。
3.女性のこの世での役割(1986年7月22日の霊訓)
さて今日は、「女性のこの世での役割」について話しましょう。前の二回のお話のなかでも、女性のこの世での役割についてはかなり触れたつもりです。ですが今回はあえて、この地上に居る心ある女性のために、ほんとうの役割、生き方を話してみたいと思います。
女性のこの世の役割とは何かを知るためには、女性の特長について考えてみる必要があります。女性は、体力的にも知力的にも、一般には男性に劣るようです。理性の面でもやや劣ることも否定できません。女性の男性に勝(まさ)る点といえば、感性の面、直感力、美意識、奉仕的性格、潤滑油的な面、辛抱強さ、ねばり強さ、現実的配慮、金銭感覚、同情心、優しさ、といった諸点だと思います。反面からいえば、神様は、男性だけの社会だとギスギスしたものになりやすいため、女性をこの世に派遣したともいえます。
神様の大切に思っておられる徳目のうちで、男性の魂が、真、善、正義を体現しているとするならば、女性の魂は、愛、美、優しさを体現しているといえます。もちろん、自分に欠けている面を補うべきだという考えには賛成を惜しみませんが、やはり、神様が長所を与えてくださっている以上、その長所をどこまでも伸ばしてゆくのが考えの筋だと思います。
どうやら小桜の基本的な考え方がおわかりになってきたようですわね。やはり私は、女性のこの世での役割も、心の問題を主として考えてゆきたいと思っているのです。
つまり、小桜の考えでは、女性はこの世で次の三つの徳目を最大限に発揮すべきであるという役割を担っているのです。
一、女性は、神様がこの世を潤すために派遣された〈愛の使者〉であり、一人ひとりが、〈愛の泉〉として、この干からびた地上を旅ゆく人びとを潤(うるお)さなければならない。
二、女性は、神様がこの世を装飾するために派遣された〈美の使者〉であり、この地上を少しでも、美しい環境に変えてゆくための〈美の体現者〉とならねばならない。
三、女性は、神様が、この地上を旅ゆく人びとの魂を憩わせるために派遣された〈優しき天使〉であり、人びとの心の傷を癒す〈看護婦〉でなければならない。
以上に簡単に述べましたように、私は女性というものは、どのような環境、地位、職業にあろうとも、〈愛の泉〉であり、〈美の使者〉であり、〈優しき天使〉である必要があると思います。
ここまでお読みになってもうお気づきかとは思いますが、愛と美と優しさは、この地上を天国、ユートピアとするための、ソフトな面での役割だということなのです。
これに対し、男性の方々が、地上をユートピアにするために、神理を広め、悪と闘い、神の国の地ならし、建築というハードな役割を担っているのです。
結論めいていえば、結局女性のこの世での役割も、ユートピア建設の一端を担うことであり、そのために女性らしさ、女性にとってもっともっと武器になるものを手にとって、戦うということなのです。
〈愛〉と〈美〉と〈優しさ〉の天使、それが女性の天職としての役割なのです。
4.最善を尽くす人生(1986年7月23日の霊訓)
今日は、「最善を尽くす人生」ということに関してお話ししたいと思います。
あなた方はよく「人生の時間というものは金貨のようなものだ。その金貨をみすみすドブに捨てるような馬鹿げたことをしている。」とか、「人生の時間というものは、公衆電話の硬貨のようなもので、一分ごとに落ちてゆく。」とかいう比喩で、人生における時間の大切さを教えられています。
確かに人間の人生とはすべて時間の連続体であり、その連続のしかたをみて、ある人の場合は幸福な人生、また別の人の場合は、不幸な人生とかいう結論づけがなされているようです。そして、私たちの人生は、一日一日の連続体ですから、結局一日一日を最高に生きることこそが、人生の幸福への近道といえそうです。
これをキリスト者たちは、「一日一生」という言葉でよく表わしますが、この意味は、今日が自分の人生の最後の一日だと思って全力を尽くしなさいということなのです。
一年先、五年先、十年先の計画を立てよといわれても、人間の人生は不可視であり、なかなか見通しを立てることはできません。けれどもどんな愚かな人間であっても、その日一日ぐらいの予定は立てることができます。
こういうふうに考えていくならば、一日のサイクル、〈計画―実行―反省〉の二十四時間の連続体がその人の人生のすべてなのです。
毎日、毎日の生活のなかに〈計画―実行―反省〉を持ち込むことは、それほど難しいことではありませんが、それを維持してゆくことはかなり難しいこと、いわば非凡なことです。
けれどもよく考えてみてください。なぜ「一日一生」の具体化のために〈計画―実行―反省〉ということをするのかを。結局のところこれは、生活の質を高めるための努力なのです。毎日毎日の生活の質を着実に高めていく、そういったことを努力している人と、そうでない人との間には、埋めがたい溝ができるでしょう。そしてこの溝の幅こそが、その人がいかに傑出した人であるかを示す指標なのです。
より質の高い人生、より非凡な人生への試みこそ、最善を尽くす人生だといえましょう。
5.この世の愉しみ(1986年7月24日の霊訓)
さて、今日は、「この世の愉(たの)しみ」ということについてお話ししたいと思います。私たち、すでに何百年も前に他界した霊たちの話を聞いていると、この世というのは、とかくつらい修行の世界で、一歩踏みはずすと、奈落(ならく)の底の地獄に堕(お)ちてしまうような錯覚におちいってしまいます。
けれども神様は、決して人間を監獄に入れるようなつもりでこの地上に送り出されたわけではありません。神様は人間をこの地上に送り出すにあたって、「しっかりと魂の修行をしてくるんだよ。そして地上にもいいところがあったなら、地上の醍醐味(だいごみ)は満喫してきなさい。」そう言っておられるのです。
霊界のことを、実相の世界であり、永遠の世界であることを強調するあまり、この世をまったく不浄で、監獄のようで、少しでも早く離れるにこしたことはないような言い方をする人もおりますが、そういう考え方は、あまりにも狭いものの観(み)方だと思います。やはりこの三次元には三次元のよいところがあるのであって、そのよさを見出してゆくことも、学習の一つだと思います。
ほら、修学旅行というのがあるでしょう。あれです。旅行としての楽しみはもちろんあるのですが、先生がいるし、規則がうるさいので、なかなか個人個人の思うままにはいかない、あの修学旅行に似ています。修学旅行の目的は何かと問われたら、「広く見聞を広め、学生としての規則正しい集団生活を学ぶため」などと公称はされるでしょうが、その実、旅は旅としての愉しみはあるのです。自由行動時間というのがあって、まったく他の人にはないような貴重な体験をしたり、夜、消灯になってから、悪戯話(わるさばなし)に花を咲かせたり、枕投げを始めたりで、とても愉しい時間もあります。
こういう時間を、まったく学生の本分からはずれるものだと目をつりあげるような学生がいたら、ちょっと堅物(かたぶつ)すぎるのではないでしょうか。堅物といえば、そうだそうだと頷(うなず)くあなた方ですが、それは決してほかの人のことをいっているのではありません。光の天使であるあなた方は特に気をつけなければならないことなのです。「天使が地上に降りると悪になる」という西欧の諺(ことわざ)があるそうです。
天使といわれる方々はともすれば、天上界の意識そのものでこの地上の生活をしようとします。すると、あまりにも厳格で、あまりにも、清い生き方をし、しかもそれを他の人びとに押しつけようとするため、地上では「悪」となる場合があるのです。
ある人は金銭感覚が異常に潔癖で、お金を悪だと思っている。ある人は、男女交際に異常に潔癖で、むしろ、異性の存在を悪と見てしまう。その結果、その人を親にもつ息子や娘は、結婚適齢期になっても異常にストイックで、独身のまま生涯を送ってしまう。ある人は、地位欲や名誉欲を異常に嫌い、「下座(げざ)の生活」を〈是(よ)し〉とするあまり、他人にも便所掃除や草むしりを強要する。
キリスト教などもいい例で、ある偉い人が、「自分は罪の子だ」と懺悔(ざんげ)しはじめると、他の下々(しもじも)の人も、「罪の子」だと思わないと許してくれなくなる。ある人は自分が反省で悟ったら、他人にも反省を強要する。ある人は自分が座禅で精神的迷いをふっ切れたと思うと、他の人にも座禅以外では救われないと強要する。どの人もどの人も、あまりにもピューリタンであるために、この世的には存在悪になってしまう例です。確かに天使の性質のなかには清らかな点、ピューリタン的要素があるところは私も認めるし、それも大切だと自分自身説きました。
けれども、今日私がいいたいのは、旅に目的があるからといって目的を強要するのも結構ですが、目的ばかりにとらわれて、途中の景色を愉しむのを忘れてはいけませんよ、同じ車中に同乗した人びととの会話を愉しむことを忘れてはいけませんよ、ということなのです。もちろん光の天使の使命は、あてどない旅をしている人びとに、人生の目的と使命を教えてあげることですが、かといってご自分がその旅を愉しむことを忘れるほど、窮屈な片肘を張った生き方をしてはいけませんよ、ということなのです。
言葉を換えていうならば、人生にはゆとりと余裕も必要ですよ、先を急ぐあまり、この世の花を見落としては損ですよ、そういうことを私はいいたいのです。
あなた方は、今後神理伝道のために全力を尽くすのでしょうが、私はあなた方の人生は、あなた方の人生として、光り輝いているものであることを祈っています。
転生輪廻はあるとしても、同一時代、同一環境に生まれることは二度とありません。神とともに、他人とともに、そして、自分自身とともに歩むようなすばらしい人生であってほしいと思います。
6.人生の勝利の時(1986年7月25日の霊訓)
さて今夜は、「人生の勝利の時」ということでお話をしたいと思います。
人間が七十年、八十年の人生を生きてゆく時、さまざまな浮き沈みがあります。私にしても、わずか数十年の人生のうちで嬉しい時、悲しい時、いろいろありました。けれど今にして思えば、嬉しい時も悲しい時も、私の人生という名の機(はた)を織るための、それぞれ縦糸と横糸だったのだなと思い至るのです。
私はいま、あなた方からみれば、はるかかなたの六次元神界の最上段階から、この三次元の人間のさまざまな人生模様を眺めています。私の目からみていると、地上の人間は、なんと無知で、なんと盲目で、なんと怖いもの知らずで、なんと衝動的な生き方をしていることでしょう。街の盛り場を、何か面白いことでもないかとアロハシャツを着て歩いているチンピラ風の青年。「恋のアバンチュール」という言葉を頭に思い浮かべながら、「この夏は信州へ行ってみようかしら」と新しく買った赤いハイヒールのかかとを気にしているOL。また上役に叱られて、赤提灯をくぐっている若手社員。首に包帯を巻いて「何かよく効く神霊治療家でもいないかしら」と、新宿の紀伊国屋書店で、高橋信次さんの本やあなた方の「天照大神の霊言」をパラパラとめくっている中年の女性。
どの人もどの人も道ゆく人びとは、人生の真実を知らず、人生の何たるかを知らず、人間がどこから来てどこへ去ってゆくのかも知らない。ほんとうにどういったことが、価値ある仕事で、ほんとうにどういった書物が、価値ある書物かも知らない。道ゆく人びとは、一陣の秋風でも吹けば、カサカサと音を立ててころがってゆく枯葉のような存在にも見えます。
人びとよ、あなた方の一人ひとりをはるかかなたから見おろしている私たちの存在に気づいてください。神様は決して、あなた方を孤独な迷い子にはしていないのですよ。あなた方の一人ひとりが迷わぬように、幸せな方向へと進んでゆくようにと、祈っている私たちがいるのですよ。神様はあなた方が迷わぬようにと、あなた方一人ひとりに、守護霊を付けておられるのですよ。不幸の時に、悲しみの時に、人生の苦難の時に、なぜあなた方は、自分の守護霊に助けを求めないのですか。なぜあなた方の守護霊に悩みを打ち明けないのですか。あなた方が、川で溺(おぼ)れそうになっている時に、あなた方の守護霊は必ず、川岸に駆け寄って、「さあ、この手につかまりなさい」と手を伸ばしているのです。その守護霊の差しのべた手を川のなかからしっかりとつかみなさい。水のなかでもがいてばかりいないで、しっかりと手を伸ばして守護霊の手を握り返しなさい。その神の愛に満ちた暖かい手を、あなたの凍(こご)えた手でしっかりと握りなさい。いくらあなたの守護霊や、私たち高級霊が、あなたを助けようとして何人もが手を差しのべても、あなたご自身がその救いの手をはねのけてしまっては、どうしようもないのですよ。
地上の迷える人びとよ、よく聞きなさい。神様は決して、私たち守護・指導霊に、地上にいるあなた方が、善人だから救え、悪人だから救うななどとは言っていないのです。よいですか、間違ってはいけませんよ、神様はすべての人を分け隔てなくお救いになろうとしておられるのです。どんな悪人だって、喜んで救おうとしておられるのです。
地上で、頭だけで宗教を学んだ自力論者は、「神様は、自分の心と行ないをよく反省して悪いところを取り除いた善人を救って、悪人は救ってはくださらない。救ってほしかったら、十分悪かった思いや行為を反省して善い人にならなければ……」そう思いがちです。でもこれは違っています。神様は万人を平等に救おうとしています。神様は私たちに、善人であれ、悪人であれ救えと命じておられるのです。
もちろん、川で溺れている人が救われるためには、私たちの差しのべた手を握り返すことが必要です。これだけが必要とされている自力なのです。私たちが救いの手を差しのべているのに、頑強に、私たちの助けを拒否して、水の中に沈んでゆく人たちもいるのです。私たちは涙を流して溺れていった人たちのために悲しんでいます。私たちの涙をわかっていただけますでしょうか。あなた方は、とめどもなく流している私たちの涙の味がわかっているでしょうか。私たちは難しいことは言いません。どうか苦難のときには、神をふり返ってほしい。私たち守護・指導霊の存在に気づいてほしい。私たちが差しのべている救いの手に気づいてほしい。私たちの救いの手をどうかはねつけないでほしい。私たちを信じてほしい。私たちを頼りにしてほしい。私たちがあなた方に要求する自力は、ただ私たちの手を握り返すことです。
私たちは、水泳の達人を助けようとしているのではないのです。水泳の達人は、私たちが助けなくとも、自分で岸にはい上がります。そういった優れた人は自分で神の道を切り拓(ひら)けばよいのです。ただ私たちが日夜心を傷めているのは、溺れかかっているあなた方迷える人びとなのです。どうかあなた方の心を私たちに向けてほしい。この小桜の小さな本だとて、あなた方を救うために地上の川に流した小さな浮き舟です。どうかこの小さな浮き舟の縁(へり)につかまってほしい。どうかこの小桜の小さな物語で、一人でも多くの地上の溺れかかった人びとを救いたい。
私の手を握り返してください。それは、簡単なことです。一年間にわたって、綴ってきた、この小桜姫の話に耳を傾けてほしいのです。語られた内容を信じていただきたいのです。たったそれだけのことなのです。地上の人びとよ、私の小さな手をどうかしっかりと握り返してください。そのときが、あなたの人生の勝利の時なのですから。そのときが、あなたに神の栄光があらわれるときなのですから。どうか小桜の手をしっかり握り、敗北の人生から勝利の人生へと力強い一歩を歩みはじめてください。
7.人生の真昼に(1986年7月26日の霊訓)
さて、この物語もどうやら終わりが近づいて来たようです。あなたは今までの私の話を読んでどう思われたことでしょう。たとえその中身は大したものでなくとも、何かを伝えようとする小桜の熱意さえ伝われば、ほんとうに嬉しく思います。
では、今日は「人生の真昼(まひる)に」と題して、お話ししたいと思います。
夏の暑い日ざかりのなかを歩いてくると、汗が吹き出る思いがします。夏の昼下がり、ご婦人が日傘をさして、濃い影を落としながら、静かな田舎の砂利道を歩いていると、ふと涼風がどこからともなく吹いてきて、ホッと救われたような気持ちになることがあります。――人生の真昼に――人びとは濃い影を落としながら、濃い影が地面に映っているということだけを自分がこの世に存在するのだという証拠だと思って、心に言いきかせます。ただこの地上に影を落とすだけの存在――影を落としているということだけが実在のしるし――大部分の人間は、こうして人生の真昼を生きてゆくのです。
しかし、地上に住むあなた方にお知らせしたいのです。人生の真昼に、あなた方の真の存在を告げ知らすものは、地面に映った影だけではありませんよ。あなた方が流す汗の一つ一つがダイヤモンドのように結晶となって、世の人びとの宝となるような生き方ができるはずですよ。
大部分の方々は、光の指導霊たちのように、仏法をこの地上で説くことを一生の仕事とすることはできないでしよう。たいていの方々は、この地上にだけ意味があって、私たちの世界から見たら何の意味もない単純再生産の仕事に携わっています。農業も漁業も鉱業も、加工業も、流通業も、私たちの霊の世界では、――思っただけですべてのものが現象化する私たちの実在界では――必要のない仕事です。ましてや現代の企業のなかでのペーパー・ワークなどは、地上の世界から見れば高級な仕事なのですが、私たちの世界から見れば、無益な仕事に見えます。何枚も何枚もいろんな書類を作って、いろんな表を作って、それに上役の印鑑をとりつけるだけの仕事――こういった仕事にやる気満々で立ち向かえる地上人がいるとしたならば、その人はある意味で、生きがいを見出すことにかけては天才でありましょう。
小桜たちのように、霊的な存在となった人間からみれば、この世のほとんどの仕事は、いわば虚業です。本当に霊的に意味のある仕事とは、この乾いた地上という名の血管に、神の血を送り込むことです。人びとに、神の御心にかなった生き方を教えることです。書類づくりがうまいかどうかではなくて、書類づくりをして、生計を立てている人びとの心に、愛を流し込んでゆくことです。
真の生き方とは何か――それを常づね心に問いながら数十年の人生を生きている人と、何も考えずに生きている人と、その開きは、私たちの目からみれば歴然としたものがあります。精神的に生きることが、現代人にとっては、ひとつの教養の領域のように思われていますが、ほんとうは、精神的に生きるということは「全て」なのです。
私たちが、実在界において「霊的」に生き、物質界において「物質的」に生きることは、だれにでもできる当然のことであって、決して誉(ほ)められることでも何でもありません。物質界において、「霊的」に「精神的」に生きられてこそ、はじめて、現代の向上があるのです。はじめて、魂の修行の意味があるのです。
私は最初に言ったはずです。この地上の、人生の真昼のときを生きて、ただ地面に影を落とすだけの存在では何にもなりません。それはただ、物質界で物質的に生きたというのと同義です。
この物質界の人生の真昼を懸命に生きて、その流す汗の玉を、水と塩の固りとはせず、珠玉の宝石のようなすばらしい輝きと、煌(きら)めきとすることです。生きている証(あかし)を、精神の高揚を、高らかに謳(うた)いあげることです。神のラッパとして、神理の言葉を人びとに伝えていくことです。
あなた方の行く手は、そうたやすい道のりではありません。他の道ゆく人びとの足もとをも照らすような、そうした意味のある人生を生きていただきたいと思います。
8.生命(いのち)終わる時(1986年7月27日の霊訓)
今日は「生命終わる時」ということでお話ししたいと思います。
生・老・病・死という言葉があります。肉体を持った人間は、生きてゆく苦しみ、老いてゆく苦しみ、病にかかる苦しみ、死ぬ苦しみ、こうした四つの苦しみを十字架のごとく背負ってゆかねばなりません。
このなかでも、死ぬ苦しみというのが、人間にとってはいちばんの恐怖でありましょう。
「自分が死ぬってどういうこと?」たいていの人は、この問いに答えられません。自分が死ぬってどういうことだろう。他人が死ぬのは何度か見てきたことがある。自分が死ぬというのは経験がない。それは痛いものなのだろうか。つらいものなのだろうか。苦しいものなのだろうか。それとも哀しいものなのだろうか。つらく哀しいものだと人はいう。でもほんとうは甘美なのかもしれない。読者のみなさまは、いったい死に対してどのような感じ方をされるのでしょうか。
生命(いのち)終わる時――それはだれにも平等に与えられるときです。「人間は死の下に平等である」と喝破した西欧の哲学者もいます。人間――死すべきもの――その死に態はさまざまです。
いま、地上を見渡していると、若い人びとが不思議な死に方をしています。受験、いじめ、失恋、さまざまな動機で、前途ある人びとが次々に若い生命を断ってゆきます。小桜はふと考えてみるのです。彼らの死生観っていったいどんなものなのかと。彼らのご両親や、先生方や友人たちの死生観はどのようなものなのかと。
「死」についての正しい考え方は、いまでは学校でも、家庭でも教えてくれません。幼ない魂たちは、人間は死ねば何もかも終わりなんだという考えにとりつかれたり、死ねばとてもすばらしい世界が待っているのだと思い込んだり、あのうす気味の悪い幽霊の世界が死後の世界なんだと思ったりしています。だれもほんとうのことを教えてくれません。
一生においていちばん大切な生死のことを、だれも教えてはくれないのです。もし、人間は死ねば終わりなんだと学校で先生が教えているとしたら、生徒たちは、授業料の返還を求める権利があります。なぜなら、嘘を教えてお金をとるなんてもってのほかだからです。
地上のみなさんは、神様が昔人間をお創りになったという話は一笑に付して、人間はアメーバーから進化してきて猿になって、猿が類人猿になって、その後、紀元前百万年ぐらい前に、原人という人間の祖先が出来たという話をお信じになっているようです。
この話は、ダーウィンの進化論に代表されているようです。しかしみなさん、ダーウィンはその後どうしていると思いますか。もちろん地上を去った後です。
彼は今、地獄のなかでも最も深い無間地獄(むけんじごく)というところで呻吟(しんぎん)しているのです。彼自身は善人です。何も悪いことを生きていたときにしていません。けれども彼は今、地獄の最深部にいます。天国、地獄の分かれ目は、善い、悪いだけではないのです。正しいか、正しくないかも分かれ目なのです。特にこの基準は、思想家や宗教家に適用されます。いかに虫一匹殺さない人生を生きたとしても、人びとにまちがった信仰や信念を植えつけた場合、その影響が大きければ大きいほど、その責任は免れがたいのです。
ダーウィン自身は、善良な学者であったとしても、彼の進化論が世の人びとを迷わせた虚説であった以上――だって猿は人間になりません――は、恥ずかしくて霊天上界に上がることができないのです。天上界に上がると、いろんな人から、「君か、人間はアメーバーから進化したなんて嘘を教えたから、この世の人びとは、神様だとか、霊界を信じなくなったじゃないか。」と批判されるので、地獄の奥深いジメジメした洞窟の中で、小さくなって身を隠しているのです。
人間は神様が創ったものです。そして人生修行の目的で永遠の転生輪廻を繰り返しています。そしてこの地上世界を仏国土にするという使命を持っています。こういった約束のもとに、人間は、両親の縁により、神にこの世の生命を授けられたのです。ですから自殺行為は、神様との約束違反ですから許されません。徹底的に自分の間違いを反省するまで、地獄で苦しむことになります。
このように、人間の人生というものは、神様からの授りものなのですから、大切にして、「生命終わる時」まで精一杯生きなければならないのです。
やがて、地上のみなさまも知るでしょう。この地上を去るとき、肉体生命を終えるときこそ、あなた方の新たな生命の霊的生命の始まりであることを。
一つの終わりは、一つの始まりであることを悟ってください。