目次
1.開眼
2.自覚
3.決意
4.不退転
5.断行
6.成果
(1987年10月30日の神示)
1.開眼
本章においては、いかにして人間が自らの運命を開拓していくべきか、いかにして運命を拓くか、こうしたことに主眼を置いて話をしてゆきたいと思う。
そこでまず、運命というものの成り立ちを知らないわけにはいかないであろう。まず、運命とは一体何であるか。人びとは自らの運命について多く語ることがあり、また運命について語りたる書物を数多く探すこともある。
けれども、運命そのものの仕組み、そして、それが定まりたるものであるや否や、こうしたことに関して、ついにその本当の姿を知らないままに、一生を送ることが多いわけである。
ここでまず、運命とは何かということに関して、実在界の観点から一つの検討をしてみたいと思う。
まず第一に、運命とはすでに決まりたるものであって、後天的に変ええないものであるのかどうか、こうした検討がなされるべきであろう。その時に問題となるのは、運命が運命としてすでに決まりたるものであって、地上に肉体を持って出る前に決定づけられておるものであるならば、なにゆえにその自らの人生に対して、責任をとるということが可能であろうかということだ。
すべて決まりきったコースを歩んで、その結果その人が実在界のどこに還るかまで決まっておるならば、これははなはだしく地上生活の自主性というものを阻害する考えといわざるをえないであろう。
しかし、この対極の考えがあることも事実である。それは一体何かというと、運命がそれほど不確定なものなら、何ゆえに予言、予知ということが可能であるのかということだ。多くの霊能者、あるいは歴代の予言者たちは、未来のことを予言しておるはずである。過去の人物である彼らが、未来に起こるべきことを予言できるということは、その時点において、未来に起こるべきことがすでに決まっていたといえるのだろうか。ここが重要な眼目となる。
たとえばノストラダムスという、今から五百年ほど前のフランス人が、人類の二千年までの歴史を予言したという。では五百年前において現代が見えるということは、現代のさまざまな事件がすでに決まっておったのかどうかということになる。
これは実は、こうした観点から考えてゆけばよいのです。人間の歴史、あるいは時代の流れというものは、たとえて言えば川のようなものなのです。それは、上流の谷川から源を発して、そして流れ下って中流へと入り、河ロ付近に近づき、やがて大海へと流れてゆくのである。
この予言者という存在は一体何かというと、山の頂きに立ちて川の流れを見、この川の蛇行(だこう)の姿、流れてゆく姿、行方(ゆくえ)というものを展望して、そしてこれから流れてゆこうとするもの、すなわち、これは何でもよい、舟人(ふなびと)でもよいカヌーに乗るものでもよい、何の舟に乗るものでもよい。こうした舟人に対し、「この川はこのように流れておるから、お前は今から一時間後には、こうした曲がり角にさしかかるであろう。そしてその後、浅瀬が見える。浅瀬を通り過ぎたのちに、また深い、深い深いよどみの中を流れてゆく川である。そしてまた中流にいけば、緑の中を通り抜け、薮(やぶ)の中を通り抜け、動物たちが戯(たわむ)れている所を通り抜け、そしてまた、多くの住宅が建ち並んでいるところを通り抜け、河ロ付近になれば工場地帯を通り抜け、そして海にと達する。そしてこの海は、こういう海である。」
こういうことを、予言者という人は言っておるのだ。
それは、これから川の源(みなもと)において船旅をしようとしておる人間にとっては、まるで信じられない話であって、「そうしたことがすでに決まっておるのであろうか」そういう大いなる驚きを感ずる。
ところが実際に川下りを始めてみると、一時間ぐらいすると、予言者の言ったとおりに川の流れが右に変わり、またやがて浅瀬にかかり、また深い淵を通っていくことになる。「彼らはすべて見通しておったのだ」。こういふうに、感じてしまうということである。
ただ、ここには問題があるということだ。それは、川には流れがあり、そしてそれを漕(こ)いでゆく舟、舟人(ふなびと)の努力というものがあるということだ。舟はいつ座礁(ざしょう)するともしれない。いつ転覆するかもしれない。いつ岸に流れ着くかもしれぬ。こうしたことがあるし、また舟人が下ることをやめるかもしれぬ。こうした問題があるのだ。
ただ、「そのまま流れていけば、こうした川の流れとなっている」ということを説明することはできるが、実際にその舟人が川を下っていく時に、どのような漕ぎ方をし、どのような航路をとっていくかということに関しては、予言者は無力なのである。
こうした比喩(ひゆ)でもって、運命というものを感じとってほしい。
すなわち予言者にしても、その舟人が川下りをしていく途中において、舟が転覆するところまでは予知はしていないのである。ただ、急流があり浅瀬があるというところは見通しておるがために、そこにそうした危険があると言うことはできる。
また川を下っていく途中において、風が吹いたり雨が降ったり、カラカラに日照りになることもあるであろう。そうした不確定要素もあるということだ。
予言者は、単に川の流れということだけを見通すことができる。
こういうことであって、先ゆきの川の流れが見えておるということは、すでにその舟人が川を下り終えたということとイコールにはならないということだ。これを知らねばならぬ。
すべて予言というものは、このようなものである。したがって、平均的な舟人ならこういうコースを辿(たど)るであろうということは予見することができるが、それを断定することはできない。このへんが、運命と予知の問題として言えるであろう。
こうした問題を前提にして考えてみると、我らの人生も地上にあっては、やはりいくつかの方途、流れていく道筋というものはある程度決まっているということは言えるであろう。
しかしながら、その道筋をどのように努力して流れて行くかということ、舟を漕いでいくかということに関しては、地上生命の主体性に任されていると言うことができるであろう。
これが運命と予知、あるいは人生というものの仕組みを解く鍵なのである。
すなわち、現在では地獄に堕ちる人間も数多いと聞いておるが、地獄に堕ちることを予定しておるかということをいえば、必ずしもそうではない。しかし、堕ちることもありうるということは予想はしておると言うことはできる。
これは、川下りのなかにおいて、危険な滝、あるいは浅瀬、急流において、舟が転覆するやもしれぬという予見はある。ただ、船出をする人にとっては予見はできるが、実際に自分が転覆するとは思ってはいない。こういう問題だ。危険な急流があることは知っておる。したがって、舟を出す前にそうしたことを一応聞いておって、あの急流、この急流に危険があるということは知っておる。だから転覆する危険というものは感じておるが、何とか乗り切れると思って地上に出てきておるのである。
しかし、結果的には乗り切ることができずに転覆する者もおる。乗り切って無事に行く者もおる。いろんなかたちがあるということだ。
こうした運命の仕組みということを考えたときに、我らはまず開眼せねばならぬことがある。それは、その川を選んだのは自分自身であるということである。そうした危険もいろいろあったということは、知っておったはずである。しかし、それを乗り切ることができると予見して、船出をした自分であるということだ。さすれば、地上の人生において、いかなる困難が降りかかってきたとしても、それを外部的なものとしてはならない。外部に責任を帰してはならない。自らそれを歓迎しなければならない。そうした運命というのを乗り切っていけると思って、地上に出ておるということを知らねばならぬ。
これが、運命開拓のための、開眼の第一点であろうかと思う。
2.自覚
さてそれでは、運命を開拓していくということ、これに関してさらに話をすすめてゆきたいと思う。
それはまず、運命というものの成り立ちを、第一節において話をしたけれども、運命がそうしたものであるということを知ったならば、その自らの運命の川を流れ下っていくのだという勇気をもって流れ下ってゆく、この自覚だ。これが大事だということだ。
そして、その自覚の内容には、なにゆえに自分はこのような運命の川を下ってゆくのかという認識がなければならないであろう。
なにゆえに、一体なにゆえに川を下るのか。
決してそれは、遊び心で川下りをしておるのではないのである。川下りというものは、ひじょうに命懸(いのちが)けである。命を賭(と)してやっておるのである。
命を賭して川下りをして得られるものは、一体何であろうか。
それは、ひとつには、新たなる経験の獲得ということであろうと思う。いくら川の写真を見たところで、そのパノラマを見たところで、望遠鏡で遠くから眺めたところで、実際にその川下りということを体験しないでは、その旅の醍醐味(だいごみ)というものを味わうことはできないはずである。そして、経験したるものこそが、魂にとって糧(かて)となってゆくのである。
したがって、運命の川を下りおりてゆくその本当の理由は、新たなる経験の獲得ということ、これが第一である。何もしない者には何も与えられないのだ。経験によって人は与えられる。多くのものを獲得するのだ。これを知らねばならぬ。魂が大きく生長してゆくためには、さまざまな経験が必要なのである。経験こそが、魂の糧なのである。こうした自覚というのが何にもまして大事であると思う。
自覚の第二、これは結局のところ、経験というものを獲得する過程において、また魂が光るということ。強くなるということ。鍛えられるということ。これである。
すなわち、単なる経験ではないということだ。そうしたスリルに富んだ旅をすることによって、魂の足腰が鍛えられ、そして底光りし、強くなってくるのである。
人間は、一度苦難というものを通り越したときに、そこに自信が出てくるのだ。本当の自信。何にもひるまない勇気と自信が湧いてくるのである。そのためには、どうしてもその困難というものを通り抜けてゆかねばならぬ。自らの力によって、漕ぎきってゆかねばならぬのである。そういうことを知らねばいかんと思う。
この運命の川を下ってゆくときに、大切な心構えというものがある。それが一体何であるかというと、決して弱音を吐いてはならんということであろうと思う。
この旅は、自らが計画して始めた旅であり、自らがその過程において魂の悦びと、魂の糧を得るために始めた旅であるならば、決して弱音は吐いてはならぬということだ。これを人びとは知らねばならぬ。こうした自覚が、何にもまして大事であろうと思う。
そして、その川を下るということを決めたのは、他(ほか)ならぬ自分自身であるということ。これも知らなければいけない。こうした自覚、他人のせいではなく自分で選んで、この川を下っておるということ。これを自覚せねばいけない。
ただ、単なる自力のみではないということもまた、知らねばならんと思う。川のところどころにおいては、案内係というのが立っておることも事実であります。これから急流になるところには、必ず案内係が立っておって、「これから先はきびしい」ということを言っておる。また、急に浅瀬にかかるところでは、「浅瀬に近づく」ということを言う。急に曲がっていくときには、「これから曲がるぞ」と言う案内係が立っておるのである。それを知らねばならんと思う。
そうした大いなるものが、人びとの行く手を導かんとして立っておるということを知らねばならぬ。それを、自分の舟の運転ばかりに気をとられて、そうした人たちが立っておって、声をかけておるということを知らないでは、それは釈明はつかないことである。それでもっては、許されないのである。そうした案内係がちゃんとついておるのだから、人の教えはちゃんと守って舟を漕いでゆかねばならぬ。「自分が、自分が」という思いで、自分のみにとらわれていってはならぬ。
また、川下りをするのは自分であるけれども、自分以外の舟というものも、また流れておることも事実。先人たちの跡をついていく。ひたすらについていくという努力も必要である。
たとえば死というものは、生きておる人間はだれも経験をしたことがない。そして自分が死ぬということは、みんな怖(こわ)い。ただその、みんな怖い死というものを、次つぎに体験させられておるのである。
これは結局、人生の運命において、二ヵ所の大きな滝があるようなものである。最初の滝というのは、実在界から地上界に生まれてくるときの滝である。これはナイヤガラの滝のように百メートル、二百メートルの落差をもって落ちてゆくようなものだ。実在界から地上に落ちてゆくということは、降りてゆくということは、それだけの大いなる覚悟、これがいるのである。それだけの大いなる危険、これを伴うのである。こうした滝、だれもまだその感覚がわからないところに、すべての人が順番に落ちてゆくのである。
そしてまた、この川の旅を終わるときに、大きな滝に見舞われるのである。そして、それを超えたときに、死というものを通して、初めてあの世の生活というものを体験するようになるのだ。
こうした事実、大きな二つの関門があるということ。生まれるということ、死ぬということ、こうした二つの関門をすべての人が通らねばならんということ。この事実に対して、大いなる自覚を持たねばいかんであろう。
3.決意
自覚のことについては、すでに述べたとおりである。
さらに、次に大事なことは、決意ということだと思う。
確かに、人生の途上においては、心ゆらぐことが必ずある。そして、行く手をはばむものが、立ちはだかるように見えることもある。自らを害さんとしているように見えることがある。敵として現れるように見えることもある。
しかし、決してそうしたもの、見せかけにとらわれてはならんのである。見せかけにとらわれて、そして敵を敵として闘っておったのでは、自らの苦難というものは、増すことはあっても減ることはないのである。
ここで大いなる決意が、私は必要であろうと思う。我は今、運命の川を下らんとしておるのである。そしてこれは、我が仕事であり、我が使命でもあるのだ。
さすれば、その途上において、なにゆえに我を塞(せ)き止めんとするものが現れる必要があるであろうか。そうした必要がある積極的なるものはないはずである。決してない。
なぜなら、この旅は、神によって許可された旅であるからです。神によって認められた旅であるからです。
さすれば、諸君は、ここでひとつ大いなる決意をしなければならんと思う。それは、神の子には、不可能はないということだ。神の子には、困難はないということだ。神の子には、苦難はないということだ。神の子には、挫折はないということだ。こうしたことをしっかりと、心に刻んでおく必要がある。
自らの人生といっても、それは殻(から)を被(かぶ)った自我の人生ではないのである。自らの人生といっても、それは、神の子が、一人ひとり岐(わか)れて川下りをする姿なのである。自らもまた神の子なのである。神の子が、神の自己実現をせんとしておるのである。
しかるに、いかなる困難がそこにありえようか。いかなる邪魔ものが現れようか。邪魔ものと見えしは、これは目の錯覚であろう。こう思わねばならぬ。
それはそうである。川を下っておって、岸辺に立つ案内人がおって、「これから先には、こういう川の流れになっておるよ」と、手を振って言っておるのを見ても、自らの心が被害妄想の心であれば、彼が手を振る姿が、すなわち、彼があなた方に石を投げようとしておるか、弓を射ようとしておる姿に見えないとは限らない。あるいは疑ってかかるならば、彼らが言っている言葉は罠(わな)であって、全くその逆ではないのかと疑ってかかったならば、人間の心に永遠に、救われる安らぎというものはないということだ。
したがって、まず我われは、いや、少なくとも地上にある諸君は、自らが神の子であり、神の子としての自己実現をなさんとする決意をする必要がある。
「我がなさんとすることは、すなわちこれ、神の子がなさんとするのである。神の子がなさんとすることは、すなわちこれ、神がなさんと欲することなり。さすれば、我が念い、実現せざることなかれ。さすれば、我が念い、通らざることなかれ。さすれば、我が邪魔だてをするもの無し」
こうした強い強い決意を持たねばいけない。
特に、「困難など無い」という信念でもって、あたってゆかねばならん。道を切り拓いてゆかねばならぬ。
その時に、困難と見えしものは、目の錯覚であったということを、諸君は知るのだ。目の前に大きな岸壁が、立ちはだかったと思うけれども、実はそれは目の錯覚であって、川面をゆらゆらと揺れておる陽炎であったり、川霧にしかすぎないのだ。
それを、岩の塊だと思ったり、行き止まりだと思ったり、滝だと思ったり錯覚するけれども、実際はそうしたものではない。
諸君は、あらゆるものの中に善意を発見せよ。あらゆる人の心の中に、善意を発見せよ。世の中は善きものしかないと思え。善きもののみが、世の中を創る実在であると思え。善きもののみが創った世界であるならば、何らの苦難、困難があると思うな。それがあるように見えておるのは、自分の目の錯覚であるのだ。彼らはみな、諸君を祝福せんがために集い来る人たちなのである。
たとい、彼らが残忍な手段や、また、皮肉な攻撃方法でもって、諸君をいじめたりまた、困らしたりしているように見えることがあっても、それはそうではないのだ。それは本当は、観世音菩薩が、諸君らに本当の悦びを与えるために、方便としてそうしたことを、させておるのだということを知らねばならぬ。
やがて、諸君らの敵と見えしものは、川下りが終わって陸に上がってみると、なつかしい顔をして、諸君らを迎え入れてくれる友達なのである。
「あの時は、君の勇気を試すために、ああいうことをしたんだよ。あの時には君の胆力をつけるために、ああいうことをしたんだよ。あの時には君に勇気をそして信念を、確信を、信仰を得てもらうために、ああいうことをしたんだよ」
彼らは口ぐちにそう語るのである。
「あの時は、君の勇気を試すために、ああいうことをしたんだよ。あの時には君の胆力をつけるために、ああいうことをしたんだよ。あの時には君に勇気をそして信念を、確信を、信仰を得てもらうために、ああいうことをしたんだよ」
彼らは口ぐちにそう語るのである。
結局、世の苦難・困難といわれるものは、諸君らの信仰心を強めるために、方便として与えられているものだけであって、本当に諸君らを害せんとしてあるものではないということを知らねばいけない。それらは諸君が、どれだけ神を愛することができるか、どれだけ神を信ずることができるかということを試すための方便であり、試練でもあるということだ。これを知らねばいけない。
さすれば、善一元の世界を信ぜよ。さすれば、人々の良心を信ぜよ。さすれば、環境が良くなっていくことを信ぜよ。そうした中において、本当の人間の生きるべき道というのが、見つかってゆくであろう。
4.不退転
さて、諸君はいよいよ、神の子として自己実現をしてゆく決意というのができたとみえる。そして、自分のまわりに展開するいろいろな事象、事柄、また次つぎと現われてくる人びとが、決して諸君に害意を持ったり、悪意を持った人たちではないということを知った。そして彼らもまた、幸せに生きんとしておる人びとであるということを知った。この世に善人、悪人があるのではなく、みんな善人だと思っておるけれども、相互の無理解、不理解が、そうした善人、悪人という考えを生むものであるということを知った。本当の人間の本質は、善悪というような、そうした相対的なものではなくて、実質は善一元であるということを知った。そして、相互に相手を理解するということが、何にもまして大事であるということを知った。
こうした、根本的なる理解をして、さらに先なることを考えていこうと思う。
ここで私は、ひとつの大切なアドバイスについて語っておきたいと思う。それは、人生は今言ったように、運命の大河を下ってゆくことであるけれども、その過程において、諸君らは、大いなる目標を持たねばならんと思う。偉大なる理想を持たねばならんと思う。
そうした大きな理想の無い旅は、不毛の旅である。諸君らがここから得るものも少ないであろう。大いなる理想を持てば持つほど、諸君らの魂が獲得する糧もまた、大きいのである。こうしたことを信じなければいけない。
人生の中において、退かんとして退かず、一歩も譲らず前進のみ続けるという気持ち、こうした不退転の気持ちが生ずる背景には、まず高邁(こうまい)な理想があるということを知らねばいけない。理想なき者は、容易に挫折するのである。
しかし、理想ある者は、挫折すると見えしことがあっても、再び起きあがり、立ち上がり、挑戦をしていくのである。
人生は不断の挑戦である。不断のチャレンジである。
起上小法師(おきあがりこぼし)のように、七転び八起きというのが、本当の人生の姿であるのである。七転び八起きをしていく背景には、それはやはり、強い強い願い、希望、高邁な理想、高い高い目標、これがどうしても必要なのだ。第一段階として、どうしても高い理想の設定、これが必要である。
諸君らは、これ以上大きな理想はないというような理想でもよいのだ。そうした理想を持ちなさい。自分を自己限定してはならない。また、断じて自己否定してはならん。
自分はつまらんものであるとか、自分はくだらん人間であるとか、自分の劣等感を助長するような言葉を、断じて発してはならん。
諸君らは神の子であるのだから、神の子は偉大なのである。偉大な神の子が、偉大な目標に向かって邁進してゆくのである。そうした自覚というものを、決して忘れてはならぬ。
自分は学歴が足りないとか、自分は肉体が貧弱であるとか、自分は片親であるとか、自分は病弱であるとか、自分は世の人びとに認められないであるとか、自分は話が下手であるとか、自分は頭の回転が悪いであるとか、自分は目が悪いであるとか、自分は意志が弱いであるとか、自分は根気がないとか、こうしたこと、否定的な言葉を出して、自己卑下するのはやめなさい。そうした否定的な言葉でもって、自己弁護するのはやめなさい。
こうした自己弁護でもっては、決して道は開けないのだということを知れ。自己弁護を捨て去ったときに、初めて道は開けるのである。
そうした弱い自分を肯定するな。弁護しなければならんような、そうしたそうした弱い弱い自分というものを肯定してはいけない。
自分はもっと強いものだと知れ。そしてたとえ今、人びとに認められなくとも、やがて時間を経て、自分は認められていくのだということを知れ。
それは、ちょうどあのウナギという魚が、どれほどつかもう、つかもうとしても、手の間からスルリと抜けていくのに近い。そうした話だ。
どんな悪しき運命が諸君をとらえようとしても、諸君は、そのなかからスルリと抜けていくようなウナギのような存在であれ。どんな困難があっても、それをくぐり抜けていくという自覚を待て。
川の水だってそうではないか。ある時は大洪水のような氾濫(はんらん)となり、ある時は枯れた砂地の上を流れることができず、深く地下水として潜(もぐ)り、また伏流水となり、また湧き水となって出てき、そして天に昇り、雲となって雨を降らし、また川をつくってゆく。水は自由自在、融通無礙(ゆうずうむげ)に自らの運命を開拓しておるではないか。
しかし、諸君らは、この水の生命以上に偉大な生命ではないか。偉大なる自由意志を与えられた生命ではないか。
さすれば、どんな堰(せき)があってもそれを乗り越えてゆくような水であれ。どんな砂地にあっても地下を潜ってゆくような水であれ。どんなことがあっても空中に舞い上がってゆくような水であれ。そうした自由自在の諸君であれ。固定観念でもって自分を縛るな。自分はこんなものであるとか、自分の成功はこの程度であるとか、こうしたことでもって縛るな。
自分は自由自在に大空を飛びまわれる存在だということを知れ。いくら偉大なる夢を抱いても、それで十分ということはないのだ。
自分は自由自在に大空を飛びまわれる存在だということを知れ。いくら偉大なる夢を抱いても、それで十分ということはないのだ。
諸君はその夢に、限りなく近づいてゆかねばならん。そういう大きな夢を持っていくということ、これが何にもまして大事である。
まず、不退転の原理としては、夢を抱く、理想を抱く、そして理想の実現のために、常に目標に近づくという、不断の努力を忘れないということ。日々の努力を忘れんということ。
どんな悪しき運命があろうとも、それからスルリと抜け出していって、自由自在に生きてゆく。そういう諸君であれ。
不退転という言葉は、退かずという意味である。諸君は、常に直進せねばいかんものではない。人生には曲がり角もあるであろう。地下を潜ったり、空を飛んだりしなければならんこともあるであろう。要するに諸君は、前進あるのみの人生を送っておるのだ。
不退転は退かずと言う。退く必要はない。新たな道を開拓せよ。新たな道を開拓して、その道をまっすぐに進め。そのなかに、諸君らの本当の幸せというものがあるのだ。
この道しかないとは思うな。自分にこの道しか自己実現の機会はないと思うな。
今のアメリカの大統領(レーガン元大統領)であってもそうであろう。彼はハリウッドの二流の役者にしかすぎなかったのではないか。しかしこの役者は、役者としては二流であったかもしれないけれども、心のなかには偉大なる大統領というイメージを描いておったのではないのか。彼は、本業の役者のほうでは、十分に活躍はできなかったが、心のなかに描いておったイメージには忠実に、やがて大統領を演じておるのではないのか。
さすれば諸君よ、まず心のなかに描くことから始まるということを知れ。そして、その大きな目標に向かって邁進していく自分を知れ。
決して退かず、あらゆる困難に対して退かず、自分はどのような手段を使ってでも、どのような方法を使ってでも、この困難を乗り越えてゆく、そうした力強い自分であれ。
海辺の、あの打ち寄せる大波を、どうしてそれを堰(せき)射止めることができるであろうか。防波堤を造っても、その防波堤を乗り越えて来る波があるではないか。波でさえ、あれだけの力を持っておるではないか。
諸君は、もっともっと偉大なる神の子であり、神の生命である。もっともっと力強く、あらゆる防波堤を乗り越えてゆかねばならぬ。そうしたことを、肝(きも)に銘じなさい。
5.断行
さて、不退転ということに関して話をしてきたが、さらに次なる境地について、話をしようと思う。
これは、断じて行なうということだ。単に退かずというだけではいけない。断じて行なうべき時には行なう、という強い決意。これが大事だ。
人間は決して、優柔不断であってはよくない。日和見主義者(ひよりみしゅぎしゃ)であってはいけないのだ。
決断すべき時には決断し、実行する時には実行しなければいけない。これを断行という。
運命の女神には、前髪のみあって、後ろ髪がないというではないか。運命は、チャンスが巡ってきた時に、それを両手でもって掴(つか)みとらなければ、すり抜けて行くと言うではないか。
さすれば諸君よ、自らの今立たされている現状というものをよく知れ。そして、今が時ならば、今立つ以外にないということを知れ。今が行動の時ならば、今行動する以外にないということを知れ。今断行する以外にないということを知れ。
人生の中には、時を待たねばならんというときもあるであろう。心の傷が癒えるのを待たねばならんというときもあるであろう。
しかしながら、いつもいつもそうであってはならんのだ。川の水が、ゆったりとながれている時があるけれども、いざせせらぎとなり、滝となったときに、ものすごい莫大なエネルギーとなって流れ落ちていくように、諸君らも平時は、平静に平静に流れていってもよいけれども、いざ、ここ一番という時になったら、底力を振り絞らなければいけないのだ。「あれだけの力があの人にはあったのか」と言われるような、そうした大いなる底力というものを発揮しなければいけない。
人生には、そういう時があるのだ。人生には何度も、断行せねばならんということがある。断行せねばならん時には、判断が迷う時である。
右にすべきか、左にすべきか、人生は常に選択と選択の積み重ねだ、と言った人もいる。確かにその通りだ。人生のいたるところで選択はある。その時に、決定をせねばいかんのは、他ならぬ自分自身である。
この時に、諸君は心を澄まして神の声を聴け。自らの心を澄まし、精神を統一し、呼吸を整えて、自らの心の中に、邪心がないかどうか、邪(よこしま)な心はないかどうか。自分だけに都合のいい心はないかどうか。自分の決めんとしていることが、、単に自分に幸せなだけではなく、人々の幸せにもつながるものであるかどうか。自分のなさんとしていることが、神の心にもかなうものであるかどうか。
こうしたことを、諸君は心に問え。そして自らの内なる心から、自らの内なる神から、「そうだ、その道でよいのだ。断じて行え」という声」が響き渡ってきたならば、もう諸君は迷ってはならん。断じて行わねばならぬ。断じて行なわねばならぬ。あとをふり返ってはならぬ。自分が渡ったあとに、その橋を焼き去れ。自分が上陸したあと、その舟を焼き去れ。そして、諸君は前進のみあるのだ。
本当にその道が神の意(い)に適(かな)うことであり、本当の意味で、究極的に人びとを幸せにする道であると思うならば、あらゆる困難を排して断行せよ。
たとえば、このような私たちの霊言集、霊示集というものを、諸君らは世に問おうとしておる。
しかし、こうしたときにまた、これを認めない、邪魔だてする者も出てくるであろう。また、あまりにも内容がすばらしいので、嫉妬をする人も出てくるかもしれない。
しかし、彼らの中傷を気にし、彼らの言葉に怯(おび)えたり、ためらったり、そういうことをしては断じてならない。自分の心にのみ問え。自分の心に問うて、これがまちがっていないことであるならば、これが本当に神の心に適うことであるというならば、この世的なる一切の悪意を排除して、断行せよ。断じて行なえ。断じて書物を出し、断じて世に広げてゆきなさい。躊躇(ちゅうちょ)してはならん。世間の常識に迎合してはならん。世間の人びとの声に妥協してはならん。断じて断行せねばならん時はあるのである。
世間の人びとが認めるようになってから、それを広げようとか、世間の人びとに、何も害しないという約束事をぶつけてから、こうした神理を広めようとか、こうしたことを考えてはならん。そうした卑怯者であっては、断じてならん。
自らの心に問うて、まちがいのない道でると思うなら、断断固として、実践せねばならん。
諸君は今、ふり返ってみよ。世の偉人といわれる人たちの数かずが、どれだけ多くの困難にあったか、どれだけ多くの人びとの嘲笑にあったかということを知れ。
しかし、嘲笑にあったとしても、自らが信じるものを真一文字に歩いた者が、それが偉人といわれる人たちではないのか。嘲笑にあって、そして断念した者を、人は偉人とは呼ばない。そうではないであろうか。
地球が、太陽のまわりを回転するなどということを、一体誰が考えたであろうか。そんな常識破りなことを、断断固として主張した学者があった。自分の良心にかけて、主張した学者があった。
世の人々は笑った。「地球が回転しておって、そして太陽の周りを回っておるならば、我らは生活が出来るわけもがない。地球の裏側におる人間は、落ちてしまうであろう。」そして、笑った。「現に見なさい。地球は全然動いておらんではないか。大地は動いておらんではないか。太陽が東から登り西に沈んでおるのではないか。星がまた回転しておるのではないか」そういうふうに、人々は考えた。
しかし、これは常識の方が間違っておったのだ。
霊的な世界についてもそうだ。世の人々はそれを信ずることができない。「目に見えず、耳に聞こえないものを、どうして信ずることができるか」そして、嘲笑することがあるだろう。そして、それを証明できねば、「そんなことをするのはナンセンスだ」と言うような人もいるかも知れぬ。
しかし諸君は、そうした声に惑わされてはならん。その声に惑わされて、そして心弛(ゆる)んではならん。そんなことでもっては、後世に大きな業績というものを残すことは決してできぬ。決して偉人の仲間入りはできんということを知れ。
世の常識が間違っておるならば、この常識を打ち砕いていくだけの、それだけの勇気を心にもたねばならん。断じて行うということ、いろんな危険があっても断じて行うということ。この勇気を、最後は、世の人々は認めて、称賛するに至るのだ。ところが、卑怯者はその途中で引き返していく。こうした卑怯者に対しては、世の人々は称賛はしない。
しかし、彼らの声に耳傾けず、地球の果てまで行ってでも本物を探検した人に対しては、彼らはのちの世に、大いなる称賛をもって迎えられるのだ。世の人びとはそんなものである。
時代の最先端を行っておる人間は、とかく様々な困難、苦難、あるいは、人びとの失笑や嘲笑にあざ笑われることが多いのである。ただ、それに負けてはならぬ。断じて負けてはならぬのだ。
そうしたこと、勇気をもって、断じて行なうということ。これを忘れてはならぬ。それが何よりも大切なことであろうと思う。