目次
7.「思い」と「念」
(1987年8月13日の霊示)
1.「心と行ない」はわが教えの中心
では三章、「心と行ない」という題で講演をしたいと思います。まあ心と行ないというのは、私の教えの、これほんとう、中心も中心ですね。前章の中道もそうですが、心と行ない、これを説くためにまあ出たようなもんなのですね。
高橋信次の人生、いったいなにを言うたかというと、ようするに心と行ないのこれの調和ですね。これを僕は言いたかったのですね。けっきょくはこれなんです。
なんか去年だったか、観音寺の村上和尚さんがなんか『心と行ない』なんて本をだしちゃってね。最近行ないがどうなったのか心配なんだけれども、まあ私のね、生前の教えを受けて、なんかそんな本書いたようですね。
弟子たちのことを言い始めると、また心と行ないがイライラしてくるからもうあんまり言いたくないんですけれども、まああのね、単純なことですけれどもだいじな発見だと思うんですね。
「人間ね、いちばんだいじなのは心と行ないですよ。」ってね。言われてみりゃあそうかなと思うけれども、意外に気がついていないのですね。
「何とかさん、あなたの人生でいちばんだいじなものはなんだと思いますか。」と、こうたとえば質問しますね。
「そんなのあんた高橋さん、当然ですよ、お金ですよ。」こういうかもしれない。
で、ある人は「なにを言ってるんですか子供よ、子供にちがいないわ。」なんてね。
「なに言ってるんですか、結婚ですよ。結婚さえできりゃあ、それさえあれば。」なんていう人もいるかもしれない。
あるいは「マイクさえ握れたらもう幸せ。」ってこんな人もいるかもしれませんね。
あるいは「もうテレビの画面に顔が映ることが幸せ。」って言う人もいるかもしれません。まあなにがだいじかっていうと、いろんな考えかたがあるでありましょう。
ただ大きく言えばね、やっぱり心と行ないなんですね。片方だけじゃ駄目なんですね。「僕は心がきれいだったなあ。」なんてねえ、「心はきれいだってそして洞窟のなかで一生終わった。」なんて、これは駄目なんですね。行ないがない。こんなの駄目なんですよ、役に立っとらんからぜんぜんなんの役にも立っとらんからね。
やっぱり人間はこの心がよくて、そしてやっぱりね、世のひとびとのためのお役に立たにゃいかんのですね。そういうことで行ないということ、これもひじょうにだいじなんですね。またこれは両方だいじであるという教えでもあるけれども日々の指針でもあるわけですね。
2.心のなかの思いのチェックと行ないのチェック
日々の指針でチェックすべきところが心のなかの思いのチェックね。それから行ないのチェックね。両方だいじなんですよ。
「僕はなにひとつ人のことを悪く思いませんでした。」なんて道を通るたびに人の顔を叩いて歩いておったりしてね。
「いや手が勝手に動いているので物理的現象です。本来肉体なしですからなぐったってぜんぜん関係ないんです。」なんてね、「心のなかでなんにも思っていませんでした。」なんてね、こんなの駄目なんですね。
だから無意識のうちに行ないが変なんっていうのいっぱいいるんですね。これはもうほんとうにいるんですよ。そう不自然な行ないをしている人ね、気がついていないだけでね。読者のみなさんのなかにもいっぱいいるんですよ。
高橋信次霊言シリーズはほんとうにいい本だから、そんなのもう万引きして帰ったってかまわないんだ。こんないい本ただでやはり世のひとびとに拡げるのは当然で、こんなのはお金取ってはいけない。だから書店で売っているけれどこんな資本主義の原理って通らない。
心の世界ってそんなもんじゃないね。やっぱり神様は無所得のままにね、愛と慈悲を与えておるのだから、高橋信次霊言シリーズを、これは無所得のままにやっぱり配らにゃいかん。そういうことで本屋からサーッと一冊抜いて懐(ふところ)へいれて帰る。こんなの駄目ですよ。
それは世の中の原理がわかっていない。
あなたね、本だってタダじゃできないんですよ。本を作るためには紙がいるんですよ。インクもいるんですよ。紙代とインク代だけじゃございませんよ。
活字代っていうのがいるんですよ。活字も造らにゃいかんですよ。それだけじゃありませんよ。活字を拾っている人の労賃というものがいるんですよ。賃金があるんですよ。
印刷屋も食っとるんですよ。その印刷屋の下で製本屋が製本しとるんですよ。製本屋で製本したものをこんどは出版社がこれまた取次店に売り出しているんですよ。取次店に出すときには千二百円じゃありませんよ。これはもっともっと安いお金じゃないと取次店には出せないのですよ。
取次店はまたコミッションを取ってそれで生活して書店に出しているんですよ。書店がまたこれで二割ぐらいかね一割か二割か知らんがそれで利益を上げてやっとるんですよ。そういうもんですよ。
そういう経済原理があってお金がかかっておるということを知らずしてね。こんないい本ただで配るの当然だなんてね。
ただ配るというと、たとえばそれを強制したらどうなるか。その結果そりゃいいですよ。当然いいけど、じゃその制作費それじゃやっている霊言集つくっている人みんなただ働きせねばいかんですか。じゃあそのためにはどうせねばいかんのですか。またほかで働いてこなきゃいかんわけだな。収入得なきゃいけない。
ただで本を作っているのはいいけれども全国まわって歩いてこんど寄付受けてまわって「寄付ください、寄付ください。」って一件一件まわってね「寄付ください、高橋信次霊言シリーズを無料で発行するために寄付ください。」ってね。そして本を読みもしない人から寄付をつのってそして読む人はぜんぜん金を払わない。
これはほんとうにいいかどうかよーく考えたらいいんだよね。やっぱり自分の勉強のために本を買っているわけでね。
ほんとうは自分で読むものは自分で身銭を切らないとほんとうに自分のものにはならないんですね。そうですよ。
そんなもの人からもらってね、そりゃもらって読む人もいっぱいいるだろうけど、もらってばかりいるっていうのはこんなものタメにならないんですよ。それは値打ちです。値打ちの見かたでね、どう見るかですね。
一冊千円、いや千二百円の本だ。高いなあと思うかもしらんけれども、じゃそれは活字を紙代と思っているがなかにはいっている思想はどうかね。高橋信次が語った本なんてことはね、これは一億円払ってもありえないことですよ。高橋信次の復活なんてことはね、これはないことですよ。ありえないことですよ。
みなさん、もうこんなの一ページ百万円ぐらいですよ。それだけ値打ちがあるんだな、それをわからなきゃいけない。
3.「心」と「行ない」双方のバランスが重要
だから心だけを追究するとね、人間また不自然になるんだな。心だけを追究すると、またバランスの悪い人間になっちゃう。ほんとう心はええんだけれども、なんかもうこの世離れした先生なんていっぱいいるんだね。
なにかっていうと先生のところへ訪ねて行ったり電話すると、ただいま瞑想中、ただいま瞑想中なんてね、そんな先生もどこかにいるはずね。
それから「あらいまね、ガブリエルが目の前に現われちゃってね、そうなのよフィリピン行けば金鉱が埋まってるのよ。ね、あなたなんでみんな行かないんでしょうかね。フィリピン行けばそうよ、あそこのとこよ。この島の端っこのところ金鉱埋まってるの。そういう通信を受けたのよ、だれか行って掘らないかしら。」とかね。
あるいは「日本海にね、宝船が沈んでいるのよ。そう私は教わったのよ。だれかやればいいのにねえ。」なんてね、家のなかに四畳半のアパートにこもって霊と話ばかりしていたら、やっぱり行ないのほうがおかしくなっちゃうんですよ。
それで古代インドスタイルで道を歩いたら、買物なんかしてたら、いろんな人が見ればほんとうおかしく見えちゃうんですよ。そういうことになりますね。
だからつまり、両方でね、両輪なんですね。やっぱり問題があるんだね。ね、行ないはいいけど心のほうはさっぱりだっちゅう人もいるかもしれませんね。
もうやることはいいことやってると思うんですけど、心のなかはもうねたみと嫉妬の山だったりしてね。口から言うことはもうほんとうにいいことばっかり言ってて、もう心のなかは嫉妬で煮えくり返っている。こんなこといっぱいあるんですよ。世の中ね。
政治家なんかとくにそうですね。行ないのほうはね、口ではいいことを言ってもう天下国家論じてね。私がいかにみなさんのためを思ってね、みなさんを幸福にしたいか。
白い手袋をはめて手振っちゃって「ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。高橋信次最後のお願いでございます。衆議院選挙、高橋信次、最後のお願い。もう最後のお願いでございます。」とね。
「みなさんいま物価を下げ、そしてみなさまの手に正しい国政を取り戻しましょう。」なんてね。ウグイス嬢が「ありがとうございます。ありがとうございます。ご声援ありがとうございます。」なんてね。で、街の人、道行く人ペーッてつば吐いているのにね。一生懸命言っていますね。
まあこういうふうに、外面いいことあったって心のなかはぜんぜんちがうこと考えていることもありますね。
当選さえすりゃね、あとはこっちのものだ。ようするに公約なんて踏みにじったってもう忘れて憶えてはしないんだよ。
国民なんて公約なんてそんなもの甘いんだから、憶えてはいないんだ、と思っちゃえばいいんだ。もうともかく税金は下げますね。みなさんの利益になるようになります、こういうことを言っとけばええんだ。はいったら恨まれムうが自由だ、なんてね。
いっぱいいますよ、こんな人。ぜんぜん駄目ですね。そういうことなんです。
だからこの世を去ってあの世還ってもね、やはりもちろん心が中心だけれども、心と行ないと両方ね、裁かれるのですね。
だから昔はようするに地獄に堕ちる人っていうと行ないのほうね。行為だけのことよく考えられましたね。人を殺したら地獄に堕ちる。それから物を盗んだら地獄に堕ちるね。隣の家の妻を貪(むさぼ)ったら地獄に堕ちる。
こういうことをいろいろまあ言われておりましたが、じゃそれさえしなけりゃいいのか。戒律となってね、戒律さえ守ればええのかといったら、戒律守ったのに「あれおかしいなあ、ストーンと堕ちちゃった。」っていっぱいあるんですね。
戒律は守ったけれど心のなかは真黒けっていうの。そりゃあそうですよ。人は殺さなかったね、たまたま気が弱かったから。
人は殺さなかったけど心のなかは毎晩毎晩「殺したい、あいつを殺したい、殺したい。」こんなこと一生思って死んであの世に行ったら、そりゃ行くところは地獄ですよ。
そんなところへ行っちゃいますね。だから意外にこの辺がわかんないんですね。
だからイエス様が聖書のなかで言ってますねえ。心のなかでやはり思ったことも罪だということを言ってますねえ。
「心のなかで姦淫したる者は実際に姦淫したのといっしょだ。」ということを言っていますねえ。こんなのは知らない人だと困っちゃうんですね。
「こんなそんなひどい。そりゃねえでしょうイエス様。」ってね。「心のなかで思っただけでじっさいに子供ができちゃったりしたらいろいろ問題があるでしょうが、心のなかで思ったってあなたなにも子供ができないしね。未婚の母にもならないし、悪くないじゃないの。」なんて言うけど、まあそりゃね。
そりゃあの世へ行けば心しかなくなるんでね。心のなかでいつも悪いこと考えていりゃ、そりゃ悪いところへ行くんですね。そりゃしょうがないやねえ。
そりゃ行ないはよかったなんてね。そりゃそういうわけにはいかないんですね。だからまあその辺がむずかしいんですよ。
だからじゃあアリ一匹殺さない、心のなかでアリ一匹殺さない。「しまった、きのう蚊を一匹つぶしてしまった。パチンと蚊をやっちゃった。もう僕の罪は許されない。もう心と行ないも悪かったから地獄で永遠の業火(ごうか)に焼かれる。」なんて、まあそういう極端もあるけれども、まあその辺ね、両方やはりよく見ていかねばならんのですよ。
4.不自由しないていどの金銭的余裕が必要
だからねえ、まあかえってね、その行ないを制限することによってこんど心を縛っちゃう場合もあるんだなあ。これがむずかしいんだよね。
だからもうお金はいけない、お金はいけないっていうことでたとえば決めつけられてね、行ないのほうでようするにとにかくお金に縁のない行ないばっかりやると、こんど逆にこれがひっかかるんだな、心のなかでね。
お金、お金、お金ね、ひっかかってくるんだね。ようするに金儲けをしちゃあいけない。お金を使っちゃあいけない。もらってもいけない。まあそれだからお金は動かないはずでね。心のなかではほんとうそのお金のことでもう頭がいっぱい。そんなことではいけないね。
そんなんじゃなくて、適度にお金を使って適度に儲けている人のほうがなんのさしつかえもないかもしれませんねえ。僕はそう思いますよ。
だからねえ、そりゃ神理のやっぱり協力者もそうでね。やっぱり僕はいっしょだと思いますよ。行ないを制限することによって心を縛るということがあるという話をいま、しておったわけですが。
まあねえ、だからたとえば正法行者ね、手伝いたいという人がいっぱい来ておるわけでありますけれども、まあなんて言いますかね、ただこういう神理の手伝いをするとようするにお金をもらっちゃあいけないと。
たとえば頭のなかで思い込んじゃうとまあそれがね、ひっかかりになって苦しんじゃうね。
カアちゃん、子供との調和ね、「子供はまだ小学校よ、あなたどうするの。」なんて言われて「子供は小学校だとたいへんだけれども、しかしこんな神理手伝ってお金もらうのはいけない。一銭ももらえない。」で葛藤に苦しんでね、しょうがないから貯金はたいて田舎の土地を売って生活をするか、なんてね、なっちゃうと苦しみになっちゃいますね。
なんか田舎の山三個売ったなんてね。そんならやっぱりまた近所でね、噂になっちゃう。「へんな教えにこっちゃって山三つ売ったらしいわ。」なんてこうなっちゃうね。
だからまあね、僕はね、前回の中道とも関係するけれども、まあ世間からそうおかしく言われないていどにね、やはりなんと言いますかね、調和ある生きかたといいますかね、これだいじじゃないかな。
だからお金も、お金に不自由しないていどのお金ね、ありあまると悪いことするけれども、不自由しないていどのお金ね。これだいじだと思いますよ。
そうすると心のバランス、行ないのバランスがとれてくる。
まあ仕事もそうだね、多すぎてもやっぱりおかしくなるし、少なすぎても駄目ですね。仕事がぜんぜんないと悩みになるし、多すぎるとアップアップいっちゃう。だから仕事のことをほしいと思わず多すぎると思わないていどのね、仕事だいじですね。まあそういうことですね。
5.心と肉体の調和のたいせつさ
だから中道という話も先ほどしましたが、やはり心と行ないはね、適度の調和は僕はだいじだと思いますよ。
だからね、なるべく自然体でいくとするならば、まあふつうはありえるかたちでのね、生きかたがいいんじゃないかな。
だから釈尊の生きかたなんかもね、まあある意味では中道と言いつつもちょっと極端はあったと思いますよ。けっこう極端から極端にゆれたと思うんだな。
王宮の栄華、二十九年間栄華の生活をしてそのあとこんどは洞窟のなかで六年。そのあとボロを着て布施をもらいながら生きていく。心は錦かも知らんけれども外はボロボロと。まあこういう生きかただったよね。
まあそのまま真似はできないね。そういうことがあると思うんで、まあ精神的なるもの、精神的なものはすべてであるなんて教えを垂れるかたもいらっしゃるけれども、まあほどほどもだいじだね。
だから色心不二っていうこともあるけれども、心と肉体ね、これは不二一体であると、両方だいじだと、そりゃそうですね。
心さえ磨いとけばいいんだといっても、そりゃあね講演会のとき、栄養剤の一本も飲めば元気も出るんでね。そりゃそうなんですよ、天上界の光だけ受けて講演をやるわけでなくて栄養ドリンクの一本も飲めば、そりゃあ元気はいい。
声の出る薬を飲めばいい声が出る。そりゃああるんですね。そうしたことはあります。だからまあ外面と内面のね両方をだいじにしていく、こういうことがひじょうに僕はだいじだと思いますね。
6.八正道に基づいた心の探究
心とはなにか。だいじだとするその心はなにかというとね、これはひとつには八正道だね。八正道に基づいた心のありかたの探究、これがだいじですね。
で、八正道に基づいた心の探究ってなにかっていうと、まあ正しく見るっていうことがまずひとつですね。
だからまあ心のなかを分析するときに自分は正しく見たかね。それから正しく語ったか。正しく思ったか。正しく仕事をしたか。あるいは正しく生活をしたか。正しく精進をしたか。正しく念じたか。正しく定に入ったか。まあこういうことがありますね。
こういうことを基準でもってね、まあこれが心と行ないを両方みてますね。八正道というのは行ないと心と両方はいってますね。
正しく見るっていうのは、まあこれは行ないでありましょう。それから正しく、たとえば語るっていうこともこれも行ないですね。
それから正しく生活をする、一日の日々の生活が規則正しいもので人間的な知恵からはずれていないものかどうかね、神理に則した生活をしたかどうか。これだいじなことですね。生活が乱れておったらどうしようもありません。
夜中の三時になったらアルコール飲んで外でね、わめき始めるとか、犬といっしょに遠吠えするとかやり始めたら、たいへんなことになりますね。こんなんじゃ駄目ですね。人間としてやっぱり規律のある生活、だいじですね。
あるいはこれ以外にも、まあ正しく念ずる。まあこれは心の作用でしょうね。どっちかといったらね、心の作用ですから。
正しく精進する。精進するといったら現代的にいうとまあ勉強だろうね。神理の勉強する。霊言集を読む。そしてそれを人に話したりする。まあこういうのも精進でしょうね。
正しく定に入る。精神統一の時間を持つというのかな。まあこれも行ないのほうでしょう。
だから八正道のなかにも行ないの部分があって、見る、語る、それから生活する。仕事をする、定に入ると、こういうところが行ないでございましょう。
7.「思い」と「念」
これ以外に正しく思うね。正しく念ずる。まあこういうところが心の部分でしょうね。正しい思いっていうのはずいぶん大きいけれども「思い」と「念ずる」ね、これがだいじですね。
正しく思うっていうのはどういうことかというと、一日の生活というのは反省して心のなかに去来した思いというのを点検するということですね。これが正しく思うということ。これになるわけですね。
正しく念ずるというのは、まあある意味では現代では自己実現でありますね。自分の将来のことをみんな思っておるでしょう。
ただこの時に正しい自己実現のありかたを思っているかどうかね。こういうことですなあ。神様の心に反した方向で思ってないかどうかね。こういうことを考えることかだいじですよ。僕はそう思いますね。だからまあ両方ですね。
「念」というのはようするに、一定の方向性を持っておるのですね。そしてそちらに向かっていく。これが念ですね。
それから「思い」というのはそういうものじゃなくて、寄せては引くような波のようにね、寄せては引き、寄せては引きする。これが「思い」ですね。だから一日のうちもそうした思いが寄せたり引いたりしとるわけですね。
それからそれとはまたべつにね、念(おも)いというのは念というのはね、川のように一定の方向性をもって流れ落ちてる。これを念というのですね。だから正しい思いの「思い」は海岸線の波です。寄せたり引いたりしています。
ところが「念」というのは川ですね。上から下へ下っていく方向性をもってね、勢いをもって下っておる、これが念ですね。
だから川と海ですな。海と川、これが思いと念ですね。この二つなんですね。
思いと念、これが心のなかを流れておるということなんですね。心のなかを流れておる水、これが思いと念の部分だということで、だから心の部分というのは主として波の部分と川の部分、この二つ。海と川、この二つをよく考えてみるということだね。
で行ないは正しく見たのかどうかね、語ったかどうか、こうしたことを点検していくんだね。
じゃあ心のなかの正しい思いっていったいなんだろうか。
正しい思いってなにかな、考えてみるとけっきょくね、これが神の属性に合った思いということですね。すなわち否定的な思い、マイナスの思いでないことだな。
マイナスの思いってなにかというと、たとえば人を不幸にする思いだね。あるいは自分自身を不幸にする思い、これはマイナスの思いですな。
自分自身を不幸にする思いっていうのはなにかっていったら、まあ愚痴、不平、不満ね、足ることを知らん欲望、嫉妬心、こんなのはみんな自分を不幸にしますねえ。
そうでしょう、恨み、つらみ、それから人を不幸にするものもあるねえ。怒り、こんなのはそうでしょう。怒りの思い、まあ憎しみの思いもそうだな。怒りとか憎しみ、こういうものは他人を不幸にする思いですね。
まあこういう極端な恨み、羨望、こんなのそうだろう。他人にたいするマイナスの感情だね。それから自分に対するマイナスの感情、両方ある。
こういう、自分も幸せにならず他人も幸せにならんような生きかたというのは駄目なわけですねえ。だから両者を生かせるような思いかどうかね、こういう点検だな。プラスの思いかどうか。
念というのはようするに、いわゆる自己実現の推進エネルギーですから。自分がときどき思うでしょう、将来のこと考えるでしょう、みんなね。来年はどうなっているかなあってね。
来年は仕事うまくいってるかなあ。肩叩きされるのかなあ、それとも家が建っているかなあ。失業をして失業保険もらっているかなあ。病気しているかなあ。健康かなあ。いろんなこと思いますね先のこと。これ念ですね。
だからこれも積極的な建設的な面を持っているかどうかね。そして、建設的というのは自分にとっても発展的な方向であるし、他人や社会を生かすような思いであるかどうかね、こういうことがだいじですね。この二つがまあ心の部分に当たるでしょう。
8.「行ない」としての「正しく見る」、「正しく語る」
あと行ないの部分は、まず正しく見るということですねえ。見るということは、もうこれは心の部分にそうとう関係していますがねえ。
見るというのは慢然と、ようするに目の網膜に姿が映るだけを見るとは言わないね、見たことをどう思うかということにつながっているから思いとも関係しておりますが、ただやはり、フィルターをかけてね、サングラスかけて色メガネで人を見たりね、ものごとを見たりしていないかどうかということだね。そういう極端な見かたがあるのですねえ。
だから研修会なんか行って、ある人がたとえばワンワンと泣いたとする。それをある人が見れば、ああ感動の涙を流していると見る。ある人が見れば、悪霊が憑いてあばれとったと見る。事実がどっちかを知らない。
ただそういうふうに物の見かたというのはちがうわけですね。こういうことがあるわけです。
まあそれ以外にも、たとえばなんといいますかね、「見る」のつぎは「語る」ですねえ。「語る」でも同じですねえ。悪しき言葉というのはあるのですねえ。
その言葉が人の心に突きささる。こういうことだってあるのですね。心のなかに突きささるような言葉、こういうのはありますね。
だいたい人が不幸になるのは言葉ですね。こういう言葉が突きささっていきます。こういうことがありますねえ。
これ以外にも言葉以外にもありますが、それは、まあ書いたものなんかそうだろうねえ。言葉というのは口走ったものだけじゃなくて、手紙とかありますね。
よくありますねえ。怒りの手紙なんか夜書いて出すななんて。朝まで置いといてね、出す前にもう一回見てから出しなさいって言いますね、よく。
夜は感情的になってすごいこと書いているのですね。「もう絶交だ。」なんてね。
「許さない。殺してやる。」なんて書く。朝見たら、朝日のなかですかして見るとね、「なんだかおかしい。」 っていうことありますね。
だから語るだけじゃなくて書く言葉も同じですね。だいじです。人を不幸にしちゃいますし、自分も不幸にしちゃいますね。いったん発した言葉というのは、ようするに他人を不幸にして自分のところにまた還ってくるものですね。
だから言葉の訓練、ひじょうにだいじですね。
9.反省によって希望のある人生の第一歩を踏み出せ
それからあと正しい生活ということね。これはまあ枠をはずさない、則(のり)をはずさない生活ですね。こういうことがひじょうにだいじです。
まあこれ以外にはそうだね、あとは仕事だね。仕事のやりかたというのはまたべつなときに話はしなければいけないと思うけれども、現代的神理にかなった生きかたね、仕事というのはまたべつな機会を設けて話をしなければいかんでしょう。
あと定(じょう)の入りかたね、精神統一のしかた、これは専門だね、宗教なんかの、毎日毎日自分を正すための精神統一ということも必要と、まあこういうことですね。まあそういうことです。
だからいま思いと行ないと、まあそういうことでふり返ってきましたが、やはり人間というのはね、ぼんやりと自分自身を、なんの気なく毎日を生きておりますからよくよくね、自分というものをふり返り、やっぱり見なおしていかねばいかん。
そのためにはいくつかの視点、反省点、というものを設けてね。やっていかねばいかん。まあそういうことなんですねえ。
だからよくその辺をね、考えてやっていきなさい。まあかんたんでありますけれども、心と行ないということでこれがいちばんだいじですよ。この基本の部分をね、忘れないでください。
まあ反省とかについてはね、またあらためて話すこともあるでしょうが、その心と行ないの不調和をようするに取り除く方向が反省であるわけなんですね。
反省ということによって私たちはその不調和の想念を取り除き、不調和の行動というのを改めることができるのですね。そしてより光り輝いた生活へと第一歩を歩むことができるのですね。
だからこうした心と行ないをようするに点検して、そしてやる作業が反省ということですね。反省によって私たちは誤りを正し、正しい人生、希望のある人生への第一歩を踏みだしていくことができるのですね。まあそういうふうに思ってくださいね。まあ以上です。