目次
1.言葉の影響力
6.言葉で人を創る
1.言葉の影響力
つぎに「正しく語る」ということを話してみたいと思います。これは正見と並んで、ともにひじょうに大切な修行の目標であります。しかし、この正語はかなり難しいことです。それは「真説・八正道」という言葉に接して今まで自己の心をチェックしてきた方すべてが、その難しさを感じておられるのではないでしょうか。
もし一日が終わる時点において、自分がその日一日に語ったことをテープレコーダーに収録されていて、就寝前にもう一度それをかけられたらどう思うか、これが正語的発想の出発点であります。
一日を過ごし、そしてその日に自分が語ってきたことが、もしテープレコーダーに残っていて、それを寝る前に聞かされたとしたら、どう判断するか。自分が語ってきたことを、もう一度他人の目で見てみよ。第三者の目で見てみよ。こう言っているのです。これはきわめて難しいことです。正見も難しいことですが、正語はさらに難しいことです。
自分の語っていることが他人にどういう影響を与えているのか。そしてその言葉を出すことによって、自分自身がどう影響されているか。自分が出す言葉によって、自分がどう影響されているか。これがわからない人がほとんどです。九割以上の人がそうです。そして不幸をつくっているのは自分自身が出している言葉であることのほうが多いのです。
たとえば、私のところにもいろいろな相談ごとがよく来ます。自分が他人から被害にあっている、というような相談です。いつも上司に怒られているとか、いつも夫の暴力で悩まされている、いつも妻の悪口雑言で苦しんでいる。そういうものに四六時中苦しんでいるという苦情が出されるわけですが、「ほんとうに四六時中ですか。」と聞いたら、そんなことはないのです。
よく怒る上司というのが、年に二回ぐらい怒るとか、一日中、朝からベッドのなかまで小言を言うという妻が、時間で計ってみたら一日に三十分も言っていないとか、そういうことなのです。ところが、そういう自分を害する言葉がエンドレス・テープのように回り続けているように感じるのです。
それはなぜか。まず、その事実を自分が目に出して確認していることが多いのです。「お前は一日じゅう小言を言い続ける。」「いつもいつも聞かされて、自分はまいっている。」こういうことを自分が目に出して言い、言葉に出すことによって、その事実が客観化してくるのです。そうして自分が出した言葉によって、今度はしばられてきます。いったんそういうことを言った以上、毎日毎日、妻から責められていないと気が済まないのです。そのように思わないと気が済まなくなるのです。自分が言ったから、その言葉を信じる以上そうなってくるのです。こういうことが実に多いのです。
そのことを心に留め置かなかったなら、翌日になれば忘れられるようなことであっても、それを言葉として表現してしまった場合に、その言葉は残るのです。自分の心のなかに残り、他人の心のなかに残るのです。
五年前、十年前のひとの言葉が心のなかに残っていないでしょうか。心に突き刺さっている言葉というのは、何年も前の言葉が多いはずです。そのとき、その人の不用意なひと言が突き刺さって自分を傷つけている、こういうことはずいぶん多いはずです。そして、その言葉を発した当の本人は、それを覚えているかといえば、覚えている人はまず一割にも満たないのです。厳密に言えば二、三パーセントもいるかどうかでしょう。
たまたま体調が悪かったとか、機嫌が悪かったとか、他の事件があって忙しかったとか、そのようなときに出した言葉であっても、出したらそれは残るのです。言われて、聞いた人が、それを心のなかに刻印したら、それは残るのです。もちろん修行をしていて、そういうものを流していける工夫をしている人は別です。そういう人は別ですが、普通の人はそうした言葉を残してしまいます。
とくに女性の場合は強く残ります。言われた言葉がまるで写真を焼き付けたように残っていて、現在ただ今の言葉のように感じられるのです。十年前に言われたことであっても、現在ただ今、その人の顔を見た瞬間に条件反射でパッと出るのです。
たとえば十年前に「お前が嫌いだ。」と言われて、今は好きになっているかもしれないけれども、会った瞬間にそれがパッと出るのです。あたかも電光掲示板のように、脳裏を走るのです。「君は服装のセンスが悪いね。」と以前に言われていたら、その人の考えはもう変わっていて、今はセンスがよくなったなと思っているかもしれないけれども、それを言わない以上、十年前に言われたことがそのまま残っています。そして会った瞬間にパッと出てきます。それほど言葉というものの影響力は大きいのです。
「正見」のところで、「見る」ということについて責任を問われることがない、その意味において「見る」ということはチェックされにくいと述べましたが、これに対して、「語る」ということになると、これは世間的に、客観的にチェックされます。そして「語る」という行為の結果が、世界をよりよく創造してゆく愛ともなれば、世界を破壊していく暴力ともなるのです。
2.自他をそこなう不用意な言葉
こういう力を持っている言葉をととのえるということは、もはや勇気をもって、努力していくしかありません。これはひとつの格闘です。自分との闘いです。
「正しく語る」ということの探究には、終わりがないのです。永遠に終わることがないのです。永遠に終わることがありませんが、少なくとも一日を終わるときに、その日に話したことをテープで聞かされたとして、何とか安らかな眠りにつける状態まで努力すればよいのです。テープを聞いてしまったら眠れなくなるような、そういう言葉であったら、これは大変です。聞いても「ああ、まあまあのことを言っている。」と思って眠れるようであれば、それでよいのです。そこまでは努力しなければなりません。
さて、ここで問題になるのは、言葉で特に人を傷つけた場合です。こうした場合、相手の心には何年も何十年も残っているけれど、言った本人は自らの心の内で反省しているということがよくあります。その場とか、あるいは翌日、あるいは一週間以上たって反省していることは多いけれども、それを自分が心を改めている、考え方を変えたということを、どうしても語れない人がほとんどであります。悲しいことに、九割以上の人がそうなのです。
コンピューターのインプットでも、間違えればアカ・クロと言って、修正伝票を入れます。もし、この修正伝票が間違っていれば、またその入れ直しをしなければなりません。たいへんな作業がいるのです。
同じように、私たちも間違ったものをインプットしてしまったと思ったら、差し替えをしなければきれいなものは出ないのです。いつまでたっても心の帳尻は合わないのです。がんばって、差し替えをしなければいけないのです。
悩みの原囚は、プライドにあることが多いのです。自分はひとから嫌われていると思っている人は多いでしょう。あなたはどうですか。ひとから嫌われていると思っているでしょうか。それとも、ひとに好かれていると思っているでしょうか。
自分はひとに嫌われていると思っている人は、よくよく自己分析してみてください。たいていの場合、言葉で嫌われているはずです。例外をはずせば、たいていは言葉で嫌われているのです。不用意に出した言葉が原因になって、ひとに嫌われているのです。ひと言ぐらいなら許されても、それが二回、三回、四回と続いたら、もうひとは許してくれなくなります。この人はこういう言い方をする人で、こういう考え方をする人だと、決められてしまいます。
ひとに嫌われていると思っている人は、実際はひとを傷つけるようなことを言ったことがある人なのです。ひとを傷つけたり、他人の感情を害したりしているのです。そして、害していることに対して、何らのアクションを起こしていないのです。みんなが自分をいじめるとか攻撃するとか思っているけれど、それは自分が不用意に、思いつくままに言ってきたことが、みんなの神経をいらだたせたことが原囚であるということが多いのです。
そういう原因による悩みならば、数分で終わるのです。「私はあのとき、ほんとうに間違っていました。」と言ったら、そんな悩みは終わりなのです。謝ってくる人にムチ打てるような非情な人はそんなにはいません。そのようなことできないのが普通です。反省している人を見て、ムチ打ったり、裁いたりできるものではないのです。
3.プライドを捨て素直に謝罪する
天上界においても、いちばん崇高な姿のひとつに反省の姿があります。自分の過去を反省して涙を流している姿を見れば、天使たちも喜んでいますし、悪魔たちであっても、もうどうにもできません。反省して涙を流している人の姿を見たら、悪魔たちも、もう近寄れないのです。そういう人に対して、何もそそのかすことはできないのです。申しわけなかったと言っているような人には、もう何もできないのです。
自分の、長年の苦しみだと思っているようなことは、先にも述べたように、実はプライドでひっかかっているだけのことがあるのです。上司が自分をいじめ続けるなどと思っていても、何のことはない、実際は自分のほうが言うことを聞かないで、何だかんだと生意気に反抗したり、仕事をしなかったり、そのようなことがひっかかっているだけのことであって、態度を改めて「申しわけございませんでした。」と言えば、もうそれで終わるようなことを、永遠の地獄として自分で創り出しているのです。このようなことが、実に多いのです。
地獄霊たちは特にそうです。「絶対に反省しない。」と言ってがんばっています。「絶対に認めない。オレは悪くない!」と言い切っています。こういう者に対しては、「ま、ずっとそこにいなさい。」と言う以外にありません。「申しわけありませんでした。」という、反省が、彼らにはできないのです。
これを「自我」と言ってもいいでしょう。自己保存欲とも言えます。エゴと言ってもよい。しかし美しく言えばプライドです。自分のプライドであり、自分がかわいいと思う心なのです。
しかし、ほんとうに自分がかわいいのなら、自分を救うことをこそ考えなければいけないのです。自分を苦しみから救出しなければいけないのです。そのためには、間違ったと思ったら素直に「ごめんなさい。」と言う気持ちを出さねばならないのです。これだけのことでどれだけ幸福になるかわからないのです。それだけのことで、自分が幸福になり、相手も幸福になるのです。まわりの人も幸福になれるのです。
プライドの高い人は、自分を救いたくて自分をどうにかしたくて、かわいくてしようがないのです。であるならば、そういう自分を救いたいならば、間違いと気づいたときに素直に謝ることです。
ひとの感情を害したと思ったら、もし、それが誤解によるものであったとしても、自分を縁として起きたことであるならば、それは自分の表現のしかたが悪かったと、素直に認めるぐらいの度量はいるのです。
コミュニケーションというものは百パーセントはいかないのです。ですから、もし自分の真意はそうでなかった、そうではなかったけれど、みんなに誤解されていると思ったら、たとい真意は違っていたとしても、誤解されたということは、そのコミュニケーションのしかたに間違いがあったのですから、その部分は認めなければいけません。
それは自分の表現が悪かったのです。表現のしかたについては、自分がやはり間違っていたか、足りなかったのです。本心においては間違っていないと言い張りたいけれども、理解されなかったということはコミュニケーションのしかたが悪かったのです。あとになって、「ほんとうはあなたに、好意を持っていた。」と言っても、修正が遅すぎてもう手遅れになっているということは少なくないのです。
コミュニケーションが悪かった部分は、これも自分の責任として受け止めるべきです。相手が誤解したのであるならば、誤解させるような言い方をし、行動をしたのは自分の責任です。少なくともその部分については、反省し、悪かったと言わなければなりません。それでもわかってくれない人はもちろんいます。しかし、少なくとも自分自身は、そこまで言っておけば夜は安らかに眠れます。これだけは確実なことです。
4.他人の言葉の受け止め方
このようにこの言葉の部分だけは、よくよく考えてみる必要があります。何度も何度も反省してみることです。自分に向けられるマイナスの評価というものは、人間はとかく針小棒大に感じやすいものです。ほんとうにはそれほどに思われていなくてもひどく大きく感じてしまいやすいのです。
そして自分に対するほめ言葉はなかなか素直に受けとれません。人にほめられても「いやー」などと謙遜していて、翌日になると、「やはりあれは自分をからかおうとしていたんだ。」などと、悪く考えてしまいがちです。
ほめられても素直に喜ぶことができず、悪く言われれば信じてしまうのです。悪いことを言われると信じて、いいことを言われたら疑ってかかる。こういう性格の方は絶対に幸福になれません。このことはよくよく知っておいてください。『「幸福になれない」症候群』という本を私は出しておりますが、あなたがこういう性格ならばこの本の第二部に登場していただかねばなりません。このように言いたくなる人が、実に多いのです。
女性は半分以上がそうではないでしょうか。ほめられれば「でも、ほんとはあれは……」と疑ってかかり、怒られたらまじめに受け取って、十倍ぐらいに拡大して信じるというような人が、たぶん半分以上なのではないでしょうか。
こうした「幸福になれない」性格、これは努力で克服できるのです。また、克服しなければいけないのです。克服しなければ、あなたの心の地獄領域の増大になるのです。ささやかなことでもほめられたら素直に喜ぶ、その素直さがだいじです。
5.注意されたら感謝せよ
もうひとつは、人から怒られた場合の受け止め方です。これにはいくつかあります。人に怒られて人格を否定されたと思って、闘いを挑むというような応じ方もあるでしょうが、人から怒られた場合には、いきなり反発すること、これはまずやめてください。怒られたときに、その場で反発するのをまずやめることです。これは下の下です。ゴリラでもそういうことならやります。ゴリラや原始人は、殴られたら殴り返すでしょう。こういうことは文明人としては最低であると知ってください。
人から怒られたり叱られたりしたという場合には、まず、五秒や十秒もちこたえてみてください。これをまず私は提言します。五秒でも十秒でも、もちこたえることです。そしてそのわずかの時間に、頭のなかで考えをめぐらせてください。ほんとうにそう言われるような原因があっただろうかどうかと、考えてください。
そしてその結果「ないかもしれない」という判定が出たとします。ないかもしれないが、そういうふうに誤解される余地があったかどうか。先ほど述べたようなコミュニケーションの悪さとか、そういうところで誤解を受ける余地があったかどうか考えてみてください。
そうして、その余地があったと思えるならば、まずその批判はいったん受けてください。「自分にはまだ至らないところがあった。」と受けとめてください。そのように受けると、相手はおさまってくるものです。そして「どこが悪かったのでしょうか。」「今後のために、もう少し教えてください。」と言うのです。叱られたら、一瞬考えて、たしかにそう言われる余地がある、そのように見られる余地があると思ったらいったん認めて、注意を受けて、「ありがとうございました。」と言うことです。怒られて、「ありがとうございました。」と言える人は少ないのです。これは偉人です。こういう偉人はめったにいません。怒られたときに、「よく言ってくださってありがとうございました。」「私の悪かったところについてもう少し教えてください。」と、素直に教えをこうだけの度量があったら、これはやはり大人物への第一歩だと私は思います。
それだけの度量のある人がほとんどいないのです。私自身にもないかもわかりません。しかし、私の場合、いつも高級霊に叱られていますから、度量はあります。いつも怒られていながら、それで機嫌よくやっています。「すいません。」「どこが違ったんでしょうか。」「ああ、そうなんですか、わかりました。またがんばります。」と言ってやっておりますから、私自身の未熟な点についてはお許しください。
人間は、素直な人に会うと、いつまでも怒っていられません。もし言葉ぐせがひどく悪く、批判癖があって、厳しくてみんなから煙たがられているような人であっても、こういう人に出会ったら、もう何も言えなくなります。ありがとうございましたと言って、教えをこうような人にぶつかったら、厳しい人あっても、グーッと詰まってまいます。「いや、オレも大人げなかった。」と言うことになるのです。
反発して、そして喧嘩をすればそれまでですが、素直な態度に出れば相手までが変わってくることがあるのです。それを知らねばなりません。
もちろんこれは一般論的に言ってのことです。いうまでもなくケース・バイ・ケースです。ヤクザにからまれて「どうぞ教えてください。」などとやっていたら、バカを見ますから、そういうのはほどほどにしてください。そこは知恵を働かさなければだめです。
6.言葉で人を創る
それともうひとつ、この言葉のところで、私が言っておきたいことがあります。それは、「叱ると怒るの違い」ということでもよく言われますが、厳しい言葉を言わねばならぬときもあるということです。これを忘れてはいけません。
「これは間違っている。いけない!」と思ったときには、その人に言ってやらねばならないのです。それはちょうど、赤信号のときに横断歩道を渡っている子供といっしょです。「行っちゃいけない。」「もどれ!」と、そのときには、口荒くても言わなければならぬことがあるのです。
同じように、その人の人生の岐路において危険な領域に入っているとき、たとえて言えば崖から落ちそうなときには、もう殴ってでも突き飛ばしてでもいいから、救ってやらねばならぬところがあるのです。それが厳しい言葉となって表われることもあります。そうしなければいけないときというものもあるのです。
そういう厳しさを出せないがために苦しんでいる人も少なくありません。こうした人は宗教的人格のなかにひじょうに多いのです。言うべきだとわかっていて言えないのです。男女関係でも「そのひとことが言えなくて……」、というのがありますが、正語においてもこれがほんとうにあり、宗教的人格のなかに多いのです。「これはいけないな。」と思いながら、そのひとことが言えずにまあまあで過ごしていると、やはりだんだん違ったほうに行く。そのひとことを言う勇気がないがために、結果は自分が反省し、相手もたいへん反省しなければいけないことになっていくのです。
神理を学ぶ人、みなさんここかつらいところです。心を鬼にするというのは難しいことなのです。しかしそれを敢えてやらねばならないことがあるのです。こういうときは自分は俳優だと思ってやることです。自分は俳優だと思って、その場、その場の悪人ですが、それにならねばならぬことがあるのです。その人をほんとうに救ってやらねばならぬときには、心を鬼にして悪人になるべきときがあるのです。
これは私もやはり体験上感じました。神理を勉強してやっていると、やっぱり善人でありたいものだから、人に厳しいことは言いたくない。耳ざわりのいいことだけ言って、厳しいことは言いたくない。しかし、そうしているとだんだんうぬぼれが出たり、心にゆるみを生じたりしておかしくなっていくのです。
そうなる前に、危険領域に達したら、やはりズバッと言ってやらねばならないのです。これを言いそこねたら、命を失わせてしまうのです。心を腐らせるということは、それはもう命を失うのと同じことなのです。そういう悪を犯させてはいけないのです。そのときには心を鬼にして警告をしなければなりません。
会社勤めをしている方などもそうです。部下、あるいは同僚のなかに間違っていると思うような人がいるでしょう。そして日ごろはやはりある程度まで、そういう人のことを我慢できるところまでは、受けて忍耐しているでしょう。しかし、危険領域を超えたときには、やはり、警告してやらねばいけません。
「これ、言っておくが一回目の忠告。」「これは二回目。三回目のときには覚悟しろ。」って言われたら、こういう人は恐いです。私もよくやっておりました。「警告、一回目。」「二回目。このつぎは覚悟しろ。」と、やはりやっていました。ビジネスマン時代、私は厳しかったのです。私の後輩とか部下は、ビリビリしていました。今はニコニコしているけれども実は、ものすごく恐いのです。ジッと見ていて自由にやらせていて、たまに言うのです。「これ一回目だ、覚えておけ。」「これ二回目。」三回目まではいかないで済むことが多いです。たいていは二回目までで済みます。このように、やらねばならぬことがあるのです。
相手が上司であってもこういうことはあるかもしれません。やらねばならぬことがあるかもしれません。
いっぺんに爆発させることができない場合には、分割することです。いっぺんに爆発して、人格を失ってしまって、天井も抜けるかというような怒りを発する人もいますが、ここまでやってしまうと、これはあと取り返しがつきません。人間関係が完全にくずれてしまって、以後その人も異常な人格、変人として扱われますし、言われた本人は、もう恐くて近寄れません。二時間も説教されて若手の社員がひっくり返った、などという話がよくあります。優良会社の部長といった人で、そういう厳しい人がよくいますが、そこまではやはりやらないように、ある程度の限度にきたときに一回目、二回目と、三分の一ずつ出していくことです。三分の一ずつ出して、三回目は最後になりますけれど、そこまではいかさないというところで押さえること、これもだいじなことです。
ほめ言葉で人を創っていくこと、これがひじょうに有効なこともありますが、逆もたまにはある。それは「良薬は目に苦し」の部分です、時には口に苦い部分も必要です。しかし、ほんとうに相手を憎んだのではいけません。その人に善かれと思って言ってやらねばならぬときがある。そのときには断固言ってやらねばならないということです。必要なときには恐い男にならねばならない。恐い女にならねばならぬことがあるのです。そうしてやらなければブレーキが踏めないということもあるのです。これは覚えておいてください。しかし、いつもいつもやることではありません。