目次
1.科学の時代
2.霊と物質
3.肉体
4.心と科学
5.エネルギーの流転
6.新科学の予言
1.科学の時代
科学ということは、現代ひじょうに有意義なものであるというふうにいわれています。科学万能の時代といわれることもあり、科学こそすべてだといわれるようなこともある。また、霊的な立場からするならば、科学万能という言葉がひとつの批判的な言葉として存在することも事実であろうと思います。この科学という問題について、もう一度考え直してみたい。このように思うわけであります。
さて、現代において科学と称されているものの正体はいったい何であるのか。何をもって科学といわれているのか。このへんについて考えてみたいと思います。結局のところ、科学といわれているもののあり方は、実験科学の延長であるということができると思います。すなわち、誰が行なっても同一結果を得られるということ。これが科学的であるというふうにいわれているわけであります。Aという人がやっても、Bという人がやっても同一結果が得られる。これが科学的であるというようにいわれることが多いと思います。
しかしながら、現実はかならずしもそうではない。あるひとつのことをやっても、その人の能力的なるもの、あるいは想念、意思の領域の働きというものは、かならずあるものです。
たとえばこれは科学的領域でなくても、他の部分でも一緒であって、経営なら経営という領域をとってみても、同じ資金、同じ人数の人を使い、同じ施設を使い、同じ材料を使って経営をやったとしても、結果として異なることはあるということです。これは経営者の信念の大きさ、人格、こうしたものが徴妙に反映するからであります。したがって経済の領域などにおいて、ひじょうに科学的手法が取り入れられて、統一的な個性で平均的な経済人として行動するということでもって判断をされておりますが、実際はその人その人の個性があって、同一結果とはならないわけであります。また一定の資金というものが与えられても、その資金に基づく経済活動は、各人が違うわけであります。こうした点において、計量経済学の問題があるわけです。
科学においても似たようなことがあります。それは発明、発見の領域においては、かなり個人の信念の部分が大きく働くということがありえるということです。実験の成功、不成功ということも、かならずしも同様に起こるものではありません。また、発明ということをとってみるならば、発明のなかにはひじょうに非科学的なるものがあります。これが何であるかと言うと、インスピレーションというものの存在であります。この世的に発明された有用なるものは、ほとんどの場合インスピレーションによって得られたものであります。現在ある情報からそれを組み立てることによって、かならずしも発明されたり発見されたものではありません。大部分がインスピレーションによって与えられたものであります。これを霊的直感と言ってもいいかもしれません。
こうしてみると、われわれが、科学、科学と言っているものの内容は、その言葉によってかなり左右されている面があって、実際上はかならずしも科学的であるということが、霊的なるもの、あるいは人間的なる様相、個性というものを取り除くことを意味しないということになります。
また、誰がやっても同じ結果が出るということが、なぜ真理であると言いうるのか。この点についての考察が足りないのではないかと思うわけであります。たとえばこの地上を去った実在界においては、誰がやっても同じことということはありえないのであります。それぞれの霊人がいろいろなことをしようとするけれども、その念ったこととその結果との相関関係は、これは個性によって違うわけであります。大きな念の力を持っている人ならば、それだけの個性でもって行動することができるが、念の力が弱い者であれば、自己実現能力は小さい。このように、あの世においてもそうした念いの力の個性差によって、ずいぶんと現象は違うのである。したがって、誰がやっても同じということはない。こういうことを言うことができると思います。
さすれば、これからの科学の時代を規律する精神とはいったい何であるのか。それは実験科学のごとく、誰がやっても同じ結果が出るということをもって、証明とするのでは正しくないということであります。やはり一定の理念の下(もと)の科学、「理念科学」の存在というのが必要であります。こうしたことがありうるはずであるということをもって研究し、検討していく姿勢というのが必要であろうと思います。
現在の先端的な科学の領域において、こうしたこともある程度考えられています。素粒子の世界などは、かならずしも目に見える世界ではない。したがって、思想的に、あるいはインスピレーションの世界において、さまざまなことが判断されているということができると思います。このように、最後には霊的自覚、霊的直観ということがひじょうにだいじになってくるわけであります。
こうして科学の時代も将来的に見ていくならば、何らかの霊的なるものを取り入れざるをえないというのが現状であろうと思われます。霊的なるもの、すなわち物質を超えたる世界を反映しないような科学というものは、今後発展の可能性がひじょうに少ないであろう。こういうふうにいうことが可能ではないかと思います。そして、科学、科学といっていることの意味を、もう一度考え直す必要がある。科学ということでもって霊の世界、あの世の世界、実在界のことを一律にこれを否定できるかどうか。こうしたことが検討されねばなりません。科学という言葉でもっては否定できなくなる。なぜなら科学というもののなかに、そうした「理念」というものが浸透してくるからであります。
2.霊と物質
さてそれでは、科学が主として対象としている物質と、宗教が研究の対象としている霊、この両者についてさらに検討していきたいと思います。霊と物質は別のものなのか。そうした二元的に別のものであるのか。あるいは霊と物質とはまったく同一のものであるのか。あるいは片方だけあって片方がないのか。霊のみがあって物質がないのか。物質のみがあって霊がないのか。こうしたことが検討されねばならないと思います。
まず、常識ある感覚でみれば、霊と物質とはまったく別のものというふうに捉(とら)えられるであろうと思われるわけです。物質というのは、誰でもが目に見ることができ、触れることができる。その感覚によって感じとることができる。こうしたものの存在を物質というわけであります。明らかにそこに存在感があるということであります。これをもって物質と言います。
ところが、霊というものに関しては、ある者は存在を肯定し、ある者は否定します。ある者はそれが在(あ)りと言い、ある者はないと言います。それは、どうしてそうなるのでしょうか。そこにひとつの理由があります。特殊な者には霊が感じとられ、そうでない者には感じることができない、ということがあるからです。また、追体験をするということがひじょうに難しいからであります。こういうことが霊に対するアプローチのしかたを困難なものとしていると思います。たしかに物質ということであれば、万人がそれを見、触(さわ)ることができるが、霊ということであれば、特殊な者だけがそれを感じとることはできるけれども、それ以外の者はそれを感じとることはできない。こういう理由でもって、霊の存在というのはひとつの信仰の領域というものに、今まで収められていたのだと思われるわけであります。
けれども、もうひとつ深く考えてみなければいけないことは、では、手で触れ、目で見える物だけがはたして物質であるかどうかであります。手で触れ、目で見、耳で聞こえるということは、そこになんらかの感覚に訴えるものというのがあるわけです。すなわちこれが、人間の五官です。五官知と言います。五官でもって確認ができるということであります。
しかし、五感でもって確認ができないものも存在することは事実です。たとえば、私たちは音というものを聞くことができるけれども、私たちが聞くことができる音というのは、ある一定の幅の周波数であります。それ以上でも、それ以下でも聞くことができません。ところが、人間ではない犬なら犬という動物は、あるいは他の動物でもよいが、人間が聞こえないような音が聞こえます。
また臭覚(しゅうかく)でもそうです。特殊な臭覚を侍っている動物は、人間の千倍も、千二百倍も、千五百倍もの臭覚を持っているといいます。またある種の動物は、何キロも離れた物の匂(にお)いを嗅(か)ぎ当てます。人間にはそうした能力はありません。
また視覚においてもそうです。ある種のハゲタカであるとかワシであるとかいうのは、ひじょうに遠くにある獲物というのを見つけますが、とても人間の眼ではそうしたものを見つけることはできません。こうした眼はひじょうに特殊なものであります。
では、そうしたもので見てみると、どうやら我われが感知できるものをもって、それが存在するとは、かならすしも言いえないということであります。たとえば目の見えない人から見れば、色というものは存在しないのと同様であります。それは、他の人びとから説明を聞いて、たとえば赤というものを感じとるとすれば、赤は感じることはできなくて、理解する以外にないわけです。リンゴの色は赤いというようなかたちで理解をする以外にないわけです。そしてオレンジの色はだいだい色である、みかん色であるというふうに感じとるわけであります。またバナナの色は黄色いというふうに説明を受けて、バナナを手に持ったら「これは黄色い」というふうに言うだけであります。こういうふうに言うことはできるけれども、その色を感じとることはできません。
しかし、目が見えるといっている普通の人間であっても見えないものがある。たとえばある種の特殊な眼を持っている人間がいたとして、その眼が顕微鏡で見るような眼であるとするならば、いろんな世界が見えてくるはずであります。たとえば目の前にある机というようなものが、通常の者が見れば、スベスベとした美しい机に見えるけれども、顕微鏡のような眼をしている人間がいたとするならば、そこにはひじょうに、いろんな空気穴があいた、穴だらけの木地(きじ)というのが見えるはずであります。まあ、そうしたふうになるわけであります。
また、眼の普通の人であれば、綺麗(きれい)に殺菌されていると思うような食器であっても、顕微鏡のような眼の人であれば、そこにいろんなものが動いている、細菌が動いているということを見ることができます。
さらにもっと大きな倍率をもった眼で見れば、細胞と細胞の間、あるいは分子と分子、原子と原子の隙間(すきま)まで見えるような人もいるでありましょう。こうしてみると、通常の大きさのものというのは見えなくなってきます。拡大鏡で見たように人体というのが見えれば、もう人体という外の形は見えなくなって、そうした小宇宙しか見えなくなってきます。こういうふうになっているわけであります。
色にしても音にしても、我われが五官で感知できるものはしれている。こうしてみると、その霊的な存在を感じとる人がいるということは、ある程度の感覚機能の差というふうに言えるかもしれません。特に鋭敏な感覚をもっている人がいれば、それを感じとることができるけれども、目の見えない人に、目が見える人が色のことを教えることができないように、そうした霊的感覚のある人がいくら感じても、他の人はそれを感じとることはできないというようなことが言えると思います。こうしてみると、万人が見える、触りうる、感じうるということは、かならずしもそれが存在するということの説明にはならないということになります。
さて、霊と物質ということに関して、さらに突っ込んだ話をしてみたいと思います。結局これは、別のものか同一のものかということでありますが、原則はこれは本来は同一のものであります。霊と物質は別のものではないのであります。本来は同一のものであり、根本の素材は同じであります。
すなわち、霊というものは四次元以降の世界において、神の光の粒子がさまざまな形をとって存在している形をいうのであります。
ところが物質というものは、神の光の粒子が、この地上的な物質化現象として現われたるものをいうのです。現われ、それが集積したるものを物質というのです。その根源はひとつであります。まったく同じものからできているのであります。
たとえていえば。片栗粉(かたくりこ)というものがありますが、霊の世界の光の粒子というものを片栗粉の粉(こな)とするならば、これに湯を差して、そして混ぜているうちに、片栗粉は固まってきます。これをもって、たとえば物質といっているのと同じようなわけであります。素材は同じでも、違ったように現われてくるということなのです。
これは水というもの、あるいは湯てすね。水分と温度という、このような二つの要素が介在することによって、そこに片栗粉という固まったもの、これが存在する。そういう液状のドロドロとしたものが、でき上がるわけです。水でもない、しかし、粉でもない。こういうものです。粉末であったものに水と熱が加わることによって、そうした現状をとるようになります。
こうしたものが、結局、物質の誕生だと考えればいいわけです。光の粒(つぶ)というものは、実在界にいくらでも存在しているわけでありますけれども、こうしたものにやはり一定の条件が加わって、物質は存在しているということなのです。
あるいは、実在界の光の粒を、水蒸気のような存在だといってもいいかもしれません。水蒸気のような存在であって、自由自在に飛び回っているけれども、これを急速に冷却していった時にどうなるかというと、水滴ができます。そしてさらにそれを冷却していくとどうなるかというと、これが氷となるわけであります。こういうふうに、自由自在に飛び回っていた水蒸気が、急速な冷却によって、氷という固形化したものになったという姿、これをもって物質といっていいわけであります。では、水蒸気と氷とは、全然別のものかといえば、別のものではないのであります。それはまったく同じものが違った形状で現われたものなのです。
こういうふうに霊と物質というものを考えてよいと思います。したがって、物質もまた霊に変換されることがあるということです。こうしたことを知らなくてはなりません。
3.肉体
では、霊と物質について考えたその延長として、肉体の問題を考えてみたいと思います。肉体というものは、これは存在するものであるのか、ないのか。また、古来より霊肉の闘いといって、霊と肉というのを二次元的にとらえる向きがあるけれども、これもどうなのであるか。こうしたことであります。
ただ、やはり肉体というものも、もちろんその存在の根拠は物質と同じであります。物質ではあるけれども、これは生物体の体(からだ)として親から子へ、子から孫へと伝えられているものである。こういうようにいうことができると思います。したがって、その意味で特殊な目的をもった物質であることはたしかでありますが、ただその物質そのものが決して人間というものを規定しているものではありません。
というのも、たとえば自然に息をひきとった方というものを考えてみるならば、その死の前と死のあとと、肉体そのものは同じであります。しかし、片方は機能し、片方は機能しなくなります。これはいったい何であるかということであります。これはやはり、そこになんらかの存在、エネルギー存在があったということ、そのエネルギー存在が肉体から離れたということであります。こういうことをいうことができると思います。
たとえばみなさんが痛みを感じたり、あるいは温かみを感じたり、いろいろなことをします。肉体として、注射を打たれたら痛いという感じがしますが、死体に注射を打っても、死体は痛いとは言わない。痛いというふうには感じないのです。これは、痛さというものを感じている霊的実体が、そこにあるということであります。
そうしてみると、肉体も霊も、結局本来の素材はいっしょであるけれども、肉体というものは特別な乗物として、この三次元的に存在しているものである。そして霊と肉体とは相互にひじょうに関係があって、影響しあっているということができると思います。相互に影響しあっているのであります。そういうふうに、本来別のものではなくて、同一のものが違った形に現われていて、そして相互に感応しあうものであるということが可能であろうかと思います。
そこで、古来から霊肉の対立ということがいわれるけれども、これはどうなのであるのか。肉体そのものが、霊的存在を無視して行動するということかありうるのだろうか。ないのだろうか。このへんについてさらに検討したいと思いますが、霊的な存在というものそのもの自体も、決して一様のものではないということです。霊的存在のなかにも、何層もの意識体というものが入っているということです。したがって、その外殻部分においては、ひじょうに肉体意識と共通するような部分があるということです。つまり霊と肉とが対立しているのではなくて、その霊的存在の外側の部分において、ひじょうに肉体に感応しやすい霊的な部分があるということです。その部分と霊の本質部分との内的な葛藤(かっとう)が起きるということであります。
たとえば、霊は食事を欲しませんが、肉体は食事を欲します。そういうことがあるわけです。しかしそれも、肉体そのものが食事を欲しているのかというと、そうではなくて、肉体というものを支配している霊域の部分、霊作用の部分が、そうしたものを欲しているわけです。その外殻部分の霊の部分は、自分が肉体だか、肉体が自分だかわからないような、混然とした感覚をもっているわけであります。
すなわち、魂の構造のなかにおいて、一番外側の外皮の部分のところには、ひじょうに感覚というもの、感覚機能に近い霊的なベールがあるということです。その感覚部分が、肉体機能のなかの神経部分と連絡しあっているのです。ひじょうに感性に富んだ部分が、霊の外側にある外皮、外套(がいとう)のところにあるわけであります。こういうことをいうことができるであろうと思います。
こうしてみると、霊肉のニ元的対立ということは、本来ないのであります。それは、結局肉体の欲求と霊的欲求が分立するものではなくて、霊的欲求のなかに肉体的欲求をも含む部分がある、というふうに考えればよいのです。
ある宗教においては、本来肉体が無いというようなことをいっておりますが、これなども、まあ似たような原理をいっているわけですが、ただこの肉体というものを、まったく無用のもの、まったく存在しないものというふうに規定してしまうことは、かならずしも私の賛成するところではありません。それはそれなりに、三次元的にはやはり存在の価値はあるのであり、乗舟(のりぶね)としての意味はあるわけです。
たとえば、車というものはやがて故障して廃車となるけれども、故障し廃車となるから車は存在しないかといえば、そういうわけではありません。舟もやがて朽(く)ち果てて使われなくなります。やがて壊(こわ)され薪(まき)になることもあるでしょう。ただ、そうであるからといって、舟が存在しないというわけではありません。そういうことであって、現実感はやはりあるということは事実として認めざるをえないと、そのように私は考えるものであります。
4.心と科学
以上で、霊と物質、あるいは肉体ということに関して、さまざまな話をしてまいりました。そこで次に「心と科学」の問題に入っていきたいと思います。
まず、心とはいったい何であるのか。この検討が必要であろうと私は思います。心とは、結局、魂の本質部分、中核部分のことをいっているのです。魂というものは、これは、物体的に見るならば、肉体とほとんど同じような形をして、スッポリと肉体に入っているようなものをいっております。心というのは、この魂の中核部分です。
みなさんが物事を考えたり、あるいは感じたり、感動したりするときに、ジーンとする部分があります。この部分のところを心と呼んでいるわけであります。これは決して感動する時に、足の先から感動することもなければ、頭のてっぺんから感動することもないわけであります。それは心といわれるもの、胸の中心にひじょうに近い部分に、感じるところがあるわけであります。そこを中心として、魂意識が統括されているのです。
したがって、これからは、その心の作用を知ることかだいじであろうと思います。あるいは、心に関して科学的なメスを入れることが可能かどうか。心に一定の科学的法則というのがあるのかないのか。こうしたことが、たいせつな検討の要素となってくると思います。
では、心の機能のなかで、科学的に検討しうる領域というのがはたしてあるかどうか。この点について、考えてみたいと思います。そうしてみると、たしかにいくつかの領域において、科学的法則に近いものが存在するということはありえます。科学的法則というものは、それぞれの人間が心という領域を持っているけれども、一定のその活動方式、行動パターンがあるかないかということであります。
こうしてみると、心の様相のなかで、いくつかの活動領域があります。たとえば、そのひとつとして、念というものがあります。念というのは、思いの集中ということであります。この念という現象を見てみると、これもなんらかの科学的な作用があることは事実であります。古来より念力であるとか、テレパシーであるとか、いろんなことが言われておりますが、この三次元に住んでいる人間であっても、この念の作用というのは、つねづね受けているわけであります。
その説明のひとつとして、たとえば、ラッシュアワーのようなところ、あるいは都会の雑踏(ざっとう)のようなところへ行くと、異常に疲れやすいという人がいます。なぜ疲れるのか。それは、そこに漂っているさまざまな想念の影響を受けるからです。あるいは以心伝心(いしんでんしん)という言葉があります。好き合っている者どうしは、おたがいに、感じで相手の考えていることがわかる。こういうことがいえますが、好き合っていない者どうし、嫌い合っている者どうしもおたがいに感応しあう、お互いに排斥(はいせき)し合うというような感じがあります。
こうした目に見えない世界で行なわれている、この心の運動法則に関して、一定の法則があるわけなのです。教えられなくとも、雰囲気というものによって相手の念、冷たい念、温(あたた)かい念、こうしたものを感じとります。こうしたものは、いまだ本格的な研究の対象とはなっておりませんが、明らかに存在するといえると思います。
あるいは、念以外の領域では、いったいどういうものがあるでしょうか。それはひとつには、波長の法則というのがあります。これは電波の法則と同じであります。心の出している発信音というのがあって、これが一定の波長というものをとっているわけでありますが、この波長は、通じ合うものと通じ合わないものがあります。すなわち、この三次元の肉体に宿っている人間と、高次元にいる私たちが話をするときにも、その波長が通じるか通じないかということで、チャンネルが通じたり通じなかったりします。
地上にいる人の心の状態が、たとえば九次元領域にある私たちの心の波長と通じ合うものをもっていれば、私たちはこのような形で通信をすることができます。ところが、地上にいる者の心の波長が私たちの領域に届かねば、私たちは通信をすることができないのであります。それはちょうど、受信機と放送電波との関係によく似ています。違ったチャンネルに入っていれば、いくら放送電波を流してもキャッチできないのであります。
そういう意味において、こうした霊界通信というようなことも、かつてそれほど人類は経験をしていないわけであります。一部では、例外現象として起きましたが、本格的な形でこうした霊界通信ということが行なわれることはありませんでした。それはそのチャンネルの操作ということがわかっていなかったということがひとつ。そして、それだけのチャンネル数を持っている人もいなかったということも事実であります。六次元神界と通信するには、六次元神界と同じような心の波長というものがないと、そのチャンネルに合わない。七次元の菩薩界と通信するとするならば、菩薩の心をもってチャンネルを動かさなければいけない。こうしたことが、器用にできる人はできるけれども、できない人も存在するのであります。こういうふうに、明らかに心の世界のなかに、こうした波長の原則というのがあるということです。
もうひとつ、心と科学について話をするならば、作用・反作用の法則という有名な法則があります。これは昔から、播(ま)いた種は刈り取らねばならないという言葉でいったり、カルマの法則というようなことで、善因善果、悪因悪果といったことで説明をつけられていることがよくあります。すなわち、人間は念(おも)いにおいて何かをなした時に、かならずそれに釣り合う反作用があるということです。善念を出せば、やがて善念が返ってくる。悪念を出せば悪念が返ってくる。こういうことがいわれているわけであります。
ところで、この法則が地上界においてどのようにあらわれてくるかというと、一定の時間の流れがあるということ、作用・反作用の法則の間に、一定の時間の流れがあるということであります。これが地上界と心の世界との違いです。しかし、その時間の流れも、長い人でも数十年から百年であります。それ以上延長することはありません。というのは結局、この地上時代に送った生活、心の方向性というものが、地上において反作用が来なくとも、地上を去った時には、かならず来るということであります。地上に生きた時に、心清く生きても、それだけの酬(むく)いが受けられない人は数多くいるわけでありますが、地上を去った時には、かならずそれなりの評価はされるわけであります。その反面、地上にいた時には悪念を持って生き、悪意に満ちた生き方をしていて、地上においてはその反作用を受けなかったとしても、地上を去った時にその反作用を受けて、地獄で苦しむというようなことが数多くあります。
結局、作用・反作用の法則というのは、「心の法則」として捉(とら)えるならば、少なくとも早ければもちろん瞬間的に起きますが、遅くとも数十年のうちに、そうしたことがかならず現実に起こるということであります。これが、壁を押せば同じだけの強さで壁が押し返してくるのと同じ現象が現われるということとの違いとなります。
また、同じことをいうならば、天国と地獄というようなことがいわれておりますが、これは、理解できるような説明をするとするならば、磁石のS極とN極があると思えばよい。すなわち、実在界というのは、人間の想念が渦巻いている世界であります。その時に両極ができているわけであります。ひじょうに調和されたN極と、調和されていないS極、すなわち、物質的波動で満たされているS極と、高貴な精神的波動で満たされているN極というのがあるわけであります。こうした二つの磁石の創り出す磁場のなかで、人びとは霊的存在として、思念として生きているわけでありますから、自分により近いもののところに吸い寄せられていくわけであります。こうした磁場のなかで、あの世の霊的世界が展開していると、こういうふうに考えてもよいと思います。
以上がだいたい「心と科学」ということに関する説明であります。
5.エネルギーの流転
さて、ここで私は、エネルギーという問題について分析をしてゆきたいと思います。
結局のところ、この世の中において、この三次元のみならず四次元以降の神の創られた世界すべてに通じてあるものはいったい何であるかというと、エネルギーであります。あるいは、エネルギーしかないということも可能であります。物質というものは、エネルギーが固形化したものでありますし、また霊というような存在も、あるいは心というような存在も、これはエネルギーのひとつの活動形態であります。時間というものは、エネルギーの活動の結果生じてくる領域であります。空間というものも、エネルギーが動いていく範囲であります。結局エネルギーというものを中心として、時間も空間も、あるいはそのなかの物質も物体も、すべてが出来ているわけであります。
エネルギーというものは、万能の材料であります。小麦粉のように、いろいろなものを創ります。あるいはお米のように、いろんなものを創っていくのです。あるいは石油のように、燃料ともなれば、それからプラスチックを創ったり、さまざまなものを創っていったりします。こういうふうに、エネルギーというものは万能選手であって、何でもかんでも創り出すという、そういう力を持っています。
すなわち、すべてこの世の中、あるいはあの世とこの世を合わせたすべての神の世界というものは、エネルギー一元論によって規律することが可能なわけであります。この世の世界はエネルギーしかないのである。あの世の世界もエネルギーしかないのである。そこにあるのは、エネルギーの変化する姿、エネルギーが停止する姿、運動する姿、これしかないのである。エネルギーが停止すれば、それを物質、物体という。エネルギーが停止しない場合、それを霊的存在といい、心の作用といっている。そうしたものであります。
すなわち、魂といわれているものはいったい何であるのかというと、このエネルギーの個性化に他(ほか)ならないわけであります。本来同一エネルギーであったものが、さまざまな個性を創るために岐れた。そのエネルギー体が、地上に肉体を持つ。そういう肉体を持って生活するということによって、独持の個性というものを得るようになってきたわけであります。本来無個性のものであったのが、地上で肉体生活をくり返しているうちに、転生輪廻をくり返しているうちに、個性を持つ存在となってきたのであります。
すなわち、結局のところ、転生輪廻の秘密というのはいったい何であるかというと、エネルギーの個性化の歴史であったわけであります。個性あるいろいろなエネルギーが創られたということであります。
これは結局はこういうことであります。本来同一の素材から創られた種子であっても、いろいろな方法で栽培をくり返しているうちに、さまざまな品種というのができてきます。赤いチューリップがあり、黄色いチューリップがある。そういうふうにいろいろと品種改良を加えているうちに、さまざまな種類が出てきます。赤い花、白い花、黄色い花、青い花、紫の花、いろんな花がありますが、そういったふうに栽培をされていく過程において個性化が出てきます。そうしたものであるわけです。本来同一のエネルギーであっても、地上で幾百回、幾千回と転生輪廻をくり返しているうちに、そのエネルギーの独特の個性というものができてくるわけであります。
すなわち、転生輪廻というものは、神が、結局、神の花園を創るために、さまざまな個性を百花繚乱(ひゃっかりょうらん)のごとく、くり広げようとしておられるということであります。神は、同一種類の花だけがあることをよしとされなかった。さまざまな、色とりどりの花、色とりどりで、さまざまな大きさと個性ある花が咲くことをもって、神の庭園として、神の花園としてすばらしいものだと見られたということであります。
すなわち、そうした神の念(おも)いの実現として、転生輪廻ということをくり返して、さまざまな個性を得ておるわけであります。ある者は勇気に満ちて、ある者は謙虚さに満ちて、ある者は臆病であったり、ある者は勇ましかったり、ある者は大胆であったり、ある者は忍耐強かったり、ある者は神経質であったり、ある者は思慮深かったり、ある者は愚かであったり、いろんなことがありますが、それらは転生輪廻の過程において得てきた魂の傾向であるわけであります。
すなわち、これはちょうど雪ダルマの説明でもよいかもしれません。雪の玉を作ってそれをころがしているうちに、玉はもちろんどんどんと大きくなってくるのだけれども、さまざまなデコボコというのができるわけであります。このデコボコの部分が、実は個性といわれている領域であるわけであります。これが個性ということなのです。
こういうふうに、エネルギーというものが古来よりさまざまな形で流転(るてん)してきたわけであります。さて、人類のこの魂の起源は、いったいどのへんに求めることができるのでしょうか。このことについても、私は話をしておかねばならないと思います。人類の魂の起源はいったいどこにあるのか。現在生きている人間が、自分の個性を確認できるのは、いったいどれほど昔であったのか。こうしたことも考えねばならないと思います。
そうしてみると、もちろん人間によっても古い霊、新しい霊、いろんなことがあります。地上に生きている人の、おそらくは九十パーセントぐらいの人たちは、比較的新しい霊であるということができるかもしれません。これは、たかだかここ数億年の間にでき上がってきた霊であります。霊としてでき上がってきた者であります。しかし、残りの十パーセントぐらいの霊というものは、かなり古い起源をもっています。地球の歴史以上に古い起源をもっている霊も、そのなかにはいます。すなわち他の惑星において、さまざまな生活をしておった霊がいたということであります。そうした者たちがいたということです。こうした経験をもった古い霊がたくさんいるわけであります。そして指導役として、新たな環境で、新たな霊たちの指導をしているわけであります。
この霊が誕生する瞬間というものは、ひとつの天上界の神秘であります。また、秘密であります。大いなる秘密であります。これについては多くを語ることはできませんが、霊もまた誕生する瞬間はあるということです。個性ができていく瞬間があるということです。それは結局は、より大いなる霊エネルギー体が、自分の一部を分光していくという過程であったということができます。
結局のところ、地上において活躍している光の天使といわれている者たちは、大いなる九次元霊たちの光の分光の一部であることが多いわけです。そうした九次元霊という巨大な光の奔流(ほんりゅう)、光の塊(かたまり)が、その個性の一部を切り離していって、そしてさまざまな光の天使をくり出していったという歴史があるわけです。それゆえに光の天使たちには、特有の霊光線があります。黄色い光線を得ている者。白い光線を得ている者。赤い光線を得ている者。紫の光線を得ている者。こうした者がいろいろありますが、これは本来創られた時に、そうした偉大なる魂の親から岐れてきたという歴史であったわけであります。こういう光線を身に帯しておるわけであります。その意味において、自分の心のなかをみつめれば、みずからの魂の親がいったいだれであるのかということは、ある程度推定がつくわけであります。すなわち、魂においてひじょうに魅(ひ)かれるものが、その人の魂の親であることが多いということです。こういうふうにエネルギーというものは、流転(るてん)してきたものであります。
すなわち結局、唯一の神といわれる存在は、自分に似せて巨大なエネルギー体を創り、その巨大なエネルギー体はまた、やはり、それよりは小さなエネルギー体を創り、やがてそのなかから分光されていって、人格霊ができてきて、その巨大な人格霊がまた自分の一部をくり出していって、さまざまな諸霊を創ってきた。そうした歴史であったわけです。これがエネルギーの流転の本当の姿であります。