目次
1.太陽信仰の根本
2.光の本質
3.積極性
4.創造性
5.本来の人間
6.神の本質
1.太陽信仰の根本
本章においては、いわゆる太陽信仰の起源というものを探ってみたいと思う。まず、古来より太陽信仰というのは、地域を超え、民族を超え行なわれてきたものであると思われる。ではなぜ、太陽信仰というものが、地域も民族も超えて存在してきたのか。このことについて、今、あらためて考えてみたいと思う。
日本であっても、これは天照信仰(あまてらすしんこう)と相まって、そうした太陽信仰があるであろうと思う。また、古代のエジプトにおいても、太陽神の象徴としてのアモン・ラーの信仰があった。ムーにおいても太陽信仰はあった。アトランティスにおいてもほぼ然(しか)りである。至るところで太陽の信仰があったということ。これはいったいなぜであろうか。
それは結局のところ、人びとがいちばん感謝の念を捧げてきたものが、太陽に他ならなかったからだ。人びとが感謝の念を捧げてきた。なぜ、太陽に感謝の念を捧げてきたのであろうか。このことを考えてみると、その太陽が惜しげなくいっさいを与え切っているという、その心。熱もエネルギーもいっさいを与えている、その心。植物たちは、太陽の光の恩恵を受けて繁茂(はんも)することができる。太陽の光を受けて、その葉緑素が炭酸同化作用を起こし、そして内部に炭酸化合物を作っていく。そして栄養としていく。これで植物は育っていくのである。またその植物を食べる草食動物がいる。そしてその草食動物を食べる肉食動物がいる。そのようにして循環、生命の循環というのが行なわれているのである。
また、太陽の熱エネルギーを受けて、海中においてもプランクトンであるとか、あるいはさまざまな菌類、こうしたものも発生しているであろう。こうしたものを小魚が食べ、その小魚を中型の魚が食べ、その中型の魚をまた大型の魚が食べる。こうした食物連鎖でもって生命が循環している。また大きな魚を人間が食べる。あるいは、魚の一部が肥料となって食物の肥(こや)しとなる。
こういうふうに大自然のなかでは、太陽の熱エネルギーが、結局、まわりまわってすべてのものを生かしている。それは肌に感じられる温度というだけのものではない。肌に感じる太陽熱というものだけではなくて、それがさまざまなエネルギーとして、植物のなか、動物のなかに蓄積され、活動エネルギーヘと転化しているということだ。その根源はすべて太陽にあるということ。太陽がなければ、そうした植物の繁茂も、動物の成長もないまったくの暗黒の世界となる。
たとえばこの地上が暗黒の世界になったと考えてみよ。突如(とつじょ)太陽が消えたとしてみよ。この時にどのような世界が訪れるのであろうか。まったくの夜の世界である。まったくの暗黒の世界である。このような時にどうやって生活するのか。なるほど人間は照明ということでもって生きていくかもしれない。蛍光灯(けいこうとう)であるとか、その他のものでやっていくかもしれないが、しかし、それらのエネルギー源もやがて枯渇(こかつ)していくであろう。なぜならば、電気エネルギーの原動力のほとんどは、これは水力発電や、火力発電であると思う。水力発電などはどういうものかというと、水が輪廻している姿、水が蒸発し雨になり、そしてまた降って、ダムに溜まり、下流へと流れてゆく、このように水が循環している姿が電力の供給源となっているのである。こうしたことを考えてみると、この水力発電さえできなくなってしまう。
結局太陽というものがなくなるとすれば、あらゆるものが急激に消え去っていく。今地上から太陽が消え去ったとすれば、人類はおそらくは一年ももつかもたないかであろうと思う。確かに何とかして生き延びていこうとはするであろうけれども、まず地球自体が強烈な氷河期になっていくであろう。地球全体が凍りついていくであろう。寒い寒い大陸となっていくであろう。そうした時にその暖房のためのエネルギーをどうして得るのか。こうしたことのめどがつかないと思う。こうしてみると、人類が絶滅したり地球が死滅するのは実に簡単である。太陽というものがその姿を隠しさえすればよいのだ。それだけで地球というものは、簡単にその存在が生命の場として存在しえなくなるのである。そうしたものです。
こういう大いなる太陽の力、エネルギーというものを感じた時に、それはある意味では、三次元的に現われたる神の姿そのものであるということができると思います。神の権化(ごんげ)としての太陽である。こういうことがいえるでしょう。したがって古来から、太陽を神のごとく人びとが崇(あが)めてきたということは、これはもちろん根拠のあることであります。
太陽以外の他の星とか月はどうであるか。もちろん月も重要な意味をもっているけれども、月がないからといって人間が死滅することはないであろう。また、星がないからといって死滅することもないであろう。しかし、太陽がないということは決定的なことであるということができるでしょう。すなわち、すべてのものの存在根拠となっている、これが太陽です。
ところが実際は、もっと奥を見てみると、つまり霊的世界の実相というものを見てみると、すべてのものを生かしている根源は神であるということができます。それは、すべてのものの本当のエネルギー源であるからです。あの太陽にしても、神が太陽をあらしめている力を持っているから存在することができるのです。あのような巨大なエネルギー体としての太陽を存在あらしめようとしている神があるということです。
そうではないでしょうか。あなたがたはなぜ星が燃えている必要があると思いますか。月はなぜ火を吐(は)いておらぬのでしょうか。木星や水星はなぜ火を噴いていないんでしょうか。火星はどうでしょうか。もし水星や火星や、あるいは月が太陽のように燃えているならば、地球というものは灼熱(しゃくねつ)の星となっていくでしょう。そうして、とても生物が住めなくなると思います。太陽があのように熱を発散しているからちょうどよいわけであります。
すなわち、燃えるべくして燃えておるということです。偶然ではない。不自然ではない。燃えるべくして太陽は燃えておるのです。それは太陽を燃やそうとしている大きな根本エネルギーがそこにあるのです。太陽を在(あ)らしめている力があるのです。
2.光の本質
さて、では太陽というものを考えたその延長として、光そのものについて検討をしていきたいと思う。光とはいったい何であるのか。また、光の本質とはいったい何であるのかということです。
神理を学んだ者にとっては、この地上が太陽の光に満たされているだけではなく、心の世界、霊的な世界もまた、神の光に満たされているということを知っているはずであります。この神の光とはいったい何であるのか。これを人間は視覚的にとらえることはできません。ただ感覚として神の光というものをとらえることは可能です。それは、たとえば霊道を開いたり、霊的現象を受けた時に、あるいは反省をしたり、祈りをしたりする時に、神の光というものが心に射してくることがあります。心に射してくるとどうなるかというと、暖かい感じがこみ上げてくるのです。これは何ともいえない感覚であります。神経細胞が神の光を感じるわけでもないのに、体全体が暖かくなるということがあるのです。それは心が、神の光を受けているからです。魂が暖かさというものを感じているのです。そのように、感覚としては目に見ることはできないけれども、神の光というものを感じ取ることは可能となっています。そうした暖かいもの、そして悦(よろこ)びをもたらすもの、それが神の光であります。
これはいったい何かというと、結局、地上的に現われている熱エネルギーの霊的側面であるということであります。地上にあるものにはすべて霊的な側面があります。人間に霊的側面があるように、動物にも霊的な側面があります。あるいは植物にも霊的側面があります。そうしてみると、地上にある熱やエネルギーにも霊的側面があると考えねばならないのです。そのように地上に三次元的に熱やエネルギーを出しているものにも、霊的側面がある。それが神のエネルギーであるということです。神の光であるということです。
こうしたことから、たとえば、古代においてはゾロアスター教における火の信仰、拝火教というものが起きてきました。これは熱エネルギーヘの信仰でありますが、そうした焚火(たきび)の火ではありませんが、そのような燃える火というものを通して、神のエネルギー、生命エネルギーというものを感じ取っていこうとする方向であったわけです。太陽信仰が、ある時にはこうした拝火教のような火の信仰にもなっていく。それは人間の心を暖めるもの、人間の心に勇気を与えるもの、希望を与えるもの、光を射してくるもの、このような考えであります。
そのように、神の光というものは本質的にはそうした希望に満ちたものであり、明るいものであり、創造的なものである。こういうことがいわれているわけであります。
ではなぜそうであるのか。この点についてさらに検討してゆかねばいけません。なぜ光とは暖かいものなのか。なぜ光とは熱に溢(あふ)れたものであるのか。なぜ光とはそのような安らぎをもたらすものであるのか。なぜ光とは希望に満ちているものであるのか。こういうことを考えてみたい。
そうしてみると、これは結局のところ、神の根源意志にかかわっているということです。神の根源意志というのはいったい何であるかと言うと、すべてのものを良くしてゆきたいという気持ちです。そうした熱意があるということです。そのすべてのものを良くしていきたいという熱意が、世界を突き動かしているわけです。この熱意が世界の霊的側面を貫いているわけであります。
ちょうどこれは、人間の血液と同じであります。人間には一定の体温というものがあります。それは個人による個性の差がありますが、三十六度から三十七度ぐらいの体温といわれています。人間にこれだけの体温がある理由はいったい何でしょうか。それは心臓から血液が送り出されているからです。心臓から血液が送り出され、血液中にある酸素がいわゆる燃焼を起こし、それだけの熱を発生しているのです。細胎内においてそうしたことが行なわれているのです。
同じように、神というものもエネルギー磁場としては巨大な心臓ポンプと同じわけです。そうした光、熱、エネルギーというものを次々と全字宙に注いでいるわけです。こうしてみると、私たちの立場から霊的な目でみるなら、全宇宙というものは、神の体であります。この三次元宇宙というのは、ちょうど神の体であります。そして、銀河系というのは神の心臓であります。こういうふうになるわけであります。
その他の星雲もいっぱいありますが、それらはみな神の肉体諸器官だと見てもよいのです。そして、そうした霊的な目で見た場合のこの肉体諸器官としての大宇宙、大宇宙の内臓諸器官に、あるいは各器官に、体の各部位にそうした霊的血液が循環しているのです。これが神の光の本当の意味であります。この大宇宙は神の体であって、そのなかに霊的血液としての神の光というのが満ち満ちているわけです。そうした霊的光としての血液が満ち満ちているために、それぞれの星雲のなかにおいていろいろな熱エネルギーが発生し、さまざまな発展があるわけであります。根本はすべてここにあると思わねばなりません。
結局、光の本質とは、神の霊的血液であるということです。それゆえ、これを受けとると、人間もまた、勇気と希望と、エネルギー、活力が湧いてくるのです。これが神の光を受けるという意味なわけです。古米より精神統一ということが数多く行なわれております。精神を統一することによって神の光を受けるということが、これは宗教の根本儀式の一つとされています。それはそのはずです。精神エネルギーがそこから満たされてくるのは、結局、血液がまわってくるのと同じなのです。血液が循環しなけばそれだけ活動のエネルギーは少なくなっていきます。干(ひ)からびていきます。同じであります。そのように世の中は動いているのです。これが神の光の本質であり、結局のところ、これは大宇宙を神の体とした場合の、その血液であったということであります。
3.積極性
さて、もう一つの面から神というものを考えてみたいと思います。それは、積極性という側面であります。太陽が神を象徴していると言いましたが、太陽のあり方の一つの面というのは積極性であります。ありあまる積極性、ものすごく行動的であり、活動的であります。これが太陽のあり方であります。太陽は男性的であります。実に男性的であって、すべてのものに活発なエネルギーというものを与えているわけであります。すなわち、この陽の意識、これが太陽の意識であり、また、これが神が考えておられる積極性であり、発展の方向でもあるということです。
ではこの積極性というのは、いったいどういうような形で地上に現われているのでしょうか。その積極性の現われの一つが、結局のところ、文明文化を創っていこうとする力、ひとつの時代を創っていこうとする力、こうしたものになっているわけであります。また、その積極性の現われの一つが、結局、子孫の繁栄を創っていく力、種族を残していこうとする力、こうしたものになっているわけです。植物は植物として、自分たちの種族を残していくために全力をあげてやっております。これらのものもすべて積極性の現われであります。生物であるということ自体が、その存在と発展を図っていこうとする思いをそのなかに秘めております。これらはすべて積極性であります。
もし、生物の本質にある傾向というものが消極性であったなら、いったいどうなったでしょうか。それはすべてのものが自己破壊的に進んでゆくということです。もし豚や牛が消極性のままに支配されて、自分たちの動物の将来というものを儚(はかな)んで、続々とかつてあったように海に身を投げるようなことでもあるならば、いったいどこに彼らの繁栄がありえるのでしょうか。また、植物たちが自分たちの種族の保存と繁栄を願わなかったらいったいどうなるでしょうか。秋の山に登ってみると、茸(きのこ)があちこちに生えているのも、これらもみな積極性の現われであります。神はこのように繁栄し、発展し、伸びていき、生長する力というものをこれをよしとされておるということです。
もちろんこの反対のものもありましょう。破壊という面もあることはあります。また衰退ということもあることはあります。ただ、これはやはり積極的な存在ではないのです。これは、積極的なる存在のその裏面であります。陰の部分がそうした破壊や衰退をもたらしておると考えればよろしい。したがって、神の巨大なエネルギーの方向性としての積極性がある。
また、地上に降りた光の天使たちが、地獄をなくしたいというような目的でもってさまざまな活躍をしています。活動をしています。これらもまた積極性の現われであります。光は光であること自体が、その自己実現として闇を照らしていこうとするのです。闇というものは増殖の機能がありません。闇は闇自体で拡がっていこうとはしないものです。しかし、光は光自体として拡がっていくということをその本質としているのです。光が光である理由は、どこまでもその光を拡げていこうとする点にあります。これが光の理由です。光は存在自体がやはり積極的であるということです。したがって、天使は天使であるということ自体でもって、その光を拡げていきたいという気持ちを強く持っているということです。天使が天使であるということは、闇を消していきたいと思っているということ。天使が天使であるということは、間違ったものを正しいものに戻していこうとすること。天使が天使であるということは、破壊と闘争の世界をユートピアに変えていこうとすること。これは天使が天使であるということ自体に備わった機能であるわけです。
そしてすべての霊は、すべての人霊はもともと天使に似せて創られたるものです。その内側において、そうした積極的なる作用、向上の作用というものを持っているということなのです。これが本来の機能であります。
すなわち、積極的であるということはよいことです。積極的であるということが、人類を現在まで推し進めてきたわけであります。そしてこの積極性の押し上げていく力というものは、決して絶えることはないでありましょう。決して地上から消えることがないでしょう。この積極性の力が消えた時、それは人類が死滅する時であり、動物も植物も死滅する時であり、ひとつの星が枯渇(こかつ)し、消滅していく時でもある。このようにいうことができると思います。
4.創造性
さて、積極性のまた別の側面として、創造性という機能があります。これは、光の本質の一部でありますが、創っていくという機能がある。無(む)から有(う)へ、この動きであります。形なきものから形あるものへ、こうした大きなエネルギーに方向性があるということ、これがだいじであります。宇宙の本質は、形なきものから形あるものへと動いてゆく、こういう本質であったのです。無秩序から秩序へ、このように形なきものから形あるものへとすべては移り変わってきたものであります。こうした創造性、形を創り出していく力というものも、これも根源的なる力であります。
植物が単に成長するというだけでなく、なぜ種子に宿っているその生命(いのち)がああいう可憐(かれん)な花を咲かせるのでしょうか。なぜ、卵のなかにあるそうした栄養分と水分が、ある時に鶏になるのでしょうか。雛となって鶏となるのでしょうか。卵自体のなかにある栄養成分というものは、これは人工的にも作ることは可能でありましょう。しかしながら、人工的に同じような栄養成分を作ったとしても、それから雛を創り出すことはできないでありましょう。人びとは神秘に対する感激ということを忘れているのです。なぜ卵が雛になるのでしょうか。これについて考えていただきたい。
卵というものでもって、料理の材料と考えているようなのがたいていの人間でありますが、なぜその卵が雛になるのか。この神秘は、いくら考えても考えても解けないものであります。この生命の神秘を人間は追究しないでごまかしておるのです。当然のことだと思っている。経験則からいって当然のことであると思っている。しかしなぜ眼前にある卵がこれが雛となって動き出すのか。卵は卵として静止しておるではないか。なぜこれがある時雛となるのか。これから生命が生まれ跳び回るのか。このことの説明ができるかできないかであります。ひじょうにこれは難しいところでありますが、そうした創造性というものがあるということです。
これは人間に関してもそうであります。精子と卵子の結合から人間ができてくるといわれていますが、なぜ精子と卵子の結合によって人間ができるのでしょうか。卵子のなかに精子が入り、卵子が細胞分裂を起こして、やがて人間の種になる形ができてくるといいます。これが母体のなかで成長してくるといわれます。ではなぜそうなるのですか。なぜそうなるのか。これが説明がつかない。何万倍、何十万倍、何百万倍の大きさになぜなってくるのか。そして一定の人間の形になぜなってくるのか。これが難しいところです。これは機械論的な説明ではすまないというところであります。
結局人間はこのなぜの問題、なぜそうなのか、なぜ形なきものから形あるものが現われてくるのか。なぜ無から有が生まれてくるのか。これがだいじなのであります。結局ここに神の本質があるということです。神は混沌(こんとん)のなかから秩序を創られたわけであります。無秩序のなかから秩序を創り、形なきもののなかから形あるものを創ってきた。これが神の根本的な働きであります。
人びとが当然と思っていることのなかに、本当は神の存在の秘密があるわけであります。朝顔の種というものを見た人は数多いでありましょう。なぜ朝顔の種が成長すればああいう朝顔の花になってくるのでしょうか。なぜあるものは青い花をつけ、なぜあるものは赤い花をつけるのでしょうか。花には目もないのに、なぜ自分が赤い花をつけたり、青い花をつけたりすることがわかるのでしょうか。自分に目のない植物になぜそれがわかるのでしょうか。なぜ赤い花をつけるのか。なぜ青い花をつけるのでしょうか。なぜ紫の花をつけるのでしょうか。
また蜜蜂はなぜあのように蜂の巣を作っていくのでしょうか。なぜ作るのでしょうか。その説明ができるでしょうか。なぜ作るのか。なぜあのような蜂の巣を作るか。あれも無から有を創ってくるわけであります。地上にあるいろんなものを持ってくる。わら屑(くず)を持ってきたり、さまざまな草の葉っぱを持ってくる。いろんなものを持ってきて蜂はあのような巣を作っていきます。なぜか。
また、動物は動物で同じであります。どうして牝牛(めうし)は乳(ちち)を出すようにできているのでしょうか。それはやはり、何かの目的を持って出せるようになっていると見ざるを得ないと思います。一定の目的がある。単に子牛を育てるというだけではない。それ以外のことを考えているようだ。子牛を育てるというだけならもっと別のやり方があったであろう。他の動物たちにもこうした乳というものはあるけれども、人類全体が潤(うるお)うほどの乳を出せるものはいない。しかしながら牛にはそれが出せる。これはひとつの神秘であります。
また、魚というもののなかにも、ひじょうに香(こう)ばしい味がする魚がいます。おいしい魚というのがあります。なぜでしょうか。なぜ魚の肉がおいしいのでしょうか。また、なぜ牛の肉がおいしいのでしょうか。豚の肉がおいしいのでしょうか。何かそうした方向性があるということです。動物愛護協会というのがあって、動物を殺してはいけない、殺生はいけないというようなことも言っていると私は聞いています。しかしなぜ豚の肉はおいしいのでしょうか。なぜ牛の肉はおいしいのでしょうか。そうしたことも考えてみなければいけません。
結局のところ、そこにひとつの創造性が働いているということです。無から有へ、形なきものから形あるものへ、味なきものから味のあるものへ、姿なきものから姿あるものへ、色のないものから色のあるものへ、こうした具合にすべてのものは働いていて、結局ひとつの目的と、理想、理念というものがあって、その理想、理念に従って物事が進んでいるということです。ここに大いなる神の働きというものを考えなければならないわけであります。
人間は、この神の創造性というものを非常に数多く受け継いでおるわけであります。それゆえに、人間ほど多くのものを創り出す者はありません。蜂は蜂の巣を作るかもしれません。また蟻は蟻の巣を作るかもしれません。いろんなことはそれぞれの動物や植物たちはやっていくけれども、彼らは文化というものを持ちません。彼らが持つ文化というものはごく少ないものです。それはそれぞれの気候や、天候や、あるいは場所に応じた変化でしかないということです。そうしたものでしかありません。しかし人間はもっと積極的に創造するということが許されています。
たとえば、上空から今、地上というものを見てみると、地上を埋め尽くしているものは人間の創造にかかるものです。あのニューヨークのマンハッタンの摩天楼(まてんろう)群、あるいは現在の東京のこの大都市としての発展ぷり、これらはすべて創造性の証明であります。人間がそれだけ創造的にできておるということです。人間がもし蜂のような創造性しか持っていないとするならば、穴居(けっきょ)時代に生きていた人間は相変わらず、一万年経っても穴居生活を続けておるでありましょう。その穴居生活から抜け出して、家を建てんとする思いがどこかにあったということであります。
あるいは人びとが着ている衣服においてもそうであります。その工作過程を知っておる人は数少ないでありましょう。しかし衣服というものは作られており、それがさまざまに織られ、さまざまに色付けされているわけであります。こうした便利なものを創り出しているのもこの創造性であります。あるいは空を飛ぶ飛行機、海を走る船、こうしたものも創造性の産物であります。
結局、神は人間というものを裸の動物のような形で地上にお出しになったわけでありますが、人間が素手で裸であったということが、さまざまな創造性を身につけさせた理由でもあるわけであります。人間が生まれつきいろんな武器を持っているならば、それはそれで充分でありましょうが、人間にはそうした武器がない。人間には熊のような大きな体はない。ああした腕力もなければ、ライオンのごとき牙もない。あれだけの歯はありません。また、牛のごとく乳を出すこともできねば、鶏のごとく卵を生むこともできません。また、豹(ひょう)のごとくジャングルのなかを走ったり、かもしかのごとく草原を走ったりすることもできません。また、水のなかに長く潜(のぐ)っていることもできねば、空を飛ぶこともできません。そうした不自由な人間ができているわけでありますが、なぜそのように不自由で、動物より見劣りするような機能しか与えられていないかといえば、そこに大きな創造性が与えられているという根拠があるわけであります。
もし人間に羽根が生えていたならば、人間は飛行機を発明しなかったでありましょう。もし人間に生まれつき水掻(みずか)きがついているならば、船は発明しなかったかもしれません。魚は生まれつき泳ぎが得意であるために、船を発明しようとはしません。鳥たちは生まれつき空を飛べるために飛行機を発明しようとはしません。モグラは生まれつき土のなかを潜(もぐ)ることが得意であるために、地下街を創ろうとはしません。
こうしたように、人間たちは逆にいろいろな動物たちとの比較というものを考えないのですが、ひとつひとつの機能というものを比較してみるならば、動物たちでも人間たちより優れたものが確かにあるのです。たとえば鳥は空も飛べるし、また、はるか遠くまで目は見ることができます。また、犬のようなものの臭覚というのは人間の何千倍といわれています。それだけの臭覚があります。また動物たちで人間より耳のいい動物はいくらでもいます。全体で見れば人間は自由であるように思うけれども、個別個別に動物たちと比較してみればその違いはかなりあります。そういう意味で、動物たちにも人間にないような、そうした優れた面というのが数多く与えられているわけであります。
逆に人間は、むしろそうした面で生まれ持った姿というものはいかに不足しているか、これを考えねばなりません。たいていの動物は人間より速く走ります。たいていの鳥は人間よりも速く遠くへ行くことができます。飛行機を造って、そして料金を払わなければ空を飛べない人間と、自分の羽根ひとつで大空を飛べる鳥と、どちらが便利かといえば鳥のほうが便利に違いありません。けれども多くの魂は人間であることを望みます。それは結局のところ、この偉大なる創造性ゆえです。
神は自分に似せて人間を創ったといわれます。その理由は、結局、小さな範囲ではあるけれども、この三次元において、神が大宇宙を創造しているような創造の自由を人間に満喫(まんきつ)させようとしているからであります。そうした創造の自由を神は与えられているのです。人間はそのありがたさを知らなければなりません。その大切さを知らなければなりません。そうしたことであります。
5.本来の人間
さて、人間について話が及んできたところで、本来の人間ということについて考えてみたいと思います。地球では今人間は手が二本あり、足が二本ある。目が二つあり、鼻の穴が二つあり、口が一つである。耳が二つある。まあこうしたふうになっておりますが、これが本来の人間の姿であるかといえば、これは必ずしもそうではないということです。肉体的な特徴が、そのまま人間の姿であるかといえばそうではない。かつて地上にはさまざまな文明がありましたが、その文明、文明に応じて多少人体というものは違っておったのです。動物や植物たちも長年の間にその姿、形が変わってきたように、人間の人体というものも多少の変化をしてきたわけであります。やはりその文明、文明に都合のいいようなものになってくるということであります。
かつては今以上に体の大きい場合もありました。人体がニメートルから三メートルあったような時期もあります。また人体が一メートルそこそこの時もありました。また古い古い昔においては、男性と女性以外のもう一種類の性があったこともあります。それは今からはるかなる昔でありますが、もう何十万年もの昔でありますが、男性、女性以外の第三の性がありました。現在は男性と女性が睦(むつ)み合うことによって子孫を創ることができますが、はるかなる昔、何十万年もの昔においては第三の性がありました。これがいわゆる中性でありますが、中性であるというその人間は、どういう人間であるかというと、男性的機能と女性的機能をひとりで受け持っていたということです。すなわち男性でありながら子孫を残すことができる。そして母親にもなることができる。こういう性があったわけであります。すなわち、その中性の人間というものは、中性の者どうしが交わればお互いに子供を産ませることができ、父親にもなれれば母親にもなれる、こういう性があったのです。
こうしたものもしばらくの間は存続しておりましたが、やがて機能の分化が起きてきたわけであります。一見、どちらでもできるということは便利なことのようにも見えるけれども、役割の分担ということにおいてひじょうに難しいものがある。Aという者がBに子供を産ませたけれども、Bが今度はCに子供を産ませる。父親でもあり母親でもあるという、そういう複雑なややこしい関係になってきた。こういうことでもって、そうした第三の性というものは次第に疎(うと)んじられ、やがて消えていったわけであります。しかしある時期においては、その第三の性というのがひじょうに珍重(ちんちょう)された時もあるのです。現在のような男性、女性というものは、いわゆる片端者(かたわもの)であると見られていた時期があるわけです。本来の人間の機能としては、男でも女でもあり得る。すなわち他の者に子供を産ませることもできるけれども、自分も子供を産むことができる。こうした機能を持っているのが本来の人間であると思われていた時期があるのです。
これは、かつてある大陸に事実そういう人類が住んでいたのです。ところが中には奇形の人類、すなわち子供を産むことしかできない者、子供を産ませることしかできない者、こうした者があるといわれていた。そういう時代においては、そうした男性、あるいは女性というものは、いわゆる奴隷階級でもあったわけです。本来はどちらでもできるのが本来の人間の姿である、こういうふうにいわれていたわけです。
このころはまだ、魂において男性とも女性ともつかない者もかなりいたということです。しかしその後文明が発達し、さまざまな役割分担というのが中心になってくることによって、男性女性の分かれ目がはっきりとしてきたわけであります。そうした中性的魂もあったのだけれども、機能分担において、積極的なる面がひじょうに多い者は男性に組み入れられ、消極的なる面、優美なる面、優雅なる面をもっている優しい感性的な魂が、女性の系統にだんだん組み入れられていったのです。そして、転生していく過程において女性は女性として、男性は男性としてやがて固まってきたということができます。そういう時代もあったということです。
また、もっともっと古い昔においては、今から何百万年、あるいはもっと以前においては、あのスフィンクスのような存在もあったということであります。人間と動物とが合わさったような存在もかつて住んでいたことがあります。人間と動物との中間的存在であります。こうしたものもあった。それは魂において、半分は動物的属性を持ち、半分は人間的属性を持つ者がいた。そうした者にとっては、やはりそうした自己表現の形態が必要であった時があったのです。すなわち人間と同じように自由にものを考えることができるけれども、行動においてひじょうに動物的である。行動においてライオンのごとく勇ましかったり、豹(ひょう)のごとく敏捷(びんしょう)であったりしたいと思う人間がいたわけです。そうした者の自己実現の器(うつわ)として、半人半獣(はんじんはんじゅう)の姿がありえたということです。
したがって、エジプトのスフィンクスというものがありますが、ああしたものは本当は太古、かつて昔にいたことがあるのです。そして、人間と同じような知恵を持っておりながら動物と同じだけの強い力、敏捷な運動神経、こういうものを持っていたわけで、そうしたものを人間はひじょうに恐れていたことがあるのです。そしてある地域においては、これが神のように畏(おそ)れられたことがある。人間と同じような知能を持っており、言葉を発することができるだけでなく、ライオンのごとく獰猛(どうもう)な力を持っている。そういうことで、知恵があり力があるという、その姿がひじょうに畏れられたことがあります。そして、神としてそうした者が崇(あが)められていたことがあります。
しかしやがて、これらの者はどちらかの傾向にやはり魂が分かれていったのです。人間的なる属性を多く持ってきた者はやがて人間として進化してゆき、動物的属性のほうを選んだ者はやがて動物へと分かれてゆくことになったのです。やはり天変地異なりいろいろな現象が起きたりして、そうした種族というものはやがて地上から姿を消していったわけです。
そのようにさまざまな形式がありえたということです。ここで考えていただきたいことは、霊が肉体を規定するのであって、肉体が霊を規定するものではないということであります。すなわち、肉体というものは霊の乗り舟であり、霊の自己実現の姿でしかないということです。
たとえば、女性というものがあって、女性の肉体が男性から見て美しいものだというようにいわれていますが、この美的価値観が、文化の流れのなかにおいてやがて変わっていくとするならば、女性も違った種類の女性が出て来る可能性があるということであります。現在の女性の姿を美しいと男性が感じているからそういったままでいいのであって、これを美しく感じなくなるかもしれない。たとえば、新たなそうした人間像というのはありうるわけであります。肉体舟というのはありうる。
ある男性から見れば、もし女性に尻尾(しっぽ)が生えていれば、それがしなやかで美しいと目に映るようになってくるという、そうした価値観が、人類の男性の共通の見方となってくれば、尻尾の生えた女性というのが出て来るようになるわけです。あるいは、女性も男性も同じような耳をしているけれども、女性の耳は尖(とが)った耳が美しいというような価値基準がもし出てくるとするならば、やがて女性の耳がそういうふうになってくることもあり得るということです。あるいは、現在は女性は髪が長く男性は短いけれども、これもまた違った価値基準がありうるということであります。もし女性には頭に毛が生えているだけではなくて、背中からも毛が生えているというような姿、こうした一メートルもニメートルもある毛がたてがみのごとく背中から生えていて、それが何とも言えない女性的なる美しさを象徴しているというような価値基準が出たら、そうした女性の肉体も存在しうるということであります。こうしたことはいくらでも可能性があるわけで、そうした肉体舟を変えてゆくことによって新たな魂の修行ができるのであるならば、そうしたことも可能なわけです。
また、現代では女性はだいたい平均二人しか子供を産まないようになっておりますが、かつての時代のなかにはいろんな形があったわけです。女性がもっと子供を産む時代もあったわけです。女性がひとりで四十人も五十人もの子供を産めるような時代もあったのです。それはちょうど今の動物たち、犬であるとか猫であるとかいうのが同時に何匹もの子供を産んでおりますが、そうした時代もあったのです。それは、人類が死に絶えることが多かった時代です。いろいろ天変地異が多かったり、あるいは動物、外敵によって、生まれた子供のほとんどが死に絶えるような危険な状況にあっては、人類は数多くの子供を創っておく必要がありました。今のように、一人の子供を産めばそれを育てられるというような時期でなかったことがあります。十人子供を産めば、そのうちの三人が生き延びてくれればよかった、結構である、こういう時代もあったわけです。病気であるとか、動物であるとか、外敵であるとか、いろんなものがあって、たいていの子供が成人するまでに死んでしまうような時代もあったわけです。こういう時にあっては、女性は同時に何人もの子供を産むことをもって、当然としていた時代もあったのです。
そういういろいろな時代、さまざまな肉体の形式を通って、現在の人間の男女があるということを知らねばなりません。これもまた一通通点であります。また、こうした形での魂修行がひと通り終わったならば、また新たな肉体を創り出してゆくことも可能でありますし、新たな価値観を創っていくことも可能であります。すなわち結局、人間はこの地球という磁場においてさまざまな実験を繰り返して、そのつど、新たな魂の経験を得ているのです。そうしたことを繰り返しているということがいえると思います。