目次
2.神の創造への奉仕
1.仕事のなかに見る神のはからい
ミカエルです。さて、今日も引き続いて私の霊示をお届けしたいと思います。題して「正しき職業観」と、つけてみました。職業倫理について語ってみたいのです。
すなわち現代においては、職業ということが大きな課題とされていると思いますが、この職業を神の目から見てどう考えればよいのか。この問いに対する私なりの解答を与えたいと思うのです。
まず職業の由来について考えてみたいと思います。多くの人びとは心を空(むな)しゅうして、職業とはいったい何であるかを考えるとするならば、そこに不思議な不思議な神の心、神意が働いていると感じないわけにはいかないのです。
働くということを通して人びとは金銭という代価を得、それによって生活をしていくことができる。この仕組みが、いつの時代も形は少々変わることはあっても続いているということは、これは大きな知恵であろうと思います。
もし労働ということを、仕事ということを通さすして人が飲み、食らい、歌い、そして憩(いこ)うことができるならば、いったいどれほどよい世の中であろうと考える人も多いでしょう。しかし、パンを食べる前には小麦粉からパンを作るという仕事が待っています。そして小麦粉になるための小麦を作るためには、百姓仕事と呼ばれるものが待っています。
またこれは、他の仕事でも同じだと思います。魚を得るためには漁に出なければなりません。葡萄(ぶどう)を摘み取るためには葡萄園を経営しなければなりません。このように自然のままでよいということは少なくて、何らかの人間の努力を要求しているのが現状であると思うのです。
さて、ここに不思議なはからいがあるということを、私は感じるのです。神は「原材料は与えるが加エはしない」―そういう原則を貫いておられるように思えるのです。
たとえば、主婦の大きな仕事の一つとして料理というものがあります。この料理も、毎日毎日工夫し、調理して作るものです。ところが、もし牛肉であるとか、あるいは果物であるとか、野菜であるとか、このようなものが原材料としてできるのではなくて、調理された料理を提供するような動物とか植物があったらどうでしょうか。そういうことを考えてみたことはあるでしょうか。
ニワトリは単に卵を産むだけではなく、調理された卵を、ニワトリがもし産むとしたら―これは、そう難しいことではないと思います。たとえば、ゆで上がった卵のような形でこの卵を産むことだって可能なはずですし、牛乳を出す牛も、牛乳を出すだけでなく、これを加工品として出すことも考えればできないことでもないと思います。体のなかにそうした仕組みを作れば、牛がバターやチーズを作り出すということも可能であったかもしれません。けれども神はそうしたことはなされないで、原材料のみを提供されているわけです。
ここに主婦は、自分の料理の腕をふるわねばならないという創造の場が出てきます。そこに加工という名の工夫、調理という名の努力が要請されているのだと思います。
私は、神の真意は大まかに言って、こういうところにあるのではないかと思います。神は生活のための材料を与えてくださっています。また、考えるための材料を与えてくださっています。そうした生活のための材料と、考えるための材料を、いったいどのように組み合わせ、どのように調理し、どのように加工し、工夫し、そして人間にとってよりよいものとしていくか。それを見ておられるのだと思います。そしてその理由は、そこに大きな喜びが生まれてくるからだと思います。
2.神の創造への奉仕
世の中には、ときおり奇跡というものがあります。その奇跡を通して、この世のルールを外れたものが生み出されることがあります。空中から宝石や金銀が湧(わ)いて出たり、あるいは空中から食物が出てくるというような、そのような奇跡を体験している人もおります。しかし、こうしたことがあくまでも奇跡であり続ける理由は、それが例外にしか過ぎないからなのです。
やはり、原材料をどのように加工するか。ある材料に基づいてどう判断し、どう行動するか。神はこれをほほえみの目で見ておられるのであって、その結果、人間に大いなる創造による幸福感を与えているのだと思います。
また単に、神は原材料を与えるのみではなく、ときおり大自然の威力のなかに厳しい試練を仕組んでおられるようにも思われるのです。たとえば一年中、夏であったならば、現在の文明国がそうであるような、こうしたファッションとか衣類の発達というものはなかったかもしれません。しかし秋風が吹き、寒い冬が到来し、雪の時代が来るからこそ、そこに衣類を生み出していくという創意努力が必要になっているのだと思います。
もし単純な幸福論者が、この衣類のこと一つ考えるにしても、「もし神が愛と慈悲の方であるならば、人類が寒さに震(ふる)えないように、つねに暖かい気候を提供しているのではないか、いや、提供すべきではないのか。」―こう考えるかもしれません。ところが現実にはそうはなっていない。秋風が吹き、雪が降るという、そういう季節が来る。この時に雪のなかで、人間は裸で生活をしてゆくことができません。それゆえにセーターを編み、コートをまとうようになるわけです。
その結果、人間はほんとうに不幸になったのでしょうか。そうではないはずです。いっけん試練と思えるもの、人間を苦しめると思われるものが現われてきて、その結果、より高度なものが生み出されていった。そのより高度なものは知恵によって生み出されていった。すなわちあらゆる問題は、課題は、人類に知恵を出させるための材料としてもあったのだ。苦難や困難も、そうした知恵をふりしぼらせるための材料としてあったのだ。そのように考えられるのです。
こうしてみると、私はここに、大いなる創造の美があると思うのです。この地球にあるもの、あらゆるもの、これを見た時に、ここに大いなる創造の美、あるいは創造の意図があると思えるのです。
これをさらに話すとするならば、次のようになりましょう。
一見、人間の目には、この世界は無秩序に見えるかもしれません。そして人間自身の生き方も、ある時は無秩序に、ある時は羅列的に、ある時は信じられないように無定型に、そのように見えているかもしれません。しかしじつは、そうした一見無秩序に見え、まだまだ改善の余地があると見えるそうした環境は、より大いなる創意工夫を促進するために用意されている、と言ってもよいのではないかと思います。
たとえばこれは、母親の気侍ちにも似ているといえましょうか。子供が自由に積木遊びをしています。大人の目から見れば、それはこのように組み立てればりっぱな家になる、こう組み立てればりっぱな動物になる、こう組み立てればちゃんとした塔が立つ―こういうふうに考えるのですが、子供は積木を四角く積み上げては壊し、三角に積み上げては壊し、雑然としていくらでもやっています。
この子供の作業を見ている時の母の目、それに近いのが神の目であるかもしれません。大人の目から見たならば、その散乱した積木の姿は不自然でもあり、美しくはないかもしれませんが、そこに子供の営みがある。積木を集めて、そして組み立ててゆくなかに、自分なりの創意工夫があって、それを楽しんでいる。そういう楽しむ姿を、子供の喜ぶ姿を、神もまた楽しんでおられるのではないか。喜んでおられるのではないか。私にはそのように思えるのです。
これゆえに、次なる結論が引き出せるのだと思うのです。職業というものが存在する理由も、どうやらここらへんにあるらしい。こういうことなのです。神は完成ということを必すしも静的な状態、それが微動だにしない状態をもって完成とは言ってはおられない。また、そう感じてもおられないということです。
神の思う完成は、可能性が無限であって、その可能性のなかで無限の努力が続けられていくこと―これを意図しているのだと思えるのです。
さて私は、こうした観点に立った時に、いわゆる職業に対する目が違ったものになっていくのを感じます。この職業はまさしく、この三次元的な目で人びとによって評価され、享受(きょうじゅ)されるものではなくて、まさに神の芸術の創造の一部として、また神の大いなる叡智に奉仕するための知恵として、存在が許されているように思えるのです。
3.無限の可能性と職業
この神の知恵ということを考えた時に、その奥にあるものは無限の進化という言葉であると思うのです。無限の進化がこの奥にある、そう思うのです。
私はこの無限の進化ということが、人間の生命の存在の理由であると思います。人間の生命が多数創られ、生き続けているということ自体、無限の進化をめざしている―こう思ってよいでしょう。
無限の進化は静止を嫌います。それは絶えざる向上をめざすものなのです。職業においても無限の進化ということがある、そう私は思います。地球という有限のこの世界の中において無限の進化が可能なのです。まことに不思議な不思議な感じをもたれることでしょう。有限の世界の中において無限が収まるのです。
こうした世界観をみなさんは理解することができるでしょうか。縦・横・高さという空間において有限、神の手のひらにのるという意味において有限、その有限の世界の中において無限の進化の余地がある、無限の発展の余地がある。それは何とすばらしいことではないでしょうか。
この無限の発展の余地とは、ではどこにあるのでしょうか。これは職業の流れをみてみればわかるのだと思います。人間の職業には、古典的な職業とでも申しますか、千年前も二千年前も、一万年前も変わらないような職業というものもあります。しかし、新たに生み出された職業も数多くあります。
前者は農業や漁業というような、こうした第一次産業という名で現在呼ばれているようなものでありましょう。しかし、第二次産業といわれる工業の分野、第三次産業といわれる商業サービスの分野、これらの分野は新たにつくられたものでしょう。
この職業の分化、および職業の発展ということは、人類が地上に降り立つ、その理由を提示しているものだといえましょう。さまざまな職業があり、その職業経験ができるということが、多くの霊が現在あるいは近代以来、地上に降りてきている主たる理由なのです。かつてしたことがないような、そのような職業経験ができる。ここに大いなる喜びを見出しているのです。
その職業は、それがある会社の経営や、あるいはその社員をやることであったとしても、あるいはそれ以外に、芸術的な職業であったとしても、また技術的な職業であったとしても、こうした職業はじつは、その中に創意工夫を凝らした時に無限の可能性があると言えましょう。
完璧な仕事というものがあるということを、みなさんは考えることができましょうか。どのような仕事であっても、「それが完璧だ。」と言い切ることがはたして可能でありましょうか。そう思ったときに「いや、そうではない。あらゆる仕事は改善の余地がある。」そう思われるのです。
なぜならば、その仕事を他の人がやったとしたならば、違ったふうなやリ方ができるからなのです。すべての人が同じような仕事をする、いわゆるロボットのように、コンピューターのように画一化された仕事をただやるだけであるならば、この地上での生活は無意味に近づいていくでしょう。しかし多くの失敗につきまとわれながらも、さらに発展を含むところに、ここに仕事の面白さというものがあると言ってよいでしょう。
みなさんは心を空しくし、大宇宙の心を心とし、神の心を心として、もう一度人間社会というものを俯瞰(ふかん)してみてください。鳥瞰(ちょうかん)してみてください。そうした時に、不思議な不思議な光景が見えてくるはずです。その不思議な光景とは、それぞれの人、何億、何十億の人が生活の場を与えられており、それだけ多くの人が現に働いているという事実です。これはまことに奇跡に近い事実であると思います。
数十億の人が、毎日何が仕事というものにありついていけるということ、これはこれはまことに尊く、ありがたいことであるといってもよいでしょう。かつてそのようなことはなかったことです。
さて私は、このかつてなかったこと、この職業そのものは、いったいだれがどのように考えてこれを指導しているのか、だれが生み出したものなのか、それについて少し話してみたいと思います。
4.職業のなかの七色の光線
神の光が七色の光線に分光され、それがさらにいろいろな形で細分化されて、天上界から地上界を照らしているということは、みなさんごぞんじの通りだと思います。では、この職業というものは、神の光の中のいったいどのようなものにあたるのかおわかりでしょうか。
神の七色の光の中には、白い色、赤い色、黄色い色、青い色、緑色、このようないろいろな色があります。紫もあります。こうしたいろいろな色が、ではどのように職業の中に反映されているかというと、職業という項目の中に、この散らばった色合いが一つになっていることに気づかれるでしょう。一つになっているということは必すしも適切な表現ではないかもしれません。散らばった光が散らばった光のままで、それぞれ個性化して職業を生み出している、というように言い換えてもよいのかもしれません。
たとえば赤い色、これは正義の光線でもありますし政治の光線でもありますが、こうした光線下で仕事をしている人は、代表的には政治家、官僚、軍人、こうした人たちです。こうした人たちが主として、赤色の指導の下に職業倫理というものを持っているといってもおかしくはないでしょう。
また白い色はどうでしょうか。イエスの愛の色です。この白い光線は、もうごぞんじのように医療の系統で生きています。医者、看護婦の世界、あるいはこのように、弱った者、傷ついた者を救(たす)けることを主としている宗教家―キリスト教のなかにはすいぶん多いでしょう。そうした宗教家たちも白い色の流れのなかにあるでしょう。
では次に、青い色はどうでしょうか。青という色は知的な光線だと言われています。職業の中で、特にインテリと目される人たちの仕事、多少なりの抽象性を持ち、抽象的、観念的な部分を持っている仕事、こうしたものが主として青い色の下にあると言ってよいでしょう。知識人階級の人たちの中心光線です。
さらに黄色い色というのもあります。これは主として法を説く者の光線ですが、このなかには宗教家が多いですが、宗教家と同じく多いものに、いわゆる教育者がいます。それは学校の先生という意味では必ずしもありません。世の人びとを教育する目的で出ている人たちということなのです。さまざまな分野にありますが、その人が世の人びとを教育するという目的、感化する―そういう目的で職業に従事している場合、この黄色い光線になることが多いといってもよいでしょう。
ただ、教育という面だけをもって考えるならば、黄色だけが教育だと考えるのは片手落ちでしょう。紫色の中にも、あるいは銀色のなかにも教育という目的はあります。紫色の教育は主として、家庭の上下の教育、あるいは師と弟子の教育というふうに、上下関係がはっきりしているような教育的立場に立っている場合であり、また銀色というのは技術者としての教育、こうしたものを含んでいると言えましょう。
この銀色についてさらに話をするならば、発明や発見、科学技術の進化、こうしたものに貢献する人びとが、この銀色の光線の下にいると言ってよいでしょう。
さらに紫は、では他に用途はないのか、そう考える人もいらっしやるでしょう。じつは紫の役割というのは、もっと大まかに言って、秩序形成の役割をしている人間、こういう人が紫系統の仕事をしていると言ってよいのです。
世の中を見た時に、何らかの秩序形成という側面で役に立っている人びとがいます。それは言ってみるならば、赤の光線とは別ですが、政治、軍事、官僚系統の中にも、そうした秩序形成のための人もおります。また文化的指導者のなかにも、そういう人もおります。あるいはそれ以外の世界においても、人間のその位階割と言いますか、上下をはっきりと決めるための役割をしている人がいます。こういう人がだいたい、この紫に関係していることが多いと言えましょう。裁判系統で仕事をしている人のなかにも、そういう人がかなりいるように私は思います。
さてこれ以外にも、光線としては緑という光線があります。これは調和の光線です。この光線の中においては、芸術的仕事をしている人がひじょうに多いと言えましょう。音楽家、画家、あるいは美しい建築を創る建築家。また詩人たちの中の一部、文学者の中で夢のある文学を書くような者、こうした芸術的にひじょうに高い価値を秘めている者は緑色の光線下にあります。そして、そうした仕事をしているのです。
以上で七色光線についての私の考え方を述べてみましたが、総じて言えることは、職業の倫理を追究することによって、じつは神の七色の光線に行き着くことができるということなのです。そして神の七色の光線を通り越して、神ご自身のお心の在り方が次第しだいにわかってくるということなのです。
5.神の期待する職業倫理
今私は、そうした事実を明らかにするとともに、どうしてもみなさま方に考えておいてほしいことがあります。それがいったい何であるかと言うと、人間とは基本的に、何らかの仕事をしないでは生きていけないということなのです。仕事をして初めて生きていける存在だということです。
この言葉に対しては不信感を侍たれる方も多いでしょう。仕事などしなくても人間は十分に生きていけるのではないか、仕事など人間の存在にとって本質的なことではないのではないか。こういうふうに考えられる方もおられることと思います。
しかしこの仕事というものは、じつは七色の光線すべてが関係していると同様に、人類が魂的に進化していくためには、どうしても通らなければならない関門でもあるのです。
仏教の系統の人びとは、悟りや、あるいは心の静寂というものを重視する傾向があるように思います。しかしそれは、あくまでもそうした特殊な世界の中に生きている人たちのことであって、一般社会に生きている人たちにとって重要なことは、そうした静的な非生産的なことではなく、もっと動的な生産的内容なのです。
その動的な内容とはいったい何であるかというと、これはいわゆる地上をよくしていくための具体的活動ということです。地上をよくしていくための具体的活動、これを伴わない生き方に神はあまりよい点をつけてはくれない、ということだと思います。
高級霊と称される霊の中で、こうした他人に役に立つ仕事を多くしてきた人、そうした職業に生きてきた人が、相当に数多くおられるのです。こうした大勢の方がたは、じつはそれぞれの職業を通して、神の七色の光をいろいろな形で地上に照らし出し、光らせることに貢献しているのです。
さすれば職業の多様性ということは、その多様な職業だけの神の光の散乱がある、神の光がそれだけ変化して現われてきたのである。そのように思われるのです。
さて最後に、この職業観についての話を締めくくるにあたって、神の心から見た職業倫理として、どうしてもだいじであると思われることを四つほど述べておきたいと思います。
まず職業倫理の第一として要請されること、それは他人の存在を害するような職業、有害な職業につくことはできるだけ避けたほうがよい、ということが最初にあります。有害な職業と言われてもすぐにはピンとこないかもしれませんが、実際上、多くの人びとのひんしゅくをかうような職業であると思ってよいと思います。
神の期待する職業倫理の第二は、職業を通して神の美しい花、咲き誇った花の姿を見せてほしいということです。職業を通じて繁栄ということを実践し、確認してほしいということなのです。
職業倫理の第三として、私がどうしても教えておきたいことがあります。それがいったい何であるかというと、現時点において、金銭的価値で見積もられているもののみがすべてではないということです。金銭に換算されていない部分についての努力も必要であるということです。それは地上の富を積むことと、天の富を積むこと、この両方が、職業の中に生きている人間にとってだいじなのだと考えてゆけばよいのです。
最後に、職業倫理の四番目として、どうしても訴えておかなければならないことがあります。それがいったい何であるかというと、職業において花形となり、みずからを生かしてゆくということは、じつはこれは、ほんとうの意味での発展そのものにつながっているということなのです。
あなた方は発展の思想というものを、十分勉強したことはないかもしれませんが、道徳に代わって、この職業の中に発展を見出すという行為が、次第しだいに貴重となってゆくでしょう。これはひじょうに貴重な貴重な、考え方でもあるのです。
発展ということは職業を通じて与えられるものなのだという、こうした認識が始まった時に、人はまったく違った世界に接していることになります。それは自分の現にしていることが、たんなる宇宙の中の一部分としての自分の仕事ではなくて、より大きなものへの奉仕の意味での仕事、こうした事実があるということなのです。
以上、さまざまに職業倫理について語ってまいりましたが、神は基本的に、職業において何をどうとらえてほしいのかと言うと、多くの人間の間にもまれながら成長してほしいということ、また職業を通じて愛の実践をしてほしいということ―こうした点に主眼があるのだと言えましょう。どうか多くの人が真実の愛にめざめ、そしてその愛に基づいて生きぬいていけるような、そうした時代が来ることを心からお祈りして、私の3章の言葉といたしたいと思います。