目次
1.性欲と愛
2.結婚論
3.家庭の意味
4.家庭の調和
5.最初のユートピア
(1988年2月12日の霊示)
1.性欲と愛
高橋信次です。みなさん、こんにちは。いよいよ結婚と家庭、そしてお待ちかねの性欲の話を、またお話しいたします。
まあこの辺がね、こういう神理の書を読んでいる人たちは一番苦しいんだな、性欲っていうのがね、苦しいね。誰か徹底的に性欲の神様出してきてね、性欲がいかに素晴らしいか、一度一回言った方がいいかもわかんないねえ。まあ、そういう時代も過去あったんですよ、みなさんね。
あのー、誤解しちゃあいけないよ。仏教やキリスト教だけがすべてじゃありませんよ。それほど男女の愛っていうのは、いかに素晴らしいかを謳(うた)いあげた時代は過去いくらでもあったんですよ。だからみなさんね、現代の神理観がね、必ずしもすべてと思ってはいけない、そういう考えが僕は大事だと思いますよ。
性欲っていうのは何となく、いやーなというイメージがあるねえ、これ誰が押しつけたのかと考えなきゃいけない。
そうすると結局何だろうね、やっぱり道徳とか仏教とかキリスト教とか、まあこういうもんだろうねえ。なぜ性欲が、そういう嫌なもんというふうに決めつけられたかっていうと、ともすれば、それが川が氾濫(はんらん)するがごとくね、洪水で土手が切れて浸水(しんすい)するね、家が水浸(みずびた)しになったり、流されたりする。そういうふうな感じになるっていうことだな。
男性であれば身を持ちくずすということがよーくある。女性であれば、なんて言いますかね、淫乱(いんらん)になるって言いますかね、とにかく性の問題でね、いろんな不幸が過去多かったことは事実です。男性が身持ちくずせば家庭が崩壊(ほうかい)するし、女性が浮気をすれば同じように家庭は崩壊するね。
婚前でいろいろとあっちこっちと付き合っておると子供ができちゃったりして、まあ問題がある。こういうことで、やはり性欲は戒(いまし)めるべきだという、そういう人間の知恵が出てきたところがある。
それと、もうひとつは何というかね、結局それを隠(かく)すことによって、秘めることによって神秘化して、かえって魅力的にしている面もあるんだな。たとえば、もちろん今いろんな欲望産業というのが発達していますけれども、こういう欲望産業でなくとも、非常に倫理観がなくてね、たとえば男性と女性は自由に、もう「おはよう」って言ったら自由に交わっていいとか、「こんにちは」って言ったらOKで、ホテルヘ行っていいっていうような状況であればね、そりゃあ誰も結婚しなくなるわね、と思うよ僕は。しなくなると思う。
そういうことで、そういう時代も過去あったかもしれないけれども、人類の知恵としてね、女性が子供を産むのに十月十日かかります。大人になるのに子供がね、大人になるのに二十年かかります。こういう状況をみたら、やはり家庭というものをつくらざるをえんのだな。子供にとって、子供の観点からみたら、いいよ。みんな男性、女性という観点からみりゃあね、自由にいろんな交配ができる方がいいと思うけど、子供という観点からみなきゃいけない。
子供が二十年かからないと大人にならんということ自体が、一夫一婦制を要求しているんだよ。その間、やっぱり母の愛、父の愛、両親の愛がなければ子供がまともに育だないんだな。だから、こういう一夫一婦制、男女の結婚というものを要求している根拠は、その子供というところに僕はあると思います。
大人になるのに、それだけかかる動物はないのです、他に。もし子供が半年や一年でどんどん大人になるようだったらね、もう一年で成人しちゃって、そしてまた結婚できるような動物のようなものだったら、もう手間かからないし、鹿みたいに、生まれたらすぐ立つようだったら、赤ちゃんで生まれたら、すぐ走り始めたりしたら、そりゃあ手間がかからないわね。そうでしょう。ところが非常に手間がかかるようになっている。そこにね、やはり人間を教育するとか、愛するということ。そういう愛するということを与えてくれているんですよ。結局は、そういうことなんだな。
ですからみなさん、性欲の問題は結局そういう制度だな。結婚制度を守る、いかにして守るかという観点から、だいたい考えられてきた。そしていろいろ慎(つつし)むべきだということが言われてきたといえると思うんですね。
性欲そのものが悪かといったら、決して悪じゃありません。で、私も色情地獄の話は、あっちこっち言ったけど、男性と女性が交わること自体が悪かといったら、それは悪じゃありません。それで悪じゃない根拠は、それをやってて楽しいもんね。だから、あんなに楽しいことして悪のはずがないって、まあそういうことでしょう。
ただね、その楽しさというのは、パチンコの楽しさみたいなところがあるわな。玉打ってね、チューリップが開いてパカパカ入って楽しいけれど、それを一年中やってたら、パチプロっていうのもいるけれども、家庭生活が崩壊するね。仕事ができないね。こうなるだろう。だから、ああいう楽しみも息抜きでやるといいけれども、そればかりではいけない、こういうとこがあるね。
だから男女の交わりも楽しいけれども朝昼晩、もう一日中、それ仕事にしていたら、それはそれで持たないね、体がね。それで仕事も何もできない。そういうことだな。その意味でいいことだけれども、ある程度の統制がいる。あるいは自重(じちょう)する面がいるということだな。これは僕は言えると思います。
だから結局ね、そういうことです。性欲そのものは悪じゃない。だから一番大きな道徳的規範(きはん)は結局、結婚制度の存続、あるいは人類の子孫維持という観点からなされている。それは、子供というのは成熟するのに二十年もかかるという、そういう人間の特殊性がある。その間、最低二十年間家庭を守っていかねばならんという義務がある。これが大きな仕事なわけだ。
そのために、非常にそれを重大な儀式として扱っておるわけですね。で、男女は願わくば、やはりお互いに唯一の相手と結婚するというのが幸せの結婚になりやすいということが長老たちの知恵でね、大人たちの知恵で、今まで言われてきたんだということですね。で、そういうことだから、性欲そのものが悪ではないです。
そして性欲と愛の問題考えてみるとね、結局、性欲の問題も愛を高めるための手段には、私はなると思います。それがあることによってね、愛が一層高まるところはある。男女の愛がね。これがなくて手つないでいるだけで、「愛しているわよ」と言葉だけ言っているよりはね、そういうものがあることによって、人が知らないその秘密を夫婦で共有するということによって、それでお互いの連帯感が高まるということがあるね。
どんな困難、苦難でも夫婦が手をつないで手を取り合って「頑張っていきましょう、あなた」という根源はね、夜、雨戸締めてね、密(ひそ)やかに儀式を取り行っているということが根拠になるわけですよ。そういうのがなくて、あなた、手を絡(から)ませているだけだったら、そんなことあり得ませんね。そんなの、お友達とできることですから、そういうことでしょう。まあそういうことでね、非常に巧妙な神様の知恵がそこにあるということだな。
で今、私も人生相談とかずい分やったけど、中年以降の女性の悩みは、ほとんど夫の愛が要するにさめてきたということね。「若い頃は、あれだけの愛の証拠を見せてくれたのに、中年以降、証(あかし)がなくなってきた。一週間に一回、一月に二回、ひどい時、半年に一回、あるいはゼロになりました。私はこういう何と言いましょうか、端女(はしため)でしょうか。端女として、あと生きればいいのでしょうか。下女として生きればいいのでしょうか。妻ってそんなもんでしょうか」こういう悩みが非常に多いですね。
これには二つ方法というか、観点がありますね。一つは、原因が奥さんにある場合もあります。それは若い頃は美しくて、旦那もその気になったけれども、だんだんだんだん子供生むたびにブクブク太ってね、二十キロ、三十キロ太って、それでとても、その気が起きないっていう場合ありますね、これが一つね。それともう一つは、旦那さん自身が、もうちょっと疲れてくるっちゅうことだな。やっぱり、くたびれるとできないもんですよ。
経験的に言いますとね、やっぱりだんだん中間管理職になってきて、忙しくなってきてね、残業も多くなって疲れ果てるとね、もう子供もできたし、奥さんどころじゃないんだよな。本当に悪いけど、一分でも長く眠りたい。朝は通勤ラッシュで一時間半、帰りも一時間半、酒にマージャン、ゴルフ、もうくたびれているの、とにかく肉体がね。
「もうほんと悪いけど、お前と話しているほど暇じゃない、もう一分でも眠りたい」で、奥さんは奥さんで、家でストレスがたまっているからね、「なーに言ってんのよ、あなた。昔は、あれだけ私をかまってくれたのに、愛が冷えたわ、他に女ができたんじゃないの。おかしいわ」って、探偵局行って探偵つけたりします。そんなことをし始めるようになります。この話をすると、私もいろいろ面白い話が続くんだけれども、まあ探偵の話いやだから止めておきましょうね。そういうことも、あり得るわけであります。
結局ね、だから性欲というものも愛への奉仕の材料にはなってるということを知らねばいけないし、それ自体が、それはどの悪ではない。だから、その用い方が大事だということだね。
それは、手だってそうだよね。手でいろんなものを作ったり、仕事もできるけど、手で相手を殴(なぐ)ったりできるしね、足だってそうだよね。道歩いたり、走ったりできるけど、足でまわし蹴りなんかしたら死んじゃいますね。人間、そういうとこがありますね。
だから、そういう人間の本能的な部分だけれども、その使い方によっては、人を幸福にもできるし、不幸にもできるところがある。ナイフみたいなもんです。調理もできれば人殺しもできる。こういうとこがある。性欲にはそういう両面がある。
だから世にいう、そういう禁欲主義者たちの考えの中には、結局ナイフはね、人殺しができるからナイフを地上から一掃しましょう。家庭にナイフを持たないようにね。これが、性欲はいけませんというのに非常に近いでしょうな。こういうことがあると思うんだな。だけど、ナイフなくしたらいいのかって言ったら、そうでもないね。
性欲というのはピストルとかね、刀みたいなもんじゃないんだな。ああいう人殺し専門機械というほど悪いもんじゃない。やはり、ナイフみたいなもんだ。料理もできるしね、いろんな野菜も切ったり、刺身も切ったり、いろいろできる包丁なんですよ。それが性欲なんだ。ところがこれは、人を傷つけたりすることにも使える。こういうことでね、決して日本刀やマシンガンやライフルじゃありません。そうではなくて、包丁みたいなもんです。だから、それが危険だから全部捨てろというのは、これは間違っています。そういうことですね。
子供に見せたくないっていうのも、包丁を見せたくないと一緒だな。包丁は危険だから子供には見せたくない。あの両親の愛し合い方も、あまり見せたくないことあるわね。そういうもんだと思いないさい。
だから両面はやっぱりある。でも役に立つっていうものは、たいてい両面があるっていうことだよ。ダイナマイトにしたって、何にしたってね、だから、そういうふうに考えをまず持ってください。これが出発点です。
2.結婚論
そういうことを前提にして、結婚の話に入っていきたいと思います。
これはね、若い人、あるいは中年の人を問わず結婚ということでは悩んでおるし、悩んでおる原因は、要するに結婚そのものが間違いじゃないのかという疑問があるね。それと、結婚することによって生活が苦しくなる。あるいは人間関係が苦しくなる。奥さんに縛(しば)られる。奥さんを縛る。そういうこと、いろいろあるね。
結局ね、でもこういうことあるんだな。結婚っていうのは何て言うかね、やはり勤労って言うか、男性が働かにゃいかんようにできてるね。どうみてもそう思えるね。神様はよく考えて、女性にも男性にも性欲というものを与えて、男性は、とにかく女性がいないといられないようにする。そしてたまたま結婚してしまうと、奥さんを養わなきゃいけない。子供がたまたまできてしまう。たまたまできたかっていうんで、これを養わなきゃいけない。すると、働かざるを得ないね。
面白いと思うんだよね。乞食はどうしておるか私は知らんが、日本国中、ほとんどの人が働いとるわけだよ。これ結婚がなければどうだ。結婚したら、もう地獄に堕ちることになっとればね、みな結婚しないな。その結果どうかっていうと、独身の男女の群れがいっぱいできるよ。そしていろんなサロンがはやったりね、風紀が乱れたりね、独身でみんな社会に責任とらない人たちがいっぱい出てくるね。こういうことだな。
だから結婚するっていうことは、やはり勤労をさせるという上手な働きがあるし、実社会に対する責任ていう面もあるね。結婚している人って、要するに、めったなことができない部分があるね。その意味で、社会に対する責任が出てくるんだね。僕はそういうふうに思いますね。
そうしてくると結婚は、要するに両面性がやっぱりあるということだな。男性にとっては、ひとつ失われる部分は、それはある。若い頃あれほどロマンをもって、野心をもって天下国家論じて、「よし俺は、この煮えたぎる血潮のまま」にね、「大事業を」と思っておったものが結婚すると途端(とたん)に現実的になってね、とにかく給料袋を持ってね、帰ってくるだけの月給取りになっちゃう。子供がピイピイ泣いて、「あなたミルクはどうするの、たまには月給日にはケーキぐらい買ってきてよ」ってこういうふうになるよな。そういうことなんですよね。それでなんちゅうかなー、夢が多少壊れる面があると思う。だからその意味でね、いったん大きな男のロマンが壊(こわ)れる面が、僕はあると思います。
ただそのかわりね、夫婦の夢というのは出てくるね。夫婦の夢、それは人によって違うよ。奥さん、ミンクのコート買うことが夢かもしれないし、あるいは旦那さんは、今度は車を買うことが夢になるかもしれない。マイホーム持つことが夢かもわかんない。これ馬鹿にする人いっぱいいるよ。マイホーム持つことが夢だなんちゅうのは、くだらないっていう人はいくらでもいるけれども、まあ確かに、でも夢は夢だよな。快適になること、幸福な生活を送れること。それは大事なことでもあるよな。ただそれにプラスアルファがないから、いろいろ問題があるだけでね。
それともうひとつは、神理を学んでいる人っていうのは、結婚することによって、その出世の妨(さまた)げになるとかね、そういうことが多かったな。これに関しては、だから両面性があるということで、神理を理解し合っている者どうしが結婚する場合には力が二倍、三倍になることもあるということね。これは言えると思うんですね。奥さんに理解があって旦那さんが、それ好きだったらさ、そういう家庭は強いですよ。
たとえば会社に勤めておって、土、日にね、いろんな宗教の伝道やっておっても、いろんな会社の人からいろいろなこと言われて不安になるけど、奥さんがね、「あなた何言うのですか、神様のために頑張んなさい」とね、こういうふうになっとればさ、うんと頑張れるとこもあるよな。隠(かく)れてはできないね。そういうとこがあって、逆に女性というのは、男の勇気を駆(か)り立てる面があるね。
男は家でカアちゃん、子供がおると思うからこそ、槍持ってね、勇ましくトナカイであろうが、兎(うさぎ)であろうが、立ち向かっていけるんじゃない。昔から、狩猟(しゅりょう)時代からそうでしょう。だから勇気をもってね、カアちゃん、子供のために一日の獲物(えもの)を取りにいく、これですよ。まあこういうとこがある。だから悪い面だけでないっていうことだな。
だから若い時の純粋なロマンは、やがて消えていくかもしれない。ただそれでも信仰の世界の中に生きたい人は、そういう相手を選べばね、それなりにまたやっていけるし、あとやはり一人で暮らしているとね、便利なこともあるけど、やはり何というかね、弱さがあるしね。一人暮らしで、六十、七十になった人、見てごらん。やはりね、人間として、どこか円熟したって感じがしないと思うんだ。これは僕だけの偏見ではないと思う。
一生独身で送ったカントみたいな人もいるだろう。それは、それなりにいい仕事したけれども、円熟したっていう感じはやっぱり受けない。やはりね、そういうとこあるね。書物だけを愛して、散歩と書物だけを愛して生きた哲学者、それはそれでいいけれども、なんか枯れて死んだという感じは受けるね、どうしてもね。
それから人間として円熟するという意味では、そういう家庭を持つことが大事です。この時やはり一番大事なのが、配偶者の選択でしょうね。これを間違うと、あとが苦しいと思います。
すなわち基本的にはね、自分の理想を理解できる相手を選ぶことね、男性も女性も、それがいいと思う。この理想が極端に違うと苦しいよ。見た目とかね、美人だとか、容姿がいいとか、家柄がいいとかね、あるいは学歴とかね、こんなことだけで決めると大変なことになりますよ。大変なことになると思う、私はね。そんなもんで決めたら、あとが苦しいですよ。
やはりね、自分の人生観、理想、これと一番合う人ね、これでいきゃあいい。お金なんかなくたっていいんだよ。そんなね、お金なんか、結婚してね、働いて稼げやいいんだよ、二人で。二人で頑張りやいいんだ。権利があるかないかなんて関係ないよ。奥さんの持参金がいくらあろうと関係ない。旦那さんの収入が低かろうと、自分の理想にね、人生観と合致する旦那さんだったらなんとかね、頑張ってでもやっていこうと思うんだよ。奥さんがパートで働いてでもね、スーパーで働いてでもなんとかして頑張ろうと思うんだ。
ところが旦那さんのやっていることがね、全然自分の人生観に合わない。自分は信仰を中心に生きておるのに、旦那さんは暴力団の仕事やっているっちゅうたら、これはね、あなた、内助の功といったって無理です。はっきり言って無理です。そらね無理です。まあ難しいのもあるけど、旦那さんはプロレスが好きだけれども、奥さんは関取のお嫁さんになりたかったなんていうことあるかもしれないけれども、これはわかりませんけれどもね。
やはりね、その自分たちの理想を共有できる相手を探すことが大事だと思う。それはね、あきらめることですよ、ひとつには。この世的にね、いろいろと結婚相談所とかね、見合いの何とかがあってね、条件言うね、みなさん経験あると思う。男性なら身長百七十センチ以上とかね、そして年収いくら以上、で大卒以上とかね。できれば次男がいい、長男は駄目、次男がいい。こうなるでしょう。
女性の場合だったら、あまり太り過ぎとっちゃだめで、そこそこ美人で、短大は出てなきゃいけないとかさ、あと一人娘はいや。一人娘が今、ずい分売れ残っちゃって、あっちもこっちも大変だねー、見ててねえ、かわいそうだけど。それは一人娘は親の面倒みなきゃいかんという観点があるからね。
だから、こういう問題救うためにはね、親御(おやご)さんが、やっぱり考え直さにゃいかんと思うね私は。自分が娘一人しかつくれなかったらね、これは将来、自分の面倒見てもらえんと思って、しっかり稼いでね、お金貯めておくことです。自分たちの老後の蓄(たくわ)えをしておくこと。娘にね、面倒を見てもらおうと思わんことですね、これが大事ですよ。
一人娘で、今悩んでおられる親御(おやご)さんいっぱいおる。この読者の中にもいっぱいおるでしょう。一人娘が二十七、八になるんです。三十になるんです。やがてね、それがまた条件のいいとこさがすんだよ養子を。年とって、だんだん年とってね、相手がいなくなってくるんだよ。親として無理しとるんだ、この世的な体面でいってね。だからもうポンと嫁に出すということであればね、相手はおるんだよ。それで自分らの世話させるというからさ、よっぽど条件がよくならなければ来ないよ。でも、そんな条件に釣られてくる男性なんて、ろくなのおらんな。そういうことなんだよ。
だから一人娘しかいないような両親は、もう娘が小学校で一人娘っていうのがわかるんだから、しっかり貯(た)めてね、老後の資金は自分たちが貯めて、老後は自分たちで自立していけると、こういうことをしとくことだ。そうしたら、もう娘が二十四、五になったらね、嫁に出すことだよ、ポンと。行けって。「いいから、お父ちゃんたちは自分たちで老後を設計しているから行け」って、こうすりゃいいんだ。そしたらすっきりする。
それを「ああでもない、こうでもない」言ってね、だんだん三十、四十、五十に娘がなってきて、お父ちゃん、お母ちゃんが七十、八十になって「ああでもない、こうでもない」って、言っているんだな。「家の釣り合いがとれん」とかね、「なんじゃかんじゃ」言っとるんだ。それがいいとこのお嬢さんほど一人娘多いんだ、またな。重役の娘とかね、社長の娘とか、一人娘が多くてね、難しいんだ。嫁に出してやるこったよ。それから長男、次男の問題もね、長男だから、どうこう、次男だから、どうこうでなくてね、自由に、やはり新しい家庭を築かしてやるようにしていった方がいいと思うよ。そうすれば自由だ。
親もね、見返り期待して子供育てちゃいけないと思うね。もう古いよ、そういうのは。自分が両親に育ててもらったんだから、お返しと思って子育てするんだ。子育てをして、そのお返しをあとで取ろうなんてね、これはあまりね、こういう視野はいけないんだ。
自分が二十年育てたんだから、あと面倒見てもらわなきゃ困るっていう考えね、これはやめた方がいいよ。これは不幸の原因ですよ。だから自分たちも親にね、育ててもらったんだから、そのお返しと思って子育てをしていると、そのあとは見返りは求めない。こういう姿勢が、今後大事だと思う。
こういう社会的観点ができればね、だんだんに独身でフラフラしている男女が減っていくと思う、楽になる。だから結婚に関してもね、そういうとこもあるよ。だから、あんまり条件にこだわっちゃいけない。
まずね、第一に選ぶものはね、自分の理想と合致しているかどうか、その理想は千差万別です。何とも言えない。ただ頭がいいっていうだけで好きな人もおるからね、それはそれでもいいだろう。それだけでいく人もおるし、いろいろだけど、結構世間の評価でね、みんな考えがちだな。
で、女の子なんか頭の悪いのにかぎって、頭のいい人と結婚したいんだな。それが不思議に頭のいい人とさえ結婚すれば幸せになれると。じゃ頭のいい男性はどうかと言うとね、頭の悪いのと結婚したら、これは大変不幸になると思っちゃうよな。そんなもんなんだよ。だから世間のね、常識だけで言っちゃいけないよ。
お金のない人は、お金持ちとさえ結婚すりゃいいって言っても、そうはいかないこともある。やっぱりね、貧乏どうしでも結構、話が合えば、それでいいんだよ。金持ちは金持ちどうしでいいんだよ。
そしてやっぱり頭だって知能はある程度、釣り合い、私はいると思いますよ。知能にあまり差があり過ぎるとね、夫婦生活苦しいですよ。夫婦の対話できないから、実際苦しいですよ。夫婦の対話できないってことはね、これは辛(つら)いことですよ。
言っとくけど、「赤ちゃんが転(ころ)げた」とかね、「隣りの犬がね、何とかさんにかみついた」とか、こんな話しかできない奥さんとね、あなた大学教授みたいな人と結婚したらね、これ苦しいよ、はっきりいって苦しい。これは苦しいと思う。だからそういうねー、お尻が大きかったとかね、オッパイが大きかったなんてね、こんなんで結婚しちゃいけないよ。
あともうひとつはねえ、この世的な条件、度外視するということもひとつだけれども、あとまあ赤い糸の問題だね、約束した人がいるっていう問題だね、まあこれはたいていの場合あることが多い。しかし人間にはわからない。それが赤い糸かどうかわからない。たまたま結婚したいと思ったら、その人が縁あると思っていい、ね、いいんです。自分は結婚したいと思って、相手も「してもいい」って言ってくれたら、そりゃいいんです。
あのね、日本に一億二千万います。男女は六千万おります。六千万の人にね往復葉書で送ったって、あなたと結婚しますって人はね、非常に少ないです。向こうがしてくれるっていう人は、今度は自分が嫌です。たいていの場合そんなにいないんです。ところがね一生の間、自分が結婚してもいいと思う許容範囲のある男女、異性っていうのは多い人でね、せいぜい二、三十人です。これ以上絶対いません。
結婚してもいいと思う人が百人も二百人もおる人、これ普通じゃありません。いないです。結婚可能な相手というのはね、どんなに頑張ったってね、せいぜい二十、三十人です。友達としておいといてもいいけど、結婚となるとね、してもいいと思う人は、まあ二十人もおる人は、よっぽど奇特(きとく)な人であってね、普通はせいぜい数名です。人生のうち結婚可能な二十頃から四十歳、いや五十か六十か知りませんが、ゲートボールの恋なんてあるからわからないけれども、出合う人は数名だと思います。
だからそれほどね、どこかわからん天の一角から降りてきて、赤い糸で結ばれているということではなくて、本当はその結婚可能な範囲の数名の中での選択にしか過ぎないんだよ。その数名の中でね、自分もまあこのぐらいなら妥協できるし、相手もまあええんじゃないかと言ってくれたら、それが赤い糸があるんだ、そう思って間違いない。この六千万人の中の誰かと結ばれてるなんて思うと、ろくでもないことになる。
だからね実際、結婚できる相手というのは、数名あるいは十人、二十人の範囲から選ぶっていうことしかないっていうことだ。それを知りなさい。そういうことで、無茶な選択はできんことだよ。いきなりね、天皇家から白羽の矢が当たるちゅうことは、まあたまにあるけど普通は有り得んていうことね、ない。お妃(きさき)にっていうことは普通はない。やっぱり学校の友達か、あるいは親の知り合いとか、兄弟の知り合いとか、あるいは職場の関係、この程度なんだよ、これしかない。だからそういう数名の中での選択だと思いなさい。たまたま結婚の合意ができたら縁があると思いなさい。そういうふうに考えにゃいかんですよ。
だから赤い糸をあまり強調し過ぎてもいけない。そうじゃなくて、自分の可能な範囲、何人ぐらいおるか考えて、そんなにいないんだよ。その中におると思いなさい。その中で自分が、まあこの人ならやむを得ないと思う人がいたら、それが赤い糸で結ばれてると思いなさい。とんでもない一角からと、あんまり思わんことだね。そういうこともたまにはあるよ。しかしこんなのはね、ラッキーだったと、宝くじだと、そう思いなさい。こう思わなきゃいけないよ。
だから赤い糸、赤い糸と言ったってね、女の子たちは、よく白馬の騎士待っとんだ。突如どこからか白馬の騎士が現れると待ったら、三十、四十になるんだな。そう思わないで、やはりね、相手は自分の結婚可能な範囲の中におると思いなさい。そういうことなんですよ。無理しちゃいけない。
3.家庭の意味
さて、結婚の話しましたが、家庭の意味をね、言っとこうと思うんだな。
家庭というのはね、家の庭と書くけれども、人間にはね、やはり本能があると思うんだな。鮎(あゆ)という魚はね、やはり自分が好きなこけが生えている石のあたりをテリトリーにしてね、この辺あたり餌多いぞって、一定の範囲内に他の魚が入ったら、それを追いちらすんだな。こういう習性があるね。やどかりは貝殻の中に入っておる、鳥は巣をつくる、あるいは蟻は蟻の穴をつくる。峰は峰の巣をつくる。まあ熊もねぐらをつくる。こういうふうにね、それぞれねぐらをつくるっていうのは自然界見渡しても、動物たちもみんなやっていることだな。そうすると家庭っていうのは、結局、そのねぐらをつくることと同じだと思わなきゃいけない。
鳥だって自分の家を建てるわけだよ。そうだろう、巣つくるだろう。巣つくるっていうことは家を建てとるんだろう。これは、そうじゃないか、鳥も家建てとるだろう。そうだろう。犬は犬小屋建てないけど、家畜は建てないけれども、自然界の動物たちはねぐらを持っとるんだ。みんな、そうするとやはりそれもひとつの本能であるし、そういう動物が、その動物であるということ自体に基づいて、そういう行動をとると思わなきゃいけない。
蜂は、蜂の巣をつくるのであって鳥の巣はつくらない、絶対ね。そういうことでしょう。やはり人間は人間の巣をつくるわけですよ。人間の巣っていうのは基本単位として、やはり父ちゃん、カアちゃんがいて子供がおる、これが基本単位なんだな。これで巣をつくるんですよ。だから家庭っていうのは、この巣なんですよ。
じゃあ鳥たちは、なぜ巣をつくるんでしょうか。まあこれ考えてみようか、鳥がなぜ巣をつくるか。
そうしてみると、鳥が巣をつくる理由っていうのは、まず外敵から自分たちを守る。雨露から守るっていうことがひとつあるね。雨露から自分たちの生活を守る。そして夜寝るところを確保する。寝ている間は外敵があるからね、寝床を確保する。それが二つだな。
それと子供たちの養育だな、卵生んでひなをかえし、めんどりが温(あたた)めとるんだろう、そしたらおんどりが外飛ぶんだろう。彼らだって、ちゃんと愛があるじゃないか。鳥でも夫婦があってさ、おんどりが餌を取りにいくんだろう。めんどりがさ、巣の中で卵の上に羽広げて温めるんだろう。可愛いじゃないか、愛らしいじゃないか。
君たち、そんなの考えたことがあるか。あの愛の行為、基本的に一緒だぞ。鳥の雄と雌がね番(つがえ)ているちゅうか、夫婦の愛をささやき合っているのを見て、いやらしいと思うか。もし鳥の雄と雌が、愛の行為をしているのを見ていやらしいと思うなら、その人間の心の方がいやらしいぜ。僕はそう思う。とんぼの雄と雌がつるんでいるのを見ていやらしいと思うか。いやらしいと思う人間の方がいやらしい。僕はそう思うよ。
ごく自然な行為で、そうした鳥のひと番(つがい)の雄と雌がおることによって、彼らがそういう自然な営みをして卵を生みね、そして雌は卵を温め、雄は餌を取りにいくという、このパターンね、これ非常に人間に似ていると思わないか。鳥だって、やはりね、雄の鳥が卵を温めて、雌の鳥が餌を取りに行くちゅうのおるかもしらんけれども、まあ一通りのパターンがあるわね。ライオンだったら雌が子供を産んで後、雄が外敵から雌と子供を守るという仕事持っているね。で、餌を取りに行くのは雌の仕事になっているね。で、一頭の雄は何頭かの雌を従えておることがあるね。これが何となく王侯貴族の雰囲気がある。そういう象徴だけどね。
そういうふうに動物たちは自然の摂理でもって自らの巣づくり、家庭づくりの法則を持っとるんだな。こうしてみると人間も、その自然界の法則の中にあると思わなきゃいけない。
してみると家庭というのは何かっていうと、やはり人類の生存のための最小単位である。最初の社会である。まあこういうことが、私は言えると思います。人類の最小単位ですね。
そういう意味において家庭はね、結局のところ何かっていうと、社会の一角をつくっておるということだなあ。それが社会をつくっとるんだよ。社会の最低単位だよ。国家の一番小さい単位だよ、これがね。それは人間が社会性を持って生きているということの意味なんだよな。鳥だって一人で生きておる鳥もおるかもわからん。しかしどこかでたいていめんどりを見つけてくるからね、たいていの場合ね。そういうことだな。そういうふうになっておるんだよ。
だから正法行者の中でね、結婚して子供を産んで育てるってことが、非常な誤りであるとかね、いやらしいとか思う人がいたらね、鳥のことを思ってごらんなさい。鳥が巣で卯を生んで、めんどりが羽の下で卵を温めてひよこにかえして、ひよこを育ててね、守っておる姿を見て、それをいやらしいとかね、間違っていると思う人は、その心の中に何かがあるんじゃないか、間違いがあるんじゃないか。
素靖らしいと思わないか。雄と雌がいて、やがて死んでいく自分たち、そうであるならば、この生命を伝えていこうとしておるんだろう、子供たちに。そして幼い子供たちを育てあげて一人前にしていくんだろう、やがて大人になって巣立っていくんだろう。その親の役割しているわけだ。
ああいうね動物なんかになんの知性もない、考えもないと思うかもしれないけれども、その二人で愛し合って巣をつくって卵を生んで、そしてひなをかえしてね、ひなを大きくして、そして巣立っていく、飛び方を教えてね、ちゃんとした社会経験じゃないか。霊的な意味があるよ。はっきりと、それだけの経験が。これが鳥が一羽だけでさ、みんな餌食べて生きとるだけだったら何も発展性がない。発展性何もないじゃないか。ところがそういう巣づくりやって、子育てやって、親としての行動することによって彼らもまた魂の修行しているんだよ。そう思わなきゃいけない。
だから人間もそういう巣づくり、家庭をつくるということにおいてね、ひとつの大きな魂の修行がそこにあると思わなきゃいけない。鳥が一羽飛んでおればええっていうもんじゃない。空飛んどる鳥は、みんな独身に見えるかもしれないけれども、本当は結婚していることも多いわけだ。指輪していないけど、結婚していることも多いわけだ。そういうね、大きな魂の修行があるっていうことだ。
だから家庭なんて、そういう男の目から見りゃね、『天国と地獄』でも僕言ったけど、面白くない面もあるけど、よく考えてみるとそういう巣と一緒だな。ね、男は外で働いてお金稼いでくる。女は家のこときりもりして、子供を守ってくれる。これは基本のパターンです。だから種族としてのね、これが基本のパターンなんです。だから女性で働く人はいます。女性が職場からいなくなると殺伐(さつばつ)とした雰囲気になるでしょう。男性ばっかりの職場だったら、ずい分息が詰まる。そういう意味で女性もいい。
またいわゆるね、結婚しないで職業婦人として生きていくだけの女性は、やはり例外であることは事実です。そういう一部の例外があることは大事。それが文化をね、高めるための役割はしています。そういう役割は確かにあります。あるけれど、例外であることは事実。したがっていわゆるウーマンリブ運動等に関してはね、それはひとつの自然の摂理(せつり)に反しているということは私は、言っておきます。自然に摂理があるんです。
鳥には鳥の行動本能があるように、蟻には蟻の本能があるように、蜂には蜂の行動パターンがあるようにね、やはりあるんです。自然には自然の摂理がある。
人間という者は最高の動物かもしれないけれども、やはり人間も動物の一種であることは事実です。生物としての動物の一種である以上、それだけのやはり摂理はあります。これを断ち切るということも、もちろん可能です。魂において断ち切るということも可能だけれども、やはり最大多数にとって、それがいいということだろうと思います。
まあ、そういうことですね。だから家庭というのは、そういう意味において、やはり魂の修行のためにある。こう思った方がいいです。魂の修行のためにある。より大きな経験を積むためにある。また苦しみや悲しみがあっても夫婦手を携(たずさ)えてね、頑張っていくというところにね、人間としての大いなる完成があるということだ。
カントはカントで偉いと思うね。ただ完成した人という感じは受けにくい。やはりね、結婚して子供を育てながら、やはり大きな仕事をしていくということね、多少時間的なロスはあるかもしれないけれども、そうしていくことによってね、やはり大いなる完成ということがあるように、私は思います。
ただ僕自身ね、奥さんがいたこと、子供がいたことをどう評価するか。現時点で、死後十二年経ってどう評価するかと言われると、もちろんいろいろ問題はあります。それは、私が神理を伝えるという団体をやっておった。そういう団体をやっておったという人間であるというね、その法の継承という意味、あるいは人びとを導くという意味においてね、それは非常に私自身苦しい思いが今あります。あるけどもただ家庭をつくり、子供をつくったこと自体が間違いかといったら、そうではないと私は思っています。それは彼らのためにもなったし、私自身の魂修行にもなりました。僕が一人でね、ラジオでも組み立てて売りながらね、独身で生活して、そして生きとればよかったかと言ったら、そうではないように思う。
だからみなさんから見たら、高橋信次なんて不十分と思うけれども、それなりの魂の糧(かて)は得たと思います、家庭生活によってね。そういうことはあると思う。
その後、女房、子供がやはり苦労しているけれども、それについては、また別な観点からの評価であって、家庭を持つこと自体は悪であるとか、子供がいること自体が悪であるという判断にはならないと思う。それはまた別の事業という観点からの問題です。こういうことがありますね。
そういうことですね。家庭はやはり人間もひとつの生物としての単位として考える時にね、最低限度の魂の修行の場である。もしそれが悪だと思う人は、ひと番(つがい)の鳥たちの幸せを見なさい。幸せな家庭を見なさい。巣を見なさい。あれを悪と言えるか、素晴らしいじゃないか、僕はそう思うね。だから祝福の気持で家庭の意味をやはり見ていった方がいい、こう思います。