目次
1.理想的ユートピア論とは何か
さて、本書を締めくくるにあたり、理想的ユートピア論とは何であるのかを、もう一度まとめ直してみたいと思います。
ユートピアというものを、現在、私たちを縛っているもの、私たちを苦しめているものからの脱出というふうに考える向きが多いのは事実でしょう。しかしながら、私は、そういうふうにはかならずしも考えません。ある日、忽然と理想郷が誕生して、そこに住んでいる人がみな喜びに満ち溢れて、そして楽しくてしようがない、そういうユートピアができあがって、それで終わってしまうというふうには思わないのです。
私は、ユートピアとは一つのエートス、すなわち持続する精神状態のことをいうのではないかと思うのです。したがって、その精神的状態がユートピア状態にあるのであって、ユートピアといわれるものの客観的状況は時代とともに、年とともに、人びととともに変わってくる可能性がある、そういうふうに思えます。
すなわち、ユートピアというものは、その精神的なる部分は永遠不滅であっても、現実的な状態論、生活論においては時代とともに変遷することを認めざるをえないというふうに考えます。いやむしろ、私は変転する姿のなかにあって、変転しない精神を内包している姿こそユートピアではないかと思うのです。
ですから、今、私が説くところのユートピア論にしても、時代的制約があるのは、間違いないと思います。ただ、このなかに盛られた理想的精神は、死ぬことなく、絶えることなく、たしかに伝わり続けてゆくものであろう、そのように考えます。したがって、いつの時代にもユートピアを説く場合には、この理想的精神論と現実の実践論の両者を含むわけですが、現実の実践論は変化を常に内包するものでなければいけない、ということです。
元来、はるかなる天上界にあるところのユートピアは、少人数のきわめて優れた人びと、心を一つにした人びとの集まりでありました。それを、この地上に降ろしてくるというのですから、きわめて困難なことは事実です。それは私が、数多くの本で述べてきましたように、地上を去った世界においては次元別にいくつかの人びとの生活の場があり、そして、その次元が高度になればなるほど、理想的な人びとの生活の営みというものが展開してきます。それはそれはすばらしい人たちの集まりがあり、語らいがあります。
しかし、この地上世界というものは、地上を去った、そうした多次元世界の営みそのものを、そのまま反映するものではありません。そうではなくて、この地上世界においては、さまざまな人種、さまざまな魂の進化の度合、老若男女、こうした者たちが集まっています。したがって価値的に見れば混沌とした状況であります。価値ある者も、価値なき者も、玉石混交の姿でいっしょくたになっているのが、この三次元世界の真相であると思います。
それゆえユートピア創りにおいては、こうした混沌、カオスともいわれる混沌を何とか、一つの価値ある秩序において、整然とした世界を築いていくという努力が必要なのです。多次元世界にある価値秩序は、この三次元の世界においては必ずしもそのままは、妥当しないことでありましょう。しかしながら、私たちは今、私たちが現実に住んでいるところのこの三次元世界において、できるだけ高次元の神の理想に近い生活を展開するために努力すべきであろうと思うのです。そのためには、どうすればよいのか。
この私たちが生きている世界が、肉体と物質という桎梏(しっこく)に条件づけられているということは、止むを得ないことでありますが、この条件づけをある程度、不可避なものと考えても、それでもできるだけ実在界の価値秩序をこの世界に持ち来たらす、ということかだいじであると思います。
2.ユートピア世界におけるリーダー像
そうすると、理想的ユートピア世界には、それを構成する人の面での絞りというのが、どうしても必要となってまいります。この人の面とは何であるか。まず、神理を語る人、ユートピア建設のラッパを吹き鳴らす人が中心にならなければならないということです。あるいは、頂点に立たねばならないということだと思います。これを中心に置かないと、混沌は混沌のままに、無秩序は無秩序のままに、収まってゆくことになります。
地上的価値秩序でこれに近いものとして、たとえば頭の良し悪しという基準があります。勉強のよくできる人が、人の上に立つという制度です。これは、ある程度まで妥当する基準であります。ただ、この基準が妥当するのは、私は六次元神界と呼んでいるところの、この人を生かす世界のリーダーたちが、リーダーシップをとる世界にとどまるといえましょう。
これ以上の愛の世界、慈悲の世界、法の世界というものは、この頭の良し悪しだけでは計れるものではありませんし、この頭の良し悪しだけで計れるところのリーダーは自分を超えた、こうしたリーダーの存在を正当に評価できないという欠点があります。そういうきらいがあるのです。すなわち才能を超えた徳、徳業というものに対する評価が十分にできないということなのです。
したがって、私はこうした知的な能力を基準とした秩序階級ができている現代を必ずしも悪いとは言いませんが、それは七十パーセントぐらい妥当する世界である、と言っておきたいと思います。こうした才能を中心とした人の上に、徳のある人が指導者として立たなければならないと思います。そして、徳のある人は才能を愛するという、そういう傾向を持っていただきたいものだと思います。徳のある人よりも、才に秀でた方は数多くいるわけで、この徳と才とが相争っては、世の中の秩序はできあがらない。そのように私は思います。徳ある人は、その徳をもって人びとを照らし、そしてそのまわりに才能のある人、才ある人を集めて、そして実際の実践の面において、世の中をよくしてゆくという工夫が必要です。そして、徳は才を愛し、才は徳を尊敬するという関係をつくってゆかねばならない、そう思うのです。
ですから、この徳と才、このバランスと秩序を形成することかだいじなことではないでしょうか。もちろん、才と徳とを兼ね備えたリーダーが出現することは、限りなく大切なことであると思いますが、あえてその両者を兼ね備える人がいない場合には、徳を上とし、才を下とすることです。徳の人を上におき、才の人をその次におき、そして次なる段階にさまざまな善良なる人びとを集め、そして善良なる人びとの下に、次の発展途上の人びと、まだ人格形成中の人びと、未熟なる人びとを置くべきです。こうした社会階層ができなければなりません。
3.ユートピア世界におけるピラミッド型人的構造論
したがって、私が考えるこのユートピア世界における社会階層は次のようなピラミッドで形成されることになりましょう。
第一に、ピラミッドの頂点には徳ある人のピラミッドがあります。その下には、才能のある人がつきます。これが第二階層です。第三階層には善良なる人びとです、これがつきます。そして第四階層として、精神的にまだまだ修行の余地の多い人びとの階層がこれに続きます。こういう四段階の社会階層にしてゆきたいと思います。
したがって、教育的観点からこれをみつめてみると、まず第一には人間の性格のなかの悪しきものを取り去るという努力が必要です。精神的に未熟な部分に対する反省というものを、まず教育の第一段階に打ち出してゆく必要があります。すなわち、悪しき心の傾向性、また行動の傾向性というものに対する警告を教育の中心に据え、人の性質を善良なるものに変えてゆく必要があります。これが教育の第一段階です。
すなわち、現在学校教育においては、さまざまな知識教育をしておりますが、これは第一段階であってはいいわけではなくて、まず人間に善き精神状態とは何か、悪しき精神状態とは何かということを教えなければなりません。昔の道徳教育に代わるものを、何らかやらなければなりません。そして、人間性のベースを善にもってくる必要があります。まず、教育を施して、こういうことはしてはいけないこと、こういうことはしてよいこと、あるいはこういうことをした場合には反省をしなければならないということ、そういうことを教えるべきです。
具体的には、他人をいじめる思い、嫉妬する思い、非難する思い、苦しめる思い、やっかみ、そしり、いかり、愚痴、こういうものはよくないものだということを教え、この代わりに人に対するやさしさ、愛、慈(いつく)しみ、また、勇気、希望、こういうすばらしい徳目を教えて、そして人間の性質を善に戻す教育を第一段階に置くべきだと思います。
そして第二段階の教育においては、才能を伸ばすということに力を入れるべきです。すなわち、人間性のベースをまず善において、善なるものとして性格の形成をした上で、これに才能の接ぎ木をしていくわけです。才能の接ぎ木には、いろいろな学問の補強があります。現在、構築されているところの学問・研究があるでしょうし、それ以外にも、実社会における経済的な、あるいは経営的な手腕を発揮するという方向もあるでしょう。また、それぞれの専門家として、力を伸ばしてゆくという方向があるでしょう。これを次なる段階といたします。
そして、第三段階としては、この才能ある人のなかから、徳ある人をつくり出していく訓練が必要となってきましょう。すなわち、一般の人よりも才能的に優れている人を集めて、こうした人たちがどうすれば世の人びとをよくし、世の人びとを幸せにしていけるかという方向に教育をしていく必要があります。すなわち、個人の見地を離れて、社会全体をよくしてゆくために働こう、あるいは尽くそうという気持ちを植え付けてゆく必要があります。すなわち、才能ある人を集めて、そのなかから徳ある人をつくり出してゆく訓練が必要となります。
それは、まず第一には、発想の訓練が必要でしょう。発想の訓練として、愛を与え続けるという気持ちを持つということ。世の中に光を与え続けるという気持ちを持つこと。そしてすばらしい世界を創っていくんだということを、リーダーの使命として自覚させること。これらは単に個人の領域や、小さな自分の会社の発展だけを追いかけるのではなくて、社会全体への大いなる情熱として、これを強めていくことです。
そして最後には、こうした徳を宗数的見地にまで高めることがだいじである。そのように思います。宗数的見地という言葉は、ひと言で説明するのは難しいと思いますが、あえてそれをひと言で話すとするならば、自分の上に神がいるということを認める境地だと思います。常に神がおられて、自分を見ていてくださる、ということを信じている指導者の境地を宗数的見地といってよいだろうと思います。
人間のリーダーシップには限界があります。人間の力には限界があります。その奥にある力を信じない限り、この世的には、人間はどうしても自己顕示欲の固まりとなり、そうして小さな成功者になっていき、暴政をしいたり、また自分の権力のままにいろいろなことをしたくなっていきます。そんなことであってはいけないのです。やはり、自分の上に絶対者がいるという気持ち、超越存在がいるという気持ち、この気持ちを持つということが、人間を傲慢から防ぎ、そしてすばらしいものへと常に導いてゆくための鍵となると思うのです。
以上で、人間によってつくられる社会のピラミッドモデルをつくりました。この考えからいくと、たとえば大学教育など高等教育を受ける前提としては、まず情操教育が必要だと思います。善なるものを、その魂の基礎に持てるように、まず教育をし、そうした人の才能をさらに伸ばし、才能が伸びた上に、より多くの人びとの幸福を考える、そうした徳育を施していく。そして、最上のリーダーをつくっていく、そういう社会システムが必要だということだと思います。
これが人的構造論です。
4.神理に奉仕するユートピアの生活
第二に、理想的ユートピア論としてぜひとも言っておかねばならないこと、それは、神理の価値、神理を学ぶという価値をどうしても中心に置いておく必要があるということです。この世的に値打ちのあるものというものは、いろいろと規定されていると思いますが、最高に値打ちがあるものは神理であり、神理に奉仕する生活こそがユートピアの生活なのだという自覚を持つことだと思います。
神理を中心に生活がまわっているということがだいじです。その神理とはもちろん神から流れ出たものであり、そうした神から流れ出た教えが、法としてまとまったものです。この法というものを常に学びの中心に置いて、その上にさまざまな実用的な知識を伸ばしていけばよいと思います。人間性には、どうしても基盤が必要です。この基盤づくりを忘れたときに、人の心は唯物論に流され、そして欲望のままに生きてゆくことになっていきます。
組織論としては、先ほど述べましたように、より魂的に進化した人が中心になるような組織を展開すべきでありますが、日々の生活論・実践論としては、常に神理を片時も忘れてはならない。神理とともに日々生きる、そういう気持ちが大事です。それは人間の魂というものは、永遠に学び続ける、そういう必要があるのだということが、その根本になっています。永遠に学ぶことを忘れたときに、魂はすぐに転落を始めます。また魂はその値打ちを低下し、その能力を低下し、その素質を後退させていきます。ですから、永遠に進化していくためには、どうしても神理中心の生活ということが必要になります。
以上でユートピアのための二つの方法論を述べました。
最後に述べておきたいこと、それは、どうしてもどうしても言っておかねばならないことです。それが、何であるかというならば、とにかくユートピアというのは、結論において「私は幸福です。」と言い切れる人を数多くつくっていくことです。日本において、世界において、「私は幸福に生きています。」と言い切れる人を数多くつくることなのです。この努力に限界はありませんが、しかし目標においては可能な目標であります。その目標をめざし、その目標の達成に向けて、私も日々努力してまいりたいと考えます。