目次
③壮年層のユートピア
さて、ユートピアをつくっていく人たちの群れの第三段階として、壮年、高年層があります。一般的には五十代から、あるいは五十代の半ばから、あるいは六十代から、数え方はいくつかあるでしょうが、白髪が目立ちはじめる年代と考えてよいと思います。こうした年代の人たちに必要なことは、もはや自分のために働く時代は終わったということを自覚せよということです。自分のために働く時代は終わった。自分が努力したことによって、人から評価され、それがうれしいと感じる段階は、もはや終わっているということを知りなさいということです。
五十、六十になって、世に聞こえることなきは、それだけの実績であるということです。これから一花咲かそうと思ってはならない。すでに、評価を受けるべき段階は終わっているということを知ることが必要です。知らなければならないのです。ここでそれを知らねば、ほんとうに人間としての寿命をまっとうすることはできないのです。いっていることは厳しいかもしれない。何がいいたいか、早く死ねといっているのではありません。まちがわないでください。けっして早く死ねといっているのではないのです。自分のために生きるのはもう終わっているといっているのです。
それは、どういうことかというと、その人の生きる年数、寿命というのはわかりませんが、七十歳、八十歳とするならば、残りの二十年、二十五年、三十年という年月、これは奉仕のための人生であるということを考えなければならない。そう決意しなければならないということです。五十、六十を過ぎて、そして、自分のための人生をこれから生きようと思っているならばまちがっているぞ、と私はいっているのです。もうその時期は終わった。タイムリミットは過ぎた。これからは、もう人様のために奉仕で終わる人生だということです。それまでに、もし自分に対する世間の評価や見返りがなかったとしてもそこで諦めなさい。これから先は、どれだけ奉仕することができるか、それにかかっているのです。
それまでに多くのものを得た人は幸いです。それは、大いなる歓びでしょう。その歓びを自信として、これから先の活動をやっていただきたい。もし、まだ自分の満足するだけの実績や評価がない人、大部分はそうかもしれませんが。こうした人たちは最後までそれを求めてやればいいというのではないのです。人生の最後まで、名を上げ、人の評価を得、収入を得、地位を得ることのために断じて執着してはならないということです。
あえてこの年代を五十五歳で引くとしましょう。どこから引けばよいかわからない人もいるでしょうから五十五で引きましょう。五十五を過ぎれば、これからはお返しの人生ですよ、ということです。今まで受けたものが多かろうが、少なかろうが、もはやそこで一つの打ち切りであるのです。タイムリミットだということを知ることが大切なのです。これからは、まだ人様からいただこうとか、成功して人様に評価されようとか思ってはならない。
これからは、もう完全にお返しの人生です。これから天国に行くとすれば、天国に行くまでの間は、そのための税金として奉仕しなければいけないということです。これは税金なのです。天国に行くための税金として、残りの人生を奉仕のために生きなければいけない。このときに、まだ「私」というものが残っている人、まだ自分のための評価や結果を得たいと思っているような人は本物ではないのです。逆にこれは脱税ですよといっているのです。地獄へ行くためのコースです。賄賂(わいろ)を渡して地獄へ行くことになるのです。このように申し上げているのです。
もしこの機会に何か感じるところがあるならば、そう思っていただきたいのです。五十五歳を過ぎてからジタバタしてはならない。諦めなさい。腹をくくりなさい。これからは、もう人様への奉仕のために生きるのであって、奉仕の結果として、「あんたよくやったね。」といわれるようなことで歓んでいては、これは地獄への入場券がまわってきていると思わなければいけないということです。自分に返ってきてはいけない。そう思ってはいけない。けっして思ってはいけない。そして、それでこそ世の中に対する最後の大きな遺産が遺(のこ)せるのです。
そうしてみると、実はユートピアをつくっていくための仕上げの部分が、この高年層にあるということです。ほんとうの理想郷というのは、無私の気持ちで働く人がいなければダメなのです。率先して垂範(すいはん)する、こうした人が必要なのです。ほんとうに、銭金のためではないということを、身をもって示す人が要るのです。
中堅層は、残念ながら銭金のために働かなければならないのです。そこから逃れることはできないのです。社会的責任として、残念だけれども銭金のために生きなければなりません。家族を養わなければならない、あるいは、企業にとってはその活動が拡大するために働かねばならないということがあります。残念だけれども、この桎梏(しっこく)から、くびきから逃れることはできないのです。その意味での諦めがあるのです。残念ながらその責任からは逃れられないということです。
五十五歳を過ぎれば逃れてよいということです。もう諦めてよろしい。これからは肩書きや銭金のためではない。自分に残された生命は、これはもう神様からの預かりものだと思って、無私に、ほんとうの奉仕のつもりで、理想郷のために活動するということ、そして無名の戦士としてみずからの墓を掘るという気概を持っていただきたいということです。
今、日本が悪いのは、この五十五歳といわず、六十から七十歳以降の人たちが原因です。財界・政界において、妖怪のごとく徘徊(はいかい)している人たち、このあたりが悪いのです。はっきり申し上げるならばそういうことなのです。現在の日本を牛耳っているのは、この六十代から七十代の政治・経済界のドンたちです。彼らは、まだ自分のために生きています。
ですから、私は彼らに早く死んでいただきたいと申し上げるのです。死ねという意味は、命を断てよとはいわないが、自分のために生きようという思いを断てということです。もう五十五歳を越えたならば自分のために生きてはいけないのです。それは捨てなければいけない執着なのです。最後の、この執着を断てない人が偉くなっているから問題なのです。これからは、もうお返しの人生だと思って生きてくれればすばらしいのです。政治家も、財界人もそうです。社長でも、そういう気持ちで生きていただきたいと思います。
これからの残りの人生が奉仕の人生であると考えたときに、自分がやらなければならないことがいったいどこにあるか、それがわかってくるはずです。それは、中堅層に対しては、より一層の使命を担えるような人材に育てていくことであろうし、若年層に対しては、大きく伸びていくための期待をかけてあげること、教育をしてあげることです。精神的にも、金銭的にもあるでしょうが、そういう投資をするということかだいじでしょう。若い芽には栄養が必要です。水も必要です。そうしたものにたっぷりと水と肥料を与えてあげるのが、この高年層の仕事のはずなのです。
これからは、社会の役割をこのように大きく三分化していきたいものだと、私は思っています。若年層はユートピア創りのための基礎の部分ですから、ここでしっかりと基本精神というものを学んで、曲がっていかないようにカッチリとした精神的支柱をもって、人生の基礎をつくる必要があります。
そして、中高年、中年層になったときには、これは自分の行動が世の中を動かしているという、この自覚を持って、自己の行動を八正道というフィルターに通して客観視する。そして、神の心に沿った活動ができるように、日々みずからを矯(た)め直していくことです。
そして、高年層になったときには、自分のことを思ってはならない、自分のために生きてはならない。自分のために生きたならば、あるいは、その奉仕の活動が、よくあるように勲章をもらうとか、テレビで自己宣伝したり、いろいろやっている人もおりますが、あのようなことのためにやっているなら、アウトですよ、と申し上げたいのです。知られることをもって恥とせよということです。奉仕において、知られるということを恥と思わなければならない。知られずしてやる。育てていると思われずに若手を育てる。また、本人のためにしごいていると思われずに中堅層をしごいてゆく。こういうことでもありますが、将来伸びてくる人たちのために、目に見えぬ力を与え続けることこそ、だいじであると思います。肥やしになる。みずから花を咲かせ、葉を繁らすことではなく、肥やしとなっていくという覚悟が大切であろうと思います。これもユートピアのための大いなる努力だと思います。
こうした三段階にわかれた人生の年代層における活動こそが、今後、理想とされるユートピアを創っていくために、ぜひとも必要な考え方である、そのように私は思います。