目次
(1986年10月28日の霊示)
1.生命の実相という言葉自体が一つの我が悟りであった
谷口雅春です。昨日は天上界に帰ったときの帰朝報告を話したわけでありますが、今日は二日目ということで、「生命の実相を語る」という題で話をしたいと思う。
生命の実相というのは、私の著書の表題でもありますが、この生命の実相という言葉自体、一つの我が悟りであったということであります。生命の実相といヤ言葉が出来あがったときに、私の生長の家の基本思想というものは、ほば完成したのであります。
世に言う宗教家たちは、とにかく人間は心が大切だということで、心、心の探求とばかりにその心に振り回されておるのであります。そして人間は、自分の心というものをどうにか統制して、自分の思うがままに操(あやつ)りたいと考えるのでありますが、いかんせん、人間の心というものは、その者の自由にはならないのです。
なぜ自由にならぬのか。心、心と、心ばかり追い求めている自分の立場はどこにあるのかというと、立場自体もやはり心に他ならないからであります。
宗教家には、この心を二つに分けて、善なる心と悪なる心、真我(しんが)なる自分と偽我(ぎが)なる自分というふうに分けてとらえている人もいます。まあ、これは言ってみるならば一つの方便であり、一つの差別知であるわけです。
では、同じ一人の人間のなかに、どの部分が偽(いつわ)りの自分、偽(ぎ)なる自分であって、どの部分が真なる自分、真我であるかということを見分けることができるのでしょうか。
悟りを得た宗教家であるならば、そうした区別もできるでありましょう。しかしながら、悟ってもいない一般の衆生にとっては、何が善我で、何が偽我か、何が真我で、何が偽我の我であるかということは、そう容易にはわからんのであります。
2.我は罪なくして生き、罪なくして死んだ人間ではない
谷口雅春もまた二十代において、揺(ゆ)れ続けてきたのであります。世の宗教家たちが同じ体験をしたように、私もまた二十代において、様々に苦しみ、様々に悩んだのであります。そして、本当の自分のあり方というものを探求したのでありますが、残念ながら
私は、自分の醜(みにく)い自分、偽我を追求すれば追求するほど、底なしの地獄へ堕ちていくことを発見したのであります。自分の悪しき部分を考えれば考えるほど、ますます奈落(ならく)の底に沈んでいく自分を発見したのでありました。
我は罪なくして生き、罪なくして死んだ人間ではありません。他の多くの人たちがそうであるように、私も様々な罪があり、その罪も、すでに二十代においてかなり大きなものとなっておりました。私は様々なことで悩んでおったのであります。
たとえば、私は二十代において、いくども経済的な苦境におちいり、今日のパンがない、明日の米がないということで悩んだのであります。そして、人間は本来霊であり、生きていく糧(かて)のために心に苦しみをつくるということは間違いであるということを、心のなかで分かっているにもかかわらず、そうしたことに毎日煩悩(ぼんのう)をつくり、苦しんでいく自分というものをどうすることもできなかった。それは反省によっては取り除くことができない一つの大きな闇であり、飛び越すことのできない大きな溝であった。
いくら私が心を清くしようと、心を澄ませようと思っても、その日の糧がないということ、このことからくる悩みというものはどうすることもできないのでありました。
3.二十代で大本数の聖フランシスコを気どっていた時期
また、二十代においては、私は大本教(おおもときょう)というものに属していたことがあります。そしてまあ、二十代の私は、出口王仁三郎(でぐちおにざぶろう)という指導者のもとで修行しておったのであります。聖フランシスコという方がいますが、大本の聖フランシスコということで、自分を気どっていた時期があるのであります。
その頃は、私は自分が無一物であることを誇りに思っておりました。そして、自分の持っておる物といえば、着る物は一枚、腰に荒縄を巻き、そして小さなかご一つに洗面道具を入れれば、それが私のすべての財産でありました。我が石けんと歯ブラシ、そういうものがあっただけであります。そういう生活をして、腰に荒縄を巻いて、聖フランシスコのように、自分は聖人であると気取っておったのであります。
しかしながら、そうした清貧(せいひん)を望む私は、なぜか病気がちでありました。私はその当時、その理由がわかりませんでした。なぜ心清くあり、物質的に無欲になろうとしている私に、苦しみというものが襲ってくるのか。病というものが、我が身をさいなむのか、攻めるのか、その理由がわからなかったのであります。そのころの私という者は、要するに、偽者の自分というものを見つめすぎておったわけです。
人間は宗教的なことに目覚めると、ともすれば、自分の悪しきところを見つけ出してゆくのです。もちろん、これも初歩の段階においては大切なことであり、キリスト教でいう人間罪の子の考え方、人間は生まれながらに原罪を背負っている。その原罪のためにながく幸せにならんのであります。しかし人間として生まれた以上は、その原罪、アダムとイヴの時代につくった罪を償(つぐな)うがために、苦しみの十字架を背負って歩んでいかねばならぬのだ、とこう考えるのです。
残念ながら私は、しかし、その考えのなかには、間違いとまで言えぬが、いまだ至らぬものがあるのを発見するのであります。救世主イエス・キリストは確かに重き十字架を背負いて、茨(いばら)の冠をかぶりて罪人たちと共にゴルゴダの丘に登り、そこで十字架にかかって死した。このことは、歴史上の事実であります。
キリストを尊敬する後世のクリスチャンは、キリストと同じが如く、自らも苦しみたいと願ったのであります。そして、神が主に与えたような苦しみを我にも与え給えと祈った。人間は元より罪の子であるならば我にもっと艱難辛苦(かんなんしんく)を与え給え、その苦しみのなかで耐えていける我とし給え、そういうことを祈り続けてきたわけであります。
4.聖フランシスコの人生は、なぜ苦悩に満ち繁栄がなかったか
大本数の聖フランシスコと称していた私もまた、同じでありました。
フランシスコというのは中世のクリスチャンであり、修道士であります。彼はイエス・キリストをいわばあこがれの人として心に描き続け、朝に夕なに、昼に夜に、キリストのことを思わぬ日は一日たりとてなかった。そしてあるとき、聖フランシスコを見舞ったものは何でありましょう。それは聖なる傷跡、聖痕(せいこん)といわれるものです。
フランシスコの両手、両足には、主イエス・キリストが自らの体を十字架につけるために打ち込まれた五寸釘のあとが、イエスと同じ五寸釘のあとが、フランシスコの体に出たのであります。フランシスコはこれを見て喜びました。自分の手首の傷跡から血が流れるのを見て喜びました。「私には主と同じ現象が起きた。これは私が聖なる人であることの証拠である」と。フランシスコはそれを喜びました。しかしながら彼の人生は、やはり苦悩に満ちたものであり、彼は病のうちに倒れています。そして常々繁栄のない人生を、苦しみの多い人生を送っていました。
私は、こうしたことを常々、考えておったのです。一体、何が違っているのか。人間は物質ではなくて霊だということは、これは間違いのない事実であり、否定しようがありません。しかしながら、この世に生きて、人間が霊だということを悟り、そして、物質に執われないような生活をしているにもかかわらず、なぜ人間は苦しむのか。また、罪の子としての自分を見つめれば見つめるほど、安らぎのない自分というものを発見してゆくのでありました。
なぜそんなに罪つくりな人間であるのか。人間が罪の子であるならば、生まれてくること自体が間違いだったのではないか。生きていること自体が、間違いではないのか。そんな罪つくりの人生を送っていくならば、人間は長生きをせず、幼な子のときに亡くなった方がよいのではないのか。そうしたことを、私は考えたのであります。
ここに宗教的な道を求める者に共通の悩みがあり、共通の人生の隘路(あいろ)、すなわち狭き道があるのです。これを通ることができなくて、幾多の宗教家たちが、自分たちの登ってきた山道をまたひき返していったのでありましょうか。この関門を通ることができずして、本当に悟ることはできないのであります。
5.他人を害さずして人間は生きられない
私は考えました。なぜ人間が罪の子なのか。神様はアダムとイヴが自分の煩悩(ぼんのう)のままに生きたがために、エデンの園から追放した。その罪のために永遠に人類を許さないような、そうぃう不寛容な神であるのだろうか。それほど人類に反省を求めるような神なのであろうか。私は、考えに考えました。この世に生まれているということ、生命を持っているということは、それ自体が何らかの罪を内包しているともいえるのです。
他人を害さないで生きることができる人はいないのであります。どのような人間でも、他人を搾取(さくしゅ)して生きていることは否めないのであります。ある人が経済活動をして、それによって利益をあげているということは、それによって、また損失をこうむっている人も、どこかにいるはずなのであります。
また、私は銀行のようなこと、ああいう利益というものにもずいぶん疑問を抱きました。人に百万を貸したら、なぜ、その百万が一年で百五万となり、百十万となるようなお金となって返ってくるのか。
私は銀行に貯金すること自体も、最後には否定するようになってきました。それを悪だと考えるようになってきました。なぜ銀行に預金したのなら、なぜ、それが百五万なり百十万となるのか。百万円が利子を生んで百五万になるということは、その五万円はどこから出てきたのであるか。それは空中から湧いてきたわけではないはずだ。
私が銀行に預けた百万円が誰かに貸されて、銀行は誰かから私に与える五万円以上の利子を取っていることは確実なのである。その百万円が誰かに貸されて百十万円となり、十万円の搾取が行われて、その搾取のうちの五万円が私のふところに入っている事実に気づき、私は唖然(あぜん)としたのであります。
私は人間として生きていくということは、こんなにも辛いことかと考えた。生きているだけで罪をつくるのである。水を飲むこと自体も、罪かもしれない。水を飲むことによって、貯水池では多くの微生物たちが殺菌され殺されているのである。水を飲むことさえも罪だと考えたのであります。
そしてまた人間は、一日三食を食べることになっている。そのために、動物たちが死んでいく。肉が食べられていく。では、肉を食べなければよいのか。魚たちはどうなのか。魚たちも採られて死んでいく。魚を食べなければよいのか。貝を食べるということもある。貝にも生命がある。海老にも、蛸(たこ)にも、すべて生命がある。
では人間は菜食だけをしておればよいのか。しかし、植物にも生命がある。その動く速度が動物よりはるかに遅いだけであって、植物もまた生命を持っている。一本の稲たりとて、失いたい生命はない。また、野菜もしかりだ。白菜一つにしても、ねぎ一本にしても、彼らは豊かに稔(みの)り、自分の天寿を全うしたかったであろう。それを人間が食べるがために、むしり取って料理に使われているのである。また果物にしても同じことだ。
6.罪というものを見つめていくなら、人間は果てしない地獄に堕ちていくしかない
私は人間として生きていく以上、この罪というものを見つめておっては、どこまでいっても罪というものはできると思った。罪なくして生きられる人はいない。イエス・キリストにしてもそうだ。罪なくしては生きられない。そして、他人の感情を害せずして生きていく人生というものはないのだ。
たとえば、私は幼くして本当の両親から別れ、養父母に養われてきた。養父母は、私がこの世的に出世することを望んだ。私が早稲田に学んでも、養父母たちはこの世的に出世することを望んだ。しかし私は、学校を中退し、そして、当時の優秀な学生であったにもかかわらず、学業を放擲(ほうてき)し、様々なる職業を転々とした。
養父母たちの悲しみはいかほどであっただろうか。養父母たちの悲しみは、とどまるところを知らなかった。どうしてこんなヤクザな者になったであろうかと、雅春はなぜこんな馬鹿な子供になったのだろうと、日夜考えなかったことはなかったであろう。
長い目で見れば、私の青春期の放浪は、すなわち、宗教家として大成するための肥(こや)しであった。そういう必要があっていろいろと苦労をしておったのだ。しかし、その間において、目的においては良いとしても、その途中においては両親を苦しめたという事実は否めない。また、私が宗教を始めるに至っても、様々な人たちはそれに反対した。それらの人々の心を傷つけないでは、私はこの道を歩んでいくことはできなかったと思う。また、私がこうした霊的な世界に埋没していくがために、家内にも数限りない苦労をかけた。そうしたこともあると思う。
人間として生きていくということは、それだけ多くの悲しみを、苦しみを内包しているのである。これを見つめていくのならば、人間は果てしない地獄の底に堕ちていくしかないのである。
7.人間の罪や苦しみは、反省のみでは拭(ぬぐ)い去れぬ
今、反省とか、瞑想とか、内観とかいってそうしたことによって自分の罪を取り除くことができたように思っている人間が多くいることを、私は知っている。宗教の本質は反省であり、自らの罪は反省によって取り除かなければ本当の自分にはなれないということを言っている人がいるのを知っている。その心がけ自体は、私は悪いとは言わない。
しかしながら、人間の本当の罪というものは、単に自分が、一日十何時間正座して、自分の思ったことや行ったことを反省しただけで取り除けるような、そんな甘いものではないのだ。
その反省しているときに、その人自身は、誰にも迷惑をかけていないのかどうかを考えるべきなのだ。そういうことができているという以上は、その間に、誰かがその人の犠牲になっているはずだ。その時間は、一日反省している時間は、もっと多くの人々のために尽くさなければならない時間であったかもしれないのだ。その時間を、大切な時間を、要するに自分自身の気が休まるがために使っておるのだ。
反省というのは大事だろうと思う。しかし、人間の罪や苦しみというものは、本当は反省だけによって拭い去れるような、そんな簡単なものではないのだ。一日反省をして拭い去ったかのように思っても、また翌日から生きていく人間は、様々な苦しみを、罪をつくっていくのである。両親に対して、隣人に対して、見ず知らずの人に対して、様々な罪をつくっておるのだ。間違いなくつくっておるのだ。
動植物に対してもそうである。微生物に対してもそう。空気を一息すえば、そのなかには生きているものもいるかもしれない。夏になれば蚊一匹たりとても殺さずとはおれないのだ。それが人間なのである。そういう罪深い自分というものを、本当に深く見つめていったならば、人間というのは、人間心で、よいか、善なる自分で悪なる自分を裁くというような、そんなチャチな行為で、本当は罪を許されるわけではないのである。
8.人間の本質は神仏と同じであり、光り輝く神の子である
ここまで考えるにあたって、私は一つの宗教的なる、百八十度の転換をみたのである。すなわち、正反対の思想を持つに至ったのである。人間は本当に罪の子であろうか。神は罪の子である人間を処罰するがためにこの世に苦しみを与え、そして、あの世の地獄で苦しめさせるのであろうか。そんな無慈悲な神を、私は到底信ずることができなかった。私の信ずる神は愛の神であり、慈悲の神である。すべてを与えて下さる神であるはずだ。
そのような神が、なぜそんな試練ばかりを人間的に与えるのであろうか。それは試練ではなくて、人間の思い違いではないのか。代々の宗教家たちがつくってきた一つの思想の産物なのではないか。私は、こう思い至ったのである。
こう考え始めたときに、私の心のなかに一つの光明が射し始めたのである。今まで自分というのは、汚れた、どうしようもない自分だと思っておった。また、そうした偽りの自分、間違った自分というものを何とかして取り除こうと、一生懸命努力をしてきたのだが、取り除いても取り除いても、つくっていく罪を、私はどうすることもできなかった。しかし、観点を変えて、百八十度の転換をみたとき、私はある一つの真実に気がついたのである。なぜ人間を、神がつくられたかということを思い出さないのか。なぜ宗教家たちは、人間というものは神仏の子であるということを、もっと強調しないのかということである。
誰が人間にそのようなレッテルを貼ったか。誰が人間を罪人にしたか。誰が人間をそのようなつまらないものにしてしまったか。屑(くず)のような人間にしてしまったか。野に遊ぶ羊以下の存在にしてしまったのか。人間は生けにえの仔羊ではないはずである。私はそれに気がついた。人間は神仏の子である。神仏の子である人間であるならば、その本質は一体何か。その本質は神仏と同じものであるはずである。
ではなぜ、神仏と同じものである人間が、様々なる罪をつくったり、苦しみや悲しみをつくるのか。苦しみや悲しみというものは、本当にあるのか。罪が本当にあるのか。私は、このことについて徹底的に追究したのである。
そして私は気がついた。つまり神は、人間を悪人に創ってはいないということに。人間が犯している様々な罪というものを見つめたときに、現象として見たときに、人間は悪人以外の何者でもないはずである。すべての人間が悪人のはずである。しかし、逆に、すべての人間が神仏から出てきている魂であるならば、その悪人に見える姿というものは、その人間の本当の姿ではないのだということだ。その人間の本質は光り輝く神の子であり、神仏の子であるということである。悪人と見えしは、これ目の錯覚であり、迷いが現象化しているだけなのである。迷いなのだ、これは。
9.罪とは「包み」であり、真実なるものを覆(おお)い隠すということである
迷いというのはどういうものなのか。迷いというのは、たとえば、一陣の風のようなものなんだ。道を歩いていると、風が顔にあたる、非常にきつい風があたって、とても道を進めないように思う。あるいは、風というものがあって、砂塵(さじん)を巻き上げて人々を苦しめているように思う。
しかし、そういう風というものが本当にあるのかといえば、誰もその風をつかまえて取り出して見せることはできないのである。風というのはないのである。それは、単に空気が移動している姿であり、変化の姿であり、仮の姿であり、本質ではないのだ。そうしたものはない。なぜならば、ないというのは誰も風をつかまえて、これが風だというふうに取り出して見せることができないからだ。風というものが実在するならば、それを箱に入れて、ここに出して見せてごらんなさい。誰もそんなものを取り出すことはできないはずだ。
同じように、人間は悪人ではないし、人間の罪というものは実在するわけではない。罪というものの語源は「包み」であり、包みということは何かというと、覆(おお)うということであり、隠すということである。罪は、本当は実在するものではなくて、包みなのである。
すなわち、人間というものは光り輝いているものであり、たとえば目の前に白熱電球というのが一個あったとせよ。これに電熱が通り、光を放っているとせよ。光り輝いているのが、本来の人間であるのだ。それを愚かにも、よいか、人関心で愚かにも、これを風呂敷で包んだらどうなるか。光は出なくなる。そして、風呂敷で包んだものを本当の人間だと思い違いしておるのだ。
人間を罪の子だと言っている。そうではない。風呂敷の下には、人間は無限に輝いている存在なのである。それを包んでしまったのは誰か。それは人間の知と意ではないか。人間の知と意と感情の情によって、そういう包みをつくったのではないか。罪とは包みであり、真実なるものを覆い隠すということである。
そうであるならば、罪というものを実在するものと思うな。そう考えることによって、人間は救われることはないのである。悟ることはないのである。罪というものは、迷いの姿なのだ。そして悪というものは、本来存在しないのである。本来、善しかないのである。本来、正義しかないのである。
10.悪とは歪(ゆが)みであって実体ではない
ではなぜ、地上に生きている人間は悪というものを見るのか。悪とは何か。悪というのは、人間と人間との間にできている様々な衝突である。人間と人間との間に起きる心の葛藤(かっとう)なのだ。人間と人間との間に起きる心のしがらみなのだ。
ではなぜ、そうしたものが起きるのか。これは、人間というものは、それぞれ自由を求めて独立している存在だからだ。それぞれが神の子として自由を求めて行動しておるのであるが、お互いの自由と自由が衝突し合っているのである。
すなわち、悪というのは、人間が自由に自分を発現していこうとするときに、お互いに干渉し合うときに出てくる一つの歪みなのだ。悪とは歪みであって、それは、実体ではない。
では、なぜ、そういう悪を見てしまうのか。結局、こういうことなのである。交差点というのがあって、赤信号と青信号があって交通整理をしている。赤信号のときに止まり、青信号のときに進めば、事故は起こらない。
では、悪というのは何かというと、結局、交通事故なのである。交通事故というのは、本来無いのだ。それを他人と自分との間を調整できないがためにそういう事故が起こり、また、悪というのが見えてくるのである。したがって、悪というのは本来無いのだ。
悪があるという者は、たとえば、交通事故が実在するという人間と一緒である。
交通事故は、交通ルールを守れば実在しないのである。それは、不調和なものが現象化しているだけなのだ。これが嘘だと思うならば、交差点をすべて立体交差にすればよい。決して衝突することはないはずだ。それを、単なる技術的な問題として、立体交差にする費用もなく、環境をつくり出せないために、赤信号と青信号を使っているだけである。そして、ぶつかったりしている。
本来、そういうものは無いのだ。それをあると認めてはいけない。交通事故があると認めてしまうと、人間は努力しなくなるのだ。それは本来無いものだと思ったとき、はじめて正しい交通ルールの遵守(じゅんしゅ)なり、あるいは道路の環境の改善ということができるのである。一年に一万人が死ぬということは、これは規定の事実であって実在であるから、これを否定することができないと思うから、交通事故者は減らないのである。
交通事故は本来あるべきものではないのだということをはっきりとつかんでおけば、交通事故はなくなっていく方向しかないのである。それは、道路の環境が悪いか、車の性能が悪いか、運転技術が悪いか、不注意か、そうしたことによって起こっているのであり、こうしたものを止めれば交通事故というものはなくなっていく。
したがって、善・悪の悪というものがあるのではない。これを生きていく人間はしっかりつかんでいただきたいと思う。そういう悪というものがあるということを認めてしまっては、なんにもならないということだ。そういうものはないということを認めることによって、はじめて本来の自分というものに立ち還(かえ)り、はじめて本来のあり方というものに立ち還っていくのが本当の姿なのである。
罪があるといっているうちは、いつまでたってもその罪はなくならない。人間は罪の子ではなくて、神仏の子であり光の子である。なぜこの尊厳を発揮しないのか。私が言いたいことは、そういうことなのである。
人間の生命の実相というのは、すなわち、これ光、すなわち、これ神の子、すなわち、これ仏の子、神仏の子であるということだ。だから、まず、これをつかむことから出発せねばならぬということだ。
11.キリストを十字架にかけたのは、「包み」、すなわち罪であった
それを誰がつくったかは知らぬが、エデンの園の昔話によって、アダムとイヴが犯した原罪によって、人間は永遠に呪(のろ)われていくという考え方がある。こういうものは、一つの心理学的にいうのなら、精神異常者の、強迫神経症の患者の考えることだ。目に見えぬ神様というのがいて、人間を永遠に迫害しているという被害妄想の考え方であり、原罪というのは被害妄想にすぎない。
世の中を見れば悪いことがいっぱいある。自分に不都合なことがいっぱいある。なぜ、こういうことがあるのか。それは人間が原罪を犯したからだ。大昔の人間が罪をつくったから、今もこうやって苦しみ続けているのだ。そのために、私たちは苦しまなければいけないのだ。十字架にかからなければいけないのだ。ということを考える。こういうのは被害妄想の患者である。
また、イエス・キリストが十字架にかかった。これをもって、人類の罪をあがなうがためにイエス・キリストが死んだと言っている。これは、とんでもない被害妄想の患者の考えることだと思う。イエス・キリストが神の一人子であって、神の大切な子であるのならば、これを生けにえにするわけはないのである。
では、生けにえにしたのは誰か。イエス・キリストを十字架にかけたのは誰か。悟っていない地上の人間ではないか。神理を知らない人間ではないか。自分たちが救世主を十字架にかけておきながら、救世主は自分たちの罪をあがなうがために十字架にかかられたのだと言っている。こういう者は錯誤も甚(はなは)だしいと言えるのだ。
神は最愛の子を地上に遺(つか)わしたならば、どうして、最愛の子を死刑にするような、子供たちの罪を許すことになろうか。反対のはずだ。そうではないはずである。
人間はこのような間違った考え方を持っている以上は永遠に救われることはないのである。イエス・キリストを十字架にかけたのは、迷いの心であり、要するに、真実の神の子を包んだ「包み」、すなわち罪であったのだ。
12.「生命の実相」とは光り輝く自分であり、神仏の実体そのものである
そういうことを緻密(ちみつ)に考えて、人間というものは、本当は「生命の実相」は尊いものだという自覚をしっかりと持つことから始めていかねばならぬ。
自分を振り返ることは大事だ。悪しき行為を振り返ることは大事だ。ただ、それを拭い去ることで良くなると思うな。それはちょうど、廊下にインクの瓶をひっくり返してインクが散らばった。それを雑巾で拭(ふ)けば消えると思っているのと一緒だ。消えはしない。染み込んで拡がっていくだけである。
そうしたものではないのである。木の廊下だと思っておれば、インクを撒(ま)けば染み込んでいくのだ。そうではなくて、大理石のピカピカの廊下だと思えばこそ、本来はそういうものだと思うからこそ、罪というのは身につかないものなのだ。まず、そこからスタートしていく必要があると思う。
生命の実相とは、すなわち光り輝く自分であり、神仏の実体そのものであるということだ。私は、最初に心というものについてずいぶん話した。そして、心が人間を迷わしているとも言った。心、心と追いかけていくうちに、心が何だかわからなくなって、自分の心が二極分解して、善い心が悪い心を裁(さば)いているのだと言っている。そして、悪い
心を裁いた善い心が満足して自分が悟れるなどと言っている。そうしたものではないのだ。
心もまた、生命の実相の影であり、生きている人間のなかに入ってそれを支配しているものにしかすぎない。心そのものは実体ではないのだ。心もまた無いのだということを悟れ。そういう迷う心というものはないのだ。迷うような心というのは、実在ではないのだ。人間の本当の奥底にあるのは、決して迷うことのない、決して過(あやま)つことのない生命の実相なのだ。その生命の実相とは、神仏の本質とまったく同じものなのだ。これが本当の心であって、これは迷うことはないのだ。
迷っている自分、罪を犯す自分の心というものは、これは本当の心ではないのだ。心、心と思うな。心によって罪をつくるな。善い心で悪い心を裁こうとするな。そうしたものは偽物(にせもの)なのである。本当の心は神仏の心であり、これは過(あやま)ちを犯すことはないのである。心、心と言って心に迷わされることなく、心を切り捨てて、本来心も無いと考えて、実相の大地に降りよ。心という暴れ馬の上から降りて、実相の大地の上に勇ましく立ち上がりなさい。私は、それを人間に言いたい。
心というものを、人間は暴れ馬かなにかのように思って、この暴れ馬を調教しなければ自分は悟れないとか、この暴れ馬をおとなしくしなければ自分は天国に行けないだとか思っている。そんなものは、人間の本質であってたまるかということである。
13.実相の大地にひらりと降りよ
実相の大地とは、神仏の心である。神仏の本質である。それが自分であるということを本当にしっかりつかむことができたなら、人間はもはや迷うことはないのである。
その本当の自分というものをつかんでいないからこそ、暴れ馬に乗っていると思って、それを一生懸命飼い馴らそうとしておるのだ。暴れ馬は本当の自分ではないのだ。これを否定し去りなさい。実相の大地にひらりと降りよ。そこに迷いはないのだ。そこを確かに歩んでいくことだと思う。
生命の実相とは神仏の心そのものであり、神仏そのものが自分であるのだ。これを悟らない人間は、やはり不幸のなかで、自分の不幸を永遠に考え続ける自分でしかないということだ。
宗教を志す人たちにとって、まず大事なことは、つまり、最初に思うべきことは、自分の本質は神仏であり、生命の実相こそ自分の出発点だということだ。これをつかむことから始めなさい。その以後のことは、それから後についてくるであろう。今日の私は、以上の話で終えたいと思う。