目次
2.愛ある人生
4.愛の探究と八正道
5.愛の臨在
6.真実永遠なるもの
7.信仰の立脚点
9.哲学の二つの流れ
10.経験論哲学を超えて
11.信仰の原点
12.愛のシャボン玉
13.広がる愛の輪
14.愛の定義
16.人生の苦しみにあって
18.与えるということの意味
19.知恵をもって与える愛
20.愛と知をどうとらえるか
21.存在の愛について
22.愛と反省法の融合
24.文学と愛
25.愛の大河
14.愛の定義
さて、愛について、いくつかの定義とその解説をしてみたいと思います。
「愛は戦車です。愛は丘を登り、谷をくだり、川をわたり、沼をつきぬけ、悪の要塞(ようさい)をものともせず、つき進んでいく戦車です。」
この意味は、愛そのものの行動力、実践力をいっているのです。愛は行動に伴うもの、実践に伴うものである。それゆえに実践なき愛は愛にあらずといっているのです。
愛の定義について語ったときに、最初に "愛は戦車です" という言葉が出たことの意味を考えてみてください。この "丘を登り、谷をくだり、川をわたり、沼をつきぬけよ" というのは三次元世界における愛の実践の難しさをいっているわけです。障害の多さをいっているのです。この世にはいろいろな妨げがあります。その愛の実践を妨げようとするさまざまなものが存在します。
しかし、それらをすべて、ものともせず、突き進んでいくのが愛であり、それだけの駆動力を持ったものが愛であるのです。そうした戦車のごときものが愛であるのです。
そうであれば、あなたがたも愛を実践していると思うならば、みずからを戦車だと思いなさい。
みずからが戦車であるならば、たとえ目の前に丘が現われても、山が現われても、谷が現われても、川が出てこようと、これを乗り越えてゆかねばならない、ということです。これが最初の言葉です。
「愛は光です。愛は闇夜(やみよ)を照らし、過去を照らし、現在を照らし、未来を照らす光です。天上を照らし、地上を照らし、人の心を照らす光です。この世のいかなる悪をもかぎりなくやさしくつつみ、この世のいかなる悲しみをも、かぎりなくあたたかくっつみ込む光です。」
これは愛の光の側面を語ってみました。それは愛あるところ、やはり明るさというものが広がっていくからです。地獄界でいちばん欠乏しているもの、それは光でありますが、同時にその光は愛でもあります。
地獄界にいる人たちは、愛欠乏症の人たちばかりです。愛が欲しくて欲しくてしようがない人たちばかりです。このように愛というビタミンが、あるいは愛という食料が欠けていて、飢えている人たちばかりが地獄にいるのです。彼らはいちばんこの愛を欲しているわけなのです。そして愛があるところに何があるかというと、明るさがあるわけです。愛がないところには暗さがあり、冷たさがあるということです。
「愛は生命(いのち)です。すべての人は、愛を糧(かて)として生き、愛を力として生き、愛を生命(いのち)の炎として生きているのです。すなわち、愛はすべてだからです。愛なくして生なく、愛なくして死なく、愛なくして道なく、愛なくして希望なし。愛はすべてのすべてにして糧(かて)にして生命(せいめい)です。」
これは神理を実践して生きていますと、まことによくわかることなのです。
イエス様も比喩によって、この点をよく語っています。自分の愛、肉体、イエスに現われた愛のあり方をパンにたとえたり、ぶどう洒にたとえたり、いろいろされています。引き裂かれたパン、飲み干されるぶどう酒です。そのように自分の肉体を通じて現われる愛の姿をよく語っておりますが、真実、神理に生きている人はほんとうにこの愛が生命だということ、愛が糧であるということがわかってくるようになります。
イエス様も比喩によって、この点をよく語っています。自分の愛、肉体、イエスに現われた愛のあり方をパンにたとえたり、ぶどう洒にたとえたり、いろいろされています。引き裂かれたパン、飲み干されるぶどう酒です。そのように自分の肉体を通じて現われる愛の姿をよく語っておりますが、真実、神理に生きている人はほんとうにこの愛が生命だということ、愛が糧であるということがわかってくるようになります。
みなさんには食欲というものがあるでありましょう。一日、一定の時間になるとお腹が空いてくると思います。ちょうど、それと同じように、真実、神理に目覚めてこの道を歩んでいこうと決意した人は、この愛という糧を吸収しないでは生きていけなくなるのです。ほんとうにそうです。手ごたえです。愛なき、この "むなしさ" のなかでは生きていけないのです。
人に愛を与える。そして、その残りの香を、あるいは余香を自らも楽しむ気持ちです。この愛を楽しむ気持ち、これを経験しはじめるとこれを食べないではいられないのです。愛そのものが、愛の行為そのものが、愛の行為に伴うこの魂の歓びが、その歓びの余韻が生命の糧となるのであります。そしてこの糧を得ないで生きて行くことができなくなってくるのです。
「愛は病(やまい)です。この病におかされると、すべての人は、熱に浮かされ、熱に苦しみ、夜も眠れなくなってゆきます。しかし、その熱中にこそ、真なるものがあり、つきはてぬ生命の躍動があるのです。」
この愛というものが一つの病のごとき症状を現わすことがあります。人間はこの愛というものにとり憑かれたときに、自分を忘れてしまうようなことがあるのです。それゆえに結果的には病に倒れたかのごとく、虚しく人生の途中で挫折するように思えることもあります。このように熱病のような部分があります。そうした愛の病に冒されると、もうたまらなくなるのであります。
しかし、そのなかにも真なるものがあり、尽き果てぬ生命の躍動があって全身が突き動かされるのです。ですから、この愛さえなければどれほど楽でしょうか。愛の苦しみというものを味わった人は、これを止めてみたいという気持ちに揺れ動くことがあります。
しかしながら、この病に冒されるとなかなかそれから逃れることはできなくなってきます。ならば、愛の病のなかで自力更生せよ、この病のなかで本質を見極め、そして真なるものを取り出して行け、こういう意味です。
脱線しますが、"愛を止めないで" という歌がありました。もう、十年くらい前の歌でありましょうか。私も昔はよく聴いていたものですから思い出します。この歌は、愛は病であるという部分を歌っているのでしょう。愛を止めるか、止めないかという問題です。そのような感じがいたします。愛を止めてくれという気持ちもあります。自分の愛も止めたい。人の愛も止めてしまいたい。そのような隔絶された世界に入ってしまいたいという自閉の気持ちもありますし、同時に、絶対に "愛を止めないでいてくれ" という気持ちもあります。このように止める、止めないという気持ち、ご経験のある方はおわかりでありしょう。
「愛は勇気です。愛なくして、人はふるいたつことあたわず、愛なくしては、人は死と立ち向かうことはできないのです。愛は神理の導火線に火をつけるたいまつであり、迷妄に対して解き放たれた一本の矢なのです。」
愛を勇気として捉えてみました。これもそのとおりです。けっきょく、世に多くの事業をなしてきた人を見てまいりましても、愛というものがその背後にあったのではないかと思われることがあります。愛ゆえに偉業をなした方、それは夫婦愛においてもありましょう。師弟愛でもありましょう。親子愛でもありましょう。あるいは、それを越えた愛であることもあるでしょう。神への愛、神からの愛、こうしたもののために生きている人もいるでしょう。しかし、真実、愛というものは人間世界、人類の歴史をつくるときにこの勇気の原理になっているということを私は感じます。
先日、「マザー・テレサ」という人の映画を観てまいりました。まさしくマザー・テレサの生き方を見ていますと "愛は勇気です" ということの意味がわかります。あれほど小さな体の人です。年も、もう八十歳代に達しているのに、あの人はなぜあれほど強いのか、あれほど情熱的に生きられるのかと思うときに、この "愛は勇気です" という言葉が胸に浮かんできます。やはり神への愛、神からの愛をもちろん実感しておられるし、その愛ゆえに、あれほど強くなれるのです。勇気が出てくるのです。戦時下のレバノンにも乗り込んで行くくらいの人ですから、爆弾には勝てないと思うのですけれども、当たらないそうなので行くのです。そういう方ですから大したものです。
ですから、あのようなマザー・テレサの姿を見ますと、愛は戦車です、愛は勇気です、この両方の意味を深く感じます。
「愛は誓(ちか)いです。人びとは愛の名のもとに、ともに暮らし、ともに語らい、ともに歩んでゆきます。もし愛という名の絆(きずな)がなければ、人びとは途方にくれ、夕暮れを待つばかりです。」
これも感じます。特にご夫婦の場合、あるいは恋人どうしの場合、親子、あるいは師弟の場合にも、この "愛は誓いです" というのが、やはりあるような気がいたします。ご夫婦の場合はもちろん誓いそのものでありましょうし、恋人の場合であっても、やはり誓いでしょう。愛は誓いであります。
また、師弟愛の場合でも、やはり先生にこれだけ愛されたから、自分の愛は何かというと、やはり先生の愛に応えるために、恩返しとして、りっぱな人間として生きていって、多くの人たちのためにならなければいけないと思うことです。このように考えますと、やはり愛は誓いを含んでいます。このように愛のなかには誓いの部分もあるのです。その誓いゆえに人は怠惰に流されることもなく、堕落することもなく、真一文字に向上していくことができるわけです。
「愛はことばです。ことばなくして愛なく、愛なくしてことばはありません。愛はよきことばであり、よき想(おも)いであり、よき波動であり、よき調べです。神はことばにて世界をつくります。そして、愛はことばにて人をつくるのです。」
これもだいじな部分であると思います。
この "愛はことばです" という意味がわかるということもだいじなことです。これは谷口雅春先生の悟りのなかでもひじょうに大きな部分を占めていると思いますが、愛がことばである、ということをあの人は真に知った方です。このような表現はもちろんしておりませんが、言葉の創化力ということで説いています。言葉によって人を幸福にすることができる。また、世の中をユートピアにすることができるということを明確にあの人は打ち出しております。それは一つの大きな悟りであると思います。 "愛はことばである" という観点から、かなりのことを述べておられます。そして、こう考えたときに私たちにも手近な目標があるということがわかるわけです。
"愛は言葉である" と思ったときに、「そうか、与える愛というけれども、何を与えればいいのかわからなかった。」これが、言葉であると考えたときに、これなら自分でもいけると、みなさんは思われるはずです。手近な第一歩です。与えるといっても、いったい何を与えてよいのかさっぱりわからない、財布の中身は少ないし、すばらしいアイデアも出てこない、何を与えようかと思う方もいらっしゃいますが、与えるものがわからなければ、よき言葉を与える、ここからでもできるわけです。
「愛は調和です。愛ありてこそ、人はむつみあい、許しあい、生かしあい、すばらしい世界をつくるのです。愛の輪のなかには、怒りもなければ、ねたみも、そねみもありません。愛の輪のなかには、ただこれ、大調和があって、すべての人が、生かしあっているのです。」
昔観た映画のなかにドラキュラ映画というものがあります。ドラキュラというのは、昼間は姿を現わさずに、夜になると現われてくるのです。人びとが夕暮れに集まって、大きな焚き火を焚いて、そのまわりで手をつないで、歌ったり、いろいろしていて、その集まっているところへ、ドラキュラが入ろうとするのですが、ガラスのような壁ができていて、入ることができないのです。
もちろん映画ですから特殊撮影であったのでしょうが、まったく透明で何もないはずなのにどうしても近づけない。そのようなシーンを印象深く見ていたことがあります。これはまさしくこの "愛は調和です" という部分を説明していると思うのです。この調和が一つの大円をつくったとき、人びとの間に輪がつくられたときに、魔が入れないのです。人びとが愛しあう輪のなかには、怒りも、妬みも、嫉みもないといいますが、魔も入れないのです。悪霊も入れないのです。これなどは、私もいろいろと経験があります。
一人ひとりの人間は弱いものです。ですから悪霊とか、サタンとか、このようなものに狙われたらひとたまりもないことがあります。人一人の力は弱いものです。しかし、大勢の人の力はやはり強いのです。一人の人間であれば負けてしまうようなものであっても、みんなが手をつないで、囲みをつくって、愛の輪をつくり、調和の輪をつくったときにこのドラキュラが入れないのです。
家庭も同じです。家庭のなかで調和ができているとき、愛があるときには、その家庭のなかには悪霊が入ってこれないのです。魔が入ってこれないわけです。ちょうどこれといっしょです。透明なガラスのようなもので、入ろうと思っても入れないのです。一人の人間の力では弱いが、複数になったときにこの愛の力は増幅されます。そして巨大なものになってくるのです。
また、アフリカにいるシマウマという動物がライオンなどの肉食獣から身を守る方法でも、やはりこれと同じように複数で輪をつくるのです。頭を中心に向けて輪をつくって、みんなでどこころが一匹だけであれば負けてしまうこととなります。
このような輪になるとライオンでもかかれないのです。それで、なんとか小さい子供のシマウマであるとか、妊娠している雌であるとか、一匹ではぐれそうなものを探すのです。そしてはぐれたときに飛びかかってくるのです、集団防衛をされると、なかなかかかることができないので、ひじょうによく似ていると思います。ですから、魔のほうはどこか弱いところから、はぐれをつくっていこうと狙っているのです。このようなときに、みんなで、がっちりと手をにぎって守っていけば引きずり込まれないですむのです。
「愛はよろこびです。愛なくして真のよろこびはなく、愛なくして真のしあわせはありません。愛は神のよろこびの表現であり、地上の悲しみを一掃(いっそう)する魔法です。愛はよろこびであり、そのよろこびがまた愛を生み、その愛がまた、よろこびを生むのです。かくして、愛は円環であり、かくして、愛は循環なのです。」
愛をよろこびという観点からとらえたときに、また深みが増すように思われます。苦しみとしてのみとらえたときに、愛はネガティブなものとして写っていきますが、よろこびという観点からとらえていったときに、愛のあるべき姿がわかってくるのです。
愛は与えるものか、与えられるものか、奪うものか、捧げるべきものかといろいろ議論をし、考える方もおられるであろうけれども、この "愛はよろこび" であるという定義から考えたときに、どのようなものが愛であるべきなのか、また違った視点が得られると思います。
「愛は進歩です。ひとつの愛は、ひとつの進歩を生み、ひとつの愛は、ひとつの光を生む。愛ある日々は、進歩ある日々です。なぜならば、愛の行く手には、神がいるからです。愛の行く手には、数かぎりない聖霊たちがいるからです。愛のあるところに、退歩はありません。愛のあるところに、おそれはありません。愛には、ただ進歩あるのみです。愛には、ただ向上あるのみです。愛とは、ただ、神のもとへと飛んでゆくことなのです。」
愛という名のもとに、頽廃(たいはい)は許しません。堕落は許さないということです。愛とは人をよくしていくこと。人に優しくあること。育んでいくこと。ゆえに愛とは、神への旅立ちを意味するということなのです。それゆえに堕落は許されないのです。
「愛は永遠です。愛は過去にあり、現在(いま)にあり、未来にあります。ときのなかに愛なきときはなく、時代のなかに愛なき人はいないのです。愛はすべてのときをつらぬく、輝(かがや)ける黄金の翼です。はるかなる天空をかけてゆくペガサスです。愛は永遠のときを生きる証(あかし)であり、愛は永遠のいまをつかまえる狩人です。」
昔、詩人になろうと思ったこともあったものですから少し詩的な表現になっています。この "愛は永遠です" という考え方によって、愛のなかに時間の概念も取り込んだわけです。これがやはり、神の愛や、高級霊の愛を知るためにだいじな考え方です。過去・現在・未来をつらぬく愛という観点もあるのです。
愛というものを、私たちは、ともすれば刹那(せつな)的に考えてしまいます。現在ただ今の愛ということで考えがちでありますが、その現在ただ今の愛ということが一つの苦しみになったり、身動きできないような状況に自分を追い込んだりすることもあります。しかし、翻(ひるがえ)って考えれば、愛は永遠です。過去にあり、今にあり、未来にある。こういった観点から考えたときに、この愛の縛りが解けることがあるわけです。
現時点ではこれがほんとうの愛かどうかわからないけれども、長い目で見たときにはいったいどうなのかと言うことです。これは私などもよくやっておりますが、けっきょく、人を生かす道といっても、このように時間の観点から見ていかないと、真に人を生かすことができないのです。現在ただいま確かにそのようにしてやったほうが砂糖菓子を与えるように、その人の立場としてはいいのだけれども、はたして長い目で見てどうかということです。
この "愛は永遠です" という観点から、神は時に人間に試練を与えることもあります。高級霊たちにしてもそうです。私たちを試練に会わせることがあります。その試練を通りぬけることによって、いっそう私たちは強くなり、焼きが入って、鋼のごとく強靭(きょうじん)になってゆくことがあります。こういう部分に愛の永遠性があるのです。時間の流れのなかで、不朽のものとしての愛がある。現在ただいまが幸福であればよいというのではない。
この永遠の愛のなかには、たとえば子供に先立たれる、親に先立たれる、あるいは妻に先立たれる、そのような不幸もあるでしょう。あるいは事業の失敗ということもあるでしょう。健康を害するということもあるでしょう。いろいろな試練がある。そしてヨブのごとく神を恨んでみたい気持ちになることもあります。
この永遠の愛のなかには、たとえば子供に先立たれる、親に先立たれる、あるいは妻に先立たれる、そのような不幸もあるでしょう。あるいは事業の失敗ということもあるでしょう。健康を害するということもあるでしょう。いろいろな試練がある。そしてヨブのごとく神を恨んでみたい気持ちになることもあります。
しかし、神は常に微笑んでいる。なぜ微笑んでいるかというと、永遠の観点からその人を見ているからです。この人の魂の修行というものを見ている。そして、試練が過ぎ去ったのちに、その人は「ああ、あのときやはり私は強くなったのだ。私が悩んでいたときに、私といっしょに神が歩んでいてくださったのだ。」ということを思い浮かべることができるのです。
旧約聖書の詩編であったと思いますが、このようなくだりがあります。ある人が疲れて海岸をとぼとぼと歩いていたのです。そして、後をふり返って見てみると、不思議にも、海岸線には二人分の四つの足跡がずっと続いていたのですが、途中で足跡が二つになっているのです。そして、その後はまた四つになっているのですが、その人が不思議に思って「何であろうか。なぜ足跡が半分になったのであろうか。」と考えるわけです。
それで思いあたったように「ああ神よ、あのときは自分が試練のときだったのですね。あの足跡が減って、二つになったときは試練のときだった。あなたはあのとき、私を見捨てられたのか。私を見捨てられて、試練のなかに置かれたのか。」と、その人はそのように思ったのです。そのとき神はこのように答えられるわけです。「いや、その試練のときに、私はあなたを背負って歩いていたのだよ。」と。
足跡が二つしかなかった理由は、実はそのときに神がその人を背負って歩いていたのだということです。このような部分が旧約聖書のなかにあったと記憶しております。このようなこともあるわけです。
「愛は祈りです。愛なくして祈りなく、祈りなくして愛はありません。愛は祈りによりて、より積極的な力となります。愛は祈りによりて、すべてのものごとを成就するのです。祈りは、愛を高める力であり、祈りは愛を深める秘法です。すなわち、神への祈りによりて、愛は成就し、神への祈りによりて、愛は実現するのです。神は愛なり。愛は神なり。愛をして神ならしむ力は、祈りなり。祈りによりて、人びとは生き、祈りによりて神を知る。かくして、祈りによりて、人は愛の力を最大に発揮することができるのです。」
反省を中心にして、祈りのことはまだあまり強調しておりませんが、ほんとうは強力なパワーを秘めています。私などは、もちろんよく祈りをしています。地上に生きている人間の力は、やはり限られています。ほんとうに大きな力を持って人びとのために生きようと思ったときには、やはり、この地上にない力、見えざる天上の力を受けざるをえないのです。
こうした大きな力というものは、これは人間の力をはるかに越えています。したがって、ほんとうに真なるものが思いのなかにあり、どうしても成就せねばならないときに、祈りというものは強力な力を発揮してくれます。
祈りの力によって危機を乗り切ることも可能です。この祈りにおいていちばんだいじなことは、もちろん自分自身の危機を乗り切ることもありますが、その自分だけの危機を乗り切る場合よりも、世のため、人のためになるような大きな観点から見て、是とされる祈りであったほうがより強力であるということです。
この祈りのパワーについては、そのうち、段階が進んでいったときに教えたいと思っておりますが、そうとう強力なものです。それは明らかに地上の人間の力ではない力が現われてきます。それが本格的に出てきはじめれば、みなさんもおそらくそのことを実感されることがあると思います。
そして、 "愛とは祈りである" ということは、祈りによってほんとうに神と一体になるという経験があるということです。これを経験されることがあるでしょう。私も毎日祈りのなかで、神様というよりは、イエス様や、他にいろいろな高級諸霊がいらっしゃいますが、こうした方々に祈ることが多いのです。もっと力をくださいと祈っています。 "もっと私に体力をください。もっと多くの行動力を。もっと多くのエネルギーを。もっと多くの人びとを導けるだけの力を" というように祈っています。
疲労した場合には "一日も早く回復して、ふたたび仕事ができますように。もっと多くの仕事ができますように。こんなことで倒れてしまわないように。もっともっとお役に立ちたい。今より一〇倍、二〇倍、一〇〇倍働きたいので、そのための力をください" と祈っています。祈れば、ちょうど公衆電話に硬貨を入れてダイヤルを回したのと同じように返答が返ってくることもあります。
15.愛が神秘の力を発揮するとき
ここに一つのたとえ話があります。三羽の雀の話です。
一羽は「この世でいちばんすばらしいものはお天道(てんとう)様だ。太陽だ。」というようにいいます。二番目の雀は「水がいちばんすばらしいのではないか。」といいます。三番目は、「いや、だれもが気づかないけれど、空気こそがいちばんありがたいのだ。」というように三羽の雀が話をしていました。それを聞いていた一人の子供が、このような話は人間からも聞いたことがない。雀からこのような話を聞くとは、何と人間は情けないものかと思うわけです。そして、長老に相談します。すると長老はこのようにいいます。
「太郎よ、よく悟ったね。人間とは、いちばんすばらしいものさえ見失っているおろかな生きものなんだよ。そのおろかな生きものであっても、お互いに愛しあうということによって、その罪を許されている。人間は醜(みにく)い。しかし、その醜さばかりをいくら見つめていても、醜さは消えない。神さまは、人間の罪を許し、醜さを消すために、愛という魔法の力をお与えになった。そして、愛があるから、その神秘の力で、人間は、万物の霊長であることを許されているんだよ。」
ここに愛の存在、愛の力、愛の法則、これが何のためにあるのかという説明があるわけです。世の中を見て醜いと言う人は多いのです。人間を見て醜いという人もいます。世の中を見て悪が満ちていると人はいいます。それはそうかもしれない。目にはそう映るかもしれない。
しかし、私たちにはこのような魔法の杖が与えられているのです。魔法の力が与えられているのです。それをなぜ使わないのか。こう言われているわけです。魔法の力によって、世の中の悪、悲しみ、苦しみを消していくことができるのです。ですから、現に世の中がこうだからいけないというだけではなくて、この愛の力を忘れてはいけません。そしてその力に気づく前に「足ることを知る」という意味を知りなさい。すでに与えられているもののありがたさを知らなければいけないのです。それが、この太陽であり、水であり、空気であるのです。
この感謝の気持ちというのは、自分がどれほど与えられているかということの発見です。この与えられているということの発見がなければ、魔法の杖を振るということはできないのです。魔法の杖とは、ほんとうはみなさんが手に持っているのですが、この魔法の杖は透明であって、自分の目には見えないのです。目に見えないからその存在がわからない。そして使えない。ところがこうした感謝の心を起こしたとき、自らがどれほど恵まれている存在であるか、ほんとうにありがたいという心を起こしたときに、この魔法の杖が見えるのです。
この魔法の杖が見えてきたときに、これを一振りすると回りに奇蹟が起きてくるわけです。世の中の醜さや、苦しさや、悲しさが、次つぎと消えていくのを目にすることができるのです。この魔法の杖を手にする方法は、実はこの「足ることを知る」考えであり、また感謝ということであります。このことを知ってください。このことによって、初めて内なる力を発見できるのです。このたとえをよく心に止めて置いてください。
16.人生の苦しみにあって
"愛に敵なし" ということを語ってみたいと思います。ここは、愛の観点からいわゆる光明転回の思想をもとらえているわけです。この世に苦悩や苦しみがあるということは、私たちに選択を迫っているのです。
その選択とは何かといえば、一人一人が与える側の人生を選ぶのか、それとも与えられる側の人生を選ぶのか、その選択を迫られているのだということです。これはすでに光明転回理論ということで何度か語ってまいりましたが、この光明転回の理論、あるいは光明思想、積極的な人生展開の方法は、この愛の観点からも考えることができるのです。
この苦悩や悲しみから抜ける方法としては、実はそのようなときにこそ、自分たちに選択が迫られているのだという考え方をしてみなさいということなのです。人生の挫折のなかにあるときに、あるいはデッドロックに陥ったときに、どうしてこれほど苦しいのか、このような失意のなかになければならないのか、とそう思ったときに、ハッと想い起こし、その瞬間に自分はいま与える側に立つのか、与えられる側に立つのかを迫られているのだと考えることが出発点となるという意味なのです。
このように考えるときに道が開けます。与えられることだけを願ってきたからこそ、今この苦境のなかにあるのではないか。その苦境のなかにあって、「そうか、これは今選択肢を提示されたのだな、よし、与える側に立とう。」と思ったときに、自分としてやることは無限に出てくるはずであります。しかし、そのことに気づかず、ひたすら与えられる側に立とうとしたときに、これはいたずらに日が暮れて泣き暮らすということになるでしょう。
ですから、苦しみや、悲しみに出会ったときに、これは与える側につくのか、与えられる側につくのか、これを試されているのだと思い、そして、愛の理論によって乗り切って行きなさいということです。これが愛の理論による光明転回の方法であります。
17.愛のみかえりを人に求めたとき、愛は死ぬ
愛の本質とは、やはり与えることにあるのです。そしてその根源は、神が無限の愛を私たちに供給してくださっている、というところに帰せられるということです。みかえりを求めるということはほんとうの愛ではない。これはよく言われていることですが、なにゆえにそうであるのかと考えますと、一つの答えとして、実は「愛のみかえりは、ほかの人間から来るのでなくて、神から来るのだ。」ということなのです。
人間にみかえりを求めてはいけないと言っているのです。愛のみかえりは、人間から来るものではないのです。神から来るのです。すなわち愛を与えよと言ってもなかなかそれができないのは、与えただけ損をすると思うから、そこに間違いがあるのです。
与えた愛は与えた人のものになるのです。これが神の世界の法則です。霊の世界の法則です。与えただけ豊かになるのが霊の法則なのです。与えた愛は、与えられた人のものになるのではないのです。与えた人のものになるのです。このような法則があるのです。だからこそ、みかえりを求めるなと言っているわけです。愛を与えれば与えるほどに、与えた人自身が神近き人間となっていきます。それが神のみかえりなのです。これがほんとうに実感されるようになるまでには、みなさん、まだまだ年月がかかるかもしれませんが、がんばってほしいと思います。
与えた愛は与えた人のものとなる。これは真実のことです。やはり人にみかえりを求めてはいけないのです。与えるという行為を出したということ自体が、その人にとって得たことになるのです。これはみなさんが地上を去るときにわかるのですが、たいていの人は、地上に生きてきた自分の過去というものを人生のドラマのシーンとして見せられます。そのときに自分の過去のなかでいちばん光っているもの、拍手が沸くところはどこかといいますと、この愛を与えたところなのです。ここで拍手が沸き、それがその人のいわゆる得点になり、勲章になっているのです。愛を与えたときに、その人の頭上に守護霊が徴笑み、光を投げかけているのです。
それゆえ、愛を与えるときにはすでに、愛を与えられているということなのです。ここが大切です。ところが得よう得ようとしているときに、光は降りてきていないのです。これははっきりしています。そしてたいていの場合に執着をつくって真っ黒なくもりができています。このようなシーンをやがてはみなさんも見せられることになるでありましょう。ですから人に求めるなというのは、このことを言うわけです。
18.与えるということの意味
では、与えるということの定義をしてみましょう。
「与えるとは、どうすれば一人でも多くの人びとが幸せに生きられるかを考えながら、日々生きるということです。与えるとは、一人でも多くの迷える人びとの心に、愛の光を投げかけてゆくということです。また、一人でも多くの人びとを困難と挫折の人生から立ち直らせ、知恵と勇気の日々を送らせるかということです。」
これが与えるということの意味であることをよく理解しておいてください。与える愛、愛を与えるとはどのようにするのかというのは、このようなことだということです。どのようにすれば人びとが幸せに生きられるかを、考えながら生きるということ、これも与えることなのです。そして、現実に迷っている人に愛の光を投げかけることも与える愛です。また、困難と挫折の人生から立ち直らせること、知恵と勇気の日々を送らせること、これも与える愛です。そうしてみますと、与えるということは単に物を与えるのではないということがわかると思います。
私たちが地上を去ったときに考えることは、たいてい、自分の過去を見て、「自分がそこにあったのに、どうして自分に縁のあった人たちを幸福にできなかったのか。ああ、また自分のまわりにああいう不幸な人が通り過ぎて行った。あれは自分を機縁としてあのような不幸な人が出た。なぜあのときに、あの一つの言葉をかけられなかったのか。あの行動ができなかったのか。あのとき、手を差し述べられなかったのか。何とかならなかったのか。」これが悔いとして残る部分なのです。
19.知恵をもって与える愛
そして、さらに、与えるにさいしての注意点としては、知恵をもって与えなさいということです。これは、はっきりと言われていることです。
仏教においてもそうでありますし、イエス様もこれはある比喩で語られております。私はあまりその響きは好きではありませんが、"豚に真珠を与えるなかれ" というような諺(ことわざ)を彼は使ったことがあります。たしかに響きは悪いのですが、これは知恵を持って与えよと言っているわけです。愛を与えるということであっても、それがほんとうに知恵を伴わなければ、人を活かさないということになる場合もあるのです。
たとえば、困っている人にお金を与えるときには、それが愛の行為になることはあるでしょう。ところが、自分のその生暖かい恩情主義で、ずるずると金を出していくことによって、その人自身が自力更生して立ち上がり、独立する機会を失わせることもあるのです。このようなことはよくあることでしょう。お子さんを育てあげられた方のなかにも、このような経験をされた方はいらっしゃるかもしれません。息子が働かずにいつまでもぐうたら、ぐうたらしている。しかし、お金を送らないと飢え死にするといってワアワアいうものだから、送る。そしてまた、息子は一か月ぐうたらと生き延びる。そしてまた送る。こうしていつまでたっても働かない。このようなことがいくらでもあります。
仕事の関係でもよくある話でありますが、取り引き先で、いろいろと危機に陥って、援助を求められることがあるでしょう。そのときに真実それがどうなのか、これをどう判定するかは難しいのです。ほんとうに梃(てこ)入れをして、この人にお金を貸して、あるいは援助することによって、立ち直ってよくなると思う場合には、そうしなければならないこともありますし、逆に実はずるずると泥沼に陥って行く道であることもあるのです。両方あります。どっちがその人にとってほんとうによいのか、これはよくよく考えて、知恵を持って与えなければいけないのです。
「他人に金を貸すな」という言葉でも同じようなことがあります。「金を貸すと友人を失う」という諺が昔からあります。それもよくあることです。また「本を貸す馬鹿もいない」というものもあります。お金とか本は返ってこないものの例です。私などもやはりお金を貸すのは好きなほうではないです。何度か貸したこともありますが、そのときには、そのままあげるつもりです。もう返って来ないという感じで、自分はいくらまでならあげてよいかを、考えた上で貸しています。そして、たいてい向こうが依頼してくる全額はやはりあげないほうがほんとうはよいのです。百万円貸してくれといわれたときに、そのまま返すことができないのはわかっているのです。
ですから、返ってこなくても自分が腹が立たない限度はいくらくらいであるのか、ということを考えればよいのです。百万円貸したところで返ってこないであろうな、自分としては十万ぐらいなら貸すことができるかな、余裕があれば五十万くらいいけるかな、と思うこともあるけれども、このようにして、貸したならば忘れてしまうことです。返ってくればもうけもので、当然のごとく返らないと思っていて、腹が立たない限度を考えればよいのです。
しかし、それさえしないほうが本人のためにもよいと思えば、貸さないほうがいいのです。ほんとうにいい商売があって、お金さえあればいけるのだというのは、たいてい、だめなことが多いと思って間違いがないです。
ほんとうにいちばんだいじなことは、その人がちゃんと自力更生できる道を開いてあげるようにすることです。突き放すだけがよいことではありませんから、やはり、仕事のしかたを知らない人には、仕事のしかたを教えてあげる。お金の使い方を知らない人には、お金の使い方を教えてあげる。このような考えが大切です。
お金に関していえば、やはり自分で元手を作って、商売を始めたような人は、お金のありがたさがわかっていますが、他人のお金だけをあてにして商売をしてきたような人は、やはりうまくいかないのです。このような人にお金を貸しても、けっきょく失敗に終わることが多いのです。
商売を始めるときであっても、自分自身で三百万なり、五百万なりを自分自身で一生懸命働いて貯めたお金を元手にして商売を始めていった方というのは、成功する率が高いのです。それはお金のありがたみをよく知っているからです。このような人が、たとえば、あと百万あれば、うまくゆく方策がある、というときには出してあげても成功することがひじょうに多いのです。
ところが全然元手もないし、働いたこともないけれども、思いつきがあるので、五百万円貸してくだされば新しい商売が始められるからといわれて貸したとすれば、たいていはだめであるし、自分にも一生悔いが残ることになります。そのようなことがよくあります。
このようなときに、知恵を使って与えることを考えなければいけないということなのです。
20.愛と知をどうとらえるか
「愛の発展段階説」、これはよく語ってまいりましたので、ある程度はわかっておられる方も多いと思います。ある意味で、突飛な考え方ではあると思いますが、この一説が仏教とキリスト教を融合する理論であると考えています。
ここでは愛と知の関係について考えてみたいのですが、六次元の生かす愛の段階で、知性の愛、理性の愛ということがいわれています。それでは、知の部分というのは、愛のなかで六次元部分に相当するのかという考え方が出てくるわけです。
"愛は知にまさる" という言葉がありますように、愛は知を超えるものであるという考え方があります。もう一歩奥まで語っておけば、確かに知はこの六次元世界のものであり、それより高い愛のレベルが存在します。そしてその愛のいちばん奥にあるものはいったい何であるかといいますと、これは叡智なのです。叡智のレベルでまた愛と知は一つに融合します。神の叡智のレベルで、大いなる愛と知が一つになるのです。このように考えてください。
そして、「生かす愛」、「許す愛」のこの境地は実際の説明としては、なかなか難しい部分があるのですが、体験を通してある程度わかることもあると思います。そして、この基準でみますと、その人の悟りの段階もわかるのです。修行の方法として、目標として、この愛の発展段階というものを考えてください。これも、必ずしもトータルなものではないとは思っておりますが、ある程度の目安にはなると考えています。