目次
1.この本は、天上界の権威者たちの霊示を用いてつづられている
この本は、主として瞑想を中心として編(あ)まれた本でありますが、従来の瞑想の本と大変違っているところは、それぞれの瞑想、特徴ある瞑想について、その筋の権威者たちの言葉を用いて語られ、つづられた瞑想法であるということです。
それぞれの筋の権威者といっても、まあ、読者の皆様方はにわかには信ずることもできないかもしれませんけれども、その内容にあるように、まず、「禅の瞑想」においては、鎌倉時代の高僧で、道元禅の始祖である道元禅師による「禅の瞑想」ですね。これについての霊示を受けて、直接語っていただきました。その内容です。
たとえば、その次の「無為自然の瞑想」という瞑想においては、かつて中国にお生まれになられて、孔子と並び称された老子、道教の祖・老子の思想です。老子という人が、どのような瞑想というのを行なっておったのか、これを、彼自身の霊示を通じて、言葉に表わしたのが、この「無為自然の瞑想」です。
あるいは、その次には、「満月瞑想」というのが入っておりますけれども、これは、もともとブッダの瞑想でもあったわけですが、近年、日本で肉体を持ったGLAの主宰をしていた高橋信次さんという方にお願いして、あの世の世界からほんとうの意味での満月瞑想というものを語ってもらいました。
2.中級の瞑想のガイダンス
以上は、まあだいたい初級の瞑想法でもありましょうけれども、さらにちょっとむずかしい中級の瞑想法として、まず、「止観瞑想(しかんめいそう)」というのをあげてあります。これも、「止観瞑想」で有名な中国の天台智顗大師(てんだいちぎだいし)、この方からの霊示を中心にした瞑想です。「止観瞑想」というのは、反省に近い、反省的瞑想とも俗に言われますけれども、そうした瞑想の方法です。
それから次は、「足ることを知る瞑想」。人間というものは結局のところ、欲望のままに自分自身というものを見失って、ほんとうの自分自身を見失って欲望のままに生きているから、さまざまな混乱、悩み、苦しみというものをつくり出しておるわけです。そういうことで、ほんとうに足ることを知るというのは何かということ、この瞑想、足ることを知ることの瞑想、これをまた同じく高橋信次さんにお願いして霊示を受けたものです。
その次には、「対人関係調和の瞑想」というのをあげました。これは、日蓮聖人、私自身の直接の指導霊でもある日蓮聖人から受けた霊示を中心とした瞑想法です。
日蓮聖人という方は、人間の悩みの解決ということに関して、大変力量を持っておられる方で、また経験が豊富で、どのように導けば、人間というものが、その悩みから脱することができるのか、あるいは向上することができるのか、こういうことを常々考えておられる方です。その日蓮さんのご指導によるものですから、非常に明快でわかりやすい瞑想だと思います。この「対人関係調和の瞑想」というのは、ある意味では、祈りに近いものかもしれません。瞑想というよりは、祈りに近いものかもしれませんけれども、人間と人間の間をよくしていこうという考え方のなかには、祈りにも通じるし、瞑想にも通じるし、反省にも通じるものがあろうと思います。
さらにこの後、日本神道系の方がた、神々をお呼びして、さまざまな瞑想を授(さず)かりました。まず第一に、天照大御神(あまてらすおおみかみ)から、「光の瞑想」というものを授かりました。日本神道系というのは、地上に生きておられる皆さんには、なかなかそこまで認識がいっておらぬかもしれませんけれども、「光」ということを大変重視しています。「本来闇なし」と。闇というものを見つめないで、光を中心に見ていこうというのが神道系なのです。
3.神仏と称される方は、高級霊という意味での神仏である
まあ昔から、神仏と言って、神とか仏とか言って、神と仏とは別のものか、ひとつのものかというような意見がずいぶんあります。実際は、究極の神というのはもちろん唯一のものであり、宗派によって分かれるものでありませんけれども、人格的な性質を持った高級神霊という意味では、確かに神仏と称されるものがあります。
ここに出て来られる方がたも、まあ神仏と言えば神仏にあたる方がたですけれども、日本神道系の方がたは、とくに、仏とは言わずに神と言われています。
では、言葉で言う神と仏の違いは一体どこにあるのかと言うと、結局のところ、神様というのは、あまり努力、精進して悟った存在というものではないということですね。最初から光り輝いている存在としてご自分というものを考えておられる。こういう人が神様のようです。仏様というのは、やはり人間として生まれられて、努力の結果、悟りを得た方々を仏と呼んでおるようです。しかしながら、ほんとうは、神と言っても仏と言っても、実は高級霊という意味でもあり、上下(かみしも)の上(かみ)、上下(じょうげ)の上(じょう)の方の意味なのですね。普通の人間にくらべて、はるかにすぐれた上(かみ)の方という意味の神です。
したがって、天照大御神(あまてらすおおみかみ)にしても、天之御中主之神様(あめのみなかぬしのかみ)にしても、そういう具体的な名前がある人格神であるということは、かつて地上に肉体を持たれた方であるということなのです。けれども、いわゆる仏とは違うとあえて言うとすれば、神様というのは、最初から光り輝いた存在だという意識を持っておられる、こういうところが違うのです。
4.自分のなかにある光り輝く本質を伸ばしていったとき、高級神霊になれる
とくに天照大御神様が今回の「光の瞑想」で啓示されたことというのは、人間というのはとにかく生きているうちに暗いところ、闇というものを見つめすぎる傾向がある、と。ところが、自分の人生というものを、よく振り返って見てみるならば、けっこういろんなところで光り輝いている自分というものがあるはすだ。その光り輝いている自分というものをしっかりと見つめたならば、これからどのようにしていったら自分が光っていくかという姿が見えるはずだ。だから、努力していきなさい、と。このように言っておられるわけですね。これは、天照大御神様の考えです。
確かに、そういったふうに自分の過去のなかから光り輝いている自分というのを取り出して、そのエキスを取り出して自分の生き方の参考にし、今後そのように光っていく自分というものをつくっていけば、やがて人間が、いわゆる神様になっていくわけですね。これは間違いないことですし、天上界におられる神様方も光っている存在であって、暗い陰(かげ)はみじんもありません。まあ、そういう考えを理解する参考になりましょう。
5.幸せを感得する能力を磨くことによって幸福感は深まる
また、その次には、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)様、あるいは、天之御中主之命(あめのみなかぬしのみこと)と言ってもよろしいですけれども、そういう方から「幸せの瞑想」というのをいただきました。この幸せの瞑想というのは、今回の幸福瞑想法のネーミングの由来でもありますけれども、どうしたら幸せになるのかという、幸せになるための瞑想方法というのを教えていただいたわけです。
元来、「禅の瞑想」のなかで、道元も言われたように、瞑想というのは、自分を空(むな)しくする、あるいは無にする、空にする、無の瞑想、空の瞑想というのが、その発想の中心にあったようです。けれども、この無の瞑想、空の瞑想というのは、要するに、執着に執われた自分自身を洗い流すという意味で重要だったと思うんですね。
しかし、執着を洗い流しただけでは、発展した自分自身というのをつかむことは、ほんとうはできない。空と無の奥に、さらに奥なるものがあるのではないかということですね。ただ大掃除をしただけでは部屋はきれいにはならない。大掃除をした後で、すなわち、空や無の瞑想をした後で、部屋というものを素晴らしい部屋にするために、さらなる工夫をする必要があるのではないか。そのさらに素晴らしくしていく工夫ということのために、この「幸せの瞑想」というのがあるわけです。
これも、「光の瞑想」と同じで、自分の人生のなかの感激した瞬間、幸せの瞬間というものを、瞑想中に克明に思い出して、そうした素直に喜び得た自分、純粋な自分というものを心に描いて、それを参考にして、これからの生き方というのをつくっていこうという瞑想ですね。
そして、御中主之神(みなかぬしのかみ)様は、ひとつの提唱をしておられます。つまり、人間は自分が幸福だ、不幸だと言うけれども、世の人びとの声を聞いてみると、不幸だと言う人の声が強い。なぜ不幸だと言う人の声が強いか。結局、不幸の感覚が強すぎるということですね。自分の不幸、足りざるところの感覚が強すぎて、足りているところ、幸せのところを感じる能力が低下しているのが現代人ではないか。そういう現代人に対しては、幸せを感じ取る能力、幸せの感覚というのをさらに磨いていく必要があるのではないか。これも意識して、努力して磨いていくことができるのではないか、そういうことを訴えかけておられます。
6.幸せな生き方をしていること自体が、ひとつの伝道でもある
これは、先程言った高橋信次氏の「足ることを知る瞑想」とも関係することでしょうけれども、足ることを知って、さらに幸せの瞑想へと入っていくわけです。これが順路ですね。まず足ることを知らないことから、不幸感覚が強まっています。
足ることを知って、不幸感覚を止めた後ではじめて、「幸せの瞑想」へと人間は入っていけるのだと思います。この「幸せの瞑想」ができるようになれば、かなり幸福感というのが満ち満ちてくると思います。その幸福感を胸にいだいて日々を生きていると、なぜかポカポカと体も暖かく、人間関係もうまくいって、幸福な自分というものを見い出していけるでしょう。
また、読者の皆さんも、他人を見ていて、いつも幸せそうな人を見ると、いいなと思うはずです。幸せな人を見ると、「まあ、羨(うらや)ましいね、何とかして不幸にしてあげたい」と思うような人も例外的にはおるかもしれませんが、たいていは、そういう幸せそうな人を見ると、「自分も、ああいうふうになりたいな」と考えると思うんです。
したがって、幸せな生き方をしていること自体が、そのこと自体が、ひとつの伝道でもあるわけです。神理の伝道なわけですね。
まあ、「幸せの瞑想」ができて、幸せな毎日を送れるようになると、その人を見て、周りの人が悟っていくんです。救われていくんです。そして、幸せの論が広がっていきます。ですから、こういう意味での神理の伝道もあるということですね。これを忘れないでいただきたいと思います。
7.希望の瞑想では、希望の原理が克明に説かれている
さらに今回は、上級瞑想として、四つの瞑想をあげてあります。まず最初に、生長の家の前総裁であった谷口雅春さんの「希望の瞑想」というのを入れさせていただきました。
谷口雅春さんは、自己実現の大家でもあり、百事如意(ひゃくじにょい)という言葉どおり、自分が思ったとおりの世界を展開される方でもありました。九十何歳まで生きられて、自分の思ったとおりの人生を歩んで来られた方のお言葉ですから、その「希望の瞑想」の言葉にも力があります。実績があります。また、実現可能性があります。
しかも、谷口さんがこの瞑想で皆様にお教えしたかったことは、どうやら、「勇気の瞑想」ということなのですね。人間は、平々凡々と生きていったのではいけない。勇気を持って、前向きに、発展的に生きていかねばならん、と。そのための希望の原理というものを非常に克明に説いてくれたわけです。まあおそらく、この希望の瞑想は、それこそ文字どおり、多くの人たちの希望の原理となっていくであろうと思います。
そしてまた、原理を生かして、さらに発展し、幸せになっていかれる方が増えていくことが大事だと思います。
8.人間には、過去に引っ張られ、未来に引っ張られる心の方向性がある
人間の心には傾向性があって、どちらかに必ず引っ張っていかれます。たとえば、過去のほうにばかり向かっている人というのは、とにかく苦労性ですね。あれこれと昔のことを思い出しては、「だから自分はダメなんだな」とばかり繰り返し言っています。
また、未来についても取り越し苦労性の人は、未来の悪いことばかりをいろいろ予想して、ビクビクしながら待っています。
こういうようにして、人間は、ほんとうは現在だけに生きているにもかかわらず、過去に引っ張られ、未来に引っ張られて生きてしまうのです。こういう心の方向性というのが必すあるっていうことですね。
9.過去、現在、未来を照らす瞑想は、人間を幸せにする
では、そういう心の方向性があるならば、その方向性を十分生かして、悪いほうではなくて、いい方向を見ながらの方向性で生きていこうじゃないか。そのために、過去のいい方向を見るのが、「光の瞑想」であり、「幸せの瞑想」であろう。また、未来のいい方向を見るのが、「希望の瞑想」であり、「自己実現瞑想」であろう、と。
そういうことで、現在に生きながらも、過去に心引かれ、未来に心引かれる人間でありますから、過去と未来の狭間(はざま)にあって私たちが努力すべきことは、過去に対しては、祝福を持って自分の過去を祝おうということです。また、未来の自分に対しては、希望を持って自分の未来を迎えようじゃないか、と。
ある西欧の作家の作品のなかに、次のようなたとえ話があります。つまり、人間というものは二つの壁にはさまれている。前へ動こうと前の壁を押すと、後ろの壁が追ってくる。後ろの壁を押すと、また前の壁が追ってくる。というふうに、過去の壁と未来の壁にはさまった存在、過去と未来の間にある存在、これが人間だというふうに哲学的に定義する人もいます。確かに、そのとおりですね。
一日一生で、一日の枠のなかで生きればいいという昔のイエス様の教えもあるんですけれども、なかなかそれだけではすまないことも多いですから、そのために、自分の過去を照らし、未来を照らす瞑想というのが大事なんです。
「光の瞑想」「幸せの瞑想」という過去を照らして、その反射光で現在を照らす瞑想、それから、「希望の瞑想」という現在から未来を照らしていく瞑想、こういうのがあるのですね。こういう原理をしっかりと勉強してほしいと思います。
10.自己実現瞑想の究極の形は、イエスの人生そのものであった
さらに次の瞑想として、「自己実現瞑想」というのをあげました。これは、イエス・キリスト直伝(じきでん)です。こうしたことはちょっとあり得ないことで、クリスチャンのなかには、眉に唾(つば)をして読まれる方もいるかもしれませんが、この「自己実現瞑想」の内容をお読みになれば、これは、イエス様の思想そのものであることにお気づきになるでしょう。実際に、イエス・キリストから直々に、この瞑想というものの指導を受けたのです。その霊示を持ってつづったのが、このキリストによる「自己実現瞑想」なのです。
イエス様は、この自己実現瞑想のなかで、特徴的なことをいくつか言っておられますが、とくに重点を置いておられることは、結局、「神の子としての自己実現であるという出発点を忘れるな」ということです。「神の子として最大限に自分を発揮するのが、ほんとうの自己実現ですよ」と。それ以前の段階の自己実現として、健康があったり、経済的な繁栄があったり、そういうことがあるんです、と。この世的な成功というのは、神の子としての最高の自己実現に至る過程としての途中経過としての試金石(しきんせき)としてのものなんですよ、と。ほんとうの自己実現というのは、神の子として最高に生きることなんですよということを、イエス様は言っておられます。
この言葉をさらに注意深く読む読者は、結局、この「自己実現瞑想」の究極の形は、イエス様の人生そのものであったことに気がつくであろうと思います。つまり、自分のすべてを神のために燃焼しつくした人生であったわけですね。これが、イエス様が言われるほんとうの意味での最高の自己実現なわけです。
11.最高の自己実現の方法を知ったとき、未熟な自分に気づく
ところが、この最高の自己実現と現在の自分とを照らしてみると、世の人びとは、恥ずかしくならざるを得ないことが多いのです。なぜ恥ずかしくならざるを得ないのか。結局、自分というものの枠を超えることができない自己実現で満足しておるんですね。自分とか、自分の家族、家庭の範囲以内での自己実現に止まっているのが、我々凡人の悲しさなわけです。これではいけないということですね。
そういうことで、イエス様のように救世主としてまではなかなかいかないでしょうけれども、神の使徒として、全力をつくして生きられる自己実現、こういう最高の自己実現の方法があるということ、そういう瞑想があるということを知ったときにはじめて、人間は、まだまだ自分は至らなく、何をも神に要求することができないような未熟な自分であるということに気がつくであろうと思います。
12.カントによる「頭の良くなる瞑想」
第三番目の上級瞑想法としては、カントによる「頭の良くなる瞑想」をとくに入れておきました。現代人の悩みの多くは、知性の不足に起因し、また、現代人を幸福にする原動力も、ある程度知性の活性化に比例している以上、従来の「瞑想」の枠組みからはみ出した、こうした新しい瞑想法をカントに霊示としていただいたわけです。
「頭が良い」という意味にも、いわゆる狭義の「知性的」に頭が良いのと、「理性的」に頭が良いのと、「悟性的」に頭が良いのとでは、どのように意味合いが違うかを、カントは明快に答えています。この瞑想法は、おそらく現代人に対する大いなる福音になるだろうと思います。
13.宇宙即我(うちゅうそくわれ)の瞑想は、大宗教指導者の瞑想である
さて、最後に、「宇宙即我の瞑想」として、釈迦の悟りに関連して、釈迦の瞑想というのをあげておきました。これはまあ、私自身の潜在意識のなかにある意識体を用いての瞑想方法の指導です。これは、私の考えと一緒です。一致しています。これはね、余人をもって、なかなかこの瞑想まで近づいて来ることはできないでしょうけれども、歴史的事実として、かつて経験したことがあり、また、何人かの偉大な宗教的指導者たちも経験したことがある瞑想なのです。
イエス・キリストも、この「宇宙即我の瞑想」を体験していますし、ある意味では、モーゼも体験しています。近年では、高橋信次という方も、この「宇宙即我の瞑想」を体験されておるようです。その体験をされておるという証拠が、高橋信次さんのつくられた「心行(しんぎょう)」という経文のなかにあります。
すなわち、そのなかで、高僑信次さんは、大宇宙というものは、神の体であって、銀河系の諸器官というものは神の肉体の諸器官と同じなのだ、と。そして、地球というのは、こういうのは細胞のひとつにすぎないのだと、こういうことを言っておられますけれども、こうした言葉は、彼自身が宇宙即我の経験をしていなければ、なかなか言えることではないのです。
14.宇宙即我の経験ができた人は、神の子としての自分に目覚めた人と言える
しかし、宇宙即我の経験をして、一体何の意味がありますかという方もいらっしゃると思います。確かに、自分の魂が肉体を離れて宇宙大に拡大したところで、それで何ら現実的な利益が得られるわけではありません。ただ、ほんとうの人間の本質というのを知ったということなんですね。垣間(かいま)見たということです。それを意味するわけです。
人間というのは、この百六十何センチ、百七十何センチの肉体のなかに宿った小さな存在ではなくて、ほんとうは、開けば、無限に広がっていき、宇宙大に広がり、また握れば、けし粒になるような、そういう自由自在の存在なのだということを知ることができる。そういうことを知ることができた人間は、結局のところ、ほんとうの神の子としての自分に目覚めた人間であると言えると思うのですね。
また、「宇宙即我の瞑想」のなかで、私は、これにも二段階の内容があることを言いました。全宇宙体が自分の体と一緒になるというような、そういう瞑想もあるけれども、そのちょっと前段階として、地球が、眼下にクルクルと回っている水晶玉のように回っている地球そのものを眼下に見下ろすような「宇宙即我の瞑想」があるということを言いましたね。これは如来界の瞑想であり、如来でも必ずはできませんけれども、最上段階の如来になると、この程度までの瞑想は可能です、生きているときに。
15.ソクラテスは、地球を眼下に見下(お)ろすような宇宙即我を経験している
実は、ソクラテスという方も、この瞑想を経験しておるのです。彼の経験自体は、自分の体が宇宙大に拡大するところまではいっておりませんけれども、自分の肉体から自分の霊体が抜け出して、地球を眼下に見下ろすところまではいっております。
このことは、ソクラテスの有名な言葉をつづったと言われるプラトン作の「パイドン」という本のなかにあるんです。つまり、その「パイドン」のなかで、ソクラテスは、自分の体が、はるか上空から地球を見下ろして、地球の島や大地や海を見て、丸い地球を見ている姿を描き、また、そのなかで人間には転生輪廻があるということを淳々(じゅんじゅん)と説いております。彼もそういう経験があったわけですね。
哲学をやった方ならば興味があるでしょうけれども、ソクラテスというのは奇癖(きへき)がありました。その奇癖、変わった癖というのは何かというと、歩いている途中、ときどき立ち止まって、一昼夜、動かないことがあったということです。この一昼夜立ったまま、止まって動かなくなる癖というのは、実は、彼が兵隊さんとしてアテネの戦争に行ったときに、まず最初に出てたんですね。戦場で立ちつくして、一昼夜立ったままだったわけです。
ですから、仲間たちは非常にびっくりしまして、大変な病人がいるということで、大さわぎになった。敵弾が飛び交うなかで、突っ立つたまま、そのまま一昼夜いたようです。なぜなら、ソクラテスの魂は、肉体から抜け出して、宇宙即我ではありませんけれども、宇宙空間をさ迷っておったからです。まあ、そういうことがあります。
今後とも、こうした「宇宙即我の瞑想」は、程度の差はあれ、その経験をされる方がいろいろ出て来ると思います。ですから、これは、そういう方がたのための処方箋であります。
16.ほんとうの自分自身を知るためには、日常性からの脱却が必要
以上で、「禅の瞑想」から「宇宙即我の瞑想」までの簡単なガイダンスを行なったわけですけれども、結局人間は、今のまま、通常のまま生きているだけだと、どうしても日常性から脱却することができないのです。
日常性から脱却し、非日常性のなかに没入することによってはじめて、人間は肉体ではない自分、物質ではない精神の自分というものに気がつくためのきっかけを与えられることができるのです。
すなわち、ほんとうの自分自身を知るためには、自らの日常性からの脱却をはからねばならんのです。その日常性からの脱却のために、山篭りをすることも可能でしょう。けれども、大部分の人たちは、都会に忙しく働いておって、そうしたことはできません。そうであるならば、都会のなかにあっても、ときおり、自分ひとりでの瞑想の時間というものを持ってみようじゃありませんか。
瞑想によって心を集中し、落ち着け、この世的なものから心を離れさして、自由自在の世界に心を遊ばせてみませんか。そのなかに、あなたの自分自身の本質を悟ることもあり、そのなかにおいて、自分の守護、指導霊の声を聞くこともあるし、さらに、自分の無限の可能性というものを、そのなかで見い出していくことも可能だろうと思います。
17.瞑想のなかで本来の自分自身を発見しなさい
こういうことで、瞑想という作法、瞑想ということの根本、なぜそういうことをする必要があるのかという根本は、本来の自分をそこで発見ができるからです。これなくしては、なかなか本来の自分を発見することができないからです。
この書物は、あなたを瞑想の世界へと誘(いざな)い、瞑想の最後の段階までご案内していくでしょう。どうかそのなかで、つまり、無限の神に向かう自分自身の旅の途中で、自分の発展の過程というものをつぶさに眺めてみてください。
そして、自分がほんとうに神仏の子であり、偉大な光の存在であるということに、瞑想のなかで、人びとは気がついていくでしょう。そのときは、おそらくあなたの人生にとって最大の幸福の瞬間であり、最大の勝利の瞬間でもあると思います。
その幸福の瞬間、勝利の瞬間をどうか忘れすに、毎日、毎日を精進していっていただきたいと思います。