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4.高齢者に対するアドバイス
(問)
現在、私は八十八歳ですが、心不全で入院中です。そろそろ寿命だと思いますので、残り少ない人生を、心豊かな安らかな人生とするためには、どのような心がけでいたらいいのかお教えください。
隠居(女性)八十八歳
(答)高齢者が病に執われるのは問題である
この方自身は、もうだいたい人生の仕事というものは終えております。ご本人が自覚している通りです。そこで、この方自身に対するアドバイスということではなくて、世の一般の高齢者に対するアドバイスということでお話をしたいと思います。
私がこれから語る言葉は、単にこの方だけではなくて、こういう八十八歳というような高齢の人たち、すでに世の大部分の仕事は終え、子育ても終え、社会的責任をはたしている人へのアドバイスです。そういうつもりで聞いていただきたいと思います。
人間九十歳近くなると、当然のことながら、体のどこかが悪くなります。この方も心不全だそうですけれども、何かの病気はあるはずです。しかし、このくらいの高齢になると、ただ病に執われることは問題です。病を治したい治したいという一念でいても、やがて死というものが訪れます。問題は、亡くなったときに、いいですか、病念をつかんであの世へ還ってしまうということです。
だいたい高齢者の人は、皆さん、病気を何か一つぐらいは持って死んでいくのです。それは、当然のことです。今は、病院で死ぬ人がほとんどです。自宅で死ぬ人は少なくなりました。病院でほとんど死にます。病院で死ぬ以上は、ほとんどの人が病名を宣告され、そして薬の投与を受けながら、医者や看護婦に看取られて死んでいくのです。
ですから、大部分の人が病気というものをつかんであの世へ旅立っていきます。しかも、現在においては、唯物的なものの考え方というのが非常に流布しているために、死ねば何もかもが終わりなんだ、だからこそ、病院のなかで少しでも長く肉体を生きながらえさせたいんだと、そういうふうに考えています。
病念をつかんだままで他界するな
ところが、死ねばすべてが終わりということではないのです。死んでも、その後、あの世の世界があります。生きているときの気持ちの段階、心の段階に応じた行き先があるのです。これは、さまぎまな形で、すでに私たちが説いてきたことです。
一人一人の心の段階に応じた世界があります。ただその心の段階に応じた世界というのは、すでに、死というもの、自分が死んで、そして死後の世界に入り、自らの本体が、自らの実質が霊であることを悟った霊たちが行くところであります。ですから、それ以前のところで迷っている霊たちにとっては、問題外なのです。
こういう霊たちは、まず、自分の死というものを、正面から、真正面から見ていく必要があります。というのは、病気をつかんでそのまま死んで、死後あの世へ行っても苦しみが続いているような人がたくさんいるからです。実際に、病院で死んだ人の少なくとも六割、七割までの人たちは、死後、あの世で、何年、何十年、何百年と病念をつかんだまま苦しんでおります。
死んで何もかも終わりだと思っていたのにもかかわらず、心臓が苦しい。苦しくて苦しくてたまらない。死んだら死んだで、あの世でも苦しい。やはり自分は死んでいないに違いない。死んだような気がしていたけれども、どうやらこれは病院の特別室に入れられて、自分は他の人とは隔離されて、それで心臓病で今、闘病しているに違いない、と。こう思ってしまうのです。これは、外科でも、他の病気でも同じです。死んだら終わりだと思ったのが、終わっていない。まだ命がある。どうもおかしい、と。自分は神隠しか何かにあって、特別なところに連れてこられたに違いない。これは一つの隔離場で、もしかすると、精神病院の別館かもしれない、と。こんなことを思ってですね、自分は、まだ生きていると思っているのです。そして、病念をつかんで、まだ苦しい苦しいと言っている。胃が痛い人は、胃が痛いと言っている。心臓が悪い人は、心臓が悪い悪いと言っている。呼吸が苦しい人は、せいぜい言っているんです、何年も。
死んでからのあの世には、空気はありません。酸素などない。酸素がないにもかかわらず、呼吸困難に陥って、ぜいぜいと言っているんです。こうした人たちは、霊の世界、心の世界を知らないあわれな人たちです。かわいそうな人たちなのです。
死ぬ前に、人間は霊的存在であることを認識しなさい
世の高齢者は、八十歳、九十歳になった今から、世の中に貢献することは無理かもしれません。ですから、せめて、世の人びとや、自分の子孫たち、そうした人たちに迷惑をかけないですむような自分となって、この世を旅立っていく必要があるということです。
すなわち、死の前において、いいですか、死の前においては人間はそういう肉体的なものではないのだ、霊的存在であるということを、まずしっかりと認識する。それが大切なのです。しかるのち、まだロがきけ、目が見えるうちは、会える人一人一人に、お礼を言いなさい。感謝をしなさい。
自分の子供たち、自分の孫たち、あるいは自分の友だち、親戚の人たち、あるいはまた、職場で知り合った人たちに感謝する。人間というのは、いろんな人たちの支えによって現在があるのです。長寿をまっとうした人は、それだけ多くの人たちのお世話を受けているのです。多くの人たちに迷惑をかけてきたのです。ですから、長生きをした人はしたほどに、いいですか、それだけ世に対して、世の人びとに対して、感謝の念がなければならないのです。
高齢者は和解と感謝を心がけよ
高齢の人たちは、病院で入院しているときに、見舞ってくれる人一人一人に対して、「どうもありがとう」と感謝すべきです。お世話になりました。自分はいたらないところがあったかもしれませんが、これは、どうか一つ許してください、と。自分を恨んでいる人や、喧嘩をしている人がいたら、一人一人と和解をする。そして、悪かったことを反省しておく。この世にいるうちに、口が動くうちに、一つ一つお詫びをしておくことです。そして、何も思い残すことなくあの世へと旅立っていく。これが一番大事なことです。
そうしたことを精算しないであの世へ還ると、あの世へ戻ってからも、苦しい苦しいとの思いが続きます。あの人に悪いことをした、この人に悪いことをしたと思うことになる。いいですか、そういう苦しみが続いているがために、反省ができないのです。また、和解もできません。死んでしまうと、肉体はありません。ですから、生きている人のところへ出ていって、お詫びをすることはできないのです。
それでも、お詫びをしたいと、たまたま幽霊になって出て来ると、皆んな、びっくりしちゃって、逃げ惑う。「どうか許してください」と。あの人が迷って出て来た、とびっくりしてしまう、幽霊としては、「私はお詫びをしようとして枕元に立ったのに、皆んな、寒けを出して、逃げていくなんて、とんでもありません」と心外です。そこで逆に、「まあ、ひどい人ね。私はお詫びをしようとして出て来たのに、こんなに冷たい仕打ちを受けるなんて、許せない。それならそれで、懲(こ)らしめてやろう」などと崇(たた)ったりする。そういうこともあるのです。
こういうふうになるのですから、死んであの世に還ってからは、いいですか、お詫びはできないのです。反省はできます。反省はできますが、あの世へ行ったら、和解とかお詫びはできないのです。それが、心残りになって迷える人もいるのです。ですから、こういう人びとは、生きているときに、出会う人たちの一人一人にできるだけ感謝の言葉を述べ、悪いことがあったら、謝っておくことです。それが一番大事です。
高齢者にとってもっとも大切なことは、思い残すことなく生きていくことです。そしてまた、病院のお世話になったお医者さん、看護婦さん、こういう人に、一人一人お礼を言っておく。
年をとって、しかも、病気をしていると、ほとんどの人が利己主義者になって、不平不満ばかりを言うようになります。この薬はよく効かない、あの看護婦の注射は痛い、こういうことばかりを言っては、囲りの人を困らせているのです。家の人は、毎日来てくれない、見舞いの回数が少ない、見舞いの果物が悪い、と。こういうことばかりを言って愚痴(ぐち)をぼしている。しかし、こういうことではいけません。できるだけ感謝をして、この世を去っていくことです。それが、高齢者の務めであります。
(1986年8月24日の霊示)