目次
4.摩訶止観とは
(一九八四年二月二日の霊示)
1.一念三千論について
富山 天台智顗さまですか。
天台 ――そうです。
富山 今日はこんな場所へお呼びしましてまことに申し訳ないんですが、かつてあなたがご在世中にお考えになられた「一念三千論」ですね、そのことについて、少しお教え願いたいことがあってお出で願ったのですけれども、まあ当然昔と今とではお考えも進展しておられると思うのですが、基本的にはあなたが書かれたものとそう変っておらないのでしょうか。まず、その点からお伺いしたいと思うのですが、たとえば、その「一念三千論」なんかに関しましては……。
天台 まず言えることは、「一念三千」という言葉は、この言葉自体は、私が発明した特別な考えではないということです。念い、の通りに人間はなる。念っているところのものがその人である。あなたは、あなたが思っている通りの人である。それ以上でも、それ以下でもない。これが普遍の真理であって、私ひとりの考えた哲学でも、思想でもないのです。念いが、そのひとそのものであります。そして念いの方向は自由を与えるのであります。「如来を念えば如来となり」「地獄を念えば地獄となり」ただその自由が、本来はすべて自由なのであるが、人間は永い間の転生輪廻をとおすことによって、心に段階というものができてきており、それぞれの段階に応じ、その範囲でしか念えないようになってきている。しかし、本来人間のこころ、思い、念うという思念は自由である。即ち、あなたはそこに座しているが、そこに座しているあなたは、如来界を念えば如来界の人間となり、地獄界を思えば地獄界の人間となれるのであります。それがあなたの本質であります。普通の人間はその本質を忘れ、自らの思想傾向、念いの傾向に執われ、その自由を自ら狭めているのであります。「一念三千」ということは、そのような普遍の真理、心の法則を説いたものであります。それは私独自の、私の思想でも、私個人の考えでもないのであります。
富山 その点についてですけれども、例えば、心の、念いの状態によって、世界そのものが変ってくるということでありますか。
天台 その通り――。
富山 地上に出ているわれわれとしては、界は変らないように見えるのですが。
天台 ――界とは何か!
富山 この物質世界、ただその、そちらの実在世界に居る状態においては、実際にその世界が変るのでしょうか。
天台 あなたは大変な思い違いをしている。この現界と申すか、現実世界があって、これ以外の世界。別の世界に実在世界があるのではない。今在るそこ、現在只今、この場所において、物質世界、三次元もあれば、四次元もあれば、五次元もあれば、六次元もあれば、菩薩界、如来界も、現にいまここに在るのである。別な世界があるのではない。それに気付くか、気付かないか、至るか、至らないかは、あなたがたの心のありようによって決まる。この物質界というものを離れて実質の世界、我々の世界があるのではない。同時存在できるというのがわれわれの世界なのである。あなた方の世界は即ちわれらの世界なのである。われらの世界の中にあなた方の世界があるのである。それを間違ってはいけない。
富山 その世界というものが、各個人の念の性質によって決定するものでありましょうか。
2.人間はすべて十階建てのビルの住人
天台 そうではない。例えば一つの建物がある。しかし、一階にだけ住んでいる人で一階だけしかないと思うひとは、一階建ての住人なのである。十階建ての建物であるのだが、それを気付かぬ人もいる。その人の世界は一階だけである。しかしながら二階があるということも知っている人もいる。その人は階段によって、或はエレベーターによって二階に上ることができる。この人の世界は一階と二階である。しかしながら、六階まで上ることを知っているものは、五、六階まで上ることを知っている。なおまた七階まで上ることを知っている人は七階まで上ることができる。しかし、七階が最高だと思っておれば、もうそれ以上は上れない。或は十階まであることを知っている人が居る。この人は一階から十階まですべてを知っている人である。別の場所にあるのではないのだ。同じ一つの建物、同じ場所を占めている一つの建物であるが、十階まであることを知っている人と、一階しか知らない人の違いがあるのである。即ちあなた、あなたという人間を造っている、思念、心、神のエネルギーは無限のものであるにもかかわらず、それを有限であり、限定されたものであるというあなたの心の働きそのものが、あなたの人間性を束縛している。一階、或は二階、三階、あなたはどこまでの建物を想念として持っているか、私の言うことがお分りになるでしょうか。
富山 それはしかし、知識として知っていることと、実際見ていることとは違うと思うのですが。
天台 違います。
富山 いま一つ疑問なのは、いま一階、まあ何階でもいいのですが、他の階に行こうとすれば行く階の心というか、想念に合わさねばいけないのでしょうか。
天台 そうである――。さきほど、たとえば、一階に住んでいる人でも、ニ階があることを知っていると、私は言ったはずだ。これは知っているとは如何なる意味か、これを考えて頂きたい。たとえば一階に住んでいる人は、自分が生れ育った環境の中で、建物は一階建てである、平屋建てのみが建物である、高層住宅というものを全く知らない人であるならば、現に二階があってもその人は、二階があると思わない。同じように知識というか、経験というか、或は精神状態というか、言葉は定かではないけれども、二階建ての建物しか知らない人は、それより上を思考することもできない。
いまあなた方は、如来界とか菩薩界という階に関し、思念することができる。思念することができるということは、既にあなた方にもそれだけの能力と、それなりの心の状態が用意されているということであります。ただここで大切なことは、すべての人間は、本来十階建ての建物として造られているということである。秀れた人、仏に参じた者は、或は八階、或は九階まで部屋を使うことが許されている。知ることを知り、使うことを知る。つまりそういうものがあるということを知り、かつそれを使用するだけの力と、行動とに、恵まれた場合に、八階、九階まで部屋を使うことができるのである。しかし、知らない人は、使いようがない。次に、知ってさらにどう使うかということを知らない人は、やはり使えないのである。知ってかつ行うということ、それが大事である。空想の世界で菩薩の世界があるということを思うということは、できる人もあれば、できない人もある。できない人は、菩薩に至ることはできない。しかし、菩薩という世界を思うことができる人の中で、菩薩として行動することができる人が、この菩薩の世界に住むことができる人間なのである。
富山 そこでひとつお伺いしたいことは、たとえば、あなたがですね、こういうふうに三次元と接する世界にお出ているわけですが、そういう場合に、本来いらっしゃる領域とは違い、波長も荒いし、そういう異次元の雰囲気の中へ来るためには、自分自身の心をやはり、そのように合わせないといけないのでしょうか。
天台 そうではないのであります。ここが三次元であり、五次元であり、七次元、八次元であるということが、あなたには分らないのか。あなたはまだ、空間的なものの観方をしているのである。
富山 ――たとえば、すべて波動の世界であるならば、現実にわたしたちとコンタクトするということは、私たちの波動の状態に合わせなければできにくいのではないでしょうか。
天台 今ここは、われらが世界、三次元にして三次元に非ず、汝、いま菩薩界に在り、われらが住む世界は、いま菩薩界、この世界、三次元でもあり菩薩界でもある、ということが分らないのか。われらは菩薩界に来たのではなく、現にこの世界が菩薩界である。今、菩薩の心、菩薩の境地が、この世界、この周りに現じているということである。われらが座しているのは、これは三次元の世界にあらず、今、ここが菩薩界である。――これが「一念三千」お判りか――。
富山 その菩薩界領域であるということは、その菩薩界領域が活性化しているということですか、空間的に言うと。
天台 活性化とはいかなる意味か――。
富山 つまり、菩薩界の波動が支配的だということ、波動というのは一つの比喩に過ぎないですが。
天台 あなたがもし私の言うことを理解できるならば、あなたの住む世界はいま、只今、私の世界と同じだということである。
富山 たとえば、八階から一階の方向へは通信ができるが、一階から八階へと、逆方向への通信はできないようになっているのでしょうか。
天台 できないのではなくて、上があると思っていないからできないのである。私は、さきほども述べたように、すべての人間は十階建てなのである。人間というものは、往々にして、あなたもそうであるが、こういうふうにものごとを考える偉大な指導者、光の指導者は、たとえば十階建ての建物を持っている、そしてそうでない人、眼の開けていない人は一階建てに住んでいる、或は三階建てに住んでいる人、こういうふうな見方もある。けれども、私の考えはそうではない。すべての人間が十階建ての建物に住んでいるのである。その十階すべてを使いこなせる人もあれば、そうでない人もいるということである。これはその人の知識経験の量、過去の行為の積み重ね、このようなものによって決まる。しかしながら、すべての人が十階建ての建物、十階の上に、たとえば屋上には、もう神の世界が開けているのである。
これが、「一念三千」の根本の、立論の基礎である。もし人によって一階建て、三階建て、十階建てがあるとするならば、念によって、三千世界におもむくことは、できない。ある人にとっては一千世界であり、ある人にとっては二千世界であるかも知れない、そうではないので、すべての人間が神の子としてすぺての自由を与えられている。念いの自由を与えられている。すべての人間が十階の建物を持っているということである。
即ち、あなたはいま、上から下へ降りることができるが、下から上に昇ることはできないと言っていたが、下にしか住んでいない人は、上に住んでいる人の存在を、気がついていない。まず念いがなければ行いもないのである。彼らも修行をし、悟りを開くことによって、上の世界があることに気がつくことができるのである。そうしたならば、二階、三階に上っていくことができるのである。
すべての人間の本質には、神としての、神と同一のものがあるということ、すべての人が十階建ての建物であるということである。
われらはいま、菩薩界に在り、菩薩界にあるというのは、通常の人間と、その精神というものを、建物という比喩で表わすならば、われらは八階建ての建物に住み、彼らは一階建て、二階建ての建物に住むのではない。すべて十階建ての建物に住んでいるのであるが、われらは八階まで使うことを、いま許されているということである。
3.関係の論理と実践の論理
富山 では、つまり一階しか使えないと思い込んでいるのは、自分自身の思い違いに過ぎないということですね。
天台 ――そうである。たとえばいまあなたにしてもそうだ。あなたのいまの心、私にはあなたの心がみえる。あなたの心は、決して七階、八階のこころを持っていない。そういう世界がある、そういう心である。本質はそうであるというにもかかわらず、あなたの心は、日常それを忘れている。一階、或は地下一階ばかりをあなたは思っているではないか。自分を地下一階の住人であると思う人には、八階、十階に住むことはできない。これに気がつくことが、即ち自分は神の子である、と気がつくことである。地獄に棲んでいるといわれる方々、彼らは地下の世界、地下一階、地下二階、地下三階に棲んでいる。彼らはその世界がすべてだと思っている。本来自らの建物が十階建てであるということを忘れてしまっている。「悟り」ということは、エレベーターに乗るということである。エレベーターに乗れば、高いところへ上っていけるのである。そのエレベーターに気がつくか気がつかないか、乗り方を知っているか、知っていないか、行き先を指示することができるかできないか、それだけである。未開人は、或は文化の遅れた人ならば、そこにエレベーターがあっても、これに乗ったら上に行けるということが分らないのである。
善川 ――そこで、エレベーターの乗り方についてですけれども、一つおたずねしたいのですが、現在、ご承知のように日本には゛比叡山゛というところがあります。ここは天台宗の総本山でありまして、ここには何千何百人という僧侶が居て、そのあなたが仰しゃるエレベーターの乗り方を修行していると思うわけですが、このエレベーターの中への乗り方、方法といいますか、その修行のあり方というものは、ああいう荒行、苦行の方法で乗り方を会得するものでしょうか。
天台 乗り方を如何にして学ぶかということは、人によって、これまた自由が許されております。今のあなたの質問の中には、現在の天台宗、或は比叡山をとりまく、新興宗団に対する批判の念いがあると思うのですが、確かに、あなた方のように、日常生活をしながら、エレベーターの乗り方を知る人も居れば、あのような特殊な世界に入らなければ、エレベーターの乗り方に気付かない人心居るのです。同じく比叡山に居ながらエレベーターの乗り方に気がついて、三階までのエレベーターに乗る乗り方しか知らない人も居れば、五階までの人も居るのです。いろんな人が居るのです。しかし、あれもまた一つの入口であります。否定することはできません。
善川 私が案ずるところでは、究極は、神のみこころを実現せんがために、この地上に生れてきて修行し、そしていささかでも世のために、神の道の証しをするという役目をもっているものであると思うのでありますが、いわゆる自己の肉体を責め、その間で心の修行をし、そのエレベーターの乗り方を会得するのが本来の相(すがた)か、或は衆生の中に入って、衆生と苦楽を共にしながら、大衆と共に学んでいくという生き方が、真のエレベーターの乗り方であるのか。現在における旧仏教と新興宗教の違いでもあろうかと思うのですが、この辺のところのご意見は、どのようなものであるかお伺いしたいと思いますが――。
天台 つまりどういうことでしょうか。あなたのお聴きになりたいというところは、どういうことでしょう―――。
善川 いうなれば、歴史の古い本山において、自己修行ですね、自己を磨くということを専一にする人生と、もう一方は巷にあって、社会人として、大衆の中で生活を共にしつつ、自己を磨き、鍛え高めていこうとし、そうしてそういう人達の病苫、家庭苦、経済生活苦と相接触して、その中で新しい方向を見出して指導していこうとする方向をとっている人との違いというものは、どうなのでしょうか。これ同一なのでしょうか――。
天台 あなたの質問は、質問であり、また答えであります。質問の形をとっているが、即ちもう答えである。あなたは自分でもう答えました。
それが答えであります。それはその人の価値観にもよるかも知れない。私に、そうした方がいいと言ってほしければ、私は敢えて申しましょう。あなた方の道は大衆と共に歩む道であります。その答えがほしければ、私はそう申しましょう。ただ、仏教修行を専門とし、やっている人に対する感謝の念というものは持たなければいけないのです。彼らが居るために、われらが゛法燈゛は語り伝えられているのです。それがなければ、彼らの存在がなければ、あなた方が大衆と一緒に住んでいながら、やはり仏法の世界に帰依する、接するという機会が少なくなってくるのです。彼らも亦(また)是(よ)し、吾らも又是し、そういう心をもってほしい、これしかないというものではありません。
善川 在家修行もよし、また寺院における修行もよし、ということですね。
天台 そうです。
善川 世上では、超人的な修行をして、生き仏と崇められるような修行をして、仏の世界を会得しようとしている人、これを今様にいうならば、スーパー・マン的な行為をしておられる方が居られますが、こういう方々の行き方というものには、それはそれなりの意義があるのでしょうか?
天台 あなたが、いま言われたスーパー・マンという言葉は一体どのような人達を指すのか、それはむつかしいことだと思います。どのような方を指しておられるのか――。
善川 例えば、断食行、或は千日回峰行と称し、自己の肉体を極限まで責め、長日月間苦行を積み、精神の修行に資そうとしている人達のことです。
天台 かれも、亦是し、であります。そういう人も居るのです。それでよいではないですか。彼らの姿を通して修行というものを感じとるひとも居るのです。本来の修行はそうではないかも知れない。肉体を苦しめることではないかも知れない。しかしながら、肉体を超えたところに精神的な世界があるということ、そのことのために彼らは修行しているのです。その姿を見て、また心が洗われる人も居るのです。それはそれでよいではないですか。彼らには彼らの悟りがあるのです。あなた方の悟りとは違うかも知れません。しかし、それもまた″是(よし)″であります。
4.摩訶止観とは
富山 お伺いします。摩詞止観の中に、度に対する対策の仕方ということが書かれてありますが、魔とは一体何でしょうか――。
天台 迷いであります。魔が現われるとき、あなたも既にご経験されているはずですが、魔が現われるときは、即ち、あなた自身が迷っているときであります。そうではありませんか。あなたが迷っていないとき、あなたが神の子として輝いており、自信に充ち、行動力に溢れ、迷いなく、突き進むときに、魔は現われないのです。
魔が現われるときは、即ち、迷いのときであります。それはあなたが迷っているときであり、彼らもまた迷っているのです。迷いが迷いを呼ぶのであります。魔が悪いのではないのです。それは迷いなのです。迷いを去れば、魔も去るのです。彼らが悪いのでもないのです。迷いなのです。゛魔゛とは迷いなのです。
富山 つまり迷いの性質が共通するわけですね。
天台 ――迷いであります。魔が現われるとき、あなたに迷いがないかをお考え頂きたいのです。必ず、迷っているはずです。
富山 悩み、苦しむ心ですね。
天台 迷いであります。本来神の子であり、実相世界に住むわれら人間であるに拘らず、十階建ての建物に住むわれらであるに拘らず、われ一階に住むなり、われ地下一階に住むなりと、念う心、上層階を忘れる心、本来の十階から地下まで降りることが、自由自在にできるわれらであるにもかかわらず、それができないと思っている心、これが迷いを生むのです。そうではありませんか。あなたは、本来十階建ての建物であります。あなたが十階にまで、エレベーターで上るならば、そこの窓からは素晴しい世界が見えるのです。眺望がきくのです。遠い遥かな世界が、近くの小さな家や、橋や、川や、人びとや、歩いている人達、そのようなものが一望のもとに見下ろせるのです。本来あなたの心は、ここまでの高みに上がれるのです。十階から眺めてごらんなさい。世界は平和な姿に見えます。ひじょうに小さなパノラマであります。人びとが平和に住んでおります。犬が歩いております。人が歩いております。川があります。橋があります。海があります。こういう心が晴れやかに澄み渡った仏の心であります。しかしながら常に一階に住しているあなたは、一階の窓を通してしか見ていないのであります。一階の窓からは一体何が見えるでありましょうか。不愉快な人びとの言動、或は騒音、或は車の動き、或は隣の家の壁、工場の煙突、そのようなものしか、一階からは見えないはずです。地下からはどうでしょう、何も見えません。そうですね。ですからあなたが迷っているとき、いま自分は何階に居るのかなということを考えてほしいのです。迷いのときは、あなたは一階か、或は地下一階から外を見ようとしているのです。十階から外を眺めてごらんなさい。すべては大調和の美しい世界であります。
富山 たとえば、宇宙飛行士が、人工衛星の中から地球を眺めたときに感じたような……。
天台 ――そうです。そうです。
富山 地球がこよなく美しく感じられたというような……。
天台 ――そうです。如来のこころであります。宇宙から、われらが姿を見ることかできる心が如来の心であります。
あなたが魔に苦しんでいるとき、即ちあなたは一階か、地下一階に居るんです。その窓から外を見ようとしているんです。不愉快な景色がいっぱい見えるんです。しかし、一旦あなたが十階まで上って、そこの窓から見た場合、不愉快な景色には映らないはずです。偉大な人工美、偉大な神の創った世界が見えるはずです。
善川 今、かれが上層階に上るエレベーターの来り方に苦慮しているという状況なのですが。
天台 自分がエレベーターに乗れんのじゃないかと思って、自分の手足を縛っているのです。エレベーターはそこにあるんです。ボタンを押して中に入れば、それでいいんです。行先のボタンを押せばいいんです。けれども、もう暫くは八階、十階に昇ったことがないと思っていること、もう昇れないんじゃないだろうかという心があるんです。さきほども言いましたが、あなただけではないのです。すべての人間が、十階建ての建物となっているのです。十階建ての建物の人もあれば、三階建ての建物の人もあると思えば、それに拘われるのです。あなたの心はそうなのです。秀れた人は十階建ての建物なのだ、三階建ての人もいると、俺には魔がいっぱい来る。俺は一階建ての建物じゃないかと念えばそうなるのです。そうではないのです。あなたは一階建ての建物だから、二階、三階に上れないんじゃないのです。すべての人間が十階建ての建物なんです。それを気付いてほしいんです。
善川 この迷いから脱却するためには、彼は肉体的な行と甲しましょうか、鍛錬を要しましょうか……、寺院での修行憎のように。
天台 ――いりません、一念三千です。現在、只今できるのであります。己れの本質に気がついていないというか、忘れているのです。あなたが思っているのは、自分は一階建ての建物ではないかというような、そのようなことで悩んでいるのです。十階建てなのです。
富山 たとえば、現に地獄というところで苦しんでいる人達に対し、もしあなたが何か、ヒントといいますか、何か方向性を指し示すことがあるとすれば、どういうふうなことを仰しゃいますか。
天台 いま言った通りであります。われわれ、すべて地獄に堕ちているものも、天上界に住んでいるものも、やはり十階思ての建物に住むものであるということに、気付きなさい! ということです。
あなたは、たとえば地獄に堕ちている人達をわれらが救わないというような思いがあるかも知れないが、そうではないのであります。彼らは好んで地下一階、地下二階、地下三階に居るかも知れないけれども、彼ら自身既に救われた存在なのです。なぜならば、彼らも神の子だからです。彼らも神の子だということです。彼らもまた十階建ての建物に住んでいるのです。エレベーターはあるのです。通っているのです。ボタンを押して来ればよいのです。われわれが十階から降りて来て、彼らを引きずり上げるわけではないのであります。上る、上らないは彼らの自由であります。ボタンを押して上るか、上らないかは彼らの自由であります。彼らは、本来救われているのであります。
富山 つまり、誰もその上の階へ上るということを禁止しているわけじゃないのですね。自分自身で自分を束縛してしまっているというわけですね。
天台 そうです、救われているんです。本来救われているんです。われらは十階、八階に住むのを「是(よし)」としております。しかしかれらは、今地下一階、または地下三階に住むのをよしとしているのであります。われらが、彼らに説くということは、君たちは十階建ての建物に住んでいるんだよ、エレベーターは、ボタンを押して昇れば昇れるんだよ、と説いているんでありますが、それを信じるか信じないかは、彼らの自由であります。
富山 人間のその一念三千の例ですと、各個人の念が共通世界を造り出すことと思うんですが、逆にその世界そのものが、また逆に念というか、心を縛ってしまうということもあるんでしょうか?
天台 どういうことですか?
富山 たとえば、自分が造った世界、心のつくりあげた世界、自分達で造りあげた世界そのものの構造が、また逆に自分達の心を束縛するというか、限定してしまうというか――。
天台 そうではありません。すべては唯心の所現です。
5.一念三千は関係の論理、実践の論理は勉学、努力
善川 ちょっとお伺いしたいのですが、いまの比喩で申しあげますなら、あなた様はいま何階にお住居されておられますか。
天台 八階であります。
善川 では十階の存在をご承知の方ですね。
天台 存在は知っております。ただ私は、十階まで上ることは許されておりません。
善川 それは、どういう訳ですか。お説のように念えば行けるのではないでしょうか。
天台 行けます。念えば行ける、本来行けるのでありますが、私には八階が住み心地が゛是(よい)゛のであります。
善川 エレベーターのボタンは、あなた押せないのですか。
天台 乗れないのです。
善川 それはまた妙なことではないですか。いまのあなたのお説からすれば、押す意志がないのですか、あなたは――。
天台 たとえば、私にとって、十階に上るということについては、経験不足といいますか――。
善川 そこのところが、理論と、実際との間に食い違いがでてくるところかと思うのですが……。
天台 というのは、私もまだ十階違ての建物であるということは言われているのでありますが、十階に行ったことはないのです。
善川 一念三千で、十階を認識すれば、そしてそのエレベーターのボタンを押せば、一躍して十階へ上れるのではないのですか?
天台 行けるはずであります。
善川 何故、なぜ行けないのですか!
天台 行けるはずでありますが、行けないのであります……。
富山 こういっては失礼でありますが、たとえば自分よりも悟りの進んだ世界へ行った場合に、一種の気詰まりを感じるわけですか。どういう表現を用いたらよいかよく分りませんが……。
天台 たとえていうならば、展望台があるとしましょうか、百五十米の展望台があるとしましょうか。ここまで上って全地域を見晴らせば、これで「是(よし)」と、思う人があります。三百米まで上らなければ、是(よし)、としない人があるのです。頂点まで上らなければ、是、としない人も居ります。現在の私のこころは、三百米でもよろしいが、そこで世界を見晴らせば、それで「是」としているのであります。あなた(善川)の仰しゃることは、論理的であります。私自身もまだ上に行かねばなりません。しかし、一番上に居られるのは神が居られる。神にまで至るそのエレベーターの操縦方法は、またむつかしいのです。私はそれを勉強しているのです。行けることは分っているのです。しかし、やや、エレベーターの操縦もむつかしくなっているのであります。
富山 こういってはなんですが、お釈迦様などに比べた場合に、自分の悟りは、それまで至っていないという心があるから、今そこにいらっしゃるということですね。
天台 まあそういうことでもありますが、エレベーターにも乗り換えがあるのであります。たとえば、普通の人間であるならば、四階までなら押せばすぐ上って行ける。しかし四階からはまた、これはたとえば乗客用ではなく乗務員用の専門カーに乗り換えなければいけないのです。その乗り換えの操作をまた勉強しなければいけないのです。そこで操縦方法にパスすれば、また六階、七階に上って行けるのです。また更に高層用のエレベーターがあるのです。これまた乗り換えなければいけないのです。そして神の世界に至るエレベーターがもう一つあるのです。これも乗り換えなければいけないのです。
そういう意味においては、私は先程から、エレベー夕ーということを申しましたけれども、このエレベーターも単純なエレベーターではないということも言えるのです。ただ、エレベーターはあるのです。四階までなら普通の人なら行けるんです。あるということを信じ、その操作を、簡単な操作を知れば四階までは行けるのであります。また四階から乗り換えるのです。中層用エレベーターがあるのであります。そしてその上の高層用エレベーターがあるのです。
善川 そうすると、あなたもそうですが、あなたと一緒の処に居られる方がたも、次の階へ上る勉強をしておられるというわけですね。
天台 そうです。
善川 つまり実践問題について、そのテクニカル・マターーについての研究、修練というものについて……。
天台 そうです。
善川 そういうことは、具体的に言えば、更に上段階の教師といいますか、そういう方々のご指導を受けながら勉強するのでしょうか。
天台 ――そうです。われわれも、われわれの上にある世界の人びとの教えを聴きながら勉強しているのです。人間は本来十階建てで造られております。その十階まで極めたとき、即ち、本来、神から岐れて来たわれらでありますから、神である自分自身を如実に自覚する時が、十階に至るときであります。まだ神である自分自身にまで自覚が至らないときには、最上階まで上がれないのでありますが、本来は十階建ての建物であり、われらが建物として与えられているのです。それらの建物に住んで居るのです。本来そのような建物として造られたものであるから、われらは転生輪廻、或は地上界、天上界の生活を通して、この一階から二階、二階から三階、或は十階までもですね、与えられたものすべてを使いこなせるようになりたい。本来あるべき゛相(すたが)゛に還りたいという念いでわれわれは生活をしておるのであります。
私も地上生活を永くやっております。転生輪廻も何度もやりました。そして私は本来の自己に近づきつつあります。しかし、まだ八階に居ります。もう一つのエレベーターの乗り方を勉強しなければいけないのです。本来すべて使えるはずなんです。私も知っております。もう一つエレベーターがあるのです。これに来りたいのです。来ろうとして居るのです。訓練をしております。
富山 つまり、そのエレベーターのボタンというのは、自分の゛心゛であると思うのですが……。
天台 そのとおりであります。
6.地上への転生は進化の早道
富山 その、たとえば技術という言葉を使ってはどうかと思いますが、そのためには地上に出て訓練というか、心の持ち方を修行する必要があるのでしょうか。
天台 われらが世界でも訓練はできるのですが、その効果は大きいというわけであります。
善川 地上に出た場合には魂の進化の効果は大きいというわけですね。
天台 そうです。大きいのです。というのは、例えば、八階なら八階に居ますと、余りエレベーターに乗らないものですから、エレベーターの乗り方を忘れてくるのです。しかし、生れ変ってくるということは、この地上に生れるということで、エレベーターに乗って一旦一階まで降りるということなのです。一階まで降りて、一階に住みながら八階に還る方法というものを、一生懸命練習しているのです。そして地上で死んで一階から八階まで還ってくるのであります。そのときに、そうだエレベーターは、こういうふうにして乗り換えてくるんだったなあと、われわれはそのときに悟るのであります。そのときに、その練習を積むことによって、更に上へのエレベーターのことに気が付いてくるんであります。ずっと同じ世界に住んでいると、エレベーターを忘れてくるのです。そのエレベーターの存在を知らしめるために、われわれはまた地上に生れてくるのであります。ところが、上に還って来ないで、間違って下のエレベーターのボタンを押して、地下に降りて行く人も居るのです。これが地獄に行く人達なのです。地下には倉庫があります。倉庫も必要であります。美しいオフィス用のピルだけではないのです。その下には倉庫もあれば、いろんな物置もあるんです。物置を自分が住んで居たところだと問違えて、物流に入り込んで住んでいる人が居るんです。彼らは場所を間違えているんです。魔でもなんでもないんです。サタンでもなんでもないんです。彼らは住家を間違えておるんです。本来上の世界に還って来なければいけないのに、間違えて物置の中へ入り込んでしまって居るのです。場所を間違える、この間違い、これを迷いといってもよろしい。本来あるべきところに居ないということ、本来あるべき゛相(すがた)゛でないということ、場所と時とを取り間違っているということ、それそのものは悪いものではないのですが、とり間違えということによって起る現象が迷いであり、迷いの姿が魔なのであります。地獄霊たち、魔たちは、本来あるべきすがたを取り違えているんです。それが迷いであり、魔であるのです。悪でもなんでもないのであります。本来、神の子であるにもかかわらず、そのあるべき相(すがた)、というものを取り違えているのです。本来、見晴らしの良い世界に住んでいるべき人であるのに、間違って物置の中に入っているんです。地下の物置、真っ暗であります。地下一階、二階、三階に居るんです。彼らは真っ暗なところへ降りてしまったんです。エレベーターの上へ昇るボタンを、下へ降りるボタンと押し間違えて、下へ降りてしまったのです。着いたエレベーターのドアが開いて出たところが頁っ暗な世界だったのです。彼らには眼が見えないんです。手探りでいろんなものを探っているんです。手当り次第に、いろんなものに手を出してくるんです。あなたに時々まとわりついてくるのも、そうなんです。彼らは、暗い世界に居て視えないんです。よく見えないんです。よく見えないから触るものを一生懸命掴もうとしてくるのです。彼らが悪いわけではないのです。見えないんです。いったん出口から物置に入ってしまったら、元出たエレベーターがどこにあったか、一生懸命手探りで探しているのです。エレベーターを探して見つけて、ボタンを押せば帰って来れると思っているんですが、頁っ暗な世界を手探りで這い廻って探しているんです。可哀相な人たちです。
富山 ―それならば、光を点ければいいんじゃないかという気もするんですが……。
天台 物置は物置としての役割があるんです。地下の倉庫は倉庫としての役割はあるんです。
富山 つまり、一階が明るくなれば、その光が地下にもおよぶというわけですね。地上界へのそのボタンが見つけられるということですね……。
天台 まあそういうことも言えます。そういうふうに言ってもよろしいんです。というか、地下に住んでいる人たちは、せいぜい一階の世界までしか見えませんから、一階の存在しか認識できないのです。光が射してくるあたりが、一階であります。
7.光の天使の活動エネルギーは霊太陽
善川 お伺いいたしますが、光といい、あなた方の活動の原動力というものは、すべてエネルギーだと思いますが、あなた方の心的生活エネルギーは、何処から供給されているのでありましょうか。
天台 神、そのものがエネルギーであります。われらは神のエネルギーの岐れたものであります。われらのエネルギーは無限であります。
善川 無限ではありましょうけれども。
天台 不増、不滅であります。
善川 無限ではありましょうが、その時点、時点において、或は定期的に補給されているというのではないでしょうか。
天台 無いです。不増不滅であります。
善川 ではありましょうが、たとえば一転して対照的な状況下にある地獄界に堕ちている者たちのエネルギーは、一体何処から供給されて生きているのでしょうか?
天台 エネルギーという言葉にあなたはひじょうな多義性を与えております。あなたのエネルギーという意味は違うのであります。生命力という意味のエネルギーと、活動源という意味でのエネルギーと、いろんな意味があるのです。生命力という意味でのエネルギーを私は語っているのであります。このエネルギーは不増不滅であり、元からあるものであり、決して消えないのであります。なぜなら、神から与えられたものであるからです。あなたの言っているものはまた違うものだと思います。
善川 私の言っているのは活動のエネルギーです。
天台 それは、例えばこの地上生活をする上では、食物を摂取することが必要だという意味でのエネルギーであります。そういうことですね。
善川 そうです。
天台 天上界には、霊界の太陽というものがあって、われわれはその光を受けております。
善川 その「霊太陽」の光を多く受けるものと、少ないものとの享受差というものがあるのではないでしょうか。
天台 ――そうです。というのは、霊太陽、に接している時間、或は面積といってもよい、時間といってもよいが、長く接しているものと、そうでないものとがあるのです。たとえて言うならば、太陽は十階の高さにあるんです。十階に居る人は正面から太陽の光を受けます。しかし、九階、八階、七階と降りてくると、太陽の光は斜(ななめ)に射してくるのであります。一階になってくるとかなり傾いてくるのであります。地階になると全く届かないのであります。