目次
1.未来への視点
2.念は具象化する
5.希望実現の法則
6.手段・方法・時期
7.待ちの間の蓄積
1.未来への視点
「正念」、正しく念ずるということの意味は、そう簡単にはわからないのではないかと思います。私の限られた範囲での勉強で仏教書などを見ても、この「正念」の意味が真にわかっている人、看破している人はいないと思われるのであります。言葉の意味にとらわれていて、ほんとうの意味での「正念」とは何かがわかっていないのです。それは心の作用の、さまざまなあり方について実体験している人が、「正念」を語っていないからです。心の作用についての実体験をとおさずして八正道を語り、「正思」とか「正念」について話をしても、そのほんとうの意味はわからないのです。
私の話を聞いたり本を読んだりしても、それを単に受け入れているだけではわかりません。それを実践に移し、実体験することによってはじめてわかってくるのです。
この「正念」について、私がこれから述べてゆく内容は、ある意味で、従来の仏教的反省を離れた部分となります。「正念」のなかに、もう少し積極的な内容を盛り込んであるのです。それは、『釈迦の本心』や、『太陽の法』などにも少しは触れておいたと思いますが、この「正念」の位置づけとして、「未来に対する心のあり方」という考え方も取り入れて、まとめあげてあるからです。
この考え方を入れておかないと、「反省からの発展」という思想につながっていかないのです。反省というものを、単に過去に対する「悔い改め」ということだけに限定していくと、「反省から発展へ」という考えは出てきません。反省そのもののなかに、実は発展への芽がなければいけないのです。
したがって「正見」、それから「正語」と反省をし、さらに「正業」「正命」、そして「正思」「正進」と進んできたわけですが、こうした自分の心を明瞭化し、そして心の汚れを取り除いていくという作業を終えたあとに、未来に向けての布石というものがなければならないのです。
この転換点が、実はこの七番目に出てくる「正念」であると考えていただきたいのです。そしてこの「正念」の部分が特に愛と関係があるとするならば、それは他者との積極的かかわりというところに眼目が求められるでしょう。
念というのは自分の内側から外に向かって発射するものです。したがって、この念というものは、少なくとも他の人の人生に、何らかのかかわりを持ち、必ず影響を与えるのです。したがって、この念というものの性質および内容について考えることが、じつはユートピアづくりということとひじょうに関係があるのです。この点を忘れることはできません。反省のなかに、積極的な未来づくり、あるいは社会づくり、国づくり、また人間関係づくりのいちばんだいじな部分が入っているのです。
2.念は具象化する
そこでこの「正念」ということについて、さらにくわしく分析を加えていきたいと思います。この「念」とはいったい何であるかということです。
人間の心のなかには、いろいろなものが去来いたします。この去来するもののなかで、ひじょうに強烈なイメージをもって描かれるものがあります。強烈なイメージで出て、そこに心が止まって、そのことをずっと念い続けるものです。
このように念ずると、たとえば、ある人が私のことを念じ続けると、その人の顔が私に見えてくるのです。一定時間以上念いを集中すると、必ず相手に通じます。これはよい念(おも)いでも、悪い念いでも同じように通じてきます。それほど念には物理的な力があるのです。ただ、たいていの方はそれほど敏感でないために、それがはっきりとはわからないのですが。
念を集中すると、その人の顔が見えてくるということはどういうことだろうか、ということを考えてみましょう。
これは霊言集のなかでカントが、「ここにコーヒーを飲むカントあり、かしこに雌牛の乳を搾るカントあり」と言っているように、念いによっては、自分というものがある意味で分化したり、分身をつくっているのと同じことになるのです。その人は空間的に私のそばにいないにもかかわらず、目の前に姿が見えてくるのです。これはきわめて面白い現象です。魂が抜け出ているかというと、抜けているわけではないのですが、その念いが具象化してくるのです。
これはこの世の世界でもそういうふうに見えるわけですが、あの世の世界に還ってくるともっとはっきりとしています。この念いというものがはっきり姿として出るわけです。ある人への念いをその人に向けると、霊の世界では姿そのものが目の前に出てくるのです。そして対話する形になりますが、現実にそこにいるかといったら、いないのです。これが霊の世界の不思議なところです。
この作用がこの三次元においてもある程度働いているのです。そして、いろいろな人びとにかかわりを持つようになっていきます。これが実は、古来『源氏物語』などの日本の古典のなかで、生霊として語られていたものの正体です。古典の勉強をされても、昔の方だからそういうことを語っているのだろうと考えられたかもしれませんが、人の念がくると、その念は姿・形をとったものとして明らかに現われてくるのです。
それは必ず他人と何らかのかかわりをもち、他人とのかかわりにおいて、自分自身の将来にも必ず影響を生じてくるのです。
3.幸福創造への積極的力
ここで、「念」の性質そのものについてもう少し考えてみたいと思います。
「念」の部分を押さえるということが、実はみなさんの幸福を創造していくために、いちばん大切なことでもあるからです。八正道の、前の六つの項目ができたとしても、この「正念」はかなり難しいところです。ここが押さえられないと、ほんとうは幸福の創造ができないのです。失敗をしては取り戻し、失敗をしては取り戻しということで終わってしまって、今後さらにプラスの人生をつくるということが難しくなってきます。
私は、「心を変えれば世界が変わってくる」ということを、折りにふれてくり返し述べています。〇〇〇〇〇に集えば、それで幸福になれるということではないということです。みずからを変革し、心のありようを変えれば幸福になれると言っているのであります。幸福になるためのきっかけは求めてくる方にお与えしますが、それを掴(つか)む、掴まないは各人一人ひとりの問題なのです。
このことについて、もう少し具体的な話をしてみましょう。
私は多くの方がたの前に出て話をすることの多い日々を送っていますが、自分の顔を鏡で見ていると不思議なことに、時とともに次第に恵比須顔(えびすがお)になっていきます。なぜ、そういうふうな恵比須顔になったのだろうかと、自分で考えますと、栄養がよかったということもありましょうが、そのような物質的なものだけではないと思うのです。
私の心の歴史のなかで、どこかで転換点がやはりあったのです。霊道を開く前後のことをふり返って見ると、この霊道を開く前の数年というものは、きわめて繊細でありました。人の言葉なども何年も心に突き剌さっているほど繊細でありました。二年たっても、三年たってもそのときの恥ずかしい思いとか、悔しい思いとか、残念な思いというのがバラの刺みたいに剌さって、現在ただ今のように思い出されるという、実際にそんな体験をしておりました。
そして、文学青年気取りでありましたので、それをいいことだと思っていたのです。そういう繊細な部分、魂の奥に食い込んでくるような悲しみみたいなものが、人生を芸術化する一つの方法のように思っていたところがありました。いろいろなものが剌さって、ジワジワと血が流れていくような、そういう気持ちがありました。
霊道を開いてからも、繊細さということでは、以前より、いっそうすごくなったかもしれません。いろいろな人の感情がストレートに伝わってくるようになりました。そして反省をすると、もちろんいろいろなくもりは取れましたが、次第しだいに自分の暗いところ、間違っていたところがあらゆる角度から見えてきて、抜け出せなくなっていた時期もありました。自己反省をしていけばしていくほど、いろいろなところが気になってくるのです。そして、変えがたい自分ということに気がついてくるわけです。
4.念の方向性を変える
しかし、あるところでそれを切り換えたのです。それは、天之御中主之神のお言葉が転換点であったように思うのですが、「結局、おまえは何を欲せんとしておるのか。」ということを、天之御中主之神は強烈に私に問うてきました。「自分の罪を責め、悪を責め、自分が至らないということだけを認識するために、生きておるのか。それともおまえはどういう人生を心に描いているのか。未来を開いていきたいのか、いきたくないのかはっきりしろ。幸福になりたいのかなりたくないのか、人を幸福にしたいのかしたくないのか、はっきりせよ。それが出発点である。」と言われたわけです。
そう言われてみると、自分の人生についてそれほどはっきり考えたことはありませんでした。そしていろいろなことに気づく繊細な心というのをふり返ってみると、自己憐憫(じこれんびん)に陥っていた自分に気づいたわけです。そのような方は、読者のみなさんのなかにもそうとう多いはずです。自分の失敗とか、欠点とか、そうしたことがいつもグルグルグルグル回っていて、自己憐憫に浸っている方は、おおぜいいます。そしてその渦のなかから出られずにいるのです。その自己憐憫の習性を愛して、自分がかわいそうだという気持ちに浸っているならば、絶対にそこから出られません。そうした自己憐憫の渦のなかにある人は、決して幸福になれないし、ましてや他人への愛など出せるはずがないのです。自分のことで手一杯でありますから、他人への関心もなくなっていきます。
そして、なぜ自分がこんなに恵まれないのか、不幸なのかと思い続けるわけですが、じつはその不幸に落とし込んでいるのは、自分自身なのです。自分自身にそういうかわいそう、かわいそうという自己憐憫的な気持ちがあるのです。このかわいそうという気持ちは、潜在意識に働きかけ、自分をさらに惨めな境遇に落としていきます。そして、他人から悪口を言われたり、被害を受けたりするような環境をつくり出していくのです。
したがって、自虐的(じぎゃくてき)な気持ちがあれば、必ずそういう環境が出てきます。自己卑下的に生きていれば、途端に人からからかわれたり、バカにされたりしはじめます。自然自然にそういうものを呼び込んでくるのです。そしてその責任はけっして他人にあるのではなく、自分自身にあるのです。自分自身にそういう不幸を愛する傾向があるから、そういうものを招くのです。
これは、ひとつの念であり、その念の方向が違っているのです。これを切り換えないかぎり、"幸福になれない症候群"として生きていくしかありません。あなたは今どういう人生を希望しているか、これをはっきりさせ、生き方を切り換えなければいけないのです。この念を確定しないかぎり、逆の方向へ行ってしまう人があまりにも多いのです。いくら助けようとしても、いくら励まそうとしても、下へ向かって進んでいく人はどうしようもないのです。不幸を愛している人は救いようがありません。このような人は、神も仏も救うことができないのです。なぜならば、これは心の法則であり、その人の念が求める方向へどんどん向いていくからです。
5.希望実現の法則
① 幸福への希望
ここで、「幸福への希望」ということについて話します。
「幸福への希望」というのは何でしょうか。要するに「こうなりたい」と念うようになればいい、ということです。そして、「こうなりたい」と念うものが正当であり、そのとおりになっていけばいいのですが、なかなかそうはならないと多くの方は思うでしょう。そして、希望実現の話はちょっと聴いてもすぐに忘れてしまいはしませんか。やはりあれは特別な人にだけあることであって、自分には関係がないと思ってしまうのではないでしょうか。
英語にはwishウイッシュ)とdesire(デザイア)という言葉があります。これは「こうなったらいいな」というときの言葉です。「こうなったらいいなあ、できたらこうなってほしいなあ。」というのがwishです。desireになるともっと切実です。「こうなってほしい、いや、なってもらわねば困る。」というのがdesireです。実は、ここが希望実現においてのポイントとなります。この「思い」と「念」を分けるところがポイントなのです。desire(念)にならなければ実現しないのです。wish(思い)で「こうなったらいいな。」と思う波長を出しても、それを邪魔するものも三次元的にはいろいろとあるので、そういうものにぶつかると、方向が変わってしまうのです。
たとえば、高級車で前進して行く途中に岩があるとします。岩にぶつかったらどうなるでしょうか。岩もちょっとは動くでしょうが、高級車もはね跳ばされるでしょう。そしてまた岩にふれただけでも、方向が変わるでしょう。このようなもので、こうしたらいいなあと思っていても、その思いが障害にぶつかってしまって、それより弱ければ実現しなくなるのです。多くの希望というものは二つぐらい障害にぶつかるとだいたいあきらめてしまうのです。これは、大多数のみなさんの希望がそうです。
ところが、この希望がdesireのほうになってくると、いわば戦車のようなものです。岩に当たっていっても動かなかったら、大砲を撃ち込んで破壊してしまいます。そして進んで行くのです。戦車になれるようなら希望は実現するのです。「高級車だから、当たって傷つくと困る」と思っているようでは、障害は超えられません。このように、希望が実現するかどうかは、自己イメージの強さとひじょうに関係があります。
ですから、この「正念」では、幸福になりたいと、もしほんとうに思うなら、自分が高級車のままでいるのか、戦車になるのかが分かれ目になります。戦車ぐらいになれば、岩を押し退けていくし、岩が動かなければ砲弾を撃ち込んで岩を破壊してしまいます。ここまでいけば、道が開けないわけはありません。
幸福になりたいと思っても、表面で思っているだけでは絶対になれないのです。表面だけで思っている人は、いくらでもいるけれども、その心の底においては、ぶつからないのがいちばんということで、逃げてしまっている人がひじょうに多いのです。
② プライドを捨てる
この、傷つくのは困ると思う原因は何かというと、やはりプライドのところです。自分が高級車だというプライドです。前へ進みたいけれど、傷つくのはいやだと思うと、回避ということを始めます。傷つくことを恐れ、問題との直面を恐れるのです。そのとき、いちばん簡単なのは回避です。対決しないで逃げていくことです。本当は何かを希望していて、その希望を実現したいと思いつつ逃げるという傾向です。こういう傾向のある人は七割以上です。七割以上の人が傷つくことを恐れる、高級車のような思いに終わっているのです。
では、みずからの念いを戦車にまでするには、どうするかということです。
一つには、光明思想です。反省法のなかに光明思想を入れるとすれば、この「正念」のところに入れるべきなのです。ただ光明思想を、にわかにやってもうまくいかないという人は、大勢います。これは、多くの場合、思いが空回りしてしまうのです。wishの段階で終わってしまって、desireまでこないのです。「断じてやる。」というところまでくればよいのですが、たいていの場合、そこまでいかないで、途中で腰砕けになります。そうすると信じられなくなっていき、そして次第に、また不幸を愛するようになってしまうのです。
光明思想を実現していくためには、腰を入れなければ駄目です。腰を入れずに、口先だけや、頭のなかだけで光明思想を思っている程度では、現実の問題が起きたら、回避してしまうのです。やるならほんとうに腰を入れて当たっていかないかぎり駄目なのです。プライドなどにこだわっていては駄目です。実際自分が何を実現したいのか、はっきりさせることです。やりたいなら、やらねば駄目なのです。プライドを捨て切れない人は弾(はじ)けるか、回避するかのどちらかになり、けっこう心の内では元のアバラ屋を愛していることが多いのです。
③ 自己信頼
では、どうすればdesireのほうが出てくるか、ここがだいじなところです。心の深いところから切実に、なぜその願いが持てるのか、なぜ切実にここまでやりたいという気持ちが起きるのか、これは、その人の向かうべき方向、理想というのがいったいどこにあるのかということと、ひじょうに関係があります。あなたの理想はいったい何なのか。もし木の葉が池のなかで漂うような、そんな生き方をしているならば、その理想に達することはほとんどないでしょう。けれども、激流のごとく押し流してゆく、ぶち破っていくという気持ちがあるならばできるでしょう。
ここで、あなたが自己信頼をしているかどうか、ほんとうに自分を神の子だと思っているかどうか、自分の核の部分には金剛石がある、ダイヤモンドがあるということを信じているかどうかを、試されるのです。自分はもう結局ダメな人間だなどと思う人には、絶対にこのような、「正念」による自己実現はできないのです。
心の底の底の部分で自分は神様に愛されているという自覚を持っていることがだいじです。そして、自分は大いなるものとして、世の中の役に立っていきたいという気持ちが、ほんとうに心の底から出るかどうかです。それが出ない人は、どちらかというと、まわりから与えられる人生を生きてきたはずです。よくふり返ってみてください。他の人から施しを受けて生きてきたはずです。親切をしてもらって、それでまだ足りないと不満を言い、不平を言い、愚痴を言う。こういう人生を生きてきたのではないでしょうか。
しかし、ほんとうは心の底から人びとを愛したい、与えたいという気持ちが出てこなければ嘘です。その時にはじめて、力強い人生を生きていくことができるのです。
④ 念の方向性の点検
自己実現は、ただ強烈な念を持てばいいというだけのものではなく、方向性の問題がもう一つあります。「念」の世界というのは実現性がありますから、間違った方向でも確かに念ったとおりに実現するのです。したがって、この方向性というものがきわめてだいじになってきます。
「念」による自己実現をするときに、どうしても考えてほしいことは、これで他人を縛ろうとしては絶対にいけないということです。自分の道を開くために、他人の人生を自分に都合のいいようにねじ曲げようという考えは、絶対に起こしてはいけません。これは間違いです。自分なりに目標設定をして、こういう目標を達成するためには、あの人がこうならないかぎり駄目だと思うような考えでの自己実現では危険です。これは「念」が「害」になる自己実現だからです。こういうタイプの自己実現は間違えば地獄です。間違わなかった場合、裏側です。これは、はっきりしています。希望実現の結果、他人を不幸にしていけば地獄行きです。他人は不幸にしないまでも、自分の都合のいいように人を変えていこうという形で念を使い、道を開いてきた人はかならず裏側に行きます。
なぜでしょうか。それは、そこに愛がないからです。愛が欠けているからです。そのような自己実現は自己愛であって、ほんとうの与える愛や、利他の愛ではないからです。他人を害する方向で自己実現をした結果、称賛を得ることはあるでしょう。しかし、これは天狗や仙人の世界です。愛があるかないか、こういうところで、裏と表に分かれるのです。表側は、他の人にほんとうによかれと思って自己実現をしていく人の集まりですが、裏のほうは自己発揮に燃えている人たちの世界なのです。その結果、いろいろな超念力の世界に入っていきます。これは限りなき自己愛の世界です。この点を間違えないでいただきたいのです。
6.手段・方法・時期
では、一定の目標があってそれを達成するときにどうするかです。たとえば取引先と新たな商売を始めようとしているとします。相手側の担当の課長は、オーケーと言ってくれている。上のほうの人もどうやら悪く思ってはいないが、部長というのが駄目である。どうしてもこの部長をどうにかしなければならない、ということで、その人をとにかく強引にでも説得する。あるいはそれができなければ死んでくれというような念いでやった場合、こういうのは間違っています。
ではこのときに、人間として考えるべきことは、どういうことかということですが、目的というのがひじょうにはっきり固まっていったときに、手段・方法ということが「正念」のいちばんだいじなところとなります。この手段・方法、それから時期、この三点がきわめて難しくなります。
もちろん、手段も方法も時期も限って、そして、断行して成功する人はいます。しかし、そういう人はある程度の実力がある人です。成功体験があって八割、九割は過去実現してきたという自信がある方はそうなりますが、へっぴり腰でこれをやった場合にはたいてい失敗します。
そこでこの手段・方法・時期の問題が出てくるのです。谷口雅春先生もこのへんについては、かなりくわしく語っておられますが、これは実は霊的自己実現のいちばん核の部分だからです。
あまり抽象的な話をしてもわかりにくいので、もう少し具体的な例を引いてみます。
去年の八月ごろだったと思いますが、私の家がだいぶ手狭になってきました。こういう物書きの仕事ですから、ある程度本を置く場所がないと困るのです。そこで高橋信次先生がひじょうにめんどう見がいいものですから、大きな家に移してくれると言ってくださいました。「君はしっかり働いているから、僕の本も毎月一冊かあるいは遅くとも二か月に一冊は出してくれるだろうから、大きな家に必ず移してあげる。」とおっしゃいました。
それで、勤勉に本を出していたわけですが、九月ごろでしたでしょうか、思いがけず大きな家があるという話が出てきたのです。それは、だいたい私が希望しているぐらいの広さでした。そして、幸いなことに谷口先生がお勧めしてくださるように、庭も見えるかなり大きな家でした。そして、仕事にも都合のいい場所にあるので、これはいいと小躍りしたのです。ところが話がある程度進んだ段階で、家主のほうから断ると言ってきたのです。なぜ困るかはっきりとは言わないのですが、どうやら調査した結果、恐ろしそうな団体の主宰者じゃないか、というのが原因らしいということがわかりました。
それは地上の人にも自由意志というのがありますから、天上界のほうで家を探してくれても、どうもそういう団体は恐ろしそうだと思われたらそれまでですから、しかたがないので私はあっさりと、「ああそうですか、止むをえないですね。」と言い、また次が出てくるだろう思いました。こんなところで強引に押し込んで、取りあげてもしようがありません。
そして十月ぐらいになりますと、またもう一軒出てきました。今度は前のところより場所的にいいところが出てきました。私は夜考えごとをしたり、瞑想をしたりするものですから、風景のいいところが好きなのです。見に行って、これはいいと思いました。私が探しているのはかなり大きかったので、その家一軒では無理だったのですが、ちょうど二棟続いていて、借り手がないと思って、真ん中から仕切って二軒で貸すつもりでいたらしいのです。裏には木が生えて、庭がありましたし、近くは大きな公園でした。これは実にいいということで喜び勇んで、話は進めていたのです。ところが、家主が某国立大学の教授で、応用物理か何かをやっていて唯物論の最先端を行っている人だったのです。面談とやらをさせていただいたのですが、向こうは理学博士でもう霊などこれっぽっちも信じていない人でした。多少話をしたのですが、どうも色よくないのです。つれない反応でありました。
やはり、これはもうだめだな、と思っていました。そうすると、十一月の半ばごろになりまして、もうひとつ出てきたのです。私はその二、三日前にダイヤモンドの家の夢を見ました。三角形のダイヤモンドが散りばめられた家の夢でした。その後、また話が来て、それが今住んでいるところなのですが、ほとんどガラス張りに近いような家で、三軒のなかでいちばんいいのです。大きいし、庭もあるし、公園も近いし、そして安かったので、ビックリしました。それまでのところの、たぶん半額ぐらいの値段になった家です。
なかに造りつけの本棚をだいぶ造りましたが、これも私の希望どおり、家のなかに蔵書が一万五千冊ぐらい置けるほどなのです。だいたい希望どおりになりました。この期間が二か月です。九月から始まって十一月、二か月ずれました。そして、その家を契約した後に、前述の某国立大学の教授が、一か月たってから「借りてくれ」といってきたのです。「いろいろと調査した結果、実に本がよく売れているようなので、それなら貸してみたくなった」というわけです。商売気を出して「値段はぐっと安くしておくから借りてくれ」と言ってきたのです。しかし、二棟の家では、不便だったと思いますし、片方を書庫にしようと思っていたのですが、新しいところのほうが、もっと便利になりましたし、値段も安いし、広いのです。まことに不思議です。
私はそうなると思っていました。この教授は毎日新聞をとっていると、霊感でわかったのです。その十二月に毎日新聞に広告が五段抜きで四本でました。百二十万邦突破ということで出たのですけれども、それを見たら貸すと言うだろうと思っていたのです。もし十一月に広告が出ていたら私はその家を借りていたでしょう。しかし、結果的に、もっといいところに移れて、その家は借りなくてよかったわけです。このようなことはよくあるのです。
7.待ちの間の蓄積
この例は、霊的自己実現をひじょうに明確に示しているところであろうと思います。
まず最初は、理念として降りてきます。それが地上に落ちてくる過程でだんだん具体化してきます。熔岩みたいに流れていたものが固まってきはじめるのです。そのさいに、岩みたいな障害物があります。これは地上の人間の、評判の悪い、いわゆる自由意志というものです。これによって邪魔が入ることもあります。そして、結果的には固まってくるわけですが、最初のこの理念は、そのとおりか、あるいは何らかの違った形で固まってきます。そして、その人の念いがひじょうに神のほうに向いていれば、もっとよい形で出てきます。念いが足りなければ、ちょっと悪いぐらいで出てくるかもしれませんが、こういうものなのです。
三軒の家の話をしましたが、最初の家が絶対いいと思って、絶対ここを手に入れるということで、自分の計らい心で私が念を集中したらどうなっていたでしょうか。家主が「どうやら宗教みたいで恐い。」と思っているのを、「いや宗教ではない、科学だ、科学だ。」といって一生懸命説得して、ごり押しして、十万高く出すから貸してくれとまでいって交渉したら、どうなっていたか。その段階では後のことがわかっていませんから、そう願ったかもしれません。しかし、私は「まあ、また次が出るだろう。」と思って、一瞬で切り換えてしまいました。結果は前述のとおりです。この間のずれがせいぜい二か月程度でした。
このように時間についてはあまり限定はできないところが、どうしてもあります。多少地上の時間の流れが違うのです。そして、具体的な背景も多少変わることもあります。しかしほんとうに強く願っていて、それが神様の方向と一体となっている場合には、必ずいい結果が出てくるのです。ここがだいじであろうと思います。
自己実現の一つの例として記しましたが、腰を入れて、必ずいい方向に行くだろう、道は開けるだろうと思って、時間の限定を外して、退却はしないで、前進をしていく。そしてその間、自分の努力をしておくと、必ず道が開けてきます。
最初のところでつまずいてしまって、それでギクシャクしてはいけないのです。そんなところであわてるようでは、ほんとうの意味での自己実現は絶対にできないのです。腰を入れて落ち着くわけです。必ずそうなると思って待っていれば、そうなるわけです。
〇〇〇〇〇の発足自体もそうでした。私も五年近く待ちましたし、もう今は八年も経ってしまいました。これだけ時間がかかって、これだけ遅れているように思うけれども、その間必要なこともあったのです。私自身のいろいろな勉強や経験が必要であったと思います。その間はひじょうにイライラしがちなのです。道が示されているのに、どうしてできないのかということで、イライラしたり焦ったり、ここがいちばん苦しいところです。レールは敷かれているのですが、新幹線の速度では走れないというところです。鈍行で走っている辛さがあるのです。必ず前へ進んでいくのはわかっているのだけれども、辛い時です。ここのところが「正念」の、まさに正念場なのです。ここが堪えどころです。こういう時に腰を落ち着けてじっくりと前進していく姿勢、その間に蓄えをしていくということがだいじなのです。
後からその蓄積をもとにして、いろいろな構想を立てるともっと早くなってきて、取り返しがきいてきます。そういう意味で、やはり、基礎というものはひじょうに大事です。物事の判断でもなんでもそうですが、基礎知識と経験がないとなかなか見えないところが多いのです。そういう材料があるとひじょうにすばらしい展開になっていくことになります。
以上に「正念」についてのおもなところを述べましたが、ここがまさしくみなさんの幸・不幸を分けるところだということです。
したがって、まず考えていただきたいことは、自分のくり返し出てくる念いのなかに自己否定的なものがないかどうか。自己処罰的なものがないかどうか。あるいは、他人を否定的に、他人を悪人視するような見方がないか、他人を害したい気持ちがないか、ということのチェックです。
明るい心を持っていなければ、絶対に道は開けないのです。ですから「自分は駄目な人間だ、自分はほんとうに頭が悪い、自分はもう過去悪いことばっかりしてきた、自分はほんとうに失敗ばっかりする、自分はもう見てくれも悪い、頭も悪い、何もかも悪い、もうどうにもならない。」、こう思ったら幸福になれるはずはありません。そういう思いはやはり止めるべきです。そしてもっと明るい思いを入れていくべきです。「自分も神様に愛されているんだ。こんなに勉強しているのに不幸になるはずがない。もうちょっとの辛抱だ。がんばってみよう。」と思えれば、道は開けてくるのです。このがんばりどころがだいじです。心のなかに入っているもの、詰まっているものを入れ替えることです。
さらに、他人を憎んでいては、幸福になることは絶対にない、ということも言っておきます。他人を憎んだり、くやしく思ったり、妬んだり、そねんだりして、幸福になることは絶対にありません。こういう思いは捨てることです。誤った念は、努力して捨て去ることです。
8.忘れることの大切さ
ここでもう一つだいじなことを記しておきます。
真の意味で「正念」ということができるためには、忘れるということも大切な技法であるということです。これはひじょうにだいじなことなのです。いろいろな念いにとらわれて縛られるということは、実は自分の自己実現を妨げているのです。忘れるという技法を、大切にしてください。これもだいじな徳の一つです。都合のいいことだけを覚えていなさいというわけではありませんが、いやなこと、たとえば他人が自分を害したというような言葉、これを忘れる、これも愛の行為の一つです。
それから、自分自身をも許してやることもだいじです。過去の念いや行ないについて反省はできます。しかし、すでにしてしまったことを打ち消すことはできません。そのときに、自分がやれるだけのことをやったとしたならば、その償いの思いを出し、行為をしたと思うなら、自分をも許してやることもだいじです。このときに、どう考えるかというと、さらにすばらしい生き方をすることによって、償っていくという考え方です。過去に堀った穴を埋めるということばかりを考えないで、ある程度やるべきことをやったら、すばらしい人生を展開することによって、その部分は十分償わせていただく。こういう方向で生きることです。
この忘れるということを十分に使えなかった人は、「正念」において失敗をするでしょう。別の言葉で言えば、心の切り換えの早さということでもあります。心の切り換えが遅い人は不幸をひきずることになるということです。いったん起きてしまった事実、取り返しがつかない事実であるならば、これからすばらしい実績を出してゆくことです。そしてお返しをすることは可能なはずです。善い行為、善行というものは、必ず回り回って、いろいろな人のところへ届いていきます。過去の行為に取り返しがつかないなら、これからその五倍、十倍返してゆくことです。それによって埋まっていくのです。この忘れるという方法も覚えてください。
特に女性の方は、ここに注意することが大切です。女性の方は忘れるということが下手なのです。勉強のほうで記憶力がいいといいのですが、勉強のほうは駄目で、感情のほうだけ、やたら記憶力がいいのです。これは非常に困りものです。不幸のもとです。「あのとき、あなたはこういう愛の言葉を言ってくれたのに、今はそうでない。だからおかしい」、こういう論理です。「あのとき確かにこうプロポーズした」とか、「あのとき、あなたは日本一の妻だと言った」とか、「あなたは料理がうまいと言ってくれたのに、今は下手だと言っている」とか、「おまえは最悪だなどと言うのは、これは人間として許しがたい罪だ」とか言う奥様は、そうとういるのではないかと思います。これは、選択的記憶が逆の方向へ不幸になる方向へ行っているのです。
特に記憶力のよい女性を妻に待った方は、忘れさせる努力をさせないと、ずーっと恨みを持たれますので、忘れることはたいへんな美徳である、幸福の原点であるということを教えることです。
心の切り換えができないということが不幸の原因のひとつであるからです。不幸を生み出す方向での選択的な記憶力があまりよすぎるのです。女性は永く思い続けて、思いつめていく傾向があるので、どんどん忘れていくように心がけることです。
夫の努力としては光明思想です。過去を忘れさせて、「来年はきっといいよ。」と、未来への希望に持っていくことです。そうすれば家庭は円満になっていくことでしょう。