目次
1.方便としての奇跡
4.信仰あっての奇跡
5.三つの奇跡
6.奇跡は信仰の対価
(1988年12月5日の霊示)
1.方便としての奇跡
谷口雅春です。さて本章はどうやら、これでこの第四集の最終となる予定であるので、いちばん大事とも思える話をしておきたい。それは信仰と奇跡という話だ。どのような世界的な宗教であっても、そこにはかならず奇跡というものが起きてきた。これは厳然たる事実であると思う。
ではなにゆえに奇跡というものが起きるのであるか、これを考えてみたい。私も数多くの奇跡は起こしてきたと思う。その奇跡の体験発表も、おそらく数千、数万に及ぶのではないか、そのように思われるし、やはり病気が治るという奇跡が多かったのは事実だ。ガンが消滅したり、その他さまざまな病気が治ってしまったという、そういう奇跡が数多く起きた。
それ以外には経済的困窮(こんきゅう)から立ち直った人、こういう者もいたし、また夫婦問題等、男女の問題で苦しんでいた人が神想観によって立ち直った例であるとか、こうしたことは数限りない。しかし生長の家でいちばん有名な奇跡は、もちろん、『生命の実相』という本を読んで病が治るという奇跡であったろう。これは相当の数にのぼったものと思われるし、現実にガンが明らかにレントゲンに写っていたものが、忽然(こつぜん)と姿をなくすということがよくあった。
まあ、これは、現代人にはひじょうにわかりにくいであろうし、病気を治すというとすぐ誤解をする人もいる。いろいろな宗教で病気治しが多いので、またその類(たぐい)であるかと言われることがあって、私としてもたいへん残念なところがあった。ただ、私の生涯を、その奇跡と法理論との両面から見てみるとするならば、いくつかの要素がその中に加わっていたことだけは事実であると思う。
一つはたとえば、その病気が治るといった健康面、医療面での力があったこと。もう一つは哲学的な傾向、そういう思想体系が築ける傾向があったということ。もう一つは経済面においてかなりの力があったということ。無限供給の原理を初めとする新たな経済原理への道を開いたこと。さらにまた政治方面にも関心を持ってかなりの意見を述べたこと。こうしたこともあるし、オーソドックスな形としては、最後に神想観を初めとする異次元世界との交流法を教えたこと。
こうしたことをあげてみると、すぐ五つ六つ、特長とも言えるべきものがあがってくると思う。これらの広範な教えが、谷口雅春の思想を構成していた考え方であったのだ。この中でとくに生長の家を有名にし、伸ばしたものが何であるかというと、もちろんこの病が消えるという部分であっただろう。それと無限供給の部分であったろう。こうしたものはたしかに方便にしかすぎない点は否めないところもある。もちろんこれが私の真意というかほんとうの目的ではなくて、あくまでもこれは正しい神の教えが地上に広がるための方便にしかずぎない点はあっただろう。
これは教典の中にも、そういう方便品編というのがあって、そして火宅の人の例えがあったのを憶えている人もいるだろうか。それはこういう話であった。
ある長者の家に子供が大勢いて、家の中で遊んでいたのだが、長者が帰ってくると火がついて家が燃えているのだ。それにもかかわらず、中にいる子供たちは遊びに打ち興じていっこうに出てくる気配がない。これで長者は困ってしまったわけだ。そこで方便として中にいる子供たちに呼びかけて、「外に出てきたらいろいろなおもちゃをあげる。」ということを言うわけだ。車であるとかね、今であればミニチュアカーであろうか、ミニチュアカーであるとか、あるいはお菓子であるとか、こういうものをあげるから出ておいで、という方便を使うわけです。
そして子供が焼けている家、火宅(かたく)だね、火宅の中から一人ひとり出てくる。出てきて、そして救い出すとどうしたかと言うと、ミニチュアカーのおもちゃを与えるのではなくて、ほんとうの牛車(ぎっしゃ)に乗せて、そして宝物をどんと与えて、「さあ、お前たちは、この宝物と牛車を与えるから、これに乗って一人前になっていきなさい。」と予想外の褒美(ほうび)を与えたということなのだ。
この時に、まあ、よくこれが方便の比喩(ひゆ)として使われているわけだけれども、火宅のなかにいる子供たちにね、火事のことをあまり言って、そして怯(おび)えさせても、彼らは萎縮(いしゅく)してもう出てこれなくなる。このままでは火が回って焼け死んでしまうぞとか、煙を吸い込むと死んでしまうとか、こんなことを言っても子供たちは恐怖心で身体が動かなくなってしまう。むしろそうではなくて、「おもちゃをあげるから出てきてごらん。」と言って、そして一人ひとりを外に連れ出した。こういうところに仏の巧みな方便というのがある、こう言われている。
生長の家の『生命の実相』を読めば病が治るというようなことを、あるいは「本来病なし」と言って病が治るというようなことも、やはりこの火宅の人の喩(たとえ)と同じだと考えてもよいだろうと思う。
実際に火に巻かれている人にとっては、まず命を救うことが先決であって、いろいろな説教をしても聞かないものなのだ。火の中にいる人に説教をしても聞かない。それよりまず救い出すことが大事、救い出してそして、それからりっぱな姿にしてやってから教えを説いたっていっこうに構わないわけだ。こういうことで何ごとも、物ごとには入り口というものがある。
また誘(さそ)い水というものもあるだろう。もう今は井戸もなくなったので誘い水と言ってもわからない人が多いだろうが、井戸の底から水を汲み上げるために、ちょっと誘い水というものを入れてやる、そうすると水が上がってくる。こういうことが言われている。これなども今の人には、なかなかわからないかも知れないが、こういう誘い水というのが昔はよくあって、井戸から水を汲んでも手桶一杯分だけの水を残しておいてやる。こういうことがあったわけだ。そしてそれを入れれば、次の人がまた水を汲み出すことができる。こういう誘い水というものをかならず残しておいてやったものなのだ。
このように病が消えたり、あるいは無限供給で経済的繁栄がもたらされるというものも、一つの誘い水であったと思う。とりあえず火宅の中から子供たちをひっぱりだすことが大事で、それからあと説教は二の次です。なぜ火事になったかとか、こういうお説教があると思う。留守の間になぜ火事を起こしたかとか、だれかが火をつけたのかとか、こうしたことを聞き咎(とが)めることもできるだろうが、命をまず救うことが大事ということなわけです。
このように宗教においては、かならず方便というものがついています。その方便の一つとして奇跡というものもあるのだと私は思うのです。
2.日本神道における奇跡
日本でも明治以降、あるいは江戸時代の後半からもいろいろな教派神道がさまざまに出てきているが、これなどもそこそこの奇跡というものはみんな伴っていたと思う。若いころ私もお世話になったことがあるが、出口王仁三郎という師もたいへん奇跡の人であって、その人の動くところにはいつも奇跡があった。まあ、天眼通力もあれば幽体離脱もあれば、霊言、霊示、何でもできた人であったようだ。予知の能力もひじょうに優れていたところもあっただろう。ひじょうにスケールの大きな方であって、満蒙(今の中国東北地方からモンゴル方面)まで行って義賊のようになって遠征したかと思うと、急に日本に帰ってきては新たな活動をやったり、こうしたことをやっていたが、いずれにせよスケールの大きな人であったという感想は今もある。
そういう人には奇跡もずいぶんいろいろと起きたようだった。これなども一つの磁場を創り出すためには必要なことであったと思う。教祖はたんに頭でしぼりだした理論だけを説いているならば、人というものはそう多くは集まってこないが、奇跡のあるところには人はやはり集まってくる。私はそのように感じるわけなのです。
奇跡あるところに人が集まってくる、これは火宅の中にある子供たちにおもちゃをあげるよと言っているところにひじょうに近いだろうが、しかし神が地上に人を送り込んで、そしてみずからの教えを説こうとするならば、やはりそれだけの証拠を何らか与えるだろうと、そのように思えるわけです。
生長の家でも神想観という修法がありますが、この修法によって数多くの奇跡が現われてきたことも事実です。修法をやることによって実際に高級霊界と通じる人もいたし、霊視能力がついてきて神想観中にいろいろなものが見えてくる、そういう人もありましたし、声が聞こえてくる人もありました。未来が予知できる人もありました。こういう修法があって多くの人が霊的体験を積んだという実績があります。
これもその人その人の体質もあり、霊的経験もあるでしょうから、一概にすべての人にそういう奇跡が起きたというわけではありませんが、それにしても神想観によっていろいろな霊的現象が起きたことも事実ですね。
教祖自体が霊能力を発揮していろいろ見せるというやり方もあるが、やはり多くの者がそうした奇跡を共有できるというシステムがあるということは、ひじょうに大事だと私は思います。
生長の家では有名な招神歌(かみよびうた)というのがあって、これは『谷口雅春霊示集』の中にも載(の)せておいたからまた読んで欲しいと思うが、招神歌を読むと、かならず高級霊界からの反応がある。そして力が入ってくる。こうぃう経験を数多くの人がしたわけです。
私たちは地上に特別の関心があるわけではありませんが、地上から一定の作法にしたがった祈りを捧げられると、やはりそれなりの反応をしたくなるということは事実です。それはあなた方も、人に名前を呼ばれたらふり返るでしょう。そして「はい。」と答えるでしょう。同じようなものです。私たちも地上から一生態命名を呼ばれたらじっとしていられなくなって、何らかの反応をしたくなるのです。
そうしたことがあって、実際一定の修法を踏むことによって、実在界との交流ということが可能となってくるわけなのです。
3.キリスト教における奇跡
さて、その信仰と奇跡についてさらにくわしい話をしておきたいと思うのですが、どういう時に奇跡というものが実際起きているのかということなのですね。これがひじょうに大事だと思います。
こうしてみると、奇跡の起きる人というのは一定のパターンがあるのです。それはまず、心がひじょうに澄んでいること、純粋であるということ、そして神を信ずる気持ちが強いということですね、これがあげられます。あるいは奇跡が起きた時点においては、まだそれほどでない方もいることはいるのですが、それが奇跡となって現われた時に、以後情熱の人となって伝道する人もいます。こういう素質のある人には奇跡が起きやすいと言ってもよいでしょうか。
まあ、南ヨーロッパに有名なルルドの泉というのがあって、ごぞんじの方もいるだろう。私もアディントンという人の『奇跡の時は今』という本を翻訳して、そして日本教文社から出しているので読まれた方もいるかと思うが、このルルドではひじょうに奇跡が数多く生まれたわけです。そしてまったく足萎(な)えで立たなかったような人が、ルルドの泉に足を浸けたら途端に治ってしまったという奇跡の目撃例は、これは教会の公認としていくつもあげられていますし、有名な例としてはノーベル賞をとった科学者であるところのアレクシス・カレル博士が、このルルドの泉に行った時に、その眼前で奇跡が起きたということがありました。
実際に病人が目の前でみるみる元気になってしまった、そうした症例を見てしまったわけです。ノーベル賞をとったほどの学者がそれを発表したので、大きな波紋が投げかけられました。これなどもカレル博士に見せるために、天上界からそういう現象を起こしてみたのだと私は思いますが、実際すべての人に起きるわけではありませんが、やはりときどきそういう事実があるということですね。
そういう、急にガンが治ったり、足萎えが治ったりするような、そういう状態というのは、これは天使たち、とくに医療系団の天使たちが大きな力を与えているということなのですね。ほんとうにやろうと思えば、ひじょうに大きなところまで奇跡は起こせるようです。たとえばイエスの時にも死せるラザロが墓穴の中に三日も四日も入っていて、もう腐敗臭でも放っているかと思われるラザロに対して、イエスは「死するにあらず、眠れるなり。」と言って、「ラザロよ、起きよ。ラザロよ、出でよ。」と言えば、ラザロは包帯を巻いて出てきたわけですね。こうしたこともありました。
これなどはイエスがほんとうに奇跡の起きるルールというものを、十分に知っていたことを物語っていると思います。ほんとうに神の心にかなうことであれば、この世では不可能なことは何もないということなのです。
とくに肉体の病気を善転させ、そして健康体に還すぐらいのことは、これはきわめて初歩の奇跡であるのです。きわめて初歩の奇跡であるので、数多く起こす可能性が出てくると思います。
見えなかった目が見えたり、聞こえなかった耳が聞こえたり、歩けなかった足が歩けるようになったりするようなことは、いくらでも今後とも起きてくると思うし、この私の本を読んでそのようになったという方も、かならず出てくると私は思います。
4.信仰あっての奇跡
大切なことは、まずその奇跡というものを受け入れる心です。これが大切なのです。そうした奇跡が起きた時に、その奇跡を受け入れるだけの器がなければ、その奇跡は空しいもの、無駄なものというふうになってしまいます。それを受け入れるということがとても大事なのです。
それを受け入れるためには、どのような資質が必要でしょうか。これについていうと、まず疑い深いタイプの人、それから猜疑心(さいぎしん)の強い人、不幸感覚の強すぎる人、物質的軛(くびき)でいつも足をひっぱられていた人、こうした人には奇跡は起きにくい、ということが言えると思います。
とくに愚痴とか不満がひじょうに多いような人には、奇跡が起きにくいのです。奇跡が起きる人を見ると、むしろその逆です。愚痴や不満、不平が出て当然のような環境の中におりながら、まったくそれを気にせず、神への感謝をもって生きている。会う人にはいろいろと優しい言葉をかけ、笑顔を手向(たむ)けて生きている、こういう人が、実はひじょうに奇跡を受けやすくなっています。
もう一つの問題は、勉強をする人が数多くいるわけですが、勉強することによって用心深くなり、警戒心が強くなり、そして疑い深くなっている人がかなりいることです。これは奇跡を妨げるひじょうに大きな要素となります。奇跡といっても、やはり念の世界に起きるわけですから、それを打ち消すような念を持っているとなかなか起きにくい、ということは言えるのです。
したがって、こうした神の心にかなうような、そのような心を持って生きていくことが何よりも大事になっていきます。
ルルドの泉で奇跡が起きたといっても、水そのものに奇跡の要素があったとは私は思えないのです。そうではなくて、もちろんそこは聖地であるからさまざまな天使たちが降りてくるところだとは思いますが、その天使の意図と地上人の意図とが合致された時に、そのような奇跡が起きてくるのだと思います。
たとえば私のこの『谷口雅春・光はここに』にしても、あるいは前の三巻の本にしても、これを真実、谷口雅春の本と信じて、そしてその真理の言葉を味わい、実践する中に、さまざまな奇跡は起きてくるだろうと思うのです。経済的苦境から立ち直る人、肉体疲労から立ち直る人、病気が治る人、運命が好転する人、こういう人はいくらでも出てくると思うが、疑ってかかった場合には奇跡というものはまず起きません。疑いというものにはそれだけのマイナス要因がある、ということを言っておきたいと思います。
とくに、科学が台頭してきたことはよいことなのだが、科学が台頭してきて、その科学主義というのが一つの、また逆宗教を意味するところが多くていけないのです。学問が客観性を要求するからといって、だれでもが追体験できなければすべて偽物だというふうな考え方、これは方法論の罠(わな)にはまってしまった、そういうふうに言えると思います。
自分が体験できなければ納得しないというような人を、数多く創ってしまったというところに、科学のひじょうに残念な面があると思いますし、精神の優位、精神の高さ、徳性の高さというものの価値を、かなり引きずり下ろしたという意味で、科学はたいへんマイナスをつくった面があると思います。有用性が徳性にとってかわった部分が相当あるということですね。
けれども私はほんとうの意味で科学を実践できる人というのは、つねに神秘に対して心を開いていなければならない。そのように思います。たとえば魚の卵一つが孵化(ふか)して魚になる過程を見ても、ここに偉大なる生命の息吹があるということを、どうしても感じざるを得ないと思うのです。その生命の息吹を生命の息吹と見ないで、ただ物質がここで動いているのだとだけしか感じられない人の心境というものは、たいへん悲しい段階にある、そう言わざるを得ないと思います。
私が一体何を言いたいかと言えば、生命の神秘に対する畏敬(いけい)の念を忘れた人には奇跡が起きないということなのです。生命の神秘、こうしたものを認めない人には、なかなか奇跡は起きないのです。大学の教授などをやっている人の中にもずいぶん哲学的知識ばかり詰め込んだり、科学的実験ばかりに取り組んで、それ以外のものをまったく認めない人もいます。自分のやっていること以外を認めないタイプの人です。
こうした人のところに奇跡が起きるかというと、皮肉なことに、奇跡はこうした人のところを通り過ぎて行くのです。起きないのですね。まったく不思議ですが、これが一つの法則下にあるということを知らなくてはならないと思います。奇跡にも法則があって、その法則があるところ、成就していくということです。これを科学者たちはもっともっと知らねばならないと思います。
とくに逆の意味において、唯物的想念がどれはどこの地上を汚(けが)しているか、また奇跡が出てくるのを食い止める働きをしているか。奇跡が出る時にいちばんマイナスの要素は、これは他人による嘲笑、揶揄(やゆ)、批判、非難、こうしたものです。こうしたものによる精神的マイナスがあると、奇跡はひじょうに起きにくくなります。その人自身、奇跡の体験があっても、これを他の人に語ることによって嘲笑されたり、非難されたり、批判されたりすると、だんだん奇跡を語る勇気がなくなってきます。そして奇跡の現象が我が身にふたたび臨もうとしても、それを避けるという傾向が出てくるのです。こうした残念なことがあります。
奇跡を礼賛し、奇跡にすべてを委ねる、というところまでいく必要はないかも知れませんが、やはりそれがすばらしいことであるということを認める、そういう心境は持ってよいのではないかと思います。
5.三つの奇跡
さて私は今、一体どのような奇跡が今後起きてくるのだろうか、ということを考えるのです。
そうしてみると、この成り行きで考えてどういう奇跡が起きるかということですが、多分人間がかなり変化してくるというタイプの奇跡がいちばん大きいであろうと思います。
真理というものに触れてその人の心境がクラッと変わって、まったく別タイプの人間になってくる。そして向上心が篤(あつ)く、また人に多くの愛を与えられるような、そういう性格に変わっていくという、こうしたタイプの奇跡がいちばん多く起きるであろうと思います。
第二の奇跡はおそらくは、教えに触れた人たちが、さまざまな成功を収めていくということだと思います。その成功がたんに病気を治すということではなく、もっと広範囲なものに広がっていくでしょう。いろいろな事業なり、学問、学業なり、あるいは他の方面で成功を収めていくということがあると思います。こうした精神的バックボーンを得ることによって、新たな人生が開けていき、成功の人生が目の前に出てくるという、こういうことが実体験されるであろうと思います。
三番目に言えることは、おそらくは頭脳の中に、ある種の変化が起きているのではないかと思われるのです。この谷口雅春の霊示集のようなものを読み込んでいるということはどうぃうことかということですが、これは実相界、如来界からの直接の霊言を読んでいるわけですから、こうしたものを読んで、その教育効果がないはずがないのです。かならずある。そうして霊言集として出ているものを見れば、すべて偉人、天才たちばかりです。こうした者たちの書を読むということは、それ自体が脳細胞に大いなる変化をもたらすものであると、私は思うのです。
したがって今後数多くの天才たちが出てくるのではないか、ということが予感されるのです。幅広い領域において、こうした真理に触れて、天才が輩出するするのではないか。それが私が感じるところです。おそらくそうだろうと思います。
宗教界の天才のみならず、政治界の天才、科学界の天才、文学の天才、芸術の天才、いろいろな領域における天才が数多く出てくるのではないかと思います。これも一つの奇跡でしょう。
たとえば政治界においては、こうした真理を学んだ人が次つぎと大臣になったりする。あるいは科学者であれば、次つぎとノーベル賞の学者が輩出する。教育家であれば教育の効果をひじょうにあげる人が数多く出てくる。こういう、天才の出現という奇跡がおそらく出てくるのではないかと、私には推定されます。相当多くの霊的エネルギーが働いているので、天才が輩出するのではないかと思われるのです。というのも、天上界からの指導そのものが天才たちの指導であるので、それが地上の人の眠っていた才能を呼び覚まさせる、その方向を与えるということになるわけです。
地上にはさまざまな学問が溢(あふ)れ、思想が溢れ、宗教が溢れていますが、大切なことは、私は、人間知だけで書いたものがすべてではないということを知ることだと思います。このような百パーセントのインスピレーションで書かれた書物というのが、どれほどの値打ちがあるかおわかりでしょうか。今地上に出ている本の中で、百パーセントのインスピレーションで書かれた本というのが、はたしてあるでしょうか。
インスピレーションは多少入っているだろうが、そのパーセンテージは一体いかほどであるか、みなさんは想像したことがあるでしょうか。おそらく数パーセントか、あるいは一パーセントぐらいのインスピレーションしかないのではないでしょうか。世の人びとの本を書く技術についての研究は進んでいますが、いずれもインスピレーションを無駄にしていく方向に技術的に開発されているように思えてなりません。
私自身は、やはり天才を創るものは数多くのインスピレーションだと思いますし、天上界からのインスピレーションを受けることができる人こそ、真の天才だと思うのです。
秀才というものは、ある程度教育によって量産することは可能ですが、天才というものは量産することができません。天才とはまさしく神からの使者というふうにとられがちだからです。この神からの使者とも言われる天才は、天上界のインスピレーションを受けて、地上で偉業を成し遂(と)げるということが本質です。天才論は数多くあるけれども、その天才論を直接にとらえきっている者はいないでしょう。やはり天才とは、この高級霊界からのインスピレーションを受け取って、偉大な事業を地上にて興す人のことを言うのです。
そうしてみると、今後数多くの天才を出していくためにはどうすればよいかと言うと天上界からの啓示を受けられるような人を、数多く創ることであると思います。
では天上界からの啓示を数多く受けられるようにするにはどうしたらよいか、ということですが、まず私は次のことが大事だと思います。まず神を信じることです。これが出発点です。これなくして、どのようなインスピレーションも降りて来るとは思えないのです。まず神を信じ、信じ切ることだと思います。次はこの神の御業(みわざ)を信じることだと思います。神の起こされる業(わざ)、これが現われてこないわけはないと思わねばならないのです。
健康においてもそうです。悪くなるとばかり、どうして考えるのか、病は悪化するとだけ、なぜ考えるのか、なぜ治ると考えないのか。こういうことですね。運命はなぜ悪くなるとばかり考えるのか。運命は好転するはずだという考えがなぜできないのか。
私は生長の家でやり残した仕事があるとするならば、この天才創りだと思います。光明思想によって、天才となるためのきっかけを数多く与えることはできましたが、天才の量産体制まではいかなかったというところが残念であったように思えるのです。今後は真理に触れて、天才が数多く出るという奇跡、これを出してみたい。そのためには、その自分の専門領域において、続々とインスピレーションが降りてくるようにしなければならない。天上界の諸霊の中には専門家は数多くおりますから、その諸霊からのインスピレーションが降りるようにしなければならない。
文学においてもそうです。現在は、大した値打ちもないと思われる文学が幅をきかせて、そして数多く読まれているようだけれども、ほんとうの意味で歴史に残り、人びとの心を揺さぶる文学というものは、かならず天上界からのインスピレーションを受けたものでした。そういうインスピレーションを受けて書かれたものでした。大作家もいちばん最盛期の時には、ペンを持てばペンが走るという体験をしているはずです。これなどもある意味での自動書記でありましょう。
このように文学の世界においても、どうしても霊指導というのが必要となってきます。そしてこうした高級霊を自分の指導霊として迎え入れるという体制を組んでいくと、地上には特殊な人びとが続々と生まれてくるのです。この天才のことをミュータントと言ってもよいでしょうか。そうした超人です。超人が数多く生まれてくると思えるのです。
6.奇跡は信仰の対価
ではその超人生産のための技術はどうすればよいのかということになりますが、まず私はあえて神想観をやれとは申しませんが、何らかの霊的世界との交流を心がける必要があると思います。生きている人間の身体のまわりというのは、霊的に見ればひじょうにすっぽりと三次元的想念でおおわれている感じがいたします。自分のまわりにすっぽりと渦巻きがあるのです。これゆえにこの渦巻きの部分を取り去って、そして実相世界の方にアンテナを向けて電波を発信しなければ、霊的交流ということが不可能なのです。ぜひともこのアンテナを出して交流するという必要があるのです。
このためにはどうすればよいかということですが、まず三次元的波動を切る必要があります。三次元的波動を切るためには、ではいったいどうすればよいのかということですが、まず心の中を真理で満たす必要があります。真理の言葉で満たす必要があります。そして精神の統一をしていくということが大事なわけです。
ですから私の本なら、この本の中で心に響くような言葉があったら、文章があったら、それを取り出すことです。そしてその言葉を暗唱するまでに何度も何度もくり返して読み込むことです。そして精神統一に入る時に、私の言葉の中で自分の精神統一にとってよいと思われる言葉を数多く、くり返して口に出してみることです。そうするとどうなるかと言うと、谷口雅春はもちろんたいへん忙しいからかならずしも来るとは言えませんが、私の霊系団、生長の家の霊系団で協力していた者たちが、かならず何らかの形で協力してくれるようになってきます。そうしたものなのです。
ですから真理の言葉をロにして、そして精神統一をして高級霊たちの光を引く、インスピレーションを引くということが、大事な大事な作業となっていきます。
これは新たな人間を創り、天才を創っていくための方法です。私たちの世界と心が通じるためには、決して難しいことは必要ありません。ましてやお経とか、そういうものをあげる必要も何もありません。ただ真理の言葉を、その心でもって波動として出せば、私たちの世界に通じてくるのです。
たとえば、この私の『谷口雅春・光はここに』という本であっても、これを正座して音読していれば、音読しているその言葉の言魂にひかれてかならず高級霊が感応してまいります。そしてその霊が、みなさまの悩みにかならず答えてくれることになると思います。
精神の統一とはそのようなものなのです。かならずこうした異次元の協力者たちが、あなた方を助けてくれるということを忘れないように。そうした時に大きな奇跡が起きてくるのです。
信仰と奇跡についていろいろな角度から話をしてきましたが、信仰とは一つの方法論だということを忘れないように。そして信仰という名の貨幣を出した時に、奇跡という名のものはかならず対価として与えられているのだ。その現実を知って欲しいと思います。