目次
1.出エジプト
13.アドバイス
8.神の義を主張しあう宗教戦争について
善川 サタンに対する天上界のお考えが分ったような気がいたします。
次にお尋ねしたいことは、ご承知のような現代の人類でございます。その神の教えを説く側に立つ人びとの間で争いを起こしている。あなたがお出になられたイスラエルと、アラブ諸国との間に、またイラン、イラクのように、共にイスラム教同士の間においてさえ行われている宗教的な争いについて、どのようなお考えを持っておられますか。
モーゼ あなたは以前に、ある霊から話をお聴きになっておられるはずです。教え子が百点を採れないからといって、教えた先生が間違っていたといえるか。教えた側は出来る限りのことを教えておるが、三〇点の答案しか書けない人もおれば、七〇点の答案を書ける人もいる。彼らはあなた方の言葉でいうなら落第しているのです。先生の教えを理解していないのです。そういう時期、そういう地域、そういう人たちになっておるのです。決して教えそのものから現在の混乱を導き出されるものではないのです。むしろ教えの不在であります。
善川 そういう時期に当たって彼の地に、いわゆる光の天使が顕われていないのでしょうか。
モーゼ やがて現われて来ます。
善川 彼の地にですね。
モーゼ 平和の前には混乱があるのです。統合の前には分裂があるのです。
善川 そういう意味におきましては、今日もう少しスケールの大きい超大国、アメリカと、ソ連との間における相剋という形が現われてきておりますけれども、これもどうしても避け難い戦いとなってくるのでしょうか――。
モーゼ 私は何も語りません。
善川 こうした地球規模の破局というものが現在の国際情勢の中からは予見されるのですが、こうした中で我らの使命というものはどういうものでありましょうか――。
モーゼ 私は語ったはずです。心であります。われらの教えは心であります。心の中に王国を築けず、どうして地上に王国が築けようか。この地上の争いは、心の中の争いの延長にしか過ぎないのです。
まず人の心の中にユートピアを築かん、とすることが先決なのです。争いは、心に根を発しているのです。争いを力によって制しようとしても、これはできないのです。根本を押さえることです。これが違っているのです。心の教えが不在なのです。
9.マルクスは光の天使、唯物論は真理ではない
善川 私がいま一つ分らないことは、神の支配し給う神一元の世界であるにかかわらず、唯物論という世界観が台頭し、これに基づく国家が地球上の各所に形成されてきて、現在では、その勢力においては世界を二分する程に膨脹してきましたが、これも天上界における何らかのご計画によるものなのでしょうか――。
モーゼ 迷いです。
善川 たとえば近世において、彼の地にマルクス、あるいはレーニンというような、非常に強力な思想家または指導者が出現し、世界の思想史を彩ってきましたが、これもやはり単なる迷いなのでしょうか……。
モーゼ そうではないのです。彼らは彼らの使命を十分に果たさなかったし、また彼らが不充分に行ったことに対して、他の人は更に誤解していたということです。
善川 こういう人達は、今そちらの世界においては地獄に陥ちているのでしょうか。
モーゼ 地獄にはおりません。マルクスもまた光の天使――。
善川 するといま、自分達が述べてきた唯物論というものに対する自己反省というものはしていないのでしょうか。
モーゼ 彼らの本質は唯物論にあったのではないのです。彼はユートピア建設のために出て来た光の天使なのです。
唯物論というものも、仏の説法に便法があるように、一つの便法なのです。一つの譬なのです。ただそれが先走ってしまったところに謬(あやま)りがあるのです。彼の計画はユートピアの建設なのです。
ところが時代が時代で、科学が進み、物質万能の時代であります。このような時代に霊のことを言ったところで、ユートピア建設はむずかしいのであります。むしろ物質万能、物質科学優先の時代なら、それはそれでいい、物質は物質と認めた中において、またユートピア建設の道があるのではないかという方向で行ったのが彼の考えであります。便法なのです。唯物論というのはマルクス自身、物だけしかないなどとは思っていないのです。神を信ぜずして、なぜユートピアなど考えることがありましょうか。
善川 それに続いてのレーニンにいたしましても、かつてあなたがエジプトで、後のイスラエルの民を救った心境と同じような心境ではなかったかと、私は考えるのでありますが、この当時の帝政ロシアの残酷な人民圧迫政策から、彼ら労働者、農民を救出するためには、どうしても政治を改めねばならないという考えから、発したものであろうと思うのでありますが、その限りにおいては、彼の考えは正しかったと思うのですが、その後の経過がよくなかったということになるのでしょうか――。
モーゼ ですから、想い、志は良いのです。ただ、便法を真理だと信じたところは誤りなのです。比喩をそのまま真理だと考えたところに誤りがあったのです。
それが教条となり、教条主義となっていったのでしょう。マルクスの時代には貧富の差も激しく、人の上に立つものと下に立つもの、差別するものと差別されるもの、搾取するものと搾取されるもの、このような階級分化が激しかったのです。
心の平和を説く以前に、環境自体の浄化を考えなければ、人びとは神の世界に入っていけるような状態ではなかったのです。そのために彼は、物質の世界においても人間はある程度まで救われなければいけないということ、それを理論として説いたのであります。それは過渡期の思想なのです。それが永遠の思想、真理だと思えばそこが誤りであります。
10.ニューメディアの世界に入っても人の心が主役
善川 いずれにいたしましても、以来物質文明というものは、急速に進歩してまいりまして、現代においては既にニューメディア、ハイ・テクノロジーなどの実用段階に入り、これに関連するすべての機械文明の進歩発展は、日進月歩ですさまじい進展を見せておりますが、ここで人間が、この機械文明を精神面でいかにコントロールし、リードしていくかということが、明日の人類の幸せにとって大きな課題と思いますが如何でしょうか。
モーゼ そういうふうになろうということであって、本質的には、どうということではないのです。環境がどのように変わるかということは、一つの素材の変換にしか過ぎないのです。どのような変換があってもよいのです。たとえこの時代にあなたの身の周りを恐竜が徘徊しておったとしても、あなたはまた神の心を、神の教えを説かねばならないのです。同じなのです。あなたがたとえロボッ卜に囲まれようとも、同じであります。
11.神の義「正法神理」の広布が今は強く求められている
善川 あなた様は神の教えの中でも特に「理(ことわり)」神の「義」というものを強く主張されたお方だと聖書の中でも伝えられておりますが、時代を下って、イエス様の時代には、神の愛という面を強く説かれたように思われますが、神の義と、神の愛とは車の両輪のようなものだと考えますが――。
モーゼ 神の義があり、神の愛があり、神の慈悲があるわけであります。慈悲を説いたのは釈迦であります。愛を説いたのはキリストであります。義を説いたのは私であります。
善川 いまわれわれの現世においては、この神の御意(みこころ)のうち、いずれの面を強くわれわれが主張しなければならないものなのでしょうか。
モーゼ やはり愛も必要、義も必要、慈悲も必要ではないでしょうか。かつてわれわれは、われわれが信じた一神、エホバであり、ヤハウェを争いの神、妬みの神、嫉妬の神、というふうに言われたことがあり、それが神学上の問題になっております。それは゛義゛ということと絡(から)むのであります。正しきものは実現されなければいけないのです。
「義」とは、神の「神理」であります。神理は実現されなければいけない。神理が実現されるためには、神理でないもの、非神理は影をひそめなければならない。これを強さを持って実践するのが義であります。義とは、神の国実現のための力であります。
「愛」とは、神の国を造り上げていくための鎹(かすがい)です。粘土であります。セメントであります。「義」とは、神の国を造るための土地ならし、土台造りです。「愛」は、神の家を造るための材料と材料、木と木、石と石をくっつけるための釘であり鎹であり、粘土であり、セメントであります。これが愛です。
今日は、義が失われた時代であります。そういう意味において、今の宗教の中には、義というものがあまりありません。これも一つ考え直す点ではないでしょうか。これが行き過ぎると宗教戦争になるかも知れません。他宗の排撃になるかも知れません。しかし本来神の「理(ことわり)」は強くなければならないのです。そういう意味においては旧勢力が強い時代には、義ということが強調されなけれぱならないこともあるのです。
善川 しかし今、旧宗教は既に凋落の時期に入っていると思うのですが、ここで真の神の義、「正法神理」を明らかにし、万教は一つであるという「証(あかし)」を打ち立てなければならぬと思いますが、これは別に、かつてのような宗教上の大きな争いになるような性質のものではないと思うのですが――。
モーゼ そうです――、新しい「十戒」、新たな神の指針、それに沿った新たな人間の行動原理というものが必要な時代となってきました。「十戒」は、私が「十戒」を表わしてより千年の間、人びとの行動指針となったのです。
また今後、このような価値の乱れた時代においては、人びとの行動指針となるようなものが必要となってくるでありましょう。それは単に霊を信ずるとか、お互いに仲良くするというようなものだけではなくて、今後の神の意図に沿った、人間の行動指針というものを打ち出していき、それが今後の人類の、文明の、文化の、発達して行く基礎となり、方向づけというものになっていかねばならないでしょう。
善川 そのような壮大な「正法神理」の体系というものは、今後あなた様方天上界の方々のご指導、ご啓示が寄せられるのか、それとも、非力ながらわれわれ自身でこの体系を組まねばならないのでしょうか――。
モーゼ いま一時にすべて私は語りませんが、やがてあなた方に、啓示という形で教えていくこともあろうし、あなた方ご自身で気づいていくこともあろうし、いずれにしても、あなた方がやるべきことは、今後の人類、後に来る人びとに対する贈り物を出していかねばならぬということです。
二千年、三千年先のことまで考えなさい。今、現時点どうであるということではなくて、二千年、三千年先の人に対するメッセージを残さねばならぬということであります。その折りに、モーゼという名がまだあるかどうかは定かではありません。イエス・キリストも伝説の神話の人になっているかも知れません。現在はまだ実在の人と信じていますが、千年、三千年先には、モーゼも神話、イエスもまた神話の人となっているかも知れません。
その時においてあなた方が、実在の人間として残した教えというものが、残らねばならぬということです。
結局のところ人間は、なぜ輪廻転生をするのかというこの法則の説明と、そのような法則が明らかになったならば、如何にして生きねばならないのかというようなことを説く、このようなことに尽きるのであります。それ以上のものではないのであります。この世界は神が創られたものであり、神のご計画は、人間を現象界から天国へと、輪廻転生させるということ、そしてその中で、どのように生きていかなければならないのか、ということを悟らせること、これに尽きておるのであります。
これ以上のものではないのであります。非常に簡単なものであります。これを後の世の人びとに、明瞭な形で、彼らの行動指針となるような形で、残して行きなさい――。
善川 この輪廻転生があるということの事実が、神の大いなる慈悲であるということを、はっきりと説き示さねばならぬということですね――。
モーゼ そうです。そのとおりです――。
善川 ありがとうございました。
12.天上界の構成と霊格の認識、その任務役割の分担について
善川 モーゼ様は、現在天上界での最高霊域においでの方だと存じますが、その天上界の仕組みについて少しおたずねしたいと思いますが、よろしいでしょうか。
モーゼ どういうことでしょう。
善川 天上界の構成と申しましょうか、その実像を、われわれが認識するに当たって、これを上、下という段階的な差別知と申しましょうか、そういう縦列感覚で捉えればよいのか、それとも、深い、浅い、狭い、広いという水平感覚とでも申しましょうか、そういう概念で把握すればよいのでしょうか。もちろん、実相はそういうものではなかろうと思いますが、これはあくまで、われわれ三次元に住んでいる人間が、五官知で認識し得る図式で捉えるとすれば、どういうことになるか、どう認識すればよろしいでしょうか。
モーゼ どういうことですか、もう少しはっきり言って――。
善川 例えば、われわれ地上人が理解できる天上界というものは、地上何千メートル、または、何万メートルの上までに各霊域が段階ごとにあるということと、そういう感じではなく、われわれと同一地域にあっても、その深みということの段階において、それぞれ次元を異にした霊域空間というものがある。つまり図形で描けば、渦巻状に重なっているというふうに――。
モーゼ 地球は丸いのですから、上といっても横といっても、所詮同じことなのですが、比喩としては、やはり高い所からいわば下を見ているという形になります。
善川 そうですか、それでは現在あなたがおいでの処は、天上界のこの地球霊団としては最高の地域から下を見ておられるということになるわけですね。
モーゼ 喩えて話すならそういうことになります。
善川 天上界は、六次元、七次元、八次元とあり、それぞれの方がおられますが、あなた様はいま何次元の霊域におられますでしょうか。
モーゼ 九次元です。
善川 それでは、六次元、七次元という処においでの方では、そちらの九次元の世界へは参上できないわけですね。
モーゼ 出来ません。
善川 上部の方は下部へ降りて来ることは可能ですね。
モーゼ 可能です。
善川 立ち入ったことをお尋ねしますが、宇宙界といわれる九次元の霊域には何名ぐらいのお方がおいでなのでしょうか。
モーゼ 数名です。
善川 それから七大天使といわれる方々、<ミカ・エル><ガブリ・エル><ウリ・エル><サリ・エル><ラグ・エル><パヌ・エル><ラファ・エル>、こういう方々は――。
モーゼ 私たちの近くにおります。
善川 それから、それぞれのお役目を持たれた如来の方は――。
モーゼ 四、五百名おります。
善川 ここが八次元の霊域ですね。次が七次元の菩薩界ということになりますね。
モーゼ そして、菩薩界と如来界との間に、仏教でいう<梵天>というか、梵天の境地があります。七次元と、八次元の境であります。「天台智覬」といわれる方も、この梵天の位にあります。八次元といえば八次元、七次元といえば七次元、この中間の域に達している霊であります。
善川 あなた様方から見れば、どの次元霊域に誰がいて、どういう研究をしているかということは、一目瞭然なのでしょうか。
モーゼ ただ私たちが心配していることは、差別知でもって霊的世界を理解してもらっては困るために、あまり言いたくはないのです。人間にそのような階級があり、段階があるという発想は、一歩誤れば非常に危険なものとなるのです。人間の魂は平等だという考えも大切であります。
たとえば、いま段階という形でとらえました、ある人よりもある人が偉いとか、下であるとかいう考え方も一つありますが、こういう考え方もできるのです。
人間の魂というものは、各人神の子であって一箇の球体であって、この球体には大きな違いはないのです。各人同じ球体なのです。同じ球なのです。その意味において各人の魂は平等なのです。しかしながら永年の転生輪廻の過程における修行の度合によって、同じ大きさの球であるにもかかわらず、ある球体は非常な輝きを持っており、ある球体は鈍い輝きを持っており、ある球体は全く光を発していない――このように平等であるけれども、光の度合が違うということがある。その光の度合を譬えていうならば、如来界、菩薩界、というようなことで言っているのであって、それは魂として違うのだというようなことではないのです。
魂が違うのだ、段階が違うのだ、という考えは、一歩間違えば大変な間違った思想になってしまうのです。各人の魂は、神から岐れたものであり、本来、神と同一なものであります。一個の同じ大きさの球であるということ、しかし転生輪廻の過程によって輝きが違うのだし、輝きの違いによって、如来だ、菩薩だ、あるいは霊界だというような区別をしているだけであって、しっかりと磨けば、如来の光が、菩薩の光が出てくるのだと、このように差別心と、平等心とを融合した立場をとっていただきたい。これを間違うと、あなた方も大変な増長慢となってしまうのです。
善川 そこで一つ考えられることは、各人は皆神の子ではあるけれども、その仕事、役割においては各人分担が違うということではないでしょうか。僧侶は僧侶、医者は医者、芸術家は芸術家、エンジニアはエンジニアというふうに――。
モーゼ そういうふうに考えるのも一つであります。
善川 各段階に応じてその人に与えられた天分天職についているというように――。
モーゼ 別の比喩で言うなら、球としては同じであるが、ある部分が発達している球と、違う部分が発達している球とがあって、たまたま私達は、神の使命を担う部分で球が発達しているだけであって、他の部分が発達していない。ところが、その部分が発達しているものもある。そういう意味で人間は平等なのであります。仕事が違うという考え方も一つ、光の違いがあるという比喩も一つ、そのようにお考えになって下さい。
善川 本質的に人間の職業に貴賤がないということと同じような意味ということですね。
モーゼ 貴賤もないし、七次元より、八次元が偉いというようなことでもないのです。そのような思想は一歩誤れば大変な間違いとなるので、私はあえてこう言っておくのです。
たとえて言うならば、高さの違いはあるのだけれども、それは球体の面として考えると、たとえば神を北極とするならば、北極の近くにある面と、そうではないところが発達している面とがあるわけであって、仕事の違いというふうにもとれるし、光の度合が違う、ともとれるはずです。
光の度合が違うのであるならば、いま、光輝燦然と輝いているものも、やがて曇ってしまうこともあり得るし、いま、曇っているものもまた光ることができるのです。こういうことなのであります――。
善川 ただ、私が案じますには、あなた方のような最高級の指導霊のお話というものは、非常に次元の高いお話で、一般庶民の方がたでは自己の生活環境に即して理解し、日常生活の中にその高度な法をとり入れるということは、困難だと思うのです。
その意味において、通常人の精神生活に適応した、霊界、またはその上の神界程度の一般的な善悪差別の教えが、より広い範囲の人びとに理解されるという意味で、意義が広まるのではなかろうかと思われるのですが――。
モーゼ ただ、私は言っておきますが、あなた方の使命というものは、今の時期に本当の「神理」を残すということであります。分る人は分るし、分らない人は分らないでしょうが、しかし、千年、二千年と伝えていく必要があるということです。
われわれは、いつの時代でもこうして出てくるわけではないのです。われわれが出てくる時代は、決まって激動期、ある人類の転換期であります。そういう意味において、われわれがこのような人の形を借りて語るということは、めったにないことですので、その時点において最高度の教えを残しておく必要はあるのです。
私がいま語っていることを素直に信じることができる人が、いま生きている人間の中で、いったい幾人いるでしょうか。私自身もそれは定かに知り得ません。しかしながら、どうしても残さねばならないということです――。
13.アドバイス
善川 最後に、現時点における私たちの、「正法流布」に対する取り組み姿勢についてのアドバイスをお願いいたします。
モーゼ もっと強くありなさい。あなたの先人達の苦労辛酸を想い起こして、もっと強く生きなさい。怠惰になっていないかどうかということをよく考えなさい。環境が楽であれば楽であるほど、一層励まなければならないということであります。環境との戦いということに、先人たちがどれだけ苦労したということを想い起こしてごらんなさい。あなた方は、まだまだ楽な環境にあります。楽な環境にあるからこそ、先人達が登れなかったところまで、登ってみせなければならないのです。
強くあって欲しい。正しい人は、神を信ずる正しい人は、強くあって欲しい。自分の弱いところを見つけたならば反省し、もっと、もっと強くあっていて欲しい。私が言えることは、そんな抽象的なことに過ぎません。
私は、あなた方に、具体的に何をどうせよとは申しません。強くあって欲しい、不動の心を持って欲しい。人にこう言われるんじゃないかというような、そのような小さなことに負けてしまうあなた方であって欲しくない。強くあって欲しい。
あえて身の周りに争いを起こす必要はないけれども、しかし強くあって欲しい。強さです。今のあなたの中に強さがありますか。正法を流布するには、「熱意と強さが共に必要なのです。
私は力強い生涯を送ったと思っております。それは、正しいものは強く生きねばならない、正しいとは、神の義であります。゛義゛、神の義にかなった者は強くあらねばならない――、そういう考えであります。あなた方が、正しいと信ずるなら、その信念の強さは、あなた方の生き方の勇まさになってこなければいけません――。
善川 どうも長時間、いろいろとご高説をたまわりまして、まことにありがとうございました。われわれはまだまだ、これからの試練と、これからの働きの時間が与えられておりますけれど、もしまた御意を得ますなら、一つの転機、転機に私たちが立ちましたならば、またご降臨願ってご指導をお願いしたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。
本日は、真にありがとうございました。
モーゼ わかりました――。