目次
(1986年11月1日の霊示)
1.「本来病なし」を説くに当たって、人々に啓蒙の教訓を与えた
谷口雅春です。私の講演ももう六日目を迎えますが、今日は、「本来病なし」という話に入っていきたいと思う。
この「本来病なし」という言葉は、生長の家では一つの標語のようになってしまい、私の生きていた五十年、六十年の活動の間には、この「病なし」の部分をとらえて、様々な宗教団体の人々が様々なことを言ったようである。ある人はこれを褒(ほ)めることもあったし、ある人はこれを貶(けな)すこともあったようだ。
この本来病なしは、この本来を何と読むかによって、ずいぶん解釈が別れるのである。これを、たとえば「病なし」ということが、一人歩きして、病などないのだということで、目の前にどんな病人がいても、それは目の錯覚であって、病はないのだととってしまったのでは、本当ではないわけであります。ただその病というものが、実在するものであるかといえば、これは実在ではないのであります。
この地上における物事というのは、すべて生々流転していくものであります。すべてのものは移り変わっていく。そして移り変わっていくものは、実在のものばかりではないのであります。実在のものというものは、移り変わりのなかにおいても、変わらぬものであろうかと思います。
その変わらぬものとは一体何であるか。それが人間のなかに秘めたる神性であろうと思う。たとえ、外観がどのように変わったとしても、人間としての神性というものは、不変であり、不滅であるわけだ。
私は、この本来病なしということを説くに当たって、一つの人間たちに対する啓蒙の教訓を与えたわけである。人々は、ともかく現にあるものを肯定したがるわけだ。
病というから奇抜に聞こえるだけであって、他の言葉でもよいわけであります。一般的にいえば、善悪の悪ということでありましょう。古来から悪というものは、実在するものであるのか、それとも、悪というものは無くて、善のみがあって善の欠けたるものが、悪なのか、こういう議論は長くあったわけであります。
また善悪の二元というものを、強調したゾロアスター教とか、マニ教とかいうものがあって、これを、たとえばキリスト教は違うとか違わないとか、こういう議論もあった。
教父聖アウグスチヌスにしてもですね、若い頃マニ教ですか、そういうペルシアの宗教ですね、マニ教というものにかぶれておったけれども、その師のアンブロシウスに教わって、そういうものが邪宗なのだということに気がついて、キリスト教の信仰を深め、教父といわれるぐらいの偉い方となったと、普通はそのようにいわれております。
ただ、マニ教の善悪二元論というのは、邪教であり、邪宗であるかといえば必ずしもそうではないわけであって、マニ教自体もやはり光の天使からの指導を受けて説かれた教えであります。
では、そういった善悪の二元というものは、実際にあるのかないのか、これをはっきりさせねばならんと思う。これが、多くの躓(つまず)きの元となっておるのです。
2.キリスト教的な善悪二元論の問題点
キリスト教に深い信仰をもって生きている人であっても、悪魔の存在というものはどうしても認め難い。キリスト教の教えのなかでは、やはり神と悪魔、あるいは天使たちと悪魔との戦いというものがある。
聖書のなかにおいても、天使長のミカエルが、サタンの象徴であるドラゴン竜を、要するに、天上界から叩き落したということが記載されておるし、また、天使の軍勢と悪魔の軍勢が戦っておるということが、よく説明されている。
また地上の文明もキリスト教的なものの考え方をしている人は、よく天使と悪魔との戦いであると、天上と地下との戦いであると、こういうとらえ方をしておるようである。ただ、私はこの根本において、一つの問題があると思うのである。
それは、イエス・キリストにおいても、問題があったと思う。すなわち、聖書を読めばよく分かるが、イエス・キリスト自身が、彼を批判する旧勢力、律法者たち、サドカイ派とかパリサイ人とか呼ばれている人たちが、彼を批判しておったわけだけれども、彼らに対してイエス・キリストは、かなり厳しい意見を吐いていると思う。
いわく、「あなた方は下から来た者であるが、私は上から来た者である」。あるいは、「あなた方のなかには、要するに悪魔が入っていて、今しゃべっておるのだ」。こういうことを、ずいぶん言っておる。
このイエスが言う、上から来た者、下から来た者という言葉が、長年の間、人々には分からず、そして、たとえば、人間には、善根の人と、そうでない人、悪根といってもいいが、根っからの善人と、根っからの悪人がいるかの如く、考える人も多いかといえば、そうでもないわけであります。
法律にひっかからない悪人はいくらでもいるし、大悪人という者は、なかなかひっかからないものであります。また、小心であって法律にひっかかるような善人もいるわけであります。何が善であり悪であるかということが、とかく地上の人間には分かりにくいのであります。
ただ私は、キリスト教的なものの考え方のなかで、明らかにこれは改めるべきだという考えがあると思う。それは、あなたは地下から来たけれど、私は天上から来たという考えである。
3.人間は地獄からは生まれ変ることはない
人間は、長年の転生輪廻の過程のなかで、確かに何度も地獄に堕ちたことはあります。しかしながら、また再びこの地上に生まれ変わってきているということは、いかなることであるか。すなわち、もはや地獄には行かなかったということであります。生前、私はこの点についてあまり語っておりませんでしたけれども、人間は、地獄からは生まれ変わることはないのである。
地上で凶悪な犯罪人たちがいるのを見れば、おそらくこういう人たちは地獄から生まれてきた人であろうと思う人もいる。とくにキリスト教のなかにはそうぃう考えがあって、たとえば、悪魔が地上に生まれてくるとか、あるいは偽キリストが地上に生まれてくるとか、こういうことを言っておるわけでありますが、これは基本的な原理をまだ知らない人たちの言葉なのであります。
地獄からこの世に生まれて来ることはできないのであります。なぜならば、地獄霊のそうした想念、あるい想念波動というものは、夫婦の愛によってできたものに宿ることができないからであります。
子供というものは罪がないものであり、夫婦の愛によって生まれた者であります。愛の結晶が赤ん坊であり、子供であるわけだ。母の胎内に宿った赤ん坊の波長というものは、すなわち愛の波動を帯びてできているわけであります。
どのような悪人であっても、どのような悪い女性であっても、自分のお腹のなかの子供が可愛いくないわけはない。世間に対しては悪いことをしている、どのようなヤクザ、あるいは、ならず者であっても、自分と妻との間に子供ができるということ、要するに一粒種ができるということは、やはり素晴らしいことと思う。
こういうふうに、子供をつくるという行為そのものは、たとえどんな悪人のなかにも宿る愛の波動であり、赤ん坊が生まれるという行為自体は、愛の波動であります。女性の胎内のなかで、精子と卵子とが結合するわけだが、精子と卵子の結合ということは、要するに愛の結合であって、精子と卵子とがお互いに諍(いさか)いを起しているなら、結合するわけはないのであります。
精子が卵子のなかに突入して、このなかで細胞分裂を起こしていくというのは、この両者が協力し合って一つの生合体を生み出していこうとする努力の表われなのだ。すなわち、こうした核分裂、細胞分裂によって、生まれてくる新たな生命というものは、愛の結晶であり、愛の芽生えであるわけであります。
この愛の芽生え、小さな精子と卵子の合体したものが次第に大きくなってきて、普通は三ヵ月くらいですね、ニカ月から三ヵ月ぐらいたつと、お腹のなかで人間の赤ん坊らしい形ができてくる。そのときに、魂というものが宿るのであります。
それ以前にも、その細胞分裂をしている小さな生命体というものがあるが、これは精子と卵子の生命体であって人間の魂の宿るものではなく、胎内に住んでいる微生物、あるいは、小さな生物と考えてよい。この魂が、精子や卵子の魂が人間になるわけではないのであります。これは、人間となるものを受け入れるための、一つの生命なのです。
生命というものは、決して一つが入れば一つ出るそういうものではなくて、共存共栄できるものであり、魂というものは、同じ場所に同時に二つ以上のものが存在することも可能なのであります。
この話が分からないのであれば、人間には魂というものが宿っておるけれども、では魂というものが一つの生合体かと言えば、そうではないのであります。人体のなかにはさまざまな生き物が生きておるのであります。
たとえば、内臓器官は内臓器官として生きておる。心臓というものを見れば、心臓というものだけ見ても、これは生きている生き物であります。なぜなら、それは一定のリズミカルな運動をしながら、動いておるからであります。植物でも生き物と認めるものであるならば、リズミカルに動いている心臓はまさしく動物といえるのだ。
また、一定の栄養素を必ず体内に吸収するために、動いている胃腸、こうしたものも、明らかに動物的な運動をしている。そして霊的に見れば、胃は胃の意識を、腸は腸の意識を持っておるのであります。心臓は心臓の意識を持っております。それぞれが独立した生き物であります。独立した生き物を体内に持ちながら、人体にはまた人間の魂というのが宿るのである。
大きな話としてはこういうことだが、同じ様に、精子と卵子という結合によってできた新たな細胞たちが、すなわち細胞群のなかに、人間の魂というものが、大体三ヵ月近くたって宿るのであります。このときに宿る魂というものは、結局、精子と卵子の活動であるがゆえに、地獄霊の波動というものが、同調しないのであります。憑依(ひょうい)できないのだ。なかに宿ることはできない。地獄霊たちは、怨(うら)みやつらみ、愚痴(ぐち)、不平、不満、こうしたもので心を一杯にしているわけだが、こうした波動は、子供を生み出そうとする愛の生命波動と合わないのである。だから、決して宿ることはできないのだ。
したがって、どのような地獄霊であっても、一旦地上に人間として生まれてくる以上は、やはり最低限度の悟りを得て、少なくとも幽界と言われる、あるいは精霊界と言われる四次元の天上界のなかに、戻って来なければ母体に宿ることが許されていないのであります。
もしこれが許されているのならば、地獄霊たちはすべて生きている人間のなかに宿って生まれてこようとするはずでありましょう。そうすれば、彼らの欲する肉体というものを手に入れることができて、いつまででも地上生活を送ることができるからだ。
地獄霊たちは地上生活を送ることを欲している。生まれ変わることができるならば、彼らは死ねばまた生まれ変わる。また生まれ変わるということで、永遠に地上の肉体を占有して、この三次元に生きることができるのであります。ところが、そういうことは、できない。今言った原則によって、できないということになっておるのです。
そうするとキリスト教系では、偽メシアとかサタンとかいろんな者がいて、そういう者が、たとえば世紀末に生まれてきて、そうして正法神理というのかな、こうしたものを混乱させると言っておるけれども、生まれてくる魂自体は、もともとはやはり少しは悟った魂であったということである。悟りのレベルは低いとしても。地獄の大悪魔が生まれ変わってくるということはない。クリスチャンたちは、とくにこの点を気をつけねばならぬと思う。
4.人間は生後、地獄霊の波動を受け、悪に染まることはある
ただ、生まれて生きている過程において、心を不調和とし、地獄的なる心を持つことによって、地獄霊たちの憑依(ひょうい)を受けることはある。こういうことによって、その魂そのものは、もともと生まれつきは善なる者であったにもかかわらず、地獄霊たちの波動を受けて悪に染まっていく。そういうことはある。
なかには、光の天使であった者が、地上に生を受けて育ち、そして宗教に触れて、それをやっているうちに、自分のなかで増上慢(ぞうじょうまん)になったり、うぬぼれが出てきたり、そういうことをいろいろ起こしてきて、そして心を真黒にして地獄に堕ちていくケースもある。
近々では、戦後の日本人にも、何人かいると思う。昔、生長の家の講師をしておった人間で、私から離れていって一派を起こして教えを説いて、私より先に死んで、今、地獄に行っておる者もおる。この者なども、もともとは霊的には非常に秀れた才能を持っておったと思うのだ。しかし、その者が、何を間違ったか、地獄に堕ちている。今、地獄で呻吟(しんぎん)している姿が私の目から見えるのだ。かつての我が弟子が今、地獄で苦しんでいる。かつて生長の家に勤めておって講師までしていた人間が、憐れにも一宗一派を起こして地獄で苦しんでおるのである。
こうしたこと、彼は、もともと地獄のサタンであるかといえばそうではないのである。もともと、天使的な才能を持った人が出てきているのにかかわらず、間違いによってそうしたことを起こすということもあるのだ。
天上界の法則というのは厳しいものであって、たとえ光の天使であろうとも、神の法則を破った者に対しては、それ相応の反作用があるということだ。
5.因果の理法は、如来、菩薩であっても、これをくらますことはできない
禅の公案というなかに、無門関(むもんかん)四十八則というものがあって、「百丈野狐(ひゃくじょうやこ)」という野狐禅(やこぜん)の話がある。「百丈和尚」のところに野狐(やこ)というのが来た。野狐(やこ)というのは野狐(のぎつね)だ。
野狐が出て来て、いつも百丈和尚の話を聴聞(ちょうもん)しておる。その野狐は、老人の姿に化けておるわけだ。七十、八十、九十の老人の姿に化けて、いつも聴いている。百丈和尚はそれを見て非常に不思議に思って、その老人と話をしたわけだ。
ところが、その老人が言うには、「和尚様、私は実は人間の姿を今とっておりますけれど、実は野狐でございます。狐でございます。ただ狐の姿はしておりますけれど、本来、私は狐ではありません。昔この山に住んでおった僧侶であります。今から五百年も前に、この山に住んでおって、やはり仏法を勉強しておったのです。ある時、旅の人が来て私に質問をしたのです」と。
そして何と言いますかね、『神仏の子、あるいは如来、菩薩のような光の指導霊であっても、光の指導霊であれば因果の法則というものにくらまされることはないのか、それとも因果の法則はくらますことができないものなのか』と、そういう質問を、旅の僧にされた。
そのときにその野狐となった元僧侶はこう答えたと。「悟った人というのは―光の指導霊と言ったけれども、悟った人とも言ってもよい―悟った人というのは、不落因果(ふらくいんが)、つまり因果に落ちず」と言ったと。つまり、因果の法則から逃れているんだと、こういうことを答えたんだという。これは仏典を読めば、釈迦がそういうことを言っているところがあるのですね。
如来という人間は解脱(げだつ)しなければならぬ。解脱して如来の境地になれば、転生輪廻の法則から外れて、もはや、この不浄に満ちた地上に生まれることはないのだ、とこういうことを釈迦が述べておるわけです。
これを、言葉だけ受け取って思ったんでしょうね。如来というのは悟った人であるから、悟った人は要するに、この悪しき地上にもう出て来ないということだから、因果の法則を超えられるのだと、こう思ったわけだ。それでその後、狐になったお坊さんは、不落因果(ふらくいんが)、因果に落ちずと、こういうことを言った。
ところが死んでみたところ、地獄に堕ちてしまった。地獄に堕ちて五百年、ついにその姿は野狐、野の狐となってしまった。なんでそういうことになったかというと、その答えが間違っておったわけだ。答えが間違っていたために堕とされた、と。
それで、その野狐である老人は、また百丈和尚に問うた。「悟った人は、因果の法則の外にあるのでしょうか。それとも因果の法則というのは、くらますことができないのでしょうか」。野狐は、百丈に聞いたのであります。そのときに、百丈和尚はこう言ったのである。
「不昧因果(ふまいいんが)。因果の理をくらますことはできぬ、たとえ悟った人であっても、因果の理法というのはくらますことはできんのだ」と、こうぃうことを言ったのであります。
つまり、この原因結果の法則、作用、反作用の法則、蒔(ま)いた種は刈り取らねばならぬという法則は、如来、菩薩であっても、これをくらますことができんのだということを、百丈和尚は言ったのであります。
これはそうでしてね、谷口雅春であっても、まあ言ってみれば、大福餅を二十個も食べれば、胃を壊すわけだ。谷口雅春のような悟った人間が、そんな現象界の法則に左右されることは不思議だと、生長の家の信徒ならそう思うかもしれない。
先生は光一元の人で、本来病なしの教えを説いておられる人だから、谷口雅春先生が大福餅を二十個食べたところで、まさか病気をされるはずはない、と、こう生長の家の会員なら思うであろう。
ところが、いくら谷口雅春であっても、大福二十個は多すぎる。これを胃袋のなかに詰め込めば、胃も故障する。胃腸が悪くなって、一日や二日寝込むのは必定である。如来であっても、食べすぎは体の毒であるというような簡単な因果の理法だな、こういうことはやはりくらますことはできない。本来肉体なしといっても胃袋はあるのだから、大福を二十個詰め込めば、やはり苦しい。この辺を考え違いしてはならんのである。
したがって、光の天使たちといわれる人であっても、過去世において自分が偉い人であっても、今世において間違った教えを説けば、やはり、地獄に堕ちるということもあるということだ。
霊道など開いて、自分の過去世を知った人が、やがておかしくなっていくケースがよくあると聞く。こういう人は、自分は偉い人だから、決して地獄など堕ちるはずはないと思っておるのである。ところがそうはいかないのだ。この三次元世界も、一つの理法のなかにある世界であるならば、間違ったことをしたなら、それに対する、反作用というものは必ずある。この辺を間違ってはならぬと思う。過去世において偉いから、今世に偉いとは、限らんのであります。
6.「本来病なし」の皮相的解釈(ひそうてきかいしゃく)は堕地獄(だじごく)を招く
先程言った私のかつての弟子、元生長の家の講師などをしておって、今、地獄に堕ちている者なども、ほんの少しの違いから間違いを起こしていったのだ。私は、こういうふうに本来病なし、光一元ということを説いた。これを私は、実相の見地から説いておるのである。
読者諸君は、これを間違えてはならぬ。光一元というものは本来の人間の姿であり、本来の神の子の姿である。本来病なしというものも、実相の世界には病がないのであって、実相人間としては、病は絶対あり得ない。人間というものは、金剛不壊(こんごうふえ)の体を持っているものだと、こういうことを言っておるのです。
ところが、これを現象的に解釈し始めると、一つの間違いが起きてくる。かつての我が弟子が間違えたのもここであり、彼はこういうことを言い始めた。
つまり、谷口雅春は、光一元だの、本来病なしだの言っておるから、これと同んなじことを言っておったのでは商売に差し支える。多少変えないと、やはり一宗一派起こした値打がないということだな。それでこれを多少変えるわけだ。多少この内容を変えて、この世の中で病とか、事業の失敗とか、悪しきことが現われてきても、これは、本当は悪しきことではないのだ。これは、悪しきカルマ、悪しき業というのが消えてゆく姿なのだ。こう思うことによって、人間は救われるのだ、と。こういうことを、かつての我が弟子は説き始めたのである。
しかし、ここには、非常に微妙なすり替えがある。本来光一元、本来病なしということと、たとえば今、あなたが病気をしているのは、そのあなたの悪い業が今、消えつつあるのだ。良くなるしかないので、消えつつあるのだということ、私のかつての弟子は、現象的にそれを強調し始めた。そして、この世に悪いものは何もない。たとえば、悩みごとを相談にくると、ああそれはちょうど、あなたの悪い業が今、消えつつある。病気で瀕死の重体になると、あなたのカルマが今、ちょうど消えつつある。そういうことで、本来悪いことはこの世に何もない。
それは良くなるしかないんであって、そういうものは、自分の悪いものが消えつつある姿なのである。それで祈りによって自分というものは救われていくんだと。だからどんな悪いような状態が外見上表われていても、それを認めてはいけない。そんなものはないんで、それは悪いものが全部消えていく姿だ。で、祈りによって良くなっていくんだと。こういうことを説いておる、私のかつてのその弟子はね。
一見、非常に巧妙で、私が生長の家で教えたことを、また一歩進めたかの感もある。「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)一歩を進む」といってね、百尺もある竿の上に登った人が、さらにそれより一歩を進める、と。普通、物理的には無理なんだけれども、この百尺の竿の上に立っている人がまた一歩を進めたいと。まあこういう風な気持ちがあってね。谷口雅春の生命の実相哲学は素晴しいけれども、俺はさらに一歩を進めたのだと。
この世にはもう、要するに悪はないんだと。悪いことは何もない、病気もなければ、事業の失敗もない。恋愛の失敗もなければ、結婚の失敗もない。こういうものは、皆んな悪いものが消えていく姿なのだ。消えていくときに、そういうふうに見えているだけであって、本当は良くなるんだ。こういうことを言って、だんだんと人を迷わすようになるわけである。ここが非常に危ない落し穴なのだ。
7.本当の悟りとすり替えた悟りとでは、紙一重の違いが天地を分ける
紙一重なのだ。私の教えと、そうでないものは。本当の悟りを得ている者と、すり替えた悟りとでは、紙一重なのです。これを間違えないでほしいと思う。
そして、こうした間違った教えを人々に説いて、また、美辞麗句で自分を固めていこうとする。要するに、良くなっていくしかないのだということを言う。あなた方も街角に行けば、よく目につくであろう。つまり、世界平和のためにとかね、世界平和を祈るとかいうような、そういう看板というか、小さなものをいろんな家に貼りつけておる。
これ自体は悪いことではない。世界平和の祈りをすること自体は悪いことではない。ただ、そうした世界平和の祈りをするという行為において、自分の間違っていることを隠蔽(いんぺい)するという考えは、間違っておるのです。
あくまでも神の子人間は、自分自身の実相を輝かし出して、自分が光ることによって世の中を善くしていくのが筋である。自分を真黒けにしておって、そして世界平和を祈ったところで、そうした祈りの波動は決して通じないのだ。これを間違ってはならぬ。
よくあるであろう。自分自身七十年、八十年の人生をやりたい放題、したい放題のことをしてきている。そして八十ぐらいになってから、天国、地獄というのがあるんではないかと、だんだんに感じ始めて、これではいかんというので、死ぬ一年位前に、奉仕業とかいって、ボランティアをやってみたり、老人福祉の仕事をしてみたり。箒(ほうき)で街を掃いてみたりしてね。箒で掃いている姿を写真に撮られて、それが新聞に載ったから、これで自分は天国、間違いなしなんて思っているのがいる。ところが死んだら、真黒けの地獄に堕ちとるわけだ。こういうのと、ある意味では、一緒なのだ。
ある意味では、こういう世界平和のための祈りなんていうのは、自分たちの悪いところを本能的に自覚しているから、これを隠そうと思って、こういう誰が見てもいいような美辞麗句を飾っておるのだ。ところが、その内容たるや、結局七十九年、得手勝手なことをしてきて、最後の一年だけ街を箒で掃き清めた程度の人と変わりはしないということだ。
私は厳しく、このことについて言っておこうと思う。これは私の思想と非常に近いところにあり、また一番遠いところにある思想だからだ。
8.私が言っている「本来病なし」は禅で言う渇(かつ)でもある
この世に悪はないと言っておるのではないということだ。ですから、この世に悪しきと見えるのは、みんな良くなるしかない前の、消えてゆく姿なのだという教えは、まったくの間違いであります。こういう教えに帰依している人がいたなら、いち早くそれから離れることだ。この教えも、もともとは、私の流れから出ている以上、私は今、この霊言集において、この誤りを正しておかねばならぬと思う。
本来病なしと私は言っている。この「本来」の意味を間違えてはならぬ。地上に病なしとは言っていない。地上に悪なしとは言っていないのである。これが禅の一転語であり、禅で言う渇(かつ)なのだ。
キリスト教でいう人問罪の子の思想、こういう思想では、なかなか人間は幸福になれません。人間は本来罪の子ではなくて、本来神仏の子であり、光の子であり、実相においては自由自在の人間であり、病める人間など一人もいないという事実を、私は語っておるのです。
この真実を悪用して、地上に病人はいない、悪人はいないというようなことを言うとすれば、これは大変な間違いである。そうではないだろうか。私はこれをはっきりしておかねばならぬと思う。これは善悪を見分ける知性の光が弱いということになってくるのだ。どうか、この点、非常に注意していただきたいと思う。
9.悪とは蜃気楼(しんきろう)のような存在であるが、それを燃え上がらすようなことをしてはならない
たとえば、自分が愛する妻と一緒に家に住んでいるとしようか。そして可愛い赤ん坊を持っているとする。そこにある夜、強盗が押し入ってきた。
強盗が押し入ってきて、有り金を全部出せと言った。有り金として十万円あった。十万円出した。ところが強盗は、金を目当てに入ってきたのだけれども、有り金を取っただけではまだ足りない。相手が恐れ、おののいているのを見て、その奥さんを見れば、非常に美しい顔をしている。急に情欲を催してきた。そして、お前の妻を、俺の自由にさせろと強盗が言ったとする。
こういうときに、たとえば、そのご主人という人がね、一見仏様のような人で、何でも人のいわれるようにする。ああそうだ十万円取られたし、まあ向こうは可哀相な人なんだから、何でも言われるようにした方がいい。十万円あげたけれど、もうこれ以上金がないから、どうかお前もこういう哀れな人のためにつくしてやれと、妻にすすめて強盗に抱かれろと、言うような夫がいたとする。これが果たしていいかどうかをよく考えなさいということなのである。
こういうことは、たとえば強盗がですよ、強盗の悪い行為が、悪業縁、カルマが消えていく姿だから、良くなるしかないのであると、消えていく前の姿なんだから、その悪に抗してはならず、悪に協力しろというのは間違っておるのだ。そういうことをしてはならん。悪をさせてはならんのである。こういうことをよく間違ってやる人がいるということだ。悪というのはやはり、火に油を注ぐようなことは、してはならんと思う。
それは、本来は蜃気楼(しんきろう)のような存在であるけれども、蜃気楼は蜃気楼として、この世にあるように見えることもあるから、それをますます燃え上がらすようなことはしてはならん、ということだ。これを、心得ねばならんと思う。
10.私が本当に言いたかったことは、人間は本来神の子なのだということである
私が、「本来病なし」という教えのなかで本当に言いたかったのは、本来の人間というのは、本当に神の子なんだ、ということが言いたかったのであります。
先程キリスト教の批判をしておいたけれども、相手が地獄の悪魔であり、地獄の悪魔が今、肉体を持って生まれ変わっているとすれば、その人間と和解することもその人間を愛することもできないのである。相手が、本当は神仏の子であると思うからこそ、和解ができるのであり、愛する事ができるのであり、許すことができるのであると思う。
ただその神仏の子であっても、この地上においては肉体という、あるいは物質世界というものに惑わされて、一見違ったような行動をしていることもあるのだ。要するに迷っているだけであって、悪は存在はしていない。神理の目が曇っているだけであり、神性が曇っているだけなのだ。けれども、その曇っているものを助長するような方向に物事をすすめていけないこともまた事実である。これも認めねばならぬと思う。
キリスト教では、どうも病人になる人が実に多い。キリスト教においては、それは、キリストが受けたような災難を自分も受けたいというような気持ちがあるから、受難礼讃でそうなるのである。ところが、実際はキリストも神の子だと思いながら、自分があまりに迫害を受けるのであって、ついつい、そういう何というか、迫害を受けるような悪しき思想も一部心のどこかにあったのであろう。後世の弟子たちは、間違っておる。
11.「本来病なし」ということを悟れば、病気は治っていく
本来病なしということを悟れば、病気は治っていくものなのである。それを本当に知らねばならぬ。この言葉の一喝によって、治った人の数は跡を絶たないと思う。自分自身が自己催眠によって病を増強させていることも、ずいぶん多いのだ。結局、他人の同情を請いたいというような気持ちでもって病になっている人もあれば、たいてい不遇を託(かこ)つ心が病をつくっていることもある。
したがって、自分がつくっている病がある以上、こういうものを実在するものとして、私は認めることはできない。また、病の七割、八割が憑依霊(ひょういれい)によってできていることも多いであろう。憑依霊でできている病というものは、要するにその悪霊の念によって、その悪霊の念が生きている人間の念と結合することによって、病気をつくっておるのだ。そういうものを認めてはならん。
本来自分はそういうものではないということを、勇ましく考えることによって、打ち出すことによって、病念というものを吹き払っていかねばならんのだ。病人というのは
生まれつきあるのではないということを、はっきり自覚せねばならん。自分がそれは間違った姿だと自覚することから、まず始まるのである。実在界において病んでいる人はいない。天使たちのなかに病んでいる人はいない。霊界においても病んでいる人はいない。しかし、地獄界には病んでいる人がたくさんいるという事実を見逃してはならん。
12.間違った概念から、たいていの地獄霊は病んでいる
なぜ地獄界で病んでいる人がいるのか。それは、病気はあると思っているからだ。自分が交通事故で死んだ人は、地獄界でも交通事故で呻(うめ)いている。自分が心臓病で死んだ人は、地獄界でも心臓病で苦しんでいる。自分が肺炎で死んだ人は、肺炎で苦しんでいる。こんなものは本当はないのである。それが分からないから、いつまでもそういう苦しみを持って生きているのである。
私は、こういう人たちを救いたいと思う。本来肉体もなし、そういう病もないのにもかかわらず、地獄界で病(や)んでいる人が一杯いるのである。これは心がつくり、想念がつくっている病だということだ。これから人間は、早く立ち上がらねばならんのです。
地獄霊はたいていが病気をしている。これは、そうした間違った概念からきている。その地獄霊の病念が、また生きている人にとり憑(つ)いて、病気をつくっているのである。こうぃうものは勇ましく否定して、本来の自分をとり戻さねばならぬと思う。
13.「本来病なし」ということを、はっきりと悟る必要性について
いろいろと話をしてきたけれども、本来の人間という者を見つめていけば、良いものしか出て来ないということも事実である。この現象界において、善悪の差別知をなくせということを私は言っておるのではないけれども、実相知、実相を知る力というのもまた大事であり、自分を励ます力となり、水中に沈んでいる自分を浮上させる力となるであろう。
そのためには、本来病なしということをはっきりと悟る必要があると思う。これは一つの力となるであろう。ただこれは、病気であっても薬を飲んではいけないとか、そういうことを言っているのではないということだ。ここを誤解してはならぬ。これは、知性の弱い人間の過(あやま)てるところである。薬を飲んでもいいけれども、本来は、それは物質対物質であって、心が原因の病は心を治せば、治る。この点をはっきりつかまねばならぬ。この点、皆さんしっかり考えておきなさい。
そして病なし光一元ということを悪用する者たちに対しては、はっきりと、その悪を、間違っているところを、気づかなければいけない。目覚めねばならない。この点について、私ははっきり言っておきたい。美辞麗句であってはならんと言うことだ。本来病なしと言うことだ。それだけをはっきりさせておきたい。