目次
1.希望
2.努力
3.忍耐
4.実現
5.自信
6.飛躍
6.飛躍
本章において、「向上の原理」について、一 希望、二 努力、三 忍耐、四 実現、五 自信ということで話をしてきた。そして最後に私は、飛躍ということを話して、本章を閉じていきたいと思う。
神の子である自分を信じ、神の子である他人を信じて、そして何らの悪なく、何らの害なく、何らの嵐なく船が進んでゆくということは、これは当然のことであり、当り前のことであって、こんなものが人生の目標でも目的でもないということを知らねばならぬ。これは当り前のことであります。順調に船が進むことは当り前のことであります。
人間が、この地上で理想を持って生きるということは、当り前であってはならんということです。当り前以上のことををせねばならんということです。
当り前以上の勇気を奮(ふる)って、当り前以上の成果を上げるということ、これが大事です。そうすることが、本当の意味で魂の向上につながってゆくのです。
どうか、他人から害されたり、あるいは他人を害したりせず、当り前に生きたらそれでよいのだと思ってはいけない。人生は常にチャンスの連続であり、人生は常に飛躍の連続であるのです。
あの飛び箱を見て、障害物と思う人は災いである。飛び箱は障害物ではない。それを飛び越すことによって、大いなる爽快感(そうかいかん)と、達成感と、征服感を味わうためにあるのだ。
ところが、飛び箱を見て、これを障害物と思う人は、その走ってきて飛び箱に飛びつこうとした瞬間に、それが山のように見えて、どうしても越せないと思う。そうしてぶつかって、ころげてしまう。こうしたことがある。
そうではない。大いなる飛躍のためのチャンスを与えられておるのだ。こう考えてゆかねばならん。
さすれば、人生においていろいろな事件が起きるであろうが、その事件がすべて、飛び箱の踏み台になっているのではないのか。大いなる飛躍への、踏み台になっているのではないのか。こうした観点から考えてゆかねばならん。
すなわち、困難があった時に、困難から逃れようとせず、困難を単に抱きしめるのみでなく、困難を愛して、彼らをさらにすばらしいものへと変えてゆくという努力が、私は、何にもまして大事であろうと思う。
それだけの大いなる心境の飛躍ができないということは、まだまだ自らのなかに、未熟なるものがあるということです。他人を責める前に、自らのなかに未熟なるものがあるということ、この未熟さというもの、これを嘆かねばならぬ。
本来、そんな未熟なものではないのだ。人間というのは限りない発展を内蔵しているものなのだ。飛躍をもって人生の鍵としておるものなのだ。
いろんなものが出てきた時に、事件が出てきた時に、それが踏み台にならないかどうかという観点で考えてみなさい。
すなわち、いろいろな挫折や、あるいはできごと、攻撃のようなものを受けた時に、これが何らかの飛躍台にならないかどうかということを考えてごらんなさい。飛躍台として検討してみなさい。
一体どうした種類の飛躍台になりうるであろうか。この検討が大切なわけです。
物事にはすべて二面性、あるいは多面性があります。ある人にとっては悪いことでも、他の人にとってはいいこともある。また、Aの観点から見たら、それは悪しきことであっても、Bの観点から見れば、善きことであることもあるのです。
夜明け前がいちばん暗いけれども、それを過ぎればいちばん明るい日差しが射してくるのです。
さすれば、あらゆることに機会を見出し、あらゆることに飛躍台を見出してゆくということ、この観点から物事を考えてゆかねばならん。
さすればここに、大いなる心境の進化というものを、あなたがたは感じとることができるであろう。発見することができるであろう。そして、どんな苦難や困難にも負けずに、常に前進、前進、そして前進しながら、チャンスがあればそれを飛躍台にして飛び上がろう。そして前進、またチャンスがあれば飛躍しよう。前進、チャンスがあれば飛躍しよう。
こうして、発展しかない生き方というのができるのである。
単に、この地上だけをユートピアにしようなどと思うな。単にこの地上だけを救おうなどと思うな。汝らが理想は、この三次元世界だけではない。四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、すべての世界をユートピアとせんとし、すべての世界をすばらしいものとせんとし、すべての世界を発展させんとしているのが、汝らの偉大なる仕事ではないか。
さすればまだまだ小さい。三次元のなかにおける自分らの存在ばかりを思ってはならぬ。三次元のなかにあって、実相人間としての自分を知れ。四次元、五次元、六次元以降も発展させんとしている自分をも知れ。
この三次元が向上することが、すなわち四次元向上の原理であり、四次元向上の原理が、すなわち五次元向上の原理であり、五次元向上の原理が、すなわち六次元、七次元の向上の原理となることを知れ。
それは、弟子が向上することによって、また師も向上するということを意味しているのだ。これは神理の講演会においてもそうであろう。聴衆のレベルが上がれば上がるほど、講義は熱を帯び、ますますレベルの高いものとなってくるのではないのか。
同じである。三次元のレベルが上がれば上がるほど、三次元がすばらしいものになればなるほど、四次元もまた、すばらしいものとなるのではないのか。四次元がすばらしくなればなるほど、五次元もすばらしくなるのではないのか。こうした観点から、物事を考えてゆきなさい。
そして大切なことは、こうした巨視的な、マクロの見地に立って小さなものは、跳ね返してゆく勇気です。『ガリバー旅行記』の巨人ような気持ちでいなければいけない。巨人に対して石を投げようが、槍(やり)を投げようが、こうしたものは何の意味もない。
あなた方は、人間同士だと思うから、相手が槍を投げれば、これが当たれば死ぬかもしれないと思う。しかし、あなた方が巨人であれば、相手が投げた槍は蚊が刺(さ)したぐらいのかゆみしか感じない。だれも蚊に刺されて死ぬとは思わんであろう。
ところが、蚊と同じ大きさだと自分を思えば、蚊が刺すということは、槍にて自分の身体が突き剌されるというのと同じことだ。さすれば、出血して死ぬかもしれないと思う。しかし、現実はそうではない。
汝らは巨人となれ。偉大なるジャイアントとなれ。さすれば、他人の投げた弓や矢は、これは蚊が剌したほどのかゆみさえない。問題外である。こういうことでもって、偉大なる巨人となれ。偉大なる精神的な巨人となれ。精神界のジャイアントとなれということを最後の言葉として、本章を締めくくりたいと思う。
人間に向上あれ。人類に向上あれ。神にもまた向上あれ。それが永遠の人間と私たちの課題である。