目次
(1986年10月30日の霊示)
1.私の人生は、自分はこういう人間だと思ったとおりの人生であった
谷口雅春です。今日は四日目ということで、「神の子人間の本質」という演題で話をしたいと思う。
結局のところ人間とは、その人間が自分はこういうものだと思っている以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。人間というのは結局のところ、自分の思ったとおりの者なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
そういうことで、自分というものをどのように考えるか、これは、いろいろあると思うのだが、その結論や答えによって、その人がいかなる人であるかということが決定されるのであります。
たとえば私、谷口雅春という人間、これがおったというか、いるわけだが、谷口雅春の谷ロ雅春としての人生は、どうやって開けたか。それは、自分の使命を悟ることから始まったのであります。
私は生来、病弱で体も弱く、病気がちで、何か少し食べるとすぐ胃腸を害するような、そういう弱い性(たち)の人間でありました。その私が九十一、二歳というような、年齢まで長生きができて、しかもその間、普通の人のやる三倍、四倍の仕事をこなしてこれた。
それを今、振り返ってみるわけだが、決して高慢になるわけでもなく、不遜(ふそん)になるわけでもなく、自分の人生というものを振り返ってみるならば、やはり他人の三倍、四倍の仕事をやってきたのではないかと思う。そして、長寿ということにも恵まれた。この自分のやってきたことを振り返ってみると、結局のところ、私の人生というのは、自分はこういう人間だと思ったとおりの人生であったということでありました。
二十代の頃から宗教家に志し、大本(おおもと)とか、様々なところで霊的修行を積み、また、心霊修行も積んだ。そういう思想も勉強した。しかし、三十代に入っても、私の運命はまだ開けなかったのであります。私は職を転々として、その日の糧(かて)に事欠くこともありました。またある時は、失業して、自分の職業が与えられるようにと、一ヶ月間も神想観をして、祈ったりしたことがあった。そういうふうに祈っておって、英文の高級翻訳係などの募集広告に目がついて、そういう職を得たというような時期もありました。私にとっても、雌伏(しふく)の時節ということが、やはり十年以上あったわけであります。
私がはっきりと自分の道というものを自覚し始めたのは、おそらく三十六、七歳の頃であったでしょうかね。その頃は、まだ会社勤めをしておったのですが、外資系の会社などに勤めておって、私は事務員として使われておったわけです。そこの会社では外資系の会社であったから、海外の文献というものを翻訳したりするのが私の仕事であったわけだが、翻訳員、あるいは、事務員としての谷口雅春というのは、決して有能な人間ではなかったようであります。
私はいつも、細かいミスをしては上司に叱られたり、そういうことがあっては家に帰って妻にあたったり、そういうことをするような弱い人間であったわけであります。そして、窓を背景にして机に向かって、細々と翻訳などをしたり、細々と書類などを書きながらやはり、これが本当に谷口雅春の一生の仕事なのかと、いつも考えておったのであります。しかし、これが一生の仕事かと思うと、やはりそうではないのではないかと思うことが多かったと思います。そういうことを悶々(もんもん)と考えながら、やはり何年かを過ごしたわけであります。
一大宗教家として立ち、世の人々を救い、教えていかんと欲しているにもかかわらず、なかなかそのような道が開けず、その日の糧に事欠いて自分の時間を切り売りする。そういう時期というのが、私にもあったのです。
だから世の人々も、私のそういう時期があったということを考えて、人間というのは、いかに自分の使命というか、人生の目標というのが大事かということを悟っていただきたいのであります。そういう時期、心のなかには、他のものを求めながらも、それに出会うことができすに迂回(うかい)、まわり道をしている時期というのが人生にはあるわけだ。
肝要なことは、そこで諦(あきら)めてしまわないことである。そこで現実に妥協してしまうと、人間はそれで終ってしまうわけだ。私が、もし翻訳係ということで、妥協して終わっておれば、私の人生は、恐らくそれで終わったでありましょう。そして、ある会社の課長だとか部長だとか、そうしたもので終わりたいとか、終わればいいと、人が課長になれば、自分は部長にまで昇進できればいいと、そういうふうに私が思っていたとするならば、やはり私はそうした人生を歩んだであろうと思うのであります。
瓢箪(ひょうたん)から駒のように人生が開けるという方も、なかにはいらっしゃると思う。そういう方はよほど心がけが良くて、守護、指導霊の直接のアドバイスを受けている方でありましょう。しかしながら、人間谷口雅春は、悩み多い凡夫であったために、なかなか、心清く、守護、指尊霊の直接のアドバイスを受けて、思いどおりの人生を歩んだというわけにはいかなかったのであります。それは私の本を読む世の人々とまた同じでありましょう。
2.自分は、こうなりたいと思うことが、すべての出発点である
ただ、私が最初に言ったように、人間というのはその人の思っているとおりの人であり、自分がこうなりたいと思っている人間、それが本当の自分なのだ。それが悪(あ)しき自分を心に描いている人間は、やはり悪しき自分に成長していく。つまり、悪人への道に走るであろうし、向上心に燃えた人は、やはり向上への道を歩んでいく可能性が高いと思うのであります。
私が宗教家になったのは、結局のところ、宗教家になりたいと思ったからだ。まず、思いが始まりなのです。宗教家になりたいと思っても、すぐにはなれない。やはり、この世的な生き方、給料を稼がねばならない、妻や子の面倒をみなければいけないところから始まる。だからそうした現実の問題と、自分の本来の理想というものの板挟みとなって谷口雅春は何年もの間苦しんだわけであります。また、そういう状況にある方は、おそらくこの世の中にも、今多いと思う。
霊言集を読んでいる人々も、そうした霊の世界、本来の世界というものにひかれながら、それを生かしきれない自分というものに地だんだを踏んでいることが多いであろうと思う。そういう人たちに対して、私はアドバイスをしたいと思うのであります。
そのアドバイスというのは、まず人間は、こういうふうになりたいという思いを抱くことが肝腎(かんじん)なのだ。これがすべての出発点であり、まずこれがなければ何も始まらない。もしそうしたこういうふうになりたいという思いがなくて、偶然に成功したとしても、それが何ほどのことがあろうか。偶然の結果として成功を得たとしても、それがどれだけ、あなた方の魂を高めたことになりましょうや。
私は、そういう偶然の成功によっては人間は魂を磨き、成長することはできないと思うのであります。運よくそういうことがあるかもしれないけれども、偶然大金が入ってきたとか、偶然上にいた誰かが死んで偉くなったとか、そうしたことによっては、人間というものは本当の魂修行はできないのではないかと思う。やはり、まず思うこと、こうなりたいと思うことから始まると思うのであります。
3.自己実現をするためには、思いを抱き、その思いを継続することである
そして、こうなりたいと思うことから、こうなったというところまでの時間は、いかんせん時間の流れというものがある。思って、すぐにそうなるというわけではないのであります。この間の過ごし方がどうであるか。このことがその人の人生を分けるのだ。
たいていの人間は、まず思うというところまではできる。思ってから、つまりこうなりたいと思ってから、こうなるまでの間、この間で九十九パーセントの人間はふるい分けをしていかれる。この間が早い人は、もちろん、一日や二日、あるいは三日ということもありましょう。しかし、遅い人であれば、十年、二十年、あるいは晩年六十、七十歳になってからというようなこともあるわけだ。この時間だけは、残念ながら、人間心では分からなくて守護、指導霊、あるいは神の見ておられることなのであります。
ですから、地上にいる人間というものは、このかくありたいとの思いから、かく成ったというまでの間に、どう過ごすか、どう耐えられるか、これが実際は人生の試練となるわけであります。この時間に耐えられずして、途中で脱落していく人が、古今東西跡を絶たないわけであります。
少年のときには、たとえば、自分は大勉強して総理大臣になりたいとか、大学の総長、あるいは教授になりたいとか、また、芸術家として日本一になりたいとか、みんなこういう夢は描くのです。あるいは、夏目漱石のような大小説家になりたい、こういう希望を抱きはするのですが、その希望というのが、一時期心を去来したことぐらいで終ってしまう人も多いのです。また、小学校の高学年や中学校のころに、「私の夢」ということで原稿用紙二枚、三枚の作文を書いたぐらいで終わってしまうことが多いわけであります。
しかし、こうした人の自己実現ということは、ほぼ絶望に近いわけであります。思いというのは、一瞬去来しただけではやはり足りないのであって、継続ということが大事なのであります。思いというのは、天上界においては、もちろん一つの実在する力であり、思いは即行動でもあるから、この地上においては必ずしもそうではなくて、地上は物質的な妨げが多いために、思いというものが実現するまでには、かなりの時間がかかるわけだ。
その時間というものは、その思いと結果との間、その連続性、あるいは近親性によって変わるものである。したがって、思いを抱いても、それを思い続けるということが大事なわけであります。
4.自己実現でいちばん大事なことは、思いの正当性である
ただ、この思いを抱き続けるというところに、私は一つの問題点を見い出すのであります。それは人間は、最近ではとくに神理というものを教わっていないがために、どういう思いが正しいか、どういう思いが神の心に適(かな)う思いであるかということを忘れてしまっているからだ。
とにかくお金が入ってくればいいとか、とにかく成功すればいいとか、とにかくあの女性を手に入れられたらいいとか、こういう思いばかりを持ち続けていたとしても、これは本当は、正当な思いではない。これは執着と言う。執着と言う言葉と、神の心に適った思いということは、違うのである。
わかりやすい例として、恋愛ということを挙げてみよう。私がこの年になって、今さら恋愛の話をするのも、少しは気恥ずかしい気がしないではないが、人間として生まれて男、あるいは女に生まれて、異性を好きにならない人というのはいないわけだ。
私も現在の妻と結婚するまでの間には、何人か心に留めた女性がいた。何とかこの人と結婚したいと思ったこともあった。何とかこの女性を―言葉は悪いが―奪い取りたいと思ったこともある。ただ、実現しなかったことが多かっただけだ。実現しなくて、それで良かったのだ。
人間というものは、何人もの女性と、あるいは男性と結婚するわけにはいかない。自分に許された方というのは、たいていの場合は一人であります。まれには魂の修行のために、何人かの男性、あるいは女性と結婚する場合も無きにしもあらずだが、そうした方はあくまでも例外であって、通常はただ一人、自分の結婚の相手がいるわけであります。これは、生まれてくる前に、天上界で約束しておるわけです。そういう人と出会うまでは、本当は途中にいろんな人に会って好きになったりするが、その恋愛というものは、なかなか成就(じょうじゅ)しないのであります。
しかし、その恋愛が成就しないのにもかかわらず、これを念の力、思いの力で実現しようと思うとどうなるか。これが執着になるのですね。執着も一つの力であって、実際にそれが生きて相手をものにしてしまうこともある。ただその結果は、双方が不幸になるということがままあるわけだ。本来自分が結婚すべきでない相手を、その容貌だけに目を奪われて結婚したとする。その後、家庭不和が絶えない。そういうことは無きにしもあらずであります。恋愛というのは、一つの具体的な例ではあるが、思いというものは、実現すれば必ずいいかというと、そうではないのである。
だからまず思いを抱くということからスタートはするわけでありますが、そのときに思いの正当性ということを、人間は十分に考えておく必要がある。正当な思いであるからこそ、それを持続して思い続け、ついに実現することが神の子としての自己実現に繋(つな)がっていくわけであります。
5.思いを持続することが、なぜ自己実現につながるのか
さて、それでは、その思いを持続するということについて、話を続けてみたいと思う。
まあ近、現代では、とくに欧米では、この自己実現の法則というものが、ずいぶんかまびすしく言われておる。その思いの法則、心の科学、念の力、こうしたものについてはいろいろな文献があるし、有名な思想家もたくさんおります。そして思いを持続することによって、その思いを実現できるということは、確かなのであります。
そこで、なぜ思いを持続することがその実現につながるのか。これを説明しよう。
思いの持続というのは、結局、念をいつも発している、念というものを自分の体内から放送しているということなのである。一日二十四時間、一週間は七日間、一ヵ月は三十日、一年三百六十五日、その念を放送し続けているとは、どういうことか。
以心伝心という言葉があるけれども、人間は話をしなくても心が通じるということであります。これは相手の念が伝わってくるからだ。とくに好きな者同士なんていうのは、目を見るだけで思いが伝わる。あるいは目なんか見なくても、相手の後ろ姿を見ただけでも、相手の現在の心境が分かる。こういうふうに、好き合った者同士は、まるでテレパシーでも通じるが如く、お互いに響き合う仲となるのであります。
このように具体的な事実を見ても、心というものは通じ合うし、念というものは通じ合うものであります。そうであるならば、これを四六時中、放送し続けるとどうなるか。念の力というものは、距離があって、砲丸投げの弾か何かのように八メートルとか十メートル以上は飛ばないというものではなくて、電波と一緒であって、全世界をかけ巡るのであります。
したがって、たとえば、自分が大会社を起こして社長になりたいというような念を思い続けていたとすれば、その念というのは、四六時中、全世界に向けて放送されているのであります。そうすると、先程の以心伝心ではないが、四六時中続けて放送していると、どこかでまた、その念を受ける人がいるわけだ。どういう人がその念を受けるかというと、大体念の性質が似かよっている人であります。
自分で事業を起こしたいと思い続けている人がいるとすれば、それを助けたいと思っている人がいるわけであります。そういう念を持っている人が、事業を起こしたいと思っている人の念が、要するに放送されると感応してくるわけだ。そして、感応した者同士は、どこかで必ず引き合って、出くわすようになっている。つまり、偶然に、同士というものができてくるのである。
宗教なんかでも同じであって、自分が宗教一つ創りたいと思っていると、その念を四六時中放送していると、どこからともなく同士や仲間が集まってきて、いつの間にか、その歯車が回っていくわけであります。
たとえばあなた方は今、「〇〇〇〇〇」というものを始めたところでありますが、この「〇〇〇〇〇」というものも、最初は一人、二人の心のなかで始まったことであろうと思う。心のなかで何とか神理を伝えたいと思っていた人が、一人、二人、三人いたわけであります。
それを、四六時中いつも放送していると、それがある出版社の心に響いていって、書物の出版ということになる。書物を出版し続けていると、今度は全国各地の人々の心にその書物のなかから放送されている念というものが響き渡って、なぜかあなた方の本を読んで魅かれてくる人たちが全国から集まってくるのであります。
不思議なもので、そうした念に感応しない人もいて、いくら谷口雅春がしゃべって霊言集を出したところで、その霊言に感応しない人がいる。これは縁なき衆生(しゅじょう)と言う。念は、放送されても受信する人がいなければ、それは受信されないのと同じである。
それは、たとえばラジオ、テレビを見ればいいのであります。NHKからいくら放送を出しても、自分がラジオを持っていなければ、このNHKの放送は受けることができない。ラジオを持っていてもスイッチを入れなければ、聞くことができない。スイッチを入れたとしても周波数を合わせなければ、NHKの放送を聞くことができない。こういうことがあると思う。
たまたま、周波数を合わすことができてNHKの放送を聞けたとしても、その放送の内容が自分の趣味に合わなければ、人はこれを聞かないであろう。たまたま音としては伝わっていても、他のことにとりまぎれて、その音は心のなかに残らないであろう。要するに、こういうことだ。
念というものは、その性質上、世界中をかけ巡っており、その念に感応する人の心を剌激しているということだ。したがって、思いを続けることによって、関連する人たちが様々に集まって来る。そしてそこに、一つの動きが始まるということである。
6.成功するには、良き念を抱き、良き念を放送し続けることである
人間がこの世の中において、自己実現をしようとするならば、必ず他の人間との共同関係、共につくっていこうとする関係がなければ何ごとも成功しないのである。
いや、そんなことは無いのであって、本当の芸術作品は一人でもできるという人もいるかもしれない。たとえば詩人。詩を書くのは、それは詩だけで素晴らしい、そういう方もいるであろう。
しかしながら、その詩は詩として書かれて、机の引出しのなかに置かれただけでは何の意味もない。その詩がいい詩である証明には、やはり多くの人に読まれて多くの人を心から揺さぶらなければいけないのである。それであってこそ本当の詩ではないか。
世の中には、詩人が数多かったであろう。歴史上にもいたであろう。しかし大半の詩人は、名前が残っていない。あなた方が印刷物として見ることのない詩のなかに、本当に素晴らしい名詩もあったかもしれない。しかし、書いた人が、自分の詩はつまらないと思って自分の引出しのなかにほおり込んでおけば、永遠に人類の目に触れることはない。それはその詩人が、自分の詩歌をいいものだと思って、世の人々に読まれたい、世の人々に知られたい、世の人々の心の肥(こや)しになりたい、癒(いや)しになりたいと思う心の念を持っていないからそうなったのである。
したがって、すぐれたものをつくり出すことは、ただ一人で可能であったとしても、それをやはり放送しなければ、伝わらないということだ。すぐれた詩を一人で書いたとしても、それを放送してしかるべき出版社なり、しかるべき読者たちの心に伝わらなければ、意味はないのである。
つまり、人生で成功していくためには、良き念を抱き、その良き念を放送し続けねばならないのだ。言葉を変えれば、把持(はじ)、把持という言葉が分かりにくければ、維持、あるいは、抱き続ける必要があるということだ。そして始めてその自分の思いの実現へと、一歩近づいていくのである。しかし、その途中、様々な困難に思えることもある。だから、ここでまた挫折する人が出てくるのであります。
たとえば、詩を出したいと思う。自分の詩は人に読まれるべきだと思う。そこで、ある友人に見せたところ、それは非常にいい詩だと誉めてくれた。君は、ぜひこれを出版して世の中の人々に知らすべきだ、とその友人が言ったとしよう。これは念に感応して、人が動き出したという証拠である。
ところがその詩を、ある詩の出版社に持っていったとしよう。しかし、その出版社の編集者は、この詩を見て、「こういう詩は、まあ今どきは流行(はや)らない。今どきの詩は何だか分からない抽象詩が多くて、難しい詩が流行(はや)っているんです。誰が読んでも分かるようなこんな詩は、今は売れないのです」と、これを断わったとする。
こういうときが人生の一つの分かれ目なのである。たいていの人はここで挫(くじ)けてしまう。五割といわず七割、八割の人が、挫けてしまうのだ。しかし、ここで念がとぎれるかどうかが、その人の人生の成功を分けるのである。本当に自分の詩がいいと思っていたかどうかが、そこで試されるのである。
出版社がそれを受けなかったということは、たとえば、自分は放送しているのだが、向うの受信装置が違ったわけである。相手が、FM放送を聞きたいと思っていたにもかかわらず、こちらがニュース番組を流しておれば、あちらは受けてくれないのである。しかしどこかに必ず自分の出しているもの、発射している念を受けるところがあるはずである。それを諦(あきら)めずに、しばらくまだ胸にいだいておくこと。そしてそうした方が出くるのを待つこと。これが大事だ。これが、祈りということですね。
7.人生の成功の秘訣は、祈りをして待つことである
祈りをして待つ。このときに肝要なことは、あせってはならんということだ。一つのことが失敗したときに、すぐ次に移る。一つの出版社が駄目なら次に回り、次に回り、二つ、三つ、四つと回っていく。こういうことが、必ずしもいいというわけではない。
もう少し神に対して、あるいは高級霊に対しての信頼の念というものが必要である。それが駄目であった理由は本当に内容が駄目なのかあるいはただ時期が来ていないだけなのか。いろんなことがあるんです。時期が来ていないということもあって、たとえば本当はそれを出版してくれるところがあるにもかかわらず、今そこに出すことによっては、その人にとってはまだ良くない場合もあるのだ。
たとえばその詩を出せば、全国的なベストセラーとなり、大変な人気を得ることがもう分かっている。実は、実在界から見れば分かっている。ところが、その詩人というのは、まだ自分がそれだけの才能を持っていると思っていないがために、たいした詩の数を書いていない。準備ができていないわけですね。これでは、たとえば全国の舞台に出たときに、まだ困るであろうと、守護、指導霊たちは考えるわけです。そして、とりあえず挫析させたままにしておくわけです。
この間に諦めずに、またいろんな詩想を、要するに思い浮かべて詩を書き綴っていく。そうして半年、一年の月日が流れる。そして、今度ある知り合いができて、私の紹介のところへ行ってみたらどうかということでそこへ持っていくと、「大変いい詩だ、この詩はぜひ世に問いたい」と、今度は言った。そのときには、自分には十分のストックがある。第一集の詩集を出して好評なら第二集も第三集も出せる。あせった結果でなくてよかった。そんなに急がなくてもよかったな、と思うことがある。
祈りというものは、ともすれば即効性があるものを人々は求めたがるものだけど、必ずしも早いことがいいわけではない。早いことが、その人を滅ぼすこともある。
たとえば宗教的な伝道にも同じことが言える。実現をあせり、あせりすぎると失敗することが多い。広めよう広めようとすると、その広めようとする心に躓(つまず)く。会員を増やそう増やそうとすると、それが間違った行為となって、どこかの宗教のような折伏(しゃくぶく)みたいになってきて、とにかく増やせばいいというようなことになってしまい、その肝腎の心というものがなくなっていく。
そういうものであるから、良い念を抱いてそれを放送し始めたら、それを放送してじっと待っていることだ。一つのことに挑戦して失敗したとしても、すぐ矢継ぎ単に次々と同じようなことをするのではなくて、適当な時間、守護、指導霊に祈りながら、「適当な時期に適当なものが与えられますようとう祈りをしながら、じっくりと腰を落ち着けていくべきである。私は、そう思う。そして、こうした忍耐ということができたとき、初めて大成していくのである。これが人生の秘訣であって、決していち早く、人より早く成功することとか、そういうことが望ましいわけではないのであります。
8.成功を望むなら、水に浮かぶ白鳥のような姿であれ
たとえば、会杜のなかにおける昇進なんかもそうであって、同期より二年早く課長になることがある。同期のトップをきって、二年早く課長になった。それで、鼻高々になっておるものかおる。その男は結局のところ、事務の仕事が早くて有能だったから課長に早くなったのだが、経営能力がなくてまだ課長、課長して課長のままで終わり、部長になれなかった。
ところが、その人より二年遅れて課長になった人が、その間じっくり自分の心というものを鍛えていたために、課長になってから、いわゆるラインの長についてから急に、人間を指導するということがうまくいくようになってきた。そして指導の能力を買われて、部長になっていく、あるいは、役具になり、社長になった。こういうことが、あるわけだ。
それは、その人が決してあせらず、また早く成功しなかったことに落胆をせず、その間、努力をおしまなかったからだ。たとえば、同期がいち早く自分より出世したからといって、それを僻(ひが)み、妬(ねた)み、その悪口を言い、自分は何の努力もしないで、そういう悪ロばかりを言って、足の引き合いをして社内をまわっておれば、やがて自分は課長にもなれず終わってしまう。そうしたものである。
要するに時間というものは、あの世の計らいごとなのだということを、忘れないことだ。そして、その時間というものは、この世の人間にとっては分からないものであるから、その間、たゆまず努力をしていくという姿勢が大事なのだ。
あの水に浮かぶ白鳥のような姿でありなさい。白鳥は表面だけ見ると、水の上をスイスイと泳いでいるように見える。いかにも気持ちよさそうに泳いでいるように見える。しかし、一旦水面下を見て見たならば、水の下では足繁(あしげ)く、忙しく足をかきまわして水をかいておるのである。こういうことは、なかなか外側からは見えない。いかにものんびり気楽そうに泳いでいると見てしまっている。そうではないということだ。
万事こういうことであって、とくに地上にある人々に、大事なことは、要するに、思いからその実現までの時間というものは、天の計らいごと、守護、指導霊の心にまかせるという気持ち、これが大事だということなのだ。
自分の自己実現の方法とか、そうした人間心で焦ったり、試行錯誤をあまりしないこと。悠々とした心を持って任(まか)すということだ。この間、逆に不退転の心を持ち続けるということが大事であって、一つ失敗した、二つ失敗したからといって、それでひきさがってはならぬ。
捲土重来(けんどじゅうらい)という言葉がある。一度失敗しても、また力をつけて巻き返しにいく、そういう言葉だ。こういうことを期して、捲土重来を期して心を磨き、力をつけておく。時間というものは、あの世の計らいごととして任して、その間、自分のできる範囲で前向きの努力をしていく。こういう人が自分の人生を開いていく人なのだ。
こういうふうに時間というものを天に任して努力している人ほど、意外に思いもよらない運命が開けてきて、とんとん拍子に成功するということがよくある。焦(あせ)った人が失敗をし、焦らなかった人がスイスイと成功するということもよくあると、私は思うのであります。
9.成功している過程において大切なことは、謙虚さということである
成功している過程において人間が思わねばならぬことは、謙虚さだと思う。成功し始めると、人間はついつい有頂天(うちょうてん)になってくる。やはり自分の努力精進のおかげで、こうなったんだと思い始める。そして天狗になり、だんだん鼻高々になってくる。
ここは、一つの落し穴であると思う。やはりそのためには、そういう成功のためには、守護、指導霊の力、つまり目に見えぬ力があったのであり、また自分の放送をキャッチしてくれた、無数の方々の援助があったということ、これを忘れてはならない。こういう感謝の念を忘れると、成功しかかったかに見えた人生がまた、失敗へと挫折し、堕落へと繋(つな)がっていくのである。
自己実現で、セールスを何年間トップだったというような人が、やがて失敗したりしていく陰には、こういった謙虚さと感謝の気持ちがないということがある。成功している途中においては、様々の人の協力を受けて、あの世の霊の協力も受けとったのだ。
ところが、だんだん自慢の心が出て、自分は自分は、という気持ちで、ただ俺を見習えばみんな成功するんだぞというような気持ちでやり始めると、だんだんそういう人の力を受け、守護、指導霊の力を受けて成功したということを忘れてしまう。感謝の念を忘れてしまう。この世の自分が、天下を取ったような気持ちになってくる。そうするとあの世の霊たちは、だんだん光を投げかけなくなり、この世の人たちもだんだん目を背け、肺を背け、口をきかなくなってきて、見放されていくのだ。そうして失敗をしていく。
だから、成功し始めたと思ったら、そこが要注意であって、そのときに自分たちの力を過信しないことである。感謝の心、当初の心をよく思い出して、感謝していくことが大事なのだ。成功し始めたら、とくに頭を低くして、感謝していく。こういう人は、必ず成功していく。失敗しない。そして自己実現をしていくのであります。
10.何万、何千年の無限の向上が、今、如来界にいる私となっている
今私は、思いから思いの実現ということについて話をしてきた。これは一般的なことであって、何事にも通用することである。それは、独(ひと)りこの地上のことだけではなくて、あの世でもまた同じなのだ。
あの世でも私たちは精進(しょうじん)をしている。精進をする以上は、自分が向上したいという意欲を湧き立たせる。意欲を湧き立たすのだが、なかなか、その意欲だけでは自分は向上はしていかない。その間に様々な経験をする。その途中で失敗もすれば、悩みもある。ただそのときに、不屈の闘志と忍耐力を持って、頑張っておれば、いつしか、自分の思わぬ世界が開けてくるのである。
谷口雅春は今、如来界というところにおるけれども、最初からこういう高いところにいて、いばっておったのかといえば、そうではない。
私もまた無限の過去においては、普通の人間であったわけです。普通の人間であったのだけれど、普通の人間より少しばかり向上心を持って努力しとったわけです。その少しばかりの向上心が、何千年、何万年の間に無限の向上となって今、如来界にいる私ということになっているのです。
私が自分のことを良く言いすぎるようにあなた方には思われるかもしれないけれども、決して私は増上慢(ぞうじょうまん)になっているわけではない。本当の自分の心というものをよく知っており、本当の神の子としての自分の実現を知っているからこそ、自信を持ち、生きていくことができているのである。ただこの点が、先程の成功しかかって失敗している人とは違うのである。
11.神の子人間の本質は、思いを実現する力を持っていることにある
私は今日は自己実現ということを中心に話したが、結局のところ、神の子、人間の本質というのは、ここにある。
神の子というのは何かというと、神様同様の力を与えられているとよく言われる。神様同様の力とは何かというと、要するに、完全無欠だということではない。神様同様の力というものは、神様は思いによって世界を創り、思いによって人間を創った。そういうことなのである。完全無欠であるということではない。人間の本質は、もちろん完全無欠ですよ。ただ人間は完全ではない。人間は、その思いを実現できるということにおいて完全なのだ。それで神に近いのである。
神の子の本質というのは、要するに、思いを実現するカを持っているということなのである。この点において、全智、全能の神と人間は同じなのだ。神も、思いを実現されて世界を創ったのであります。人間も思いを実現して、自分を創り、世界を創るのだ。この思いを実現するという力こそが、神の子人間の力なのである。その威力なのである。だから、本日の演題である「神の子人間の本質」というのは、思いを実現する力を持っているということである。これが人間の本質であります。
世の人々よ、よく聞きなさい。自分をどう思い、どう実現していくか。それがあなた方の課題であり、自分がどう思い、実現するかということ自体が、神の子としての自分の本質の発現の仕方ということになっておるのだ。
神の子としての自分の顕現、自分を現わしていくこと、それが本当の神の子としての生き方であり、人間の真の姿でもあります。そのことを、とくと心に止めておいてほしいと思う。以上で今日の私の話、「神の子人間の本質」を終えたいと思う。