目次
1.悟りの奥行き
3.悟りの道標
5.悟りの武者修行
10.「ピンの発見」と「正見」
11.自分のピン・他人のピン
12.阿羅漢の心
13.阿羅漢・不退転そして如心
14.如心と観自在力
16.霊速度とのギャップ
17.神通力
19.如来界の悟りとは
21.釈迦の悟りについて
22.神理学習の時代へ向けて
23.九次元の悟りの三つの条件
24.超能力信仰と読心力
25.九次元霊を順番に出す意味
19.如来界の悟りとは
さらに上のほうになってきますと、これがはっきりしてまいります。自由自在になってくるわけなのです。このようになりますと、すごい仕事ができるのはみなさんもおわかりだと思います。如来界には五百名弱しかいないといいますが、このようなタイプの人がいれば、それはすごいのです。その下に何十億人いても、ものすごい量の仕事をこなすことができるのがわかるはずです。
もしこのような存在形態でなければ、たとえば如来というより九次元如来になりますが、イエス様などもあのような仕事をこなせるはずがありません。十億人もいるクリスチャンが、毎日イエス様の名前を呼んでいるのです。そしてさらに霊言集を見れば「わが名を呼べ」などと言われているくらいですから、普通の人にはとうていできるはずがありません。
ですから、こういうかたちの仕事に熟達しているのです。中心から放射された糸のように、いくらでもダーツと分かれて仕事ができるのです。そしてシューッと戻って意識が統一できているのです。これができなければ、そうしたことが成り立つはずはありません。
では、このようなところまで行くためには、どうすればよいかということです。そうして考えてみますと、まず経験の量ということではそうとうな幅と量の経験がなければまず無理でしょう。たとえば一つのことしかできないようなタイプ、いわゆる神界にいる学者肌で、一つの専門分野だけの専門家ではこのようなことができるはずがありません。やはりオールマイティなものが要求されています。ですからスペシャリストではだめなのです。スペシャリストは如来にはなれないのです。ここは大切なところですので、記憶にとどめておいてください。スペシャリストは途中で行きづまってしまうのです。
六次元ではスペシャリストが多いのですが、だいたい七次元の菩薩界に行くにしたがって鍛えられるのです。いろいろな実務をやらされ、一生懸命働かされて、働く能力が増えてくるのです。そしてここでしごかれて、ゼネラリストになってきた人がだいたい如来に入ってゆくのです。ですから如来になりますと、いろいろな仕事ができて、才能も多方面になってきます。レオナルド・ダ・ヴィンチのように何にでも才能を発揮するような人がたくさんいるのです。
何でもできるというのは、けっきょく身体でいえば前述のタコやクラゲではないけれども、手足が何本もあってできるのと同じことです。いろいろな仕事のできるタイプの人というのはそういうことです。それだけ才能があるということは、それだけの魂修行が同時にできるということになってきます。ですから、幅広い経験が必要ですし、それと神理知識としてもそうとうな広範囲にわたっての神理知識の結集が必要です。それから行動力においても無限です。無限の行動力を持っていることがいえます。そしてエネルギーの供給においても、無限のエネルギーを受けられるような器をつくっていかなければならないわけです。
このような感じと思っていただければいいのです。こうしたところに、将来の目標を置きますと、まだまだ向上の余地があることはみなさんもわかると思います。どうでしょうか。今のところ、このようになれる自信がありましょうか。日々の仕事に追われ、わずかのレジャーを楽しむくらいが精一杯という方も多いのではないでしょうか。なかなかそれ以上はいかないのですが、やはり自己認識としてそのような認識ができるようになるまでに、そうとう時間がかかるのです。如来になるとそのような認識がだんだんできてくるようになるということです。
『太陽の法』の一節にもそうしたことが書いてあります。「一万人としてわかれ出ても、それを一人として認識し統一する意識があるということでもあるのです。」このような統一意識、認識力が出れば、そうとう境地としては高いということです。
20.「宇宙即我」の悟りへ向かう霊的進化
太陽界の悟りについて説明してみたいと思います。太陽界といっても狭義の太陽界のことですがここは、如来界よりもう少し高いところにあります。狭い意味での太陽界とは八次元の上段階の世界のことを指します。そこには、ソクラテスであるとかプラトン、アポロン、老子や墨子、このような方がいらっしゃいます。キリスト教系ではミカエルのような人もいらっしゃいます。
こうした狭義の太陽界に行きますと、第一段階の宇宙即我の体験ができるのです。はるか上空から地上や自分を見下ろす体験ができるようになってまいります。
さらにその上の九次元の悟りに入りますと、第二段階の宇宙即我です。別名、「銀河即我」というような境地があることが言われています。そしてその上の段階になりますと、ほんとうの「宇宙即我」あるいは宇宙のなかの自分といいますか、全宇宙の意識と自分とが一致するぐらいのところまでいく第三段階があります。さらに踏み込めば、「神即我」の境地までいく段階があるわけです。このような悟りの段階があるといえます。
これについては、みなさんの勉強が進めばそれなりのものをどんどん出していくつもりです。ある程度はわかるのです。わかるのは自分の力ではなくて、もちろん他力でありますが、他力の力としてある程度わかってきます。そうした考え方があります。
少し戻りますが、如来界をさらにこまかしく分解して説明してみたいと思います。もちろん如来界のなかでも悟りのレベルがあるのです。ただ、その区別を厳密に語ってもそれほどわかるものでもないので、大まかにつかんでいただきたいと思います。梵天如来は、自分が複数化して現われたりするので、多少戸惑っている段階でありますが、それと「宇宙即我」の狭義の太陽界の段階までの間には、だいぶ差があることはおわかりと思います。その途中で自己の認識能力と、仕事能力に多少の段階の差があると思っていただいてけっこうです。
ですから高くなればなるほど縦横無尽、融通無碍(ゆうずうむげ)で、ほんとうに自由自在な活動をするようになってくるのです。その意味で、霊的進化はおもしろくてたまらないのです。孫悟空の世界のようになってきて、思ったとおり、自由自在に自分の力を発揮しながら仕事ができるのです。究極の自己実現とは何かと言いますと、このような如来の世界に入っていくような経験をするとするならば、やはりそういうことになるでしょう。自分の限界がなくなってくるわけですから、これほどおもしろいことはありません。仕事の能力限界がなくなるのです。量においても限界がなくなってくる。これほどおもしろいことはないのです。
だからこそ、みんな競って進化といいますか、悟りを得たがるわけなのです。悟りを得ればそれだけのことができるようになってくるのです。実におもしろいことです。そのような意味では全智全能の神様になるのがいちぱんおもしろいのでありますが、そう簡単にはなれないというところがあるわけです。
21.釈迦の悟りについて
さて、釈迦の悟りについて述べてみたいと思います。まず菩提樹下の悟りがありましょう。これについては『釈迦の本心』の第一章で多少ふれていました。釈迦の悟りがどのようなものであったのか、この全貌をやがて明らかにしたいと思っています。
高橋信次先生の『人間・釈迦』という本も四巻出ておりまして、物語としてはひじょうにおもしろいのですが、やはり釈迦の風景といいますか、釈迦と釈迦の弟子たちのストーリーを中心に追っているようです。釈迦の思想や考え方自体は凝縮しますと一、二章分しかないようです。ずいぶん間延びしているわけで、やはり背景の描写がものすごく多いのです。
ですから、私としては同じことを繰り返していってもあまり意味がないので、できれば釈迦の思想がどのような内容を持ち、どのような段階があって、それぞれ説いていく段階で、どのような内容のふくらみがあったのかということを明らかにしたいと考えています。現在は時間がなく、まだ肉体を持っていて霊のように分化ができないものですから余裕がないのです。歴史のなかで派生していった何万巻あるいは、何百万巻といわれる経典などは無視して、釈迦の思想としてどのようなものがあったのか、これの全体を出してみたいと思っています。
『釈迦の本心』にもその一部が出ておりますけれども、さらにさらに奥があります。そのあたりをやがて出したいと思っています。そして『釈迦の本心』を出したあとには『ヘルメスの本心』や、『トスの本心』、『ラ・ムーの本心』というように出しはじめると、きりがないのですが、出してみればやはりおもしろいと思います。過去に生きた人がどのような思想を持っていたのか、この全貌を明らかにすると、ものすごくおもしろいのです。意外な考え方がたくさんあって、大きな発見があります。
ですから、自分で悟るのもよいのですが、やはり現にある他の方が経験された悟りを学ぷことによって、そうとう時間を圧縮することができます。進化速度が早くなりますから、学べるものは学んでおくに限ると思います。
また、中道の考え方としても、あとでまたもう少しくわしい思想を出していくつもりです。まだ簡単に左右の両極端を去って中道に入れという言い方をしておりますし、『心の探究』第2章にあります「心と悩み」の章などでも、まだ中道の思想には発展の考え方が欠けているというようなことを述べております。もちろん釈迦時代で言えばそうしたことになるのです。たしかにそれまでの中道の思垠には発展の考え方か抜けているので、「中道からの発展」ということを一つの課題としてもう少し説いてみたいと思っています。
今回の目的は、いわゆる「中道からの発展」にもあるわけなのです。反省の教えを説いてみたり、発展を説いてみたりして、両方の教えがあってどうなるのかということですが、それを統一する理念はこの「中道からの発展」という概念にあるわけです。
さて、次に釈迦の入寂のときの悟りについてでありますが、そのときに出ていた釈迦の弟子も、多少は現在、私の近くにおります。釈迦が亡くなるときに教団も五千人の大教団となり、そしてその教えを信奉する者は何十万人いるかしれないということでありました。
22.神理学習の時代へ向けて
やはりサンガーをつくりたいと考えております。といいますのは、やはりこれがいちばん力を発揮できるからです。仕事の片手間で神理の探究・学習・伝道をしていただいてもよいのですが、そればかりでは勢いよく広がりませんし、ほんとうの救世運動に発展してゆかないのです。ですからほんとうの救世運動を起こしていこうと思うならば、やはりプロになっていただくしかないのです。プロを数多くつくらなければ地上天国・ユートピアはできないということなのです。
私自身も会社づとめをしながらやろうと思ったこともありましたが、やめてこの道に入って二年間、やはり勤めながらやって十年かかってもできないくらいの仕事をしたと考えています。時間というものはものすごく貴重です。ですから、現代的にもやはり、ある程度のサンガーをつくったほうが、ほんとうの力になると考えています。
その運営のためにはどうするかということを考えているわけでありますが、布施や献金というものではやりたくないという気持ちがあります。「中道からの発展」という考えに沿って、できればこれからは神理学習の時代と申しますか、神理を知らなければもう人間としては恥ずかしくていられないという時代が来ると私は思っていますし、むしろ積極的にそのような時代にしていかなければならないということです。
講師は、やはりプロとして教えてほしいのです。塾や予備校などでも教えているくらいです。受験技術などというようなものはほんとうは二の次でもよいのです。ですから心の教えを説いていける方が、やはりプロで生活していけるぐらいの、そういった時代風潮をつくってゆきたいし、その意味でやはり、何千人かのプロ集団をつくることが先決であると思っています。何千人かの専門講師がいれば、日本中がそうとう変わります。ぜひともそうしたいと思っています。
23.九次元の悟りの三つの条件
「九次元の悟り」についての条件を三つあげてみましょう。一番目は、どのような人にも対機説法ができるような、縦横無尽な法を悟っていること。これが大切です。菩薩の段階ではやはりこれが難しいのです。菩薩ではなかなか縦横無尽な法を説くことができないのです。そのために、どうしてもよりどころがいります。それにそって、法の解説をし、伝道をする。これはやはり菩薩の基本スタイルなのです。
縦横無尽な法が説けるためには、やはり法そのものの全容をつかんでいなければ説くことができないのです。それゆえにこれが九次元の悟りの条件にもなるのです。
また、二番目は創世記についでの悟り、宇宙の成り立ち、地球の歴史についても悟っていることがあげられます。これはいちばんわかりやすい基準の一つです。如来界あたりでもそうとう偉い方がたくさんいらっしゃいます。教えを霊言集などで読んでみるだけでは、この九次元の大如来と八次元の如来とではどちらがどちらであるかわからないというところがあります。どこに違いがあるのかと申しますと、八次元の如来では、この創世記以来の歴史、というものは語ることができないのです。
語ることができないのは知らないからではなく、知っていても、許可されていないということです。そのような免許が出ていないのです。そこについて語ることが許されていないのです。この部分なのです。これがあるのです。ですから、九次元界に入りますと急に天地創造の話や、大宇宙の構造、あるいは歴史や神の心など、このようなことを縦横無尽に語りはじめます。このあたりにイニシエーションがあるのです。一つの秘儀が与えられているわけです。ここが八次元と九次元の違いです。
八次元の上段階の如来でも、力量的には九次元の如来とあまり変わらない人がたくさんいるのです。けれどもこの大宇宙の秘密、地球の歴史、魂の歴史、神の計画を語ることが許されているかいないか、ここに差があるのです。この秘儀を与えられた場合に、九次元如来となることができるのです。こうした許可あるいは免許皆伝です。これがやはり降りてくるのです。したがって、これはめったに降りることではありませんが、そのときはひじょうなお祝いになるわけです。
三番目には四次元以降の多次元世界の法則について悟っていることがあげられます。この多次元世界の法則ということもだいじです。特に次元別のあり方、法則の違いについて、ここまで九次元の人は悟っていなければいけないということがあります。
24.超能力信仰と読心力
釈迦自身は、六大神通力がもちろん備わっていましたし、九次元的な三世を見通す能力があったのですが、弟子たちが超能力信仰に陥る危険性をいち早く見抜いて、その盲信を戒めるために読心力以外の霊能力をあまり使いませんでした。すなわちこれは、「私にはあなたの考えていることが手にとるようによくわかる、今、お前が考えていることはこういうことだ。そうだろう?」ということで、「だからよく私の言うことを聞き従って修行の道に励みなさい。」と、こういったたぐいの教え方に用いたのです。この能力は危険性が少なくて、そして相手にある程度納得されます。「あ、そうなんだ。」と、帰依させる気持ちを起こすということで、いちばん危険性の少ない部分であったので、これをよく使ったわけです。
高橋信次先生もよくこれを使っておられたように思います。初対面の人に「あなたはこういうことがあったね。」などとよく読心力を使われていたようです。「何年何月にこうなったね。」というように、これはその人の性格にもよりますが、たびたび使われていたようです。
私はプライバシーに触れるのはあまり好きでないので、そこまではやりませんが、そうしたこともやろうと思えばできるのです。それはその人の守護霊に聞くことも可能でありますし、その人の意識を読み取ろうと思えばできるのでありますが、これはやはり紳士としての自己チエックの問題があると思うのです。これがなくて「あなたは三年前に別れましたね。」などということを指摘したりすれば、やはり問題が出てくると思います。やはりエレガントな雰囲気がただよっていますから、それなりにせまっていきたいと思っています。
25.九次元霊を順番に出す意味
さて、九次元には十人がおられて、それぞれが役割を持たれ、その範囲での問題を中心にとりあつかっておられるのはよくご存じだと思います。ニュートンについては本年初頭から三月にかけて霊言を収録しました(一九八九年五月発行『ニュートン霊示集』)。あとは、マヌ、マイトレーヤー、ゼウス、ソロアスターの四人が残っていますが、このあたりも順次出していきたいと思っています。九次元の法でこのあたりの人のものを出しますと、実を言えばまたそうとう感覚が違うものが出てきますので、みなさんの頭に入りにくいことがあります。ですから順番よくやっていかないといけないわけです。全然違うようなことをまた説きはじめますから、読者の頭のなかで分裂が起きてしまいます。脳細胞の数を増やしておいていただかないと理解ができなくなる危険性があるのです。そういうわけで時間をおきながら、少しずつ、まだ出していない九次元霊の霊言なども出してゆきたいと思っています。
『太陽の法』が出版されたときでも、まったくはじめてという斬新な感じで、今までの霊言集が少しかすんで見えたという印象を持たれた方がいらっしゃるのではないかと思います。これを読んだあと、霊言集が読めなくなったという感じさえ持たれたかもしれません。『太陽の法』の第4章の「悟りの極致」にしても、これを読んで驚嘆したけれども、さらに新しく出版された『観自在力』を読んでみれば、内容がもっと進んでいて、こんどは『太陽の法』のほうが初歩に見えてくるということもあるわけです。そのようなものなのです。この次にまた新しいものを出せば、それがまたかすんで初歩に見えてくるのです。ただ、確実に過程をふんで初歩の基本書に見えてくるためには多少の時間が必要になるのです。それでみなさんが学習をして納得してわかるところまでに時間がかかるので、多少はそのような時間的流れをおいて、次の法へと進んでいるわけです。
ですからいちばん読者のみなさん方に要求される奇跡とは、頭がよくなることです。金粉などもよく降っているそうでありますが、頭がよくならなければ、法を全部理解することができませんし、私としても次の段階の法が説けないということがあるのです。
かくいう私自身も、いつどこで説いたかわからなくなりつつあって、法の整理がつきかねている部分もあります。講師陣にそのうち教えてもらおうと思っています。もちろん初期に説かれたもので、基本の法については講師陣に理解を深めてもらいたいという意味があります。
やがてもう少し時間がたって、この九次元霊をすべてお出しすれば、ようするに九次元の法といいますか、神のプリズムの根源のところの基本的な考え方がいったい何かということが全部わかるようになるわけです。そして、次に進むのは十次元の意識の考えです。その中身を引っぱり出すところにまでいくわけなのです。このように法が進んでいくということです。
ですからみなさんも学びということを投げ出さないで、ずっとがんばってついてきてくださることを祈っております。